2017.12.12 Tuesday 00:03
病院で、先月撮ったCTの結果を聞いたところ、癌の肝転移はさらに大きくなり、このままでは危険なので、薬を変えなければならないとのこと。

覚悟はしていたけど、それでもやっぱり、ずーんと落ち込みました。
例によって、ケーキを買ってきて食べたら、少し浮上しましたが。

落ち込もうとなんだろうと、治療法は決めなければいけないわけで。
主治医からは、「ちょうど新薬が出たんだけど、やってみる?」という提案がありました。
その「新薬」については、私もネットで情報は得ていて、選択肢の一つだったので、「じゃあやります」ということに。

ただ、私が通っている病院で、その薬が承認されるのは今月半ば頃、さらに年末年始の休みも考慮した上でスケジュールを考えると、最短で今月末からの治療開始になりそうです。

で、家に帰ってから、改めてネットで、その新薬の薬価を調べたら——目玉が飛び出ました。
その新薬を含めた治療費を計算したら、3割負担でも、1ヶ月で20万円くらいかかりそうで。
もちろん、高額療養費制度があるから、上限額を超えた分は、手続きすれば戻ってくるはずですが……これから先、こんなにも高額な治療費を払い続けるかと思うと、めまいがしますね。それに見合う効果があればいいんですけど。

これは前々から思ってたことだけど、診察室で医師は、薬価とか治療にかかる金額について、教えてくれないものですね。聞けば教えてもらえるのかもしれないけど(でも3割負担の場合の金額までは、きっと医師も回答を準備していないと思う)。
患者としては、「副作用」が一番気になる情報ではあるけど、治療にかかる「費用」も無視できない問題のはずですが……。私も、その薬価を知ってたら、「やります」とは言わなかったかも。実は今でも、ちょっと迷ってます。

でもって、その新薬を使うとして、このブログに、その治療について書くかどうか、それも迷うところです。
ステージ4の癌患者として率直に言うと、私自身が切実に知りたい・読みたいこと、とりわけ同じような状態の患者さんに発信してほしい情報は、次のような内容です。

・どんな薬をどういう順序で使ったか(薬剤名、詳しい治療スケジュール)
・治療の効果はどうだったか
・どんな副作用があったか
・3割負担で医療費はいくらになるか
・どのくらいの期間、その薬を使ったか(減薬することがあればそれについても知りたい)

こういう内容の話を、医療情報サイトにあるような「公式アナウンス」ではなく、患者さんの生(なま)の声で語ったものに触れたい。

——と思いつつ、自分のブログでは、今使っている薬の名前をきちんと書いていないのは、そういった個人情報がどこでどう悪用されるかわからなくて怖い、という気持ちがあるからです。

どうなんだろうなあ。
やっぱり詳しい治療の話は、オープンなブログに書くべきではないのかな。

ちなみに、前回のエントリの後半に書いた、「使える薬のリスト」は、「患者さんのための乳がん診療ガイドライン」内の「薬物療法について」のページにあります。

私は、がん患者支援センターにあった冊子版から、必要な部分をコピーしてもらいました。
乳がんのタイプによって使える薬は違うので、この表を見ただけでは、わからない点もありましたが——私の住んでいる地域では、がん患者のピアサポート制度が充実していて、ピアサポーターの方に質問したら、「これはHER2陽性患者用の薬」といった説明や、個々の薬の副作用についても、スラスラと教えてもらえました。乳がんは特に患者数が多いから、同じような患者さんを見つけやすいという意味では、ラッキーなのかも。

これから使う予定の「新薬」については、上記「ガイドライン」にはまだ記載がないですが、現在ネット上で、日本語で読める情報だけでも、それなりに出ています。

それにしても、どうなんだろう? この新薬。
臨床試験の結果もネットに出てるけど、「そんなものか」という感じで、「夢のように素晴らしい薬」という気はしない。副作用が「軽い」と言えるかどうかも微妙だし(実際にやってみなければわからない)。
でもって、こういう「冷めた」目線で新薬について書いちゃうのって、新薬に期待している患者さんが見たら、それこそ冷水を浴びせて治療の意欲を削いでしまうリスクもありそう。

