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チョコレートの季節
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2010.02.08 Monday 22:01チョコレートの季節ですね。
というのは別に、バレンタインとは関係ありません。冬はチョコレートが美味しい季節、というだけのことです。
私はアンサイクロペディアのバレンタインデー撲滅活動に賛同しているので、バレンタインにチョコを贈ったりしません。
そして例のごとく思うのですが、非モテの自虐ネタって傑作を生み出しますね。リンク先の記事も爆笑させていただきました。
そんなわけで、アンサイクロペディアのバレンタイン撲滅に賛同するわたくしといたしましては、チョコの代わりに健康にいいもずくをプレゼントしたいと思います。愛すべきこのブログの読者様に。
といっても、誰ももずくなんてもらっても嬉しくないでしょうから、ブログ主が自分で食べて、贈ったことにします。はい、バレンタイン終了!早っ!
……バレンタインはどうでもいいのです。チョコレートの話です。
チョコ好きとしては、カカオの生産に児童労働が、しかも人身売買で連れたこられた子どもたちが奴隷のように働かされてる、という話を聞くと、苦い気持ちになりますね。
というわけでPeople Treeのフェアトレードチョコの登場です。
フェアトレードについては、以前にも書いたので繰り返さないけど。
でもフェアトレード関係なく、People Treeのチョコってね、マジで美味いから!!
板チョコだけど、普通のチョコとはひと味もふた味も違う。
カカオだけじゃなく、砂糖が違うからだと思うんだよね。「マスコバド糖」っていうフィリピン産の黒糖が使われてるんだけど、この黒糖がね、クセはないけどコクがある。料理に使ってもいい味が出る。
チョコの種類はいろいろあるけど、とりあえずビターとミルクとホワイトクリスピーは食っとけ! ラムもカプチーノもおススメだが。
値段は少々高めだけど、海外有名ブランドのチョコを買うよりもずっと安い。しかもおいしい!(と思う。)
ホントはあんまり教えたくないのよ。だって売り切れたら悲しいから。
やっぱりフェアトレードって、「品質がいいから買う」というのが、そうやって広まっていくのが、一番望ましいカタチではないかな、と思います
「途上国の人のために。貧困の解決のために。」という理念は、正しいと思うし、賛同もします。でも私は、フェアトレード商品だからというだけで、高いモノを買おうとは思わないんですよね。このデフレの時代に。そんな裕福でもないし。「品質がいいから高くても買う」のですね。あくまでも自分の欲望優先です。
「自分の欲望の向かう先が、みんなの幸せにつながっている」というのが理想的だなあ、と私は常々感じています。
「つくる人も売る人も買う人も、みんなが幸せになる」のが理想のはずなんですよね。今の市場経済では、まったく逆の方向へ走っている気がするけど。
システムそのものを変えることは難しいけど、でも「自分もまたシステムを構成している一部である」と気づけば、ほんの少しでもシステムを良い方へ動かす力になれる。実際はそんな単純にはいかないけど、「モノを買う」という日常的な行為の背後にも「世界」があるのだな、と気づかせてくれるのがフェアトレードという運動ではないかと思います。
しかしアンサイクロペディアのサイト、やたら重いな
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人間って不思議。
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2010.02.07 Sunday 21:41久しぶりに「友達と会ってお昼ご飯を一緒に食べる」というイベントがあった。
いや、その人と会うの数年ぶりだし、友達と呼べるどうかも微妙なのだが。
前にも書いたけど、本当に私、友達っていないし、人と話すのが苦手だし、人と会うのが好きではない。だから「友達と会う」って、普通は何でもないことかもしれないけど、私にとっては、これがかなり疲れるイベントなのです。
まあご飯はおいしかったし、彼女も話し上手で会話に困るということもないし、普通なら「楽しいイベント」になるのかもしれないけど。
なんだろうね。この砂を噛み締めるような空虚な感じ。
ああ、こんなこと考えるのは相手に申し訳ないなあ、と思ってしまうので、感情をシャットアウトした状態にしていた。だからよけいに、自分が人形になってしまったような、空虚な感覚を抱いたのかもしれない。
その上、ある程度時間が過ぎると、私、「電池が切れる」んだよね。途中で疲れて無口になってしまう。けど今はまあ、メールがあるから、後でフォローすればいいかなあ、とかね。
そんで周りを見渡せば、カップルとか友達同士で歩いてる人ばかりだったんだけど。
みんな、なんでそんなに、当たり前のように、人と一緒に過ごせるんだろう?
