2016.11.09 Wednesday 23:51
日に日に寒くなる一方、しかも雨模様、絶好のひきこもり日和が続いていますが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。

最近はブログの更新も滞りがちなのに、拍手やコメントを寄せてくださる奇特な皆様、本当にありがとうございます。そんな皆様のおかげで、この弱小ブログもなんとか存続しています。
以前のように「拍手コメントに全レス」するのは難しいのですが、10月27日にいただいたコメントは、私も一緒に考えたい内容だったので、以下に公開レスすることにしました。
こちらのコメントです。

最近自分はパンを追うことに頭が行っていて、バラから離れてしまってるなあ、、という実感です。ヒカリさんの短歌解説わかりやすいです。最近の私は自己啓発本のパン系?な書籍ばかし読んでいたので、、、生活費を稼げていないということが常にひっかかっているので、文学的な物を読んでるとすごく焦りを感じるんですよね。「こんなことしてていいのか?」みたいな。服装に気を使ったりとかの、文化的生活方面であきらめたり、切り捨てることが多くなってきているので色々と考えものです、、文化は必要ですよね?

いつもブログを読んでくださってありがとうございます。
お名前は公開していいかわからなかったので、非公開にしました。
コメント主さんとは、ブログを通じてですが、それなりに長い付き合いなので、ある程度は置かれている状況を把握しているつもりです。
だいたいこんな感じでしょうか。

●長年病気で療養していたけど、今はかなり回復してきた。
●今現在、明日のご飯の心配をしなければならないレベルの経済的困窮状態にはない。
●働くことについて、これまでいろいろ試行錯誤してきた(つまり、単に「就労支援を受ければ?」で解決する問題ではない)。


この認識であってますか?
こういう状態であると仮定して、以下にレスしますね。

コメント主さんから最初にコメントいただいたのは、5年程前だったでしょうか。その頃に比べて、今はかなり回復してきたってことですよね。それについては、本当に良かったと思うし、私も嬉しいです。

ただ、回復した分、今は「早く社会復帰しなきゃ」「ちゃんと自分でお金を稼がなきゃ」みたいな焦りが出てきている、ということでしょうか。
そうだとしたら、その気持ちはとてもよくわかります。でも、「どうすればお金を稼げるか」なんて、私もいまだにわかってないので、これについては有効な助言など何一つできる立場にはありません。

いつだったか、少し前に「自己啓発本を読み漁っている」というコメントをいただいたことがありましたが、今もそうなんですね。
気を悪くしないで聞いてほしいのですが、私は基本的に「自己啓発本」については、過去にレビューを書いた、斎藤環『「社会的うつ病」の治し方』と同じスタンスなんです。
心の病を持つ人にとって「自己啓発」が有効なのかどうか? 疑問です。
健康でちゃんと働いている人のブログにさえ、「自己啓発本を読み漁るだけで何一つ実践できてない」などと書いてあったりするので。
私は、自己啓発書・ビジネス書の類は、たまーに書店で立ち読みするくらいの読者なので、詳しいことはわからないのですが。

それを前提として、あえて言わせてもらいますと。
「自己啓発本」も立派な文化だと思います。
「どんなジャンルにも、傑作もあれば、駄作もある。そして駄作から学べることだってある」ということ。
私自身、十代の頃からずっと、漫画やアニメやラノベやJUNEといった、まっとうな大人には馬鹿にされるジャンルばかり偏愛してきたので、そう信じています。

自己啓発本の中にも良書は当然あるでしょうし、「多くの人はつまらないと言うけど、今の自分にとって有益なことが書いてあった」ということも、十分あり得ると思います。

コメント主さんは、自己啓発本を読んでいて、面白いとか、楽しいとか、ワクワク感とか、ありますか?
自己啓発本を読むことが楽しくて仕方ないなら、それは今の自分にとって必要な文化なんだと思います。安心してじっくり自己啓発に取り組めばいいのではないでしょうか。

ただ、自己啓発書・ビジネス書の類は、実践するのも大事じゃないかと思うんですよね。
当事者研究みたいに、仲間を集めてみんなで試行錯誤しながら実践できればいいと思うんですけど、おそらくそれは難しいですよね……。
一つ思いついたのは、今自分が読んでいるのと同じ本を読んでいる人が、「その本を読んで何を感じて、どう実行に移したか」ということをネットで検索して調べてみると、本との付き合い方が変わってくるかもしれません。
これは私が、ブログに本や漫画の感想を書き始めた頃、やっていたことです。本のタイトルで検索して、引っかかったブログを読んでみる。「他の人は、私と同じ本を読んで、どんな感想を抱いたのか?」をリサーチする。これはわりと勉強になりました。

