2019.06.10 Monday 13:21
いつもの告知ですが、noteはてなの短歌ブログに、自作短歌を公開しています。

【短歌】二重春時間 へのリンク

【連作短歌】言葉を殺す へのリンク

【連作短歌】夢の消息 へのリンク

【連作短歌】芒果色の日曜日 へのリンク

【短歌】午後の教室 へのリンク

【短歌】水の季節 へのリンク


個人的には、「夢の消息」の連作が、いちばん気に入ってます。でもこれも、原型は2、3年前にできていて、ちょこっと手を加えて公開したものですが。

一昨年の夏に作った短歌も、そろそろ公開してもいい時期かな、と思っているので、次の公開はそれになるかも。やっぱり、夏の短歌を冬や春に公開するのは、ちょっと季節感がねー、気になります。


病状報告も、書こう書こうと思いつつ、何をどこまで書くかが難しくて、なかなかUPできません。が、これも近いうちに書こうと思っています(あくまでも予定)。

とりあえず、今回はこれで。






| ●月ノヒカリ● | 短歌 | comments(8) | trackbacks(0) |
2019.04.27 Saturday 13:02
身体性の宿る言葉、というものについて考えてみる。

何年か前の話だが、「ネット(特にツイッター)の言動は、身体に影響を与えることはない(だからネットは安全圏)」という意味のことを語る人がいた。その人は、いわゆる「知的」な人だった。

それを読んで、私はびっくりしたんだよね。
私は、ネット上の言葉であれ、とんでもなく酷い言葉をぶつけられたとき、お腹のあたりに、ぐわっと痛みのようなものが走る。あるいは実際に、吐き気に苛まれる。もっと深刻な症状に悩まされたこともある。

本を読むことは、こころに働きかけることはあるけど、身体に働きかけられるものはあまりない。
でも、ネットの言葉は、私にとっては、現実の身体に迫ってくるものとして存在していた。
ネットは私にとって、ちっとも「安全圏」なんかじゃなかった。

上記の「知的」な人の発言を見て、「身体性を伴わずに言葉を発する人は、どうやら少なからず存在するらしい」と知った。
身体を伴わず、頭の中だけで言葉を処理する、脳内だけで「概念操作」をしている人たち。

実は、その方が効率がいいのだ。
身体を伴わなければ、言葉はどこまでも遠くまで行ける。しかも速い。

どうも私は、その手の言葉に好感を持てない。
のろくても、愚直に身体性を通した言葉を地道に語る方が、性に合っているらしい。

だから私の短歌も、自分の体験を通過して、その上でつくられたものが多い。初期の作品ほど、その傾向がある(体験を通過したからといって、「事実そのものをそのまま記述している」のとは、距離があるわけだが)。

もちろん初期の作品にも、「想像でつくった歌」はある。
でも、想像で書かれたものが、まったく身体を経由していないかというと、そうでもない。
異世界ファンタジーの中であっても、例えば、「美味しそうな食べ物の描写」なんかは、書き手が現実に食べ物を「おいしい」と体感した経験がなければ、リアリティのある描写にはならないのではないか。

ちょっと話はそれるけど、栗本薫は、グインサーガの中でしばしば「とてつもなく美味しそうな食べ物」を登場させたものだった。
けれども彼女の最晩年のグインサーガにおいては、「おいしそうな食べ物」は登場しなかったと記憶している。おそらく彼女が患っていた癌の進行によって、現実に「食べられなくなった、食べ物をおいしいと感じなくなった」ことによるのではないか。もちろんこれは、憶測に過ぎないけれども。

体験が先行して、その後、言葉によって作品がつくられる。それがもともとの私のやり方だった。
しかし一方で、短歌の世界には、体験よりも、言葉が先にあって、言葉をパズルのように配置することによって歌をつくる人もいると知って、それは新鮮な驚きだった。
言葉の美しさ、言葉による驚きだけをどこまでも突き詰めた作品。確かにそれは、美しい。