だからやっぱり、こういうオープンなブログでは、余計なことは書かない方がいいのかもしれない。使っている薬剤名は明かさずに(といっても、詳しい人が読めばわかっちゃうだろうけど)、ぼんやりとした闘病記を書くしかないのかな。

ともあれ、これからいよいよ「自分の体を使った人体実験」的な治療を始めることになりそうです。せめて良い効果があるといいな。






| ●月ノヒカリ● | 病気 | comments(0) | trackbacks(0) |
2017.11.30 Thursday 00:00
今回は、再発癌の治療の話です。
相変わらず、癌の腫瘍マーカーは上昇し続けていて、肝転移も大きくなっていて。
そろそろまた、薬を変えなきゃいけない時期なんだろう、けど。

主治医には、治験を勧められているんですよね。
二種類の抗がん剤の比較試験なんだけど、私はあまり乗り気ではない。というか、はっきり言って、その治験には参加したくない。
理由は、一つの抗がん剤が、脱毛を含む副作用があるから。他に選択肢がなければ、脱毛する薬でも諦めて使うかもしれないけど……今の時点で、脱毛を伴う抗がん剤は使いたくない。

で、私は主治医にそう伝えたんですね。「脱毛する抗がん剤は嫌です」って。
でもね〜、なぜか主治医には、繰り返し治験を勧められるんですよね〜。
えーと、これはつまり、病院側の都合で、私に治験を受けてほしい(データを取りたい)のかな? とか、考えたりもしました。でも、どう言われても嫌なものは嫌だし、自分の体のことなので、自分のQOLを優先したいです。当然のことだけど。

えっと一応、念のために書いておくと。
乳がんの治療は、初回治療(乳がんの診断された時点の治療)は、決められた通りの「標準治療」をした方がいいと言われています。
でも、遠隔転移して、基本的に治癒しないとされている状況なら、自分の好きなようにやっていいと思うんですよ。

風の噂か都市伝説かっていうくらいのレアケースだけど、「癌で余命宣告されたけど、世界一周旅行に行って帰って来たら、癌が消えていた」という話を聞いたことはあります。
それなら、ダメ元で世界一周してみるのも手ですよね。

——って、私は、そこまで度外れて「好きなようにやる」ほどの体力も経済力も持ち合わせていないです。
高価なサプリメントの効用もあんまり信じていないし。

だから、私が「好きなようにやる」といっても、「再発乳がんの治療薬のうち、比較的副作用が少ないものから試したい」という、至極穏当なレベルの話に落ち着くわけです。小市民ですねー。

診察室で、次の治療について主治医に尋ねてみたら、「肝臓の転移が大きくなっている場合、命に関わるので、ある程度強い抗がん剤で叩いておくのが一般的。だけど、決まりはない」とのこと。

「決まりはない」のなら、私は、副作用が軽めの薬から使っていきたい。
私の場合は、「生存期間が数ヶ月延びる」ことよりも、QOLの方が大事。
——ということ、主治医に話してるつもりなんだけど、伝わってないのかも。

診察室で主治医とのやり取りがスムーズにできるよう、「今後の治療に使える薬とその副作用のリスト」が欲しい。けど、どこで手に入るんだろう?
よくわからないままに、がん患者支援センター等を回って尋ねてみて、それらしきリストを手に入れました。
「納得できないまま治療する」ことにはならないよう、これから先使うかもしれない薬の名前くらいは覚えておこうと思います。あまり気乗りのしない作業だけど、この先、そんなに長くないかもしれない残りの人生がかかってるわけだから、仕方ないです。

で、主治医が提案する治験を断っても、患者として、今後の治療をしていく上で不利な状況になる、なんてことはないですよねえ。

こういうことで、ちまちま悩んだりするのって、「世界一周して癌が消えた」的な人と正反対な気がする。でも、そういう性格なのだから、これも仕方ないです。

うーん、気が重いなあ。
まあでも、私は、「明るく前向きな闘病ブログ」をやるつもりはないので、これでいいのです。






| ●月ノヒカリ● | 病気 | comments(5) | trackbacks(0) |
2017.11.18 Saturday 00:02
大江満雄という詩人をご存じだろうか。
たぶん、知らない人が多数派だと思う。
私が大江満雄の名を知ったのは、瀬尾育生著『戦争詩論 1910-1945』の中で、「とても奇妙な戦争詩を書いた人」として一章が割かれていたからだ。
その奇妙な戦争詩を通じて、大江満雄という人物に興味を持ったタイミングで、この『来者の群像』が出版されたのを知り、これも何かの縁かと思って手に取ってみた。