もし、今の状況に問題があるとしたら。
コメント主さんが「ぜんぜん楽しくないのに、焦りから自己啓発本を読んでいる」場合です。
そうだと仮定するならば。
できれば明日から、自分が自由に使える時間の、少なくとも2割くらいは、心から楽しいと思えることに費やしてほしいです。
別に自己啓発本を読むのをやめる必要はないです。でも持ち時間の何割かは、本当に好きなこと、楽しいことのために使ってください。

なんでわざわざこんなお節介なことを言うかというと、ですね。
私も含めての話ですが、心や体の病気だったり、不登校やひきこもり経験のある人が、まず第一に取り戻さなければならないのは、「生きる意欲」だと思うからです。
私が病気になって、自分から根こそぎ奪われた(と感じた)のは、「生きる力」「生きる意欲」のようなものでした。
だから、「生きる力」こそ、一番最初に取り戻さなければならなかったし、これから先も決して失ってはならないもの、だと思うんです。

でもって、これは私の持論なのですが、「生きる力」とか「生きる意欲」というのは、自分が本当に心から好きなことを通してしか、得られないと思うんですよね。

私がお金のために働いていたとき、仕事上のことで多少褒められることがあっても、まったく「自信」には繋がりませんでした。むしろ自尊心(と健康)をすり減らしていました。嫌で嫌で仕方がないのにやっていた仕事だったので。
でも今、こうしてブログに文章を書いて、コメント主さんのような反応をいただけると、それは私にとって、自信につながるし、生きる力を与えてもらえるんです。

私は、これまでにあなたからいただいたコメントで、パンク・ロックやアゴタ・クリストフが好きだと教えてもらったこと、ちゃんと覚えています。
あなたが本当に好きなこと、心から楽しいと思えることを、自分の時間の一部でもいいので、ぜひ取り入れてください。
それは必要なことです。生きるために。


最後に、このレスを書いてる間に思い出した本があるので、付記しておきます。
石川良子『ひきこもりの〈ゴール〉 「就労」でもなく「対人関係」でもなく』です。
ご存じでしょうか。
ひきこもった経験のある人が、この本を「いい内容だった」と評価している書き込み、しばしば見かけます。
もし気が向いたら、手に取ってみてください。

以上、お節介かもしませんが、個人的な思いを書いてみました。
ここに書いたことは、全部忘れてもらっていいです。
一番大事なのは、あなたが元気に毎日を過ごせることで、私が心から祈っているのもそれだけです。

お互い無理のない範囲で、ぼちぼちやっていきましょう♪






| ●月ノヒカリ● | web拍手レス | comments(0) | trackbacks(0) |
2016.10.16 Sunday 00:37
これから、「文学は何のために存在するのか?」という話をします。
今から書くことは、文学に造詣の深い方々には「わかってるよ、そんなこと」などと言われそうなので、そういう人は特に読まなくてもいいです。
「文学? なにそれ食べられるの?」って人に、読んでほしいです。

こういう話をしようと思ったきっかけは。
先日、斉藤斎藤さんの第二歌集『人の道、死ぬと町』の中から、個人的に印象に残った短歌を二首、Twitterでつぶやいたことでした。

私のTwitterフォロワーさんの99%は短歌に縁のない人ですが、そういう人が、このツイートに反応してくれたんですよね。
短歌って、ものすごくハイコンテクストな表現なので、「短歌村の住人でなければ理解不可能な作品」が多いと思っていたのですが……「外の人」に届くこともあるんですね。

この歌の作者である斉藤斎藤さんは、1972年生まれの歌人です。余談ですが、ブログ主と同世代です。
この歌集『人の道、死ぬと町』には、2004年から2015年にかけての作品が収録されています。

とりあえずここでは、上掲の、
宗教も文学も特に拾わない匙を医学が投げる夕暮れ
という短歌について。
「なぜ私はこの一首にグッときたのか?」という話を、これからします。解説するのは野暮だとは思いますが、意味がわからない人にもわかってもらいたいので。

この歌は、斉藤斎藤さんの第二歌集『人の道、死ぬと町』に収録された「今だから、宅間守」(2007年発表)という連作の中の一首です。
宅間守というのは、2001年、大阪教育大学附属池田小学校で起きた小学生無差別殺傷事件の犯人。2004年に死刑執行されています。

まず、「宗教も文学も特に拾わない」とはどういう意味か?