そういう作り方もあると知ってから、実際に自分でも、実体験を経ない、言葉先行の短歌をつくってみたりした。
私の短歌作品のうち、どの歌が実体験を経ていて、どの歌が言葉先行でつくられたものか、見抜ける人はいるのだろうか。
たぶん、いない。あるいは、一人か二人、いるかどうか。

だから私は、野暮を承知の上で、幾つかの作品の自作解説なんてことをして、「どこまで自分の実体験か」を明かしてきた。

もちろん、自分の実体験であれ、短歌作品であれ、本人だからといってすべてを「解説」できるわけではない。むしろ解説できない、膨大な部分が手付かずのまま残されている。それは承知の上で、こう書いているんだけど。

でもじゃあ、「体験先行の歌」と「言葉先行の歌」の違いを誰も見抜けないなら、ぜんぶ嘘でもよくない?
ぶっちゃけ、AIが自動生成した短歌が美しければ、それでもいいんじゃない?

私は、古い人間なのかもしれないけど、それについては否と言いたい。
ネットと同じで、短歌だって、その言葉の背後に、人間の身体、息づかいが感じられるから、こころが動くのではないか。

じゃあ言葉先行の作品は意味がないかというと、そう単純な話でもない。
体験を言語化して作品にするのとは、逆方向の力もあるのだ。
つまり、言葉を使って作品を仕上げた後で、その言葉自身が、預言のように、実体験として迫ってくる、と言うパターン。
言葉が呪力をもつごとく、後になって自分自身に降りかかってくるという体験。

こう書くと、オカルト的に聞こえるだろうか。
でもそれもまた、私の「体験」だ。

言葉は怖い。
だから結局のところ、私は(私たちは、と書きかけて、「私は」と言い換える)、自分の身体で引き受けられるだけの言葉しか、発することはできないのだと思う。

身体を通した言葉だけが、その息づかいまでも残すことができる。
言葉とは、そういうものではないだろうか。






| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(6) | trackbacks(0) |
2019.04.14 Sunday 14:57
桜もそろそろおしまいですね。

せっかくだから、今年撮った桜の写真を載せておきます。すべて近所を歩いていて撮った写真です。

まずは河津桜。 河津桜

染井吉野。 染井吉野

枝垂れ桜。 枝垂れ桜

八重桜。 八重桜

開花した順番に載せました。
近所を歩くだけでも、いろんな種類の桜を見られるものですね。

来年も桜を、蕾も開花も満開も散っていく様も、見ることができますように。






| ●月ノヒカリ● | 日記・雑感 | comments(2) | trackbacks(0) |
2019.03.25 Monday 12:50
ここしばらく、ブログの更新は滞っていますが、note短歌ブログでは週1ペースで短歌の公開をしていました。
公開した5つの連作は、自分の中では「サイバースペース5部作」と呼んでいます。

■【連作短歌】交換/交感/交歓 へのリンク

■【連作短歌】cyberspace 2017→2016 へのリンク

■【連作短歌】神の箱庭 へのリンク

■【連作短歌】月のマイルストーン へのリンク

■【連作短歌】惑星システム21 へのリンク


この5連作ができたのは、一昨年です。一部の短歌は、2016年にツイッターで発表したものですが、ここで連作に使いました。

この連作を公開するまでの2年間、細かいところを手直ししたり、歌を入れ替えたりもしましたが、原型は一昨年にできていました(実はUPしてから気づくこともあり、公開後にもちょこちょこと細かいところを変更したりしていたんですが)。

「サイバースペース5部作」と言いつつ、あんまりサイバースペースとは関係なさそうな歌も入っていますが……しかし、リアル社会も無意識の世界も、サイバースペースとリンクしているはずなので、まあいいかな、と。

誰だったか名前は忘れちゃったけど、創作家の方が、「どんなに苦しくても、作品をつくっていれば生きていける」という意味のことをおっしゃっていて。
私にとってこのシリーズは、そういうものだったかもしれない。