私の好きなタイプの本だ。歴史の表舞台には決して登場しない、けれどもその時代や社会の限界とがっちり向き合った人々の、生きた証が刻まれている。

戦前はプロレタリア詩を書き、検挙され転向して、戦時中は多くの戦争詩を書くことになった大江満雄。
その大江が、戦後間もない頃、ハンセン病者と出会った。正確に言えば、ハンセン病療養所の入所者の詩作品と出会い、それから約40年、彼らの詩作に伴走し続けることになったのだ。
まだハンセン病への偏見の強い時代に、大江は頻繁に療養所へ足を運び、ハンセン病者と飲食を共にしたという。

タイトルにある「来者」という語は、大江による造語だ。大江は、『論語』微子篇にある「来者は追うべし」にヒントを得て、ハンセン病の詩人を(「癩者」ではなく)「来者」と呼んだ。私たちに未来を啓示する「来たるべき詩人」を、ハンセン病の詩人の中に見いだそうとしたのだ。

ハンセン病は、戦後に特効薬が発売されて以降もずっと、国による隔離政策が続いていた(隔離政策については、「ハンセン病 Q&A」の説明がわかりやすい。患者隔離を定めた「らい予防法」が廃止されたのは、1996年のこと)。
発症後、療養所から一歩も出ることなく生活しなければならなかった人々にとって、「表現すること」は、自らを救う行為でもあったのだろう。「ホームレス歌人」がそうだったように。

ハンセン病の詩人といえば塔和子しか知らなかったけど、この本には、他のハンセン病者の詩もいくつか紹介されている。
この本に紹介されている中で、私の一番好きな詩を、以下に書き写してみる。

  病める樹よ
島比呂志


永遠の中の
一年がなかったら
永遠は存在しないということを
樹よ
よく考えてみるがいい

どこからか吹いてきた悪病に
おまえの枝や葉が
変形し
醜悪になったからといって
絶望してはならない
なるほど
風が吹けば
おまえは
仲間以上の危険にさらされるであろう
雪が降れば
ひとしお寒さが浸みるであろう
けれども
全力を挙げて耐えるがいい
ありだけの生命の火を燃やすがいい
やがて
おまえの生涯が終り
板となり
柱となる日
苦しみに耐えて来た
一年一年が
いかに美しい年輪となり
木目となることであろうか

樹よ
悪病を歎くことなく
ありだけの力で生きるがいい
やがて摂理の銛にかかる日まで
血みどろに生きるがいい
樹よ樹よ樹よ樹よ
病める樹よ!


来者の群像』pp.202-205(初出は『愛生』1952年11月号)

私もまた、病気と闘っている最中であるせいか、この詩の言葉に深く響き合うものを感じた。

「生きるとは、年をとることじゃない。いのちを燃やすことや」
これは、ハンセン病訴訟の原告の一人であった中山秋夫氏が語った言葉だ。
隔離政策によって、社会の片隅に追いやられた人の、人生の底の底から絞り出された、生命力をもつ言葉たち。

彼らハンセン病詩人を励まし、詩作を導いたのが、大江満雄だ。
大江は、ハンセン病療養所の園内誌で詩の選評をしていたのだが、この選評からも、大江の「本気」が伝わってくる。大江の文学観のみならず、人間観をも垣間見ることができて、興味深い。いくつか引用してみる。
「詩は反対の立場の人をも納得させることが大切だ。〔中略〕文学というものは敵を(敵とはラテン語では自分のもたないものをもっている者をいう意味があるという)射るものであり、そして共感にまで高めるものでなくてはならぬ」

「現代詩人は感傷性をきらうが、私は、感傷的にならざるをえない立場にある人に、感傷性をもつなということは、雨の中を傘をささずに歩む人に、雨に濡れるなというにひとしいと思う。〔中略〕感傷性には貴重な宝庫があり、泉があると、いうことを知り、それを発見する努力をしなければならないと思う。感傷は感情の傷みだから、それを自らが、いやし、自らが創造的な力に高めてゆくということが大切だと思う」