前提として踏まえておきたいのは、福田恆存という評論家が書いた、「一匹と九十九匹と」という有名な文芸評論です。昭和21年に書かれたものだけど、「政治と文学」というテーマは、今でも通用する内容だと思う。これについては以前このブログにも書いたことがあるけど、もう一回、一から説明します。

福田恆存の「一匹と九十九匹と」という評論のタイトルは、新約聖書の「ルカによる福音書」に出てくるエピソードが元になっています。
聖書に出てくるイエスの言葉、新共同訳から引用します。
 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、喜んでください』と言うであろう。

 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 (「ルカによる福音書」15章より 新共同訳)

百匹の羊のうち一匹を見失ったなら、残り九十九匹を野に捨て置いても、その一匹のために駆けずり回る。
このイエスの言葉を、福田恆存は、「政治と文学の棲み分け」について語ったものだ、と解釈したのです。

つまり、どれほど善き政治が行われても、政治で救えるのは九十九匹までである。政治では救われない一匹が、必ず存在する。その一匹を救うのこそ、宗教の役割であり、文学の役割である、と。
いや、その「失われた一匹」は、あなた自身の内に存在するのではないか?
福田恆存はそう言っているんです。

実は私自身が、社会運動的なものに共感しつつ、今ひとつ積極的に関われないのは、この感覚があるからなんです。

どんなに社会が良くなっても、それだけでは人は幸せになれない。
どれほど医学が発達しても、人が「死」から逃れることはできないように。

「宗教も文学も特に拾わない匙を医学が投げる夕暮れ」という一首の前には、宅間守を精神鑑定した精神科医の発言が引用されています。
宅間は人格障害(妄想性・非社会性・情緒不安定性)ではあるが、精神病ではありません。(中略)……宅間のような人間に関しては、犯罪を防止する方法はないと思います」(精神科医・樫葉明の発言より)
「医学が匙を投げる」の意味はこれです。精神科医も匙を投げた。それが宅間守という人間です。

それを踏まえて、もう一度この短歌を読んでほしい。
精神科医が、「宅間守のような人間は理解不能だ」と匙を投げるのは、まあしょうがないと思う。
でも、精神科医という「正しい社会」にいる人が投げ出したもの、宅間守のような「誰がどう見てもクズ」にしか見えない人間を救うことこそ、宗教者の役割であり、文学者の役割じゃないの?

福田恆存の「一匹と九十九匹と」に書かれているのは、そういうことじゃないかと。
文学や宗教って本来、そのくらい危険なものであり得るんです。
「医学が投げたというその匙を、文学や宗教は拾えよ」と、個人的には思います。

宅間守というのは、社会から非難されて当然、処罰されて当然(死刑制度の是非は別として)の人間ですよ。でもね、そういう「誰がどう見ても極悪人としか思えない」ような人間を救ってこその宗教じゃないのですか。あるいは、そういう不気味としか思えない人間の存在に意味を与えるのが、文学じゃないんですか。

さて、そんな骨のある宗教や文学が、今の日本に実在するのでしょうか。

で、斉藤斎藤さんは、その匙を拾いにいったんだなあ。
しかも、池田小事件が起きたのが2001年で、「今だから、宅間守」が発表されたのは、2007年。ということは、6年もかけて。
今の日本に、そんなことする人が他にいるでしょうか?
誰もいないと思う。
すっげーなーと感動しましたよ。本当に「文学」だなあ、と。

えっと、ただ私は、まだ短歌の世界に片足を突っ込みかけただけの初心者レベルなので、この連作について、「短歌としての良し悪し」は、正直よくわかりません。
でも、その志の高さは惚れ惚れとするというか、仰ぎ見るしかない存在です。

ここでもう一度、福田恆存の「一匹と九十九匹と」に戻ります。
九十九匹を救うのは政治の役割であり、私たちが「善き政治」を求めるのは、必要かつ当然の振る舞いだ。
今の日本は、「善き政治」が行われているとは言い難い。九十九匹どころか、五十匹も救っていないのが現状である。
政治的な働きかけによって解決できる問題を解決しようとする努力は、当然なされるべきだ。それに異論はない。

じゃあ、貧困その他、様々な不遇の状態に置かれている人に、文学は必要ないものなのか?