やっぱり普通は、「人と一緒に過ごす」って楽しいことなのだろうか?
私が人と会ったり話したりするのって、「修行」って感じなんだよね。「人生修行」みたいな。
「仕事上の人間関係に耐えるのは当然のこと」と思ってたけど、私は、プライベートでも基本的に、人間関係は「耐えるもの」だった。
数年前までは、「修行」も必要だと思って、必死で耐えてきた。というのは大袈裟かもしれないけど、でも今思えばそんな感じだった。
でも、あるとき臨界点を超えてしまって、「修行はもうゴメンだ!」ってなっちゃって。仏陀は苦行をやめて山を降りたけど、私にとっては「人と会わない」ことが、苦行をやめることだった。苦行からは何も得られなかったから。いや、仏陀と並べて語るのは、あまりといえばあまりに不遜な話かもしれませんが。
それでも、こうして友達に会おうという気持ちになっただけ、自分も前よりは元気になったのかなあ、とは思うんですが。
帰り道、そんなことを考えながら歩いていたら、<あの感覚>がきた。
自分が別の星からやってきた異世界人で、まったく知らない星に降りてきてしまった、という感覚。
「自分はこの世界の住人ではない」という、異物感みたいなもの。
周りを歩いている人たちと、自分との距離が、恒星間の距離くらい隔たっている感じ。
ここで「寂しい」と感じるなら、ありふれた「孤独感」と名づけることもできるんだけど。
でも私は、私が思い浮かべた言葉は、「ヘンなの」だったんだよね。「人間ってヘンなの」っていう。
人間って不思議な生き物だなあ。
いや、この場合、「自分」が不思議な生き物なのかな。
その後ふらりと本屋に寄って、本を立ち読みして過ごした時間が、その日一番の「至福のとき」でした。
やっぱり私、ひとりの時間がいちばん幸せなんだなあ。
もうね、自分が人と関わろうとしたら「修行」になっちゃうっていう、それはもうどうしようもないのかな、という諦念の境地でいます。最近は。
変な日記だな、これ。
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3割でイチロー
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2010.02.04 Thursday 23:45やっぱり書きたいことがうまくまとまらないので、もうすっぱり諦めて、全然違うこと書くことにする。
もう本当にね、ブログ毎日更新してる人とかね、どうしてそんなにスラスラ文章書けるんだろ? 私には真似できないわー。
閑話休題。
私は格言とか箴言の類いが好きだ。
例えば、
「人は太陽と死を直視することができない」 ―――ラ・ロシュフコー
というような言葉ですね。
こういうのって、性格がねじくれた人ほど、面白い言葉を残している気がします。
「テレビはとても勉強になる。誰かがテレビのスイッチを入れるたび、私は別室に行って、ためになる本を読むことにしている。」
―――グルーチョ・マルクス
これは極端な例だけど、いわゆる名言から、ヒントをもらったり、励まされたりすること、たまにあります。
でもやっぱり一番いいのは、自分で格言をつくっちゃうことだと思うんですね。
というわけで、私がふだん自分に言い聞かせている言葉がこれ。
「3割でイチロー」
どういう意味かと言いますと、よく「完璧を求めてはいけない。80点で満足しなさい。」みたいな言葉、聞きませんか?
でもこの80点って、ハードル高すぎるんですよ。ブログ主のようなダメ人間には。
「全方位素人外交・人生60点主義」と言ったのは竹熊健太郎さんだったか、それも面白い一つの生き方ではあると思うんですが、60点でも無理があるんですね。私にとっては。
で、「3割でイチロー」なわけです。
イチローは、打率3割の一流選手なわけですが、3割打者というのは、「10回のうちの6回以上は失敗している」ということなんですね。とご本人がTVでおっしゃってました。
そんなわけで、私は思うんです。
世界的な名選手であるイチローでも3割なんだ。それなら自分は1割でも十分じゃん!って。
自分は変なところで完璧主義だったりします。完璧主義者って、「完璧」を目指してしまうために、かえって身動きとれなくなる、という面があって、それは現実的にも、精神衛生上も、あまりいい結果をもたらさない。要は「失敗してもいい」「うまくいかなくても落ち込まない」っていう、それだけの話なんですけどね。
1割でも進めば十分! 3割なら殿堂入り!