「『エゴを死刑にしてやりたい』これは、なかなかおもしろいが、〔中略〕エゴというものは社会愛人類愛と切り離すことはできないものだと思う。作者の自己にきびしい態度には好感もてるが、エゴを虐殺すると社会愛とか人類愛の精彩がなくなると思う。自我は人間の表現的実際活動によって社会我世界我に成長するといいたい」

来者の群像』pp.48-49(栗生楽泉園園内誌『高原』大江による詩の選評)

私もまた、細々と短歌を作っているので、上記の大江の評に感じ入るものがあった。と同時に、これらの言葉はとても高い理想を謳っていて、そう簡単に手が届くものではない、とも思える(「敵」が「納得する」だけでなく「共感する」詩って、どんな詩なんだろう…?)。

大江はまた、ハンセン病詩人にこんなアドバイスを送ったという。
「ハンセン病であることを外に強調するな、人間として純粋なものをうたえ」

個人の痛みから出発しながらも、より広い視野でものを見ること。そういう態度があってこそ、普遍的な人間のもつ深みへと到達することができるのだろう。
大江の文学観に同意するにしろしないにしろ、私もまた、表現活動するとき、立ち返りたい原点だ。

この本の巻末の「参考文献」の欄には、ハンセン病療養所で発行された園内誌が列記されている。
もしかしたら、誰の目にも触れないまま、埋もれてしまったかもしれない「来者」の言葉たち。
彼らの生きた証を、今この時代によみがえらせてくれた著者に、心からの賛辞を贈りたい。






| ●月ノヒカリ● | 読書感想 | comments(4) | trackbacks(0) |
2017.10.28 Saturday 21:40
癌の進行の不安は尽きないけれども、ひとまず今は「闘病ブログ」的なことじゃなく、本当に「書くべきこと」を優先しようと思う。ブログの更新も、無限にできるわけじゃないから。

このブログの過去記事で紹介させていただいた、末井昭氏の「見て見ぬふりせず死者悼め」は、これまで幾度も読み返して、心の支えにしてきた文章だ。
私は今、自殺を考えているわけではないけれども、再発癌の進行(と、その先にある死)に脅えつつ生きている状態で、そういう意味では、今も「命をかけて」言葉を発している。「命をかけた言葉」は、「みんなに届く」かどうかはわからないけど、「誰か」には届くんじゃないか、届いてほしい、という願いを込めて。

これまでもブログに書いたことだけど、今年に入ってから、酷い嫌がらせの被害にあった。その一部は、過去記事「Twitterアカウント削除した経緯について」にも書いた(その他にも、「ストーカー行為」とか「裏でデマを流す」といった嫌がらせもあったらしい)。
その嫌がらせのストレスで体調を崩し、結果として、癌の肝転移の悪化、腫瘍マーカーの上昇という、命に関わるレベルの事態になったことも、過去記事に書いた通りだ。

私の周囲では、「ステージ4の癌患者に対して嫌がらせをする」などという話は聞いたこともなかったので、本当に驚いた。
もっと驚いたのは、命に関わるレベルの事態になった後でさえ、いじめに加担した加害者の多くが、その後も平然とツイッターを続けていて、罪悪感なんてまるで持っていないように見えたことだ。

今回、私が受けたいじめは、表からは見えにくい、陰湿なものだった。
精神科医・中井久夫の「いじめの政治学」(『アリアドネからの糸』所収)によると、いじめは「(被害者の)孤立化」→「(被害者の)無力化」→「(いじめの)透明化」という段階を追って進むのだという。
中井久夫の言葉を借りれば、繁華街のホームレスが「見えない」ように、善良なドイツ人に強制収容所が「見えなかった」ように、いじめが行われていても、外部からはまったく見えなくなる。だから、このブログを読んでくれている人や、ツイッターのフォロワーさんにも、私がどんないじめを受けて、どれほどの苦痛を被ったのか、おそらく見えなかったはずだ。