そんなことはないと思う。今から8年ほど前、朝日新聞の短歌投稿欄の常連に、「ホームレス歌人」が存在したことを覚えている人もいるだろう。
困難な状況に置かれている人には、衣食住が必要なのは当然として、文化もまた必要なのだ。

――人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られねばならない。(國分功一郎)

私たちの生活に文学が必要だとして、じゃあ今この時代に、どんな文学が必要とされているのだろう。
福田恆存は、上記評論の末尾で、「文学は、失われた一匹に対して、一服の阿片の役割をはたすものだ」と述べている。

私がこれまで好んで触れてきた短歌は、間違いなく阿片の役割を果たしてくれた。私にとって短歌は、美しい世界を映し出すメディアで、私はその美しさを心から愛してきた。
でも、斉藤斎藤の『人の道、死ぬと町』は、阿片ではなかった。

上掲ツイートにも引用した、「わたしが減ってゆく街で」(2013年発表)という連作では、低賃金の非正規雇用者であり「結婚しても出産は諦めるしかない」現実が、様々なデータや本からの引用とともに、赤裸々に表現されている。
かなり「痛い」内容である。しかし、これこそが今の時代のリアル、私たちの一側面ではないのか。
その痛さには、これまでの私が持っていた、浅い短歌観を突き崩すくらいの力があった。

私たちが文学に求めているのは、痛い現実を忘れさせてくれる阿片なのだろうか。
それとも、痛い現実に向き合うための触媒となる何か、なのだろうか。

阿片なら、代用品は他にいくらでも存在する。極論を言えば、パチンコでもいいのだから。
でも、痛い現実に向き合うための触媒となるもの、それは文学にしかできない業ではないだろうか。

『人の道、死ぬと町』から、そういう連想が広がって、しばし打ちのめされていたのだった。

というわけで、この一首の凄みを、ここを読んでくださっている皆様に、少しでも共有していただけたなら、ブログ主も本望です。



※ 文中の國分功一郎氏の言葉は、『暇と退屈の倫理学』からの引用です。




| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(6) | trackbacks(0) |
2016.09.19 Monday 18:10
最近はブログに書くことも思いつかなくて、久しぶりの更新になってしまいました。

前々回予告した、癌の再発・転移にまつわる短歌を、ここにまとめておこうと思います。
そこそこ元気に毎日を過ごしている今となっては、悲壮感あふれる闘病短歌をつくってしまったのは、もはや黒歴史な気もしますが……自分としては気に入ってる歌も幾つかあるので、ブログに残しておきます。
Twitter投稿時とは、一部表現を変えた作品もあります。

最初の短歌は、今年の5月末、整形外科で骨のMRI検査をして、「癌の転移の可能性もあるから、精密検査をするように」と言われたときに書いた歌。
死神の消息を聞くたびにこの世界は色を鮮やかにする
まだ癌の転移かどうかはっきりしないけど、「もしかして私、死ぬのかな」って思ったとき、もちろん不安もあったんですが、それ以上に「世界が鮮やかになる」感覚があったんですよね。
「死」と向き合ったとき、自分が本当にやりたいこと・なすべきことの優先順位がはっきりする、みたいな。


次の一連の短歌は、6月初旬、実際に転移を告知された頃につくったものです。
死神がご機嫌いかがと軽やかに尋ねてわらう初夏真昼(はつなつまひる)

他界からの風の便りになつかしい空のにおいがよみがえる午後

生まれくる前の場所へと還る旅 ひと息ごとに花が零れる

去り逝くと知ればすべてがいとおしい 傷痕さえも煌き果てる

重すぎる荷物をひとつ捨てたあとの空漠をただ抱きしめている
いやー、この頃はもう、死ぬ気満々って感じでしたねー。
でもって、不思議なことに、再発を告知された当初は、さほど悲壮感はなかったんですよね。私の場合。
「そっか、死ぬんだ。仕方ないねー」みたいな。この感覚、根深い自殺願望をお持ちの方には、ある程度ご理解いただけるのではないかと。
実際のところ、当時のブログ記事に書いた通り、まだ数年は大丈夫だろうと言われたので、そんなに差し迫った恐怖はなかったのです。このときは。