とはいうものの、これって結局、「何をもって100点とするか」というのが問題だったりするんですけど。
数値化できるもの、例えばテストの点数とかお金とかブログのアクセス数(笑)とか、そういうのを目標にすれば、「成果」もわかりやすいんだけどね。
しかし結局のところ、自分が真に求めているのは、「数値化できない部分」なんだよなー。と気づいてしまうと、かえって苦悩が深まったりもしますね。
「成果主義」とかいうものに、イマイチついていけない、トロいダメ人間の言い訳に聞こえるかもしれませんが、実際その通りなんですが、でもやっぱりね。
何か自分が、世の中の波についていけないなーと感じるのは、どうしようもないです。
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久世光彦さんの「ある種族」
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2010.02.01 Monday 23:29あー書きたいことがまとまらないので、久しぶりに「オタク」カテゴリの更新。
私が十代の頃愛読していた、「JUNE」という雑誌がありまして。
そこで活躍していた榊原姿保美さんの作品で、『雪うさぎ』という小説があるんです。この作品自体は、私は特に好きではないのですが、ケイブンシャ文庫版だったかな、その巻末のね、解説を、な、なんと!久世光彦先生がお書きになっているのですよ。
「ある種族」と題されたその解説が、私が以前勝手につくった「オタクの定義」にぴったりの表現で、しかもあまりにも美しい文章なので、ここに最初の方だけ引用しておきます。
私は、ほんの少しだけわかっているつもりだ。この世には、<<幻想>>という、苦みの中に微量の甘味の混じった食物を主食に、<<生活>>とか<<人間関係>>とかいう副食物は、栄養のバランスのため最低限だけ摂取している種族が、たとえばひんやりした地下室や、空気の希薄な屋根裏部屋なんかに、常人よりもいくらか早い呼吸をしながら棲んでいることを―――。たまたま、その種族が街中を急ぎ足で行くのを見かけたりすると、人はこんな風に思ったりする。―――まるで穏やかな目をした草食動物のようだ。でも、どうしてあんなに伏し目がちなんだろう―――。別の人は、もうすっかり亡びてしまったと思っていたのに、青い血が体内に流れていると言われるチェロキー・インディアンが、まだこんなところに残っていたのかと、びっくりして夕闇の中へ消えていくその後ろ姿を見送るかもしれない。私もそんな種族の何人かを知らないではない。けれど彼らは、私が午後のお茶を飲んでいると、いつだって予告もなしに私の前に現れ、話がちょっと途切れたと思ったら、もう私の視界から消えてしまっている。
久世光彦「解説―――ある種族」(榊原姿保美『雪うさぎ』より)
これ読んで私、感激しました。
ひきこもりオタクをこんなに美しく形容してくれてありがとう!みたいな。
でも、でもですよ。実際のひきこもりオタクは、こんなに透明に美しい人種ではないはずだ。
私は断言する。
この種族の90%は、間違いなく汚部屋の住人です。
あとの10%は、気味が悪いくらいに整理整頓された部屋に住んでいるのではなかろうか。
ブログ主はどっちかって? ご想像にお任せします。
ところで、「チェロキー・インディアン」って初めて聞いたので、まあアメリカ先住民ってことはわかりますけど、これがちょこっと調べてみたら、悲しい歴史がありました。
チェロキー族は、金(ゴールドラッシュですね)に目がくらんだ白人に迫害されて、住み慣れた故郷から追い出され、過酷な旅の途中で数千人が死亡したという、悲劇の種族だったのだ。詳しくはこちらを参照。ああああああ。
まるで我が運命を見るようで、涙が止まりませんよ。
やっぱりどうしたって、オタクは迫害されて滅亡する運命なのだ。
でも、それでいい。
私、オタクに対して美意識があるのね。変な美意識だけど。
社会に適応しているオタクなんて、オタクじゃねえ!!