「無視」や「排除」もいじめの一形態だと思うし、それも問題といえば問題だ。
でも、今回の私に対するいじめはもっと酷かった。何よりも、ツイッターのDMを勝手に盗み読みされたのは、私だけの問題ではなく、私とやり取りしてくださったフォロワーさんのプライバシーをも踏みにじる行為で、本当に心苦しかった。私もフォロワーさんも、見られて困るような悪いことは何一つしていないけれども、だからこそ、私たちの尊厳を踏みにじる行為を許すことはできない。

今回の私へのいじめ行為の根底には、差別心があったんじゃないかと思う。
私はなんでもかんでも「差別」と呼ぶのには抵抗があるから、「差別」という言葉を軽々しく使うのは控えてきた。でも今の私は、歴史的に低く見られてきた、複数の立場に属しているのは事実だ(とりわけ「精神障碍者」については、ナチスドイツではガス室に送られた歴史さえある)。
「女性」に対する差別、「精神疾患の患者」に対する差別や偏見、「病気で働けない人」に対する差別や偏見、「ネットで表現活動している人」に対する差別や偏見……。そういった差別や偏見が根底にあるからこそ、ここまで酷い嫌がらせをして、なおかつ開き直れるのではないか?
私にとっては、陰で嫌がらせをして開き直る彼らこそ、「おぞましい」「不気味」な存在にしか見えないのだけれども。

ただ、落ち着いて考えてみたら、私は過去、ドキュメンタリー映画を通じて、人間のおぞましい面、不気味な面を、垣間見たことがあったのだった。
今回思い出したのは、1960年代にインドネシアで起こった虐殺事件に取材したドキュメンタリー映画、『アクト・オブ・キリング』と『ルック・オブ・サイレンス』だ(過去ブログに書いた映画レビューはリンク先にあるので、詳しくは読んでもらえると嬉しい)。

このドキュメンタリーで、オッペンハイマー監督のカメラは、「虐殺を楽しみ、しかもそれを自慢気に語る加害者」の姿を容赦なく見せつけた。

私の目には、今回のいじめ加害者の人達は、この虐殺事件の加害者と相似形に映る。
もちろん、私が被害にあったいじめは、大量虐殺とは規模が違うかもしれない。でも、「被害者に対する根拠のない噂を盾に、殺人を正当化した」とか、虐殺加害者がアイヒマンと同じく「正常な、普通の人間」だったというあたりが、今回の自分の被害体験と重なるのだ。

映画のパンフレットを読み返して、オッペンハイマー監督の言葉に、私の今の思いに通じる言葉を見つけた。一部引用してみる。
……私が撮影した加害者たちは、勝利を手にし、虐殺の上に成り立つ政権を作り上げた人々であり、今も権力を保持しています。自分たちの行いは間違いだったと認めるよう、強いられたこともありません。最初は私も、彼らの自慢話を額面通りに受け取っていました。彼らは自責の念などまったく感じておらず、自分の行為を誇りに思っていて、良心の呵責などないのだ、と。しかしながら、その考えは軽率だったと気付きました。殺人者たちによる自慢は、彼らが実は自分の間違いに気付いていることを表していて、真実から逃れるための必死の努力なのではないか、と思い始めたのです。

 もし我々が殺人を犯し、自分を正当化できる可能性が残されているなら、ほとんどの人はそうするでしょう。さもなければ、毎朝鏡を見るたびに、殺人者と対面しなければならなくなるからです。『アクト・オブ・キリング』の登場人物たちは、今も権力の座にあり、誰からも糾弾されたことがないため、今でも自分を正当化することができます。そして、その正当化を本当は信じていないために、自慢話はより大げさになり、より必死になるのです。人間性に欠けているからではなく、自分の行いが間違いだったと気付いているからこそのことです。

(『アクト・オブ・キリング』パンフレット ジョシュア・オッペンハイマーによる「監督声明」より)

私も最初は、いじめ加害者には良心が欠けているのかと思ったのだった。
でもむしろ、良心が残っているからこそ、自分も加担したいじめ行為が、命に関わるレベルの被害に結びついたことを認めたくないのではなかろうか。
私だったら、想像するだけで胸が締めつけられるくらい、つらいもの。自分は被害者でよかった、加害者にならなくてよかった、という気持ちさえあるくらいだ。