次は6月中旬、骨転移の治療が始まった時期。
薬の副作用で、背骨が痛くて、ずっとベッドに横になってたときにつくった歌です。
脊椎がここにいるよと自己主張するように痛む長い長い夜

体芯を貫く光の道をもつ脊椎動物なんだ私は
その当時のブログ記事はこちらです。前回のエントリでも書きましたが、背骨が痛くなったのは、初回治療のときだけでした。 今は、注射をしても、目立った副作用もなく、まあまあ元気に過ごしています。


以下の連作は、7月、癌の転移した腸骨が痛くて、寝ていたときにつくった歌。
私から光も風も過ぎ去ってdepressionが支配する夏

致死量の悪意を解毒し切れずに悲鳴をあげた肝臓異変

ひんやりと白い機械のトンネルを出るたびに流れる時の砂

亡骸となりゆく日々を直射する生の証としての痛みは

ロキソニンだけでは消えない痛みのみ生の証として認めます

長生きも早死にするも親不孝だから間をとって早生き

通行人Aを襲った悲劇より静穏な死を迎える準備

一歩ごと見えないドアに開かれる終りへの道果てしなくひとり

いつか君も齢(とし)を重ねてたどり着く道にしおりを残していくね。
一部改作しました。
この頃が、いちばん精神的にキツかったですね。頭痛もあって、「もしかして、癌が脳に転移してるんじゃないか?」と不安になったりもして。
短歌は、雑誌などではよく「連作」という形で発表されることが多いのですが……私は「連作」ってどうやってつくるものなのか、まだよくわかってないんです。なので、これは習作ですね。


もう少し明るい気分のときに書いた短歌はこちら。
走れないからだを生きて黄昏に追い越されたら火星になろう
当時は、癌が転移した腸骨が痛くて、ゆっくりとしか歩けなくて。もう二度と走ることはできないのかな、と思うと、ちょっとせつなかったですね……。
でも今は、治療のおかげで、さほど痛みは感じないです。走ったり、激しい運動をするのは、今も避けてはいますが。


ありふれた病でたぶん逝くからだにはありふれた午後の紅茶を

幾千の叶わなかった夢の実がさざめきながら僕に降る夜

安らかに眠れ私が呼吸する機能を終えた後の世界よ
この三首は、「死」を強く意識していたときに、生まれた短歌です。
三首とも思い入れのある歌ですが、今はさほど死が間近に迫っているわけでもないとわかったので、こういう短歌は、当分つくるのはやめておこうと思いました。


というわけで、最近できたのがこちら。
ほら、悪性新生物と呼べば癌もやんちゃな未知の小動物だ

転移した癌をチャルルと名付けたら一緒に生きていける気がした
「癌とともに生きてゆく」短歌です。
保険の契約文書なんかには、癌のような悪性腫瘍を「悪性新生物」と書いてあったりしますよね。
「悪性新生物」って文字面だけ見ると、悪戯好きの新種のネズミみたいな生き物を連想しませんか?

そんなわけで、肝臓と骨に転移した癌のこと、私はこれから「チャルル」と呼ぶことにしました。
私、チャルルと一緒に幸せになります! 皆さんありがとう!!

いやー、やっと明るく前向きな闘病ブログっぽくなってきましたね。
ええと、いろいろツッコミどころはあろうかと思いますが、どうかこれからも生温かい目で見守ってください。






| ●月ノヒカリ● | 短歌 | comments(0) | trackbacks(0) |
2016.08.29 Monday 00:20
今回は、癌の再発以降の、治療その他についての覚書です。

まず、6月に始めた骨転移の治療薬「ランマーク」について。すでに3回、注射しました。
1回目の投与では、ブログの過去エントリに書いたように背骨の痛みがあったのですが、2回目以降は、そういった副作用は出なかったです。
12年前に抗がん剤治療をした時もそうだったけど、「最初の投与は副作用がつらく、続けるうちに副作用が軽くなる」というのが実感です。
もともと骨転移のある腸骨の痛みも、今はかなり軽くなりました。
なので、初回治療の副作用がつらくても、治療を続ける価値は十分ある、というのが今の実感です。

6月に受けた最初のランマーク治療の後、ブログで「背骨が痛い〜」と大騒ぎしてしまいましたが、あの痛みは初回のみでした、ということ、改めてご報告します。過去記事だけ読んで、ランマークの副作用を過大評価されませんように。