あと、群れるオタクも好きになれない。
オタクは孤高の存在たるべし。
主食は妄想であるべし。
リア充は氏ね。
ああ、せっかくの久世光彦様の美しい文章を、薄汚れた叫びで穢してしまって、ごめんなさいです……。
……末期だな。
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web拍手にレス10
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2010.01.29 Friday 23:12久しぶりに満月を見た気がする。本当は明日が満月なんだけど。
月の光は銀色に澄んでいて、いつまでも眺めていたかったのに、あっという間に雲が覆い隠してしまった。
書きたいことはあるんだけど、うまくまとまらない。
言いたいことはあるんだけど、言葉が出てこない。
アタマの中がもつれて絡まった毛糸玉みたいになってて、解きほぐせない。
……相変わらず私、文章書くの遅いし、下手だなあと、へこんだりいじけたり、クヨクヨした感じで過ごしています。
さて困ったときの拍手レス。
拍手コメントくださった皆様に、感謝を込めてレスしちゃいます。
↓からどうぞ〜。 -
NHKクローズアップ現代「“助けて”と言えない〜共鳴する30代〜」
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2010.01.27 Wednesday 23:29もう一週間前のことだけど、珍しくテレビを見ていて気になったことを、今さらだけど書いておきます。(しかしいつものことだが、本っ当にブログに取り上げるのが遅すぎる、と反省。)
NHKクローズアップ現代 2010年1月21日
「“助けて”と言えない〜共鳴する30代〜」
「助けて」。この言葉が言えず、孤独死した30代の男性を去年10月にクローズアップ現代で取材し、放送した。番組では、生活に困窮し、命に危険を及ぼしかねない状況になっても助けを求めない30代の姿を取材。彼らは、こうした状況になったのは、自己責任だと自らを責め、「助けて」の言葉を拒み続けていた。この放送直後、インターネット上のブログでは書き込みが急増。わずか3日で2000件を超えた。その多くが30代で、驚くことに孤独死は他人事ではないと共感するものがほとんどだ。なかでも30代の女性に、共鳴する声が瞬く間に広がった。一体、いま30代に何が起きているのか?番組では、ブログの声から、静かに広がる「助け」を求められない30代の実像を継続取材した。番組の内容については、「すくらむ」のブログに詳しいです。
1月21日の放送は、昨年10月7日放送のNHKクローズアップ現代「“助けて”と言えない〜いま30代に何が〜」の続編らしいです。
10月7日の番組の書き起こしがこちらのブログにあります。
一部抜粋。入江さん:全部において何が悪いといったら「自分が悪い」しかないんですよね、結局言っている言葉は。何が悪い?うん、自分が悪い。これ以外の言葉はないと思います。
1月21日の放送は、この「自分を責める」というのに「他人事ではない」と共感した30代からの声を紹介したものだった。
これ、私も思い当たるんだよね。「自分を責める」っていうの、私もやってました。以前も書いたけど。
そんで十年くらい続けた結果、「自分を責めてもいいことは一つもない」とわかった。もっと早く気づけよ、って感じですが。自分を責めるのは、まったくもってエネルギーの無駄遣いです。
「自分を責める教」というカルト宗教に洗脳されているようなもので、脱会すればそれだけでかなりものすごく楽になるという、気づいてみれば変な話でした。自分で自分を縛っていたのですね。
湯浅誠さんの言うように、「自己責任論が弱者の中で内面化されている」状態が、まず問題なんだ。
何よりも、「自分を責める」こと自体、ネットでもよく見かける安易な自己責任論に加担することになる。
「自己責任」という言葉が流行りだしたのって、ここ十年くらいのことだと思う。
(話はそれるけど、はてなの「自己責任」の説明、笑いました。はてな匿名ダイアリーの番組への感想は、こことここにあって、これも共感できる内容でした。)
責任というのは、「自分の発言・行動に責任を持つこと」、さらに言えば、「自分の人生に責任を持つこと」、その覚悟をすることでなければならない。
「自分の人生に責任を持つ」ことを自分に課していれば、必要ならば人に助けを求めることもできるはず。社会に矛盾を感じることがあれば、「それはおかしい」と主張することもできるはず。
「助け合い」とか「相互扶助」というものが消え去った世界で、「自己責任」という言葉だけ一人歩きしたらどうなるか? 悲惨である。その悲惨な状況が、現在だ。
不思議なのは、誰も「社会が悪い」とは言わないこと(もちろん例外もあるんですが、少ない)。「社会が悪い」と言うのを禁じられているような感覚がある。なぜだ?