映画パンフレットの監督声明の続きには、こんな一節もある。
……しかし、悲劇的なのは、殺人を賞賛するには、さらなる悪行が必要だということです。誰か一人を殺してしまった後、同じような理由で他の誰かも殺すよう要請されたら、断ることはできません。なぜならもし断れば、最初の殺人も間違いだったと認めているようなものだからです。

(『アクト・オブ・キリング』パンフレット ジョシュア・オッペンハイマーによる「監督声明」より)
このまま加害者を放置したら、また新たな被害者が出るのではないか。その懸念は、私も持っている。
もしかしたら、この手のいじめは、過去にもあったのかもしれない。表立って声を上げる人がいなかっただけで。 でも、人の命は、取り替えが効かない。謝罪でもお金でも、解決することじゃない。まして加害者が、悔悛も自責の念もなく開き直っている状況は、不気味としか言いようがない。

今回私がされた「不正アクセス」や「陰口」や「ストーカー行為」のような嫌がらせを、私は「陰湿」だと感じた。でも、そう感じるのは、私が被害者だからであって、もしかしたら加害者にとっては「楽しい遊び」だったのかもしれない。
そう、差別もいじめも、それをする側にとっては「楽しい」ものらしい。
被害者にとって身の毛もよだつようなおぞましい体験が、加害者から見ると「ちょっとした楽しい遊び」になる。
この、被害者と加害者の間にある、圧倒的な溝。
これもまた、映画『アクト・オブ・キリング』『ルック・オブ・サイレンス』を連想した理由の一つだ。

人間は、いじめや差別をせずにはいられない生き物らしい。
表向きは「反差別」を唱える人達ですら、いじめや差別の加害者になるのだということを、今回、痛感させられた。
現在、「良識ある」人たちは、表立って「女性」や「精神障碍者」を貶めるような発言をすることは、まずない。内心で見下していたとしても、表向きは、そういう態度を取ってはいけないことになっている。
でも、表向きは「差別は良くない」と唱える「良識ある」人達だからこそ、その差別は、(ヘイトスピーチのような直接的な発言ではなく)陰口のような陰湿な行為になりやすいのではなかろうか。

「見えないところで行われるいじめや差別」なら、ヘイトスピーチよりもマシだ——とは、私には、思えない。被差別者の心身に深い傷を残すのは、ヘイトスピーチも「陰湿な差別」も同じだ。

そして「悪質なデマを流す行為」は、過去に起こった様々な虐殺事件の前兆だったのを思い出したい。例えば、1923年の関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺事件は、「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「朝鮮人が暴動を起こしている」といった悪質なデマが広がった結果、多くの人が殺される惨事となったのだ。

「陰口を叩く人」はどこにでもいるのだろう。「悪質なデマを流す人」も、私には信じられないことだけれども、思ったより多いのかもしれない。
これまで幾度も書いてきたことだけど、私にとって「陰口のコミュニティ」は、健康を害するレベルで苦痛なので、そういう場所からは離れるしかない。
ただ、「陰口」が「悪質なデマ」につながったのだとしたら——そこから「虐殺事件」までは、ほんの数歩しかない。


ともあれ、現実社会で、最低限の秩序もモラルも機能していない状態では、創作の世界で自由に遊ぶことすらできない。私が短歌の発表を止めざるを得なかった理由は、これだ。

不正アクセスはするな。
ストーカー行為は迷惑。
デマを流すな。

これは、ごく当たり前のことだと思う。
こんな「当たり前のこと」さえ守られない場所では、端的に言って生きていけない。ステージ4の癌の闘病中なら、なおさら。

加害者は忘れても、被害者は痛みを忘れない。忘れることはできない。
今回のいじめに関わった人たちは、せめてそのことを忘れないでほしい。自身の行為(あるいは不作為)が、命に関わるレベルの被害につながったことを、忘れないでほしい。これから先、二度と同じ間違いを繰り返さないでほしい。

このブログにはコメント欄もあるし、メールアドレスも公開している。
私は、いつでも対話に応じるつもりで、ブログを書いてきた。
裏でデマを流したり、デマを真に受ける前に、疑問があるなら直接私に尋ねてほしい。 それすらしないで、裏でデマを流したりストーカー行為に走るのって、本当に悪質だからね。