あと7月に、脳のMRIと頚椎のCT検査をしたのですが、どちらも今は、心配はいらないそうです。
というわけで、まだ当分は、まあまあ元気に過ごせるらしいとわかってほっと一息、という感じです。


せっかくなので、癌の治療についてのTipsを少々。
私は乳がんしか経験していないので、乳がんに限定しての話ですが。

初回治療(最初に乳がんだと診断された時の治療)の場合、抗がん剤治療は「決められた量を決められたスケジュール通りに行う」のが大事だと言われています。
でも、癌が遠隔転移して、基本的に「治癒が見込めない」状況になった場合は、患者のQOL(生活の質)を優先してもいい、という話を過去に聞いたことがありました。

今やってる骨転移の治療薬ランマークは「4週に1回の注射」と主治医に言われたのですが、実は7月は、治療を一週間伸ばしたんですよね。
というのも、治療予定日直後の週末に、とある舞台のチケットを買ってあったのです。楽しみにしていた観劇だったので、もし治療の副作用で観に行けなかったら悔しいよなあ、と思い、先生に「次回の注射を一週間伸ばしたい」とお願いしました。そしたら、あっさり「いいですよ」と言われまして。おかげで、チケットを無駄にせずに済みました。

……この辺の感覚は、普通に主治医と話してるだけだと、ちょっとわかりづらいんですよね。主治医に「4週に1回の注射」と言われたら、患者としては絶対に守らなきゃいけないのかな、と考えてしまう。

●乳がんの初回治療では、「再発の可能性を減らす」ために、つらい副作用を我慢してでも、しっかりガイドライン通りの治療した方がいい。
●でも、もう「完治が見込めない」状況なら、投薬スケジュールよりも、「自分のやりたいこと」やQOLを優先してもいいケースもある。

こういう話は、過去に、乳がんの患者会で教わったことです。
もう十年以上前になりますが、勉強熱心な患者さんの集まる会では、乳腺外科医等を講師とする勉強会がしばしば開催されていました。
乳がんのタイプ別治療法、乳がんが転移しやすい臓器、局所再発と遠隔転移の違いetc.…そういった話は、一通り勉強会で教わったんですよね。
そのおかげで私も、3年前のリンパ節再発の時、また今回の骨転移・肝転移がわかった時も、比較的すんなり自分の状況を把握できたんだと思ってます。十年前とは、治療法が変わった部分もありますが、大枠は変化していないので、あの当時聴いた話は、今も役に立ってます。

ただ逆に、ヘタに知識を持ってしまったせいで、頭痛が起こった時に、「もしや脳転移ではないか?」と不安を抱えることになったわけで。「知らない方が、余計な不安を抱えずに済む」という可能性もあるかと思います。
癌患者が、自分の病気について勉強することのメリットとデメリット、両方ありますが……やっぱり私は「ある程度の知識はちゃんと得た上で、安心したい」タイプ、みたいです。

私の場合、たまたま自分が乳がんと診断された時代に、ネット上にも身近にも患者コミュニティがあって、それに協力してくれる専門医の先生もいたので、知識を得ることができたのですが。

こういう、「乳がんなら乳がんの患者を一堂に集めて、専門医が病気について一通りレクチャーする」ようなシステムが制度化されれば、診察時間の短縮につながるんじゃないか? みたいなことを考えたことがあります。
自分の病気について、大まかな知識は「患者を一堂に集めて専門家がレクチャーする場」で、同病の患者みんなが共有する。その場で質疑応答も受け付ける。その上で、個別の状況について疑問があれば、診察時間に質問すればいい。
そうすれば、手術とか治療についての説明が、よりスムーズに進むんじゃないか?
・・・まあ、これは私の勝手な妄想ですが。
どんなに丁寧に説明してくれる医師であっても、短い診察時間で伝えられる情報は限られるし、患者としても、診察時間以外で、自分の病気について教えてもらえたり、質問できたりする場があるのは、とても有り難いのです。
実現は難しいのかもしれませんが、言うだけならタダなので、ここに書いておきます。

あと、福祉の問題について。
これは乳腺外科の医師より、ソーシャルワーカーに相談したほうがいい案件ですよね。具体的には、介護保険サービスについて、とか。
癌の末期で、介護が必要なレベルになった場合、40歳以上で介護保険料を払っている人なら、介護保険が利用できるんです。 でも、「癌でも介護保険が利用できる」ということ自体、あまり知られていないみたいで。この情報も、私は、乳がんの患者会経由で知ったんです。