30代と言えば、氷河期を経験した世代で、こちらのブログにあるように、「氷河期は人災」という見方もできるのに。
「個人」に責任がないとは言わない。しかし、人生には「不運」としか言いようがない出来事も確かに存在するし、「自分の力ではどうしようもできない」事態も起こりうるのに。
これは30代だけの問題ではないはずだ。
「自己責任」という言葉は、困っている人を助けようとしない人や社会にとって、便利な道具になってしまった。
「社会の責任を問う」ということは、自分の置かれた状況を「社会のせいにする」のとは違う。
「個人」の主張が、建設的に「社会」の方へ向かうとき、それは「具体的な提案」の形を取るはずなのだ。
「こういうことで困ったから、こんな仕組みがあればいい」という提案。
「自分はこういうことで苦しんできたから、これからの社会はこうあってほしい」という要望。
「希望がない」とか言うな。この社会に希望なんかない。あるわけがない。
だからこそ、「希望」は自分自身が語らなければいけないのですよ。
それならやっぱり、「自分一人で何とかする」のではなく、「皆で一緒に知恵を出し合って、乗り越えていく」方が、ずっとずっと良い方へ向かうと思うのです。
「困っているときに、お互いに助け合える仕組み」をつくること。これは急務です。
今の社会構造は、簡単には変わらない。でも、今すぐできることがある。
「自分を責める」のを止めることだ。
私も 同じ30代として、言いたい。
自分を責めるよりも、建設的な提案を!
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泉谷閑示 『「普通がいい」という病』(5)
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2010.01.24 Sunday 22:58『「普通がいい」という病』では他にも、「愛と欲望」「絶望と執着」「主観と客観」等について、著者独特の―――しかし地下水脈ではしっかりと、古い賢人たちの教えと繋がっている―――解釈に、目を開かされた。
以下、覚え書きとして。
■愛と欲望
「愛」と「欲望」を区別するのは難しい。
とりわけ、親子関係によく見られる「あなたのためよ」という、善意による「愛」には反発しづらい。
「良かれと思って」という善意の陰には、往々にして「感謝されたい」という欲望が隠されていることを、自覚しなければならない。
では「欲望」ではなく、「愛」から行動するには、どうすればいいのか?ですから、「愛」のために私たちに出来る第一歩は、逆説的ですが、まず自分をきちんと満たしてやることなのです。ところが面白いことに、人間は自分を満たしても、必ずいくらかは余るように出来ている。この余った物を使ったときには「愛」の行為になる。
著者は、空海の教えを引用して、欲望を滅却するのではなく、逆に欲望を大きく育てることによって、「愛」が生まれてくる、と説く。(しかし、「愛」からの行為が、相手に喜ばれるかどうかは別、というのが難しいところですね。)
泉谷閑示『「普通がいい」という病』P.153
■絶望と執着
人が「絶望」を口にするとき、本当には絶望していない。それは、「期待しているのに得られない」という「執着」の苦しみに過ぎない。
自分の中に残っている期待をきちんと捨て、「執着」から去ったとき―――つまり真に絶望したとき、人は「自由」になる。
■十牛図―――無限に続く螺旋階段のイメージ
この本で「十牛図」に出会えたことは、私にとってすごく大きな収穫だった。禅の世界に、こんなにも豊かで味わい深い教えがあった、ということを初めて知った。
十牛図の解説はこちらでお手軽に。
十牛図の素晴らしいところは、絵で表されているので、見る者が自由に感じ、解釈できるということだ。
私は、「人間が永遠に成長し続ける存在である」という考え方に疑問を抱いてきた。自分自身を省みても、「変化」はしていても「成長している」とは思えないから。
と同時に、ちょっと話は大きくなるけれども、「人間の社会や歴史が進化し続けている」という考え方にも疑問を感じていた。福田恆存の影響もあるかもしれないけど、自分が大学で歴史学を学んだ者として、そう思ってきた。
でも十牛図を知って、私は「成長」「進化」という言葉に、別のイメージを持つようになった。
私たちは、人間の成長のプロセスといえば、「直線的に階段を上っていく」ようなイメージを抱きがちだ。(著者は「成長」という言葉ではなく、「人間の変化成熟のプロセス」という言葉を使っている。)
それに対して泉谷氏は、人間の変化成熟のプロセスを「螺旋階段を上っていく」イメージで表している。この本の最後に置かれている「十牛図」がまさにそれだ。
私は十牛図のホンモノを見たことがないのでよく知らないのですが、泉谷氏がこの本で、十個の図を円形に配置しているのは、著者独自の発想ではないかと思う。
著者は、この図の「牛」を「本当の自分」として解釈している。
若者が「牛」を探し、見つけ、飼いならす。そこまでは普通に想像できる。
しかし第七図から第九図で描かれるのは、「論理」とか「理性」では語れない、深く豊かな世界だ。「牛」を忘れ、すべてが「空」になり、「あるがまま」になる。
そして第十図で、日常世界に戻ってくる。でもそのとき若者は、布袋さまのような別の姿の老人になっている。
さらにこの図は、円形に配置することで、第十図から第一図に再びつながっている。第十図の老人に出会った若者が、第一図で「牛」を探して旅立つ若者なのだ。その若者はまた、別のストーリーをつくるのだろう。
もし人間に、あるいは社会に「進化」というものがあるとすれば、それは直線的な階段を上るものではなく、無限の螺旋階段を登るようなイメージで捉えてみたらどうだろうか?