こういうこと、一度はきちんと言っておかなければならないと思ったので、書くことにした。

不正アクセスや嫌がらせとは関係なく、当ブログを純粋に楽しんで読んでくださっている皆様には直接関係のない話でしたが、いじめや差別について考える際の何らかのヒントになれば幸いです。


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| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(4) | trackbacks(0) |
2017.10.19 Thursday 23:17
体調を崩してから、ブログでの短歌の発表はお休みしていたのですが、短歌自体は、たまーに、ぽつぽつと作っていました。

今回は、これまでに作った短歌をちょっとだけ、ここに公開します。

まずは、秋になったので、この歌を。
すずやかな銀杏並木が黄水晶(シトリン)のしずくを散らすあきかぜの道

ツイッターで相互フォローしていた、あきかぜさんのお名前を短歌に詠み込んでみました。ツイッターで短歌を発表していたとき、ふぁぼってもらえたのが嬉しかったので、お礼の気持ちを込めて。
この短歌、実際に作ったのは今年の4月頃だったんですが、秋になるのを待って公開することに。
イチョウの葉が色づくのはもう少し先ですが、家の近くにも銀杏並木があるので、いずれ黄色に染まった並木道の写真を撮れたらいいなーと思ってます。


水に舞う瑞鳥の羽(はね)はろばろと来世を照らせ紫苑いろの灯(ひ)よ

折句のような形で、人名を詠み込んでみました。
以前、当ブログで実施した「短歌クイズ」のような読み方をしていただくと、とある方の名前が出てきます。


もう一首だけ。
背中には飛べないままの泣きそうな翼があった ここだけの呪詛

これも折句の形で、とある方の名前を詠み込んだ歌です。


こういう折句の短歌をサラサラーと作れたら、もしかしたら商売として成り立つのかなあ——などと考えないでもないのですが。

ただ、ハンドルネームでもペンネームでも実名でも、人の名前を短歌に詠み込むのは、多少なりともその人に対する親愛の情を抱いていなければイメージが湧いてこないので、量産はできそうにないんですよね。残念ながら。


ところで、人名を短歌に詠み込んだ例で思い出したのですが、こんな歌があります。
塚本邦雄の『新撰 小倉百人一首』の冒頭に掲げられた序歌です。

きらめくは歌の玉匣(たまはこ)眠る夜の海こそ千尋やすらはぬかも /塚本邦雄

文庫版の解説によると、この歌には、親しい編集者の箱根裕泰(はこね・ひろやす)氏の名前が詠み込まれているとのこと(「玉匣(たまはこ)眠る」に「はこね」、「千尋(ちひろ)やすらはぬかも」に「ひろやす」が隠されています)。

こんなふうに、人の名前を短歌に詠み込めるテクニックがあれば、表現の幅も広がりそうですね。私もいずれ、こういう短歌も作れるようになりたいなあ。

ところで、上に引いた歌の意味ですが、文庫版の解説には、〈古典和歌という「歌の玉手箱」の中から、夜も眠らずに、珠玉の和歌ばかりを百首選んだ、という自讃の歌〉と書いてあったんですけど……私は、そんなふうには読めなかったんですよね。

私の解釈は、こんな感じです。
「きらきらした歌のたくさん詰まった宝箱が眠っている、深い深い夜の海。それを思い浮かべると、心がはやって気持ちが休まるときもない——」

実際、この『新撰 小倉百人一首』には、きらきらした和歌がたくさん詰まっていて、たまにページを開いては、うっとりしています。

話が前後しますが、この本の内容をさらっと説明しますと。
前衛短歌の巨人・塚本邦雄は、藤原定家が選んだといわれる「小倉百人一首」の歌を、「凡作ばかり」と一刀両断してるんです。
古典和歌にも造詣の深い塚本が、百人の作者一人一人にとって「これぞ真の代表作」という一首を選び直したのが、この『新撰 小倉百人一首』です。

この本を読んでいると、塚本邦雄に洗脳されて、百人一首の歌が本当に「凡作ばかり」に見えてくるから怖い。
旧かな旧漢字表記の美文調なので、読みやすくはないのですが、一度ハマると癖になります。

今回はこの辺で。

※10/21(土) 短歌を少し修正しました。

   




| ●月ノヒカリ● | 短歌 | comments(2) | trackbacks(0) |
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