主治医の診察時間は、本当に「治療」の話だけで、それはそれで仕方ないのですが。
でも「治療」以外の部分で、患者にとって必要かつ有益な情報というのもあると思うんですよ。例えば、「◯◯の検査費(あるいは治療費)はいくらかかるのか」とか、そういうレベルの話。医師の診察の時には、あんまり「費用」の話って出ませんよね。
あと、本当に単純に、自分と同じ治療をしている患者さんと会って話せると、なぜか安心感が湧いてくるというのもあって。

今のところ、そういうニーズに応えてくれる場は、患者会のような場しかない状況です。
でも、幸いなことに、自分の身近にそういう場があるので、がんの話はそっちですればいいかな、と今は思うようになりました。


最後に、せっかくなので、骨転移と脳転移について、私が参考にしたサイトのURLを貼っておきます。

「知っておきたい骨転移」(がんナビ)
「Q47.脳転移について教えてください。」(患者さんのための乳がん診療ガイドライン)

あと、日本乳癌学会の医療者向けの「乳癌診療ガイドライン」も、ネット公開されていますし、「がんサポート」(今回私が見たのはガンマナイフ治療の記事)なんかも、比較的信頼できるサイトだと思ってます。

ネット上の情報を参考にするとき、最初にチェックするのは、「著者は誰か」「発信元はどこか」ってことです。 医療者が書いた記事をより信頼しますが、患者さんの書かれたブログから、有益な情報が得られることも多々あります。そこで見つけたキーワードで、さらに検索して、専門医が書いた記事にたどり着く――というのが、私がしている検索の定石です。

私は、「すべての患者が、乳癌学会が提示するガイドライン通りの標準治療をすべき」とは思っていないのですが、「ガイドラインはすべての患者が共有しておくべきじゃないか」とは考えています。ガイドラインから外れる治療を選択するなら、なおさらガイドラインは踏まえておくべきじゃないかと。

まあでもこれ以上、堅苦しい話をするのも面倒なので、この辺で。

今の私は、そうすぐに容体が急変することもなさそうなので、あまり病気のことばかり考えるのもなあ、かえって不健康かも――という気もするので、病気以外のことにも目を向けたいです。
せっかく残された時間があるんだから、他のやりたいこともやっておきたいですし。

というわけで、次の更新は、できれば病気以外のことを書けたらいいなあ、と思います。






| ●月ノヒカリ● | 病気 | comments(0) | trackbacks(0) |
2016.08.15 Monday 22:46
先月もいろいろ検査をして、もうすぐ病院で結果を聞く予定なのですが、その前に。
久しぶりに、Twitterに投稿してきた短歌をまとめておこうと思います。

半年くらい前に、拍手コメントで、当ブログの短歌エントリを褒めてくださった方がいたのですが、お返事できなくて申し訳ありませんでした。当ブログに掲載した自作短歌および引用させていただいた短歌は、著作権に配慮した上で楽しむ分には、問題ないと思います。
私はまだまだ素人レベルですが、世の中にはもっともっと素晴らしい短歌が溢れるほど存在しますので、どうかこれからも良い短歌と出会われますように。

さて、Twitterに投稿した短歌ですが、癌の再発に関するものなど、病気にまつわる作品は、ここでは省きました。それらはまた後日、別エントリで紹介する予定です。

以下は、ここ一年ちょっとの間に作った短歌です。
幾つかの歌は、解説付きで置いていきますので、ご参考までに。

挨拶も交わさず星を贈り合うのが今日のコミュニケーション

つぶやきが君のアンテナ掠ったら黙って星を光らせなさい

ソーシャルな愛を安売りしたくないぼくらに星を返してほしい

液晶の窓に浮かんだ文字だけの弱い絆がぼくらのすべて
これらはTwitterをテーマにした短歌。
「星」というのは、かつてのTwitterの「お気に入り」の☆印のこと。
昨年11月頃から、ハートマークの「いいね」に変更されました。個人的には、☆(お気に入り)の方が良かったですね。
Twitterでは、一言も会話を交わしたことがなく、「お気に入り」や「いいね」をし合うだけの関係でも、何となく「知り合い」のような気がしてくるから、不思議です。

饒舌な酔いどれ人に囲まれてぬるむ刺身を噛み締めた夜
「飲み会ぼっち短歌」です。ブログ主は酒が飲めない上に、飲み会トークが苦手なので、たまに気の迷いで飲み会に参加すると、こういう残念な状況になります。