「歴史」を平面モデルではなく、立体的な螺旋状のモデルに置き換えてみたら?
螺旋階段のイメージで解釈し直せば、自分の人生も、あるいは人類の歴史というのも、別の姿が現れてくるのではないか。
ということを考えました。
というわけで『「普通がいい」という病』、行き詰まったとき、解決のヒントを示してくれる、奥深い言葉たちに出会える本です。
これでおしまい
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泉谷閑示 『「普通がいい」という病』(4)
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2010.01.23 Saturday 22:59前回の続き。
「マジョリティの歩く大通り」というものは、かつては存在したし、それなりに機能していたと思う。
でも、今でも「大通り」は存在するのだろうか?
今でも世の中の大部分は「会社」を中心に動いている、という意味では、「大通り」はあるように見える。たとえ幻想でも、それに乗っかった方が、楽には違いない。
だってマイノリティの小径は、「死」と隣り合わせの、道なき道なのだから。
誰かが行く先を決めてくれるわけでもなく、自分の行く道が正しいのか、間違っているのかもわからず、この先どうなるかも見えない。そんな場所で、私の指針となり得るのは、「自分が死すべき運命にある」ことに正面から向き合うことだけだった。
「死」について語ることを、忌むべきこととして、退ける人が多いのも事実なのでしょう。でも私は、「自殺」も含めて、自分の「死」について、常に考えざるを得ない。
長く自殺願望を持って生きた人間として、また、癌やその他いくつかの病を経験した者として、私には「死」は避けて通れないテーマだった。
「メメント・モリ」(ラテン語で「死を想え」「死を忘れるな」)は、私が本当の意味で生きるために、常に自分自身に問いかけていることだ。
大勢で徒党を組んで歩いても、究極的には、人はひとりだ。
著者は、「生きていることの意味が分からない」という訴えが、若い人の間に増えているという。この問いは、私にもわからなくもない。
「生きることの意味」を問われて、きちんと答えられる人は、どれほどいるのだろうか。「これが答えです」というお手軽な回答など存在しないし、あっても誰も信用しないだろう。
泉谷氏は、精神科医として、また一人の人間として、この問いを真摯に受け止め、答えている。それについては、ここには書かない。
私個人が考えてきたことを、書いておこうと思う。
究極的には、生きることには、人生には、「意味」なんて存在しないと私は思う。
ただ、自分が今生きていることと、この後必ず、自分は死ぬということ。
これは、動かしようのない現実だ。
死の前に、悔いのない人生だったと思いたい。
死ぬときに、後悔するような生き方はしたくない。
もし私に「人生観」というものがあるとしたら、それに尽きると思う。
泉谷氏もまた、この本で「メメント・モリ」について語っている。
例えばカーレーサーとかスカイダイビング、あるいはリストカットといった自傷行為もまた、著者によれば「メメント・モリ」の儀式なのだという。
今の社会では、「死」があまりにも日常から遠く離れたものになってしまった。もしかしたら、そのこと自体に問題があったではないか?