この連作が発表できないのはかなりのストレスだったので、こうやって公開できてよかったです。
とにかく、ここまで生き延びることができてよかった。

まだあといくつか、「これは公開しておきたい」という歌が残っているので、もうしばらくお付き合いいただければ幸いです。






| ●月ノヒカリ● | 短歌 | comments(8) | trackbacks(0) |
2019.02.27 Wednesday 22:30
年明けからずっと短歌の発表ばかりだったから、たまには普通のブログ記事も書いてみようと思う。

ここ10年くらいで自分が変わったことといえば、「怒り」という感情を受け入れられるようになったこと、かもしれない。

私は、もともと感情を出すのが苦手だった。幼児期は別として、小学校の頃からずっと、人前で泣いたことはない。ずっと自分の感情を抑圧してきた。
「感情をあらわにしない」というのは、日本人にとっては美徳の一つだったように思う。いまはそういう美徳は、もう古いのかもしれないけど。
でも、抑圧された感情は、澱のように溜まっていって、なかなか成仏してはくれないのだ。
だから、感情は適切に表出されなければならない、ということは、わりと前から気づいてはいた。

喜怒哀楽の中でも、特に「怒り」は苦手だった。
自分が怒りをあらわにすることも苦手だったし、「いつも怒っているようにみえる人」はちょっと怖かった。
でも徐々に、「怒り」という感情も、大事な役割を果たしているんだ、と納得できるようになった。

初期仏教の本なんか読んでいると、いつも穏やかな気持ちでいなければいけない、と思い込んでしまうんだけど……あのティク・ナット・ハンでさえ、「相手に危害を加えられた場合でも、怒ってはいけないのか」という質問に対して、「そういうときはガツンと言ったほうがいい」と回答していたからね。
ちなみに、ティク・ナット・ハンはベトナム出身の僧侶で、ベトナム戦争のとき、爆撃で殺された死体を担ぎながら、それを瞑想の修行とした人ね。

何年か前に、「非暴力」の政治活動をしていた人たち(キング牧師とかガンジーとか)について書かれた本を読んだんだけど、彼らは決して「穏やかで、波風が立たない状態」を選んだ人たちではなかった。物理的な暴力は使わないけど、直接の抗議はきっちりしていて、むしろ緊張状態をつくりだした人たちだった。

「怒り」について、もう一つ思い出したこと。
このブログでも何度か取り上げた泉谷閑示の『「普通」がいいという病』に、こう書いてあった。
深いところにある感情、本人も意識していないような井戸に沈んでいる感情を表に出そうとするとき、必ず「怒」→「哀」→「喜」→「楽」の順番に出てくる、というのが、氏の臨床経験から導き出された所見だなのだと。

つまり、一番に「怒」というネガティブな感情を出さないことには、次の「哀」もでてこないし、「喜」や「楽」といったポジティブな感情は、さらにその後からしか出てこないのだという。

怒りを適切に表出するのは、大事なことだ。特に、自分が危害を加えられたときには、はっきりNOと言うために、ときに怒ることも必要だ。
しかし、難しい課題ではある。

怒りをあらわにしている人を見て、「怒りの矛先が間違ってるな」と感じることがある。
自分が何に対して怒っているのか、ちゃんと理解していないのかもしれない(私自身もこういう間違いをすることはあると思う)。

一方で、表ではまったく怒らず「丸く収めよう」とする人が、裏では陰湿な陰口や差別を愉しむ人だった例も知っている。「礼儀正しく柔和な差別者」も存在するのだ。

自分の感情を大切に、丁寧に扱うこと。
次に、適切に怒りを表現すること。

怒りは悪い感情ではない。時に、自分を前進させてくれる、大事な感情の一つだ。
まずは、それを受け入れることから始めたい。


ちなみに、短歌の解説については、もう気が済んだというか、解説なしでもいいかなと思うので、これで一区切りとします。
未公開作品の発表は、noteはてなの短歌ブログで、今後も公開していくつもりです。よかったら、たまに短歌のサイトも覗いてもらえると嬉しいです。






| ●月ノヒカリ● | 非コミュ | comments(2) | trackbacks(0) |
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