三日月の欠けた部分を照らしてる地球の光のぼくらは一部
「地球照」がテーマです。地球照の写真と解説は、この過去エントリに掲載してあります。

目が覚めた後に出かけるあてもなく僕の前には空だけがある
この歌は、空の写真と一緒にTwitterに投稿しました。→写真はこちら

(走れない)地球の重力1Gが1.5Gになる月曜日
これは、外出イベントがあって疲れ果てた翌日、別に動けないわけじゃないけど、走るにはからだが重すぎる、というコンディションを歌にしました。

冥闇(くらやみ)の淵に彫られた傷痕が花になる日を待ち焦がれてる
「薄闇の底に彫られた傷痕が花になる日を待ち焦がれてる」とどっちにしようか迷ったのですが、上記表現にしました。「傷痕が花になる」イメージを表現したかったのですが、はたして伝わってますかどうか……。

ジェット機の銀の腹部が鮫になる 途端にここは海底となる
これは晴天の昼、飛行機を見上げたら、宮沢賢治の「やまなし」を連想したので。あんまり短歌っぽくないので、またそのうち作り替えるかもしれません。

化学室観察日誌普遍的絶望生成過程報告

たましいがしずかに凍りついたあとゆるりと溶けて絶望となる
これは「絶望」がテーマ。
一首目は、かなり無理矢理だけど、すべて漢字表記の短歌にしてみました。

夏の夜の夢と夢とが混線し溶け合って壮大な宇宙史に

受信する夢と夢とのあわいには地球のための小さな祈りを

夢を見ている夢を見ている夢を見ている夢を見ている私
これは「夢」をテーマにした三首。
最後の歌は、「夢を見ている夢」を見ている……という意味です。

この夏はあの子の庭の朝顔になって観察されていました

僕よりも君の方こそアルマジロ珍獣決定戦で勝負だ
Twitterやってると、フォロー外からもジロジロ観察しに来る人がいて、珍獣扱いされて困っているアカウントがこちらです。そんな気持ちを、観察日記ならぬ「観察され短歌」にしてみました。


以下の歌は解説なしで。
Twitter投稿時とは表現を変えた作品、削った作品もありますが、だいたい投稿した順に並べました。

帰るべき巣をつくれない僕たちに夜のひかりはいつもやさしい

ミネルヴァの梟は飛ぶ 息絶えた坑道のカナリヤの墓標へ

この森にさざめく声を掻き寄せて祈りにかえる八月の魔女

楽園を追われたけれど知恵の実を齧ったことは悔いたりしない

スケルトン自動車走る透明な生き物が棲む島をめざして

蒼天を駆ける空色飛行機は世界を青に導くだろう

メロディになりそこなった雨音を拾いあつめて降るラグタイム

悪役になりきれなくてきらきらと緋色の羽根を振り撒くぼくら

ト短調の吐息と寝息だけ乗せて終バスはゆく夜の向こうへ

ピアニシモの吐息でしゃぼん玉を吹くようにやさしい沈黙が在る

帽子から次々跳び出す鳩や花、リボンのように語りあいたい

お喋りな君の指から蝶々が舞い降りてきてこの指とまれ

歩いても歩いても家に帰れない夢から醒めたあとの秒針

人の世の蜜に焦がれた咎ゆえにこの地に生きるわれら流刑囚

空想の裡(うち)に重ねた罪を知りつつ裁かない天日(てんじつ)の眼は

バーゲンセールにされた世界を生きている魂さえも稀釈しながら

倫理学教師が夜毎訪れて花を散らしてゆく裏通り

降りそそぐ龍の涙を掌(て)に受けて沁みゆく爬虫類のにおいに

火星発アラームも犬の呼び声も巻き込んで夏蟲交響曲(なつむしシンフォニー)

アンドロイドの踊り子たちは偽りの楽土の夢を舞いながら散る

蟲や樹の御魂がヒトに輪廻する秘史を忘れて虐殺の庭

木洩れ陽も猫も私も生塵もすべて一つになるeuphoria

ここでは以上です。
病気にまつわる短歌は、また後日、別エントリでまとめる予定です。

例によって、感想などコメントいただけると、ブログ主は泣いて喜びますので、よろしくです♪

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| ●月ノヒカリ● | 短歌 | comments(1) | trackbacks(0) |
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