戦争というのもまた、メメント・モリを行なっているのだと著者は言う。戦争が終わる度に「こんな悲惨なことは今後絶対に止めよう」と必ずみんなが思います。しかし、それでもなぜこれほど戦争の歴史は繰り返されるのか。それは戦場というメメント・モリの場で、人々が生き生きとするという、見落とされた側面がある。死が隣にあるからこそ、自動的に生が輝いてしまう。
精神科医らしい解釈だけど、人間の一面を突いていると思う。
戦争をしかける国では、ほとんどの人が大通りを歩いているものです。そして、ぬるま湯のような生きている実感が乏しい状態の中で、どこかから正義という名の大義名分が登場して、「あの国に侵略されないために、先手を打ってこちらから攻めましょう」というようなことが言われ始める。すると戦争は反対だと考えていたはずの人たちまでもが、自分の奥底で疼きだす何かに突き動かされて「平和のためだ。戦争をなくすための戦争だ」というスローガンに乗っかってしまうことも起こってくる。それが戦争なのだろうと思います。
『「普通がいい」という病』P.221
その上で「平和の実現」についても、著者独特の、一風変わった意見が述べられている。ですから、本当の平和とはどうしたら実現するのかと考えてみると、みんなが一人一人の小径を歩くマイノリティになることしかないのではないか。小径では、一人一人が生きること自体がメメント・モリになっているわけで、そうなれば国民の大多数が一つのイデオロギーやムードに支配され流されることは起こらない。それぞれ、自分が生きているということ自体、明日死ぬかもしれないという自覚と緊迫感があるわけですから、誰もわざわざ戦争をしようとは思わなくなることでしょう。
同書 P.221
人間は、生まれたときから、「死」を内包した存在だ。
「死を想う」ことは、よりよく「今を生きる」ことにつながる。
私が「自殺」について語るのも、スティーブ・ジョブズのスピーチではないけど、自分がいつも「死」を念頭において、自分がそう遠くない未来に死すべき運命を負った人間として、生きているからだ。
そういう生き方は、そんなに悪くない。「自分が本当にやりたいこと」の優先順位が、見えてくるから。
歌人・斎藤史の代表作に、次のような歌がある。
「死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれないゐの生ならずやも」
「死」を意識せずに生きていける人は、きっと恵まれた環境にいるのでしょう。それが「幸せ」なのかどうかはわからないけど。
私はこの十数年、本当に病気ばっかりでしたが、そのおかげで「退屈」とは無縁の人生でした。
死の側から見れば、どんな生もすべて皆、紅く輝くものだということ。
「死」を内包する人間として、それを忘れずにいれば、どんな人生あっても、たとえ他者から見て「恵まれない」境遇であっても、自分の生を自分自身の力で輝かせることは可能だということ。
そのためには、それぞれが、自分一人の道を切り開くこと。自覚を持って、自分一人の小径を進んでいくこと。それしかないのだと思う。
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泉谷閑示 『「普通がいい」という病』(3)
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2010.01.22 Friday 22:36泉谷閑示の『「普通がいい」という病』 について、続き。
「普通がいい」という人(私も含めて)には、「普通はいいことだ」「普通は幸せなことだ」という価値観が背後にある。
この場合の「普通」という言葉は、「多数派」とか「社会に適応している」ということと、密接に関係している。
「社会に適応」というときの「社会」とは、往々にして「会社」とイコールだったりするのだけど。
社会への「適応/不適応」の問題は、「マジョリティ/マイノリティ」の問題と言い換えることができる。
著者は、大通りを歩く人たちをマジョリティ、大通りから外れた小径を歩く人をマイノリティ、と呼んでいる。
マジョリティの大通りを歩くことの最大のメリットは、安心感だ。「みんなと同じ道を歩く」のは、そのことに疑問を感じなければ、とても楽な道だ。自分でいちいち行き先を考えたり、悩んだりしなくても済むから。
しかしマイノリティの小径を歩くのは「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」(高村光太郎)という、まさに道なき道を進む、ある意味キツイ生き方だ。
最初から自分でマイノリティの小径を進む、と決めて進んできた人は、まだいい。
でも、大通りを歩いているつもりが、いつのまにか小径に迷い込んでしまった、というタイプの人が著者のもとに訪れることになるという。
私も、大通りを歩いているつもりが、いつのまにか小径に外れてしまった人間です。
大通りを歩くことは、私には過酷すぎた。だから、しかたなく小径を歩くことになったのですが。私のような、とりたてて特技もない半病人が(だからこそか?)、道なき道を歩かなければならないなんて、大変な時代になったもんだ、と思う。
それでも私は、「大通りを歩く方が正しい」と、ずっと心のどこかでそう思ってた。
しかし泉谷氏は、「大通りに戻ることが解決ではない」という。マジョリティの大通りは、不自然で窮屈な道です。人間はそれぞれユニークな存在なのですから、本来一万人いたら一万通りの道なき道があるはずです。にもかかわらず、大勢の人が通る大通りというものがあること自体、とても不自然なことです。
大通りを歩くということは、いろんなことを諦めたり、感じないように麻痺していたり、すなわち去勢された状態で歩いているということです。そうでもなければ、苦痛で歩けたものではありません。
『「普通がいい」という病』P.212
「大通り」というのは、「一億総中流」と言われた時代には、確かに存在したと思う。「サラリーマン」とか「OL」とか「マイホーム」とか「幸せ家族」とか、そういう言葉にまつわりつくもの。
でもそれは、幻想ではなかったか?
マイノリティの小径を歩くのは、地図もなく、前例もなく、お手本となる人もいない。常に危険と隣り合わせの険しい道だ。
「明日どうなるかわからない」という、危機感と背中合わせの道。
しかし、本来の人生って、そういうものではないのか?
今日と同じ明日が永遠に続くなんて、そんなことあるはずがないのに。
大通りが「安全」だなんて、幻想に過ぎない。
少なくとも私には、大通りは生きづらい、というよりもそこではとても生きていけないような苦しい場所だった。
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泉谷閑示 『「普通がいい」という病』(2)
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2010.01.21 Thursday 22:05前回の続き。
著者はこの本の中で、世間一般で「常識」とされている価値観を、徹底的に洗い直す作業を始める。
『「普通がいい」という病』というタイトル通り、著者はまず、「普通」という言葉を批判する。
著者が精神科医として出会ったクライアントには、「普通になりたい」と言う人がとても多いという。
私も、ずっと普通の人が羨ましいと思ってました
私にとって、「普通の人」ってどういう人かと考えると……「健康な人」のことだな。「健康」なら、それだけで幸せだし、喜んでいいことだと思うんですが、「失って初めて価値がわかる」ものなんでしょうね。健康って。
しかし著者は、幸せというものには「普通」はない、「普通」ではないのが幸せの本質だ、という。
それは、そうかもしれない。
私が「健康であるならそれだけで幸せだ」と思うのは、自分が病気を体験したからであって、病気を体験しなければ、そんなこと考えもしなかったでしょう。
私が「健康」というのは、身体的な病気も含めてのことだけど、この本で扱っているのは心の問題なので、ここでは精神的な病気についてのみ語ることにする。
著者は、「病気が治る」ということについて、ちょっと面白い、独特の見解を述べる。
患者は、「治ったら悩みもなくなって、楽になるはず」と考えがちだ。
しかし実際は、「あるべき悩みを悩むようになる」ことこそが「治る」ということだ、と著者は言う。
これは、目から鱗でした。
確かに、病気が「治る」ということは、「元通りになる」ということではない。実際には、人間は日々変化しているものなのだから、「元通り=以前と変わらない自分」になる、ということはあり得ない。
「病的な安定」から「健康な不安定」の方にもっていく作業をすること。「安心して悩める」状態になること。
それが治療である、と泉谷氏は述べている。
で、実際のところ、こういう援助をしてくれる精神科医には、私はお目にかかったことがありません。著者の泉谷氏のクリニックだって、自費診療で、経済的に裕福な人しか行けないような所です。
現実の精神医療の場では、患者に対して、対症療法としての「投薬」しか行なわれていないのが現状です。
本当に「治る」ために必要な部分は、患者自身が自助努力するしかない。
いや、私自身は、自分が癌も含めて数種類の病気を体験してみて、「病気を治すのは医師ではない。自分自身だ」という考えを持っているので、それはそれでいいのです。
もちろん外科手術などは、専門医の技術が必要だし、投薬も必要でしょう。
でも、精神疾患の場合は、その人の置かれた環境や、成育過程や、ものの考え方が、病気の原因と密接に関わっていることが多いわけで。
その複雑な状況をすべて「ないこと」にして、「病名」をつけて、「投薬」を行なうのみの精神医療に、どれほどの価値があるのか?
もっと深いレベルのアプローチが、本来は必要ではないのか?
「認知療法」なんかは、海外でも治療実績が認められているらしいですが、日本でこれを取り入れている医療機関はほとんど存在せず、患者が本などを読んで自力で実践しているのが現状です。
私個人について言うなら、自分がここまで立ち直ることができたのは、ここ数年ヨガを続けてきたことが大きいと思う。この本で著者が繰り返し主張している「頭ではなく、身体の訴えを聞くこと」は、ヨガの教えとも一致する。
精神科医に、精神疾患は治せません。
いや、薬で治る人もいるのかもしれないけど、本当の意味で「治る」としたら、それは薬の力ではないはずだ。
「心」や「不適応」の問題を、精神科医に「丸投げ」し、社会に適応できない・していない人を「病気」として扱い、薬を与えて「治した」ことにしている。それが今の精神医療であり、今の社会の現実です。
これは、私自身が、精神科にもう何年も通院してきた患者として実感してきたことです。
『「普通がいい」という病』については、もう少し書きます。
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