2020.03.12 Thursday 22:35
がんの治療のための通院と、近所での買い物や散歩以外、どこへも出かけられない日が続いています。
先月末から、あれよあれよという間に、各種イベントは中止になり、図書館を含む施設が次々と閉鎖されました。
私、「自分の体調の悪化」以外の理由で、ヨガに通えなくなる日が来るなんて、思ってもみませんでした……。

がんの治療で通っている病院の主治医にも、「不要不急の外出はしないように」と言われてしまいまいました。ヨガ教室もダメだそうです。
確かに、スポーツジムでコロナウイルスの集団感染が起きた例もありますからねー。

この状況、いつまで続くのでしょうか。
早く落ち着く日が来てほしい。

「不要不急の外出を控えなければいけない時期」が長期化すると、下手したら私、病院と近所以外へはどこへも出かけられず、誰とも会えないまま、一生を終えることになったりして……まさか。まさかね。

まあ、読みたい本はたまってるし、家にいても退屈することはないのですが、それにしても。
映画も観に行けない(これはまあいい)、美術館にも行けない(これはちょっとショック)、ヨガにも通えない(体がなまりそう)、カフェでおしゃべりとかもできない(かなりショック)、公共交通機関を使うのもビクビクしながら——これが長期化するとなると、かなりのストレスです。

私のストレスなんて、この騒動で仕事を失ったり、収入が減って生活を維持できない、という人たちの深刻さに比べれば、大した問題ではないです。
そうは思うものの、残り少ないかもしれない人生の最後の時間を、どこへも行かず、誰にも会わずに過ごすのか? と考えると、切ないものがありますね。

学校も各種施設もイベントも、どこかの時点で再開されるのでしょう。私も、以前のように気軽に出かけられる日が戻ってきてほしいです。ですが、新型コロナウイルス感染のリスクがある中で、リスクを取ってでも出かけていいものか? と考えると——悩みますね。

もし私が、新型コロナウイルスに感染したら、どうなるんだろう?
抗がん剤治療中のため、通常よりも重症化のリスクが高いとは言われています。
それだけではなく、感染がわかった時点で、抗がん剤治療は中止になる、のかなあ。そうなったら、いつまで保つのか……。

あと、もし感染して、気づかないまま今の病院に抗がん剤治療のために通院したら——病院にいる患者さんや医療従事者をウイルスに晒してしまうことになるかもしれない。
そう考えると、やっぱり「リスクを取る」のは、難しいな、と感じます。

それから、いま入院したら、面会禁止なんだそうです。だから、緩和ケア病棟に入院している患者さんが、人生の最後になるかもしれない時間に、家族と会うのもままならないという……。

もう本当に、重症者はできるだけ少なく、経済的なダメージも最小限で、なるべく早く終息してくれるように祈るばかりです。

こうも状況が変わってしまうと、以前考えていたようなテーマでブログエントリを書くのは、難しくなりました。 一方で、「もうやめるかも」と言っていた短歌は、新しい連作を作って、こそっとnoteで公開しています。

非日常の事態がやって来ると、何気ない日常というのは、本当に奇跡のような時間だったんだな、と改めて思い知らされます。

これからどうなるかわかりませんが、手洗いを忘れず、休めるときは休んで、体力を維持しながら、できることをやっていきましょうね。

あなたも私も、一日でも早く、奇跡のような日常を取り戻せますように。






| ●月ノヒカリ● | 日記・雑感 | comments(2) | - |
2020.02.27 Thursday 18:39
新型コロナウイルスで騒がれている時に、こんなテーマのブログ記事をUPするのはどうなのかな、とも思ったのですが……コロナ騒動が収束するよりも、自分の命が尽きる方が早い可能性もあるわけで。
この小文も、公開しないままこの世を去るとなると、心残りになりそうなので、時期が時期ではありますが、公開することにします。

   *   *   *   *   *   *   *

この記事を書くにあたって、最初は、タイトルを「死の自己決定権はあるのか?」にするつもりだった。ただ、調べてみると、「自己決定権」という語は、「国家や社会に対する、個人の権利」という含意があるようだ。
「安楽死」や「医師による自殺幇助」を望むなら、社会や国家に対してその必要性を訴えなればならないのだから、「権利」という視点も必要ではある。けれども、ここで私は、安楽死を念頭に置きつつも、もっと広い意味で、「死」について、とりわけ「私の死」について考えてみたかったので、このタイトルにした。


私の死は、誰のものか?
私の命は、私だけのものなのだろうか?
これについて、3つの立場を仮定してみた。
一つずつ説明してみる。

(1)「私の死」は完全に私個人のもの、という立場

自分の死の決定権は、自分だけにある。
自分の命の終え方は、自分で決めていい。
こういう考え方を持つ人は、今の日本には多いのだろうか。それとも少ないのだろうか。 おそらくそんなに多くはないと思う。
「私の死に方は、私が決めていい」という考え方が根底にあって初めて、「積極的安楽死」や「医師による自殺幇助」が制度化される土壌となる。それがいいか悪いかは別として。
そして、この考え方を突き詰めていくと、自殺の容認につながる。

私自身は、安楽死もありだと考えているのと同じように、人生の最後を自殺で終えるという選択もありだと思っている。ただ、できれば自殺は避けたい/避けてほしい選択肢ではある。
そして、「私の命の決定権」は、私に属するものであってほしい、という思いはあるものの、どうもそうとは言い切れないのではないか、という疑問も湧いてくる。
そこで、次の立場が出てくる。


(2)「私の死」は私だけではなく、私を取り巻く家族や近しい人たちのものでもある、という立場

私という人間は、独立して存在するわけではない。家族や友人や周囲の人々との関係のなかで、成り立っているものだ。そうであるから、私の命の終え方は、私の一存で決めていいことではない。家族を含む周囲の人々の意向も、考慮されなければならない。

これは、どうだろうか。
「周囲から独立した存在で、自己決定できる個人」という概念は、近代の虚構に過ぎない。私という人間は、周囲の人々との関係性の中で、常に揺れながら生じる存在なのだ。こういった人間観の転換が、今世紀に入ってさらに進んだように見える。

自分の実感としても、自分の死を、自分だけで決定するとは考えにくい。やはり、家族の意向は聞くことになると思う。そして、もし自分が安楽死を望むとしたら、家族の存在はストッパーとして働くのではないか。

ただ、そこで再び疑問が湧いてくる。
自分の死について相談できるくらいの近しい家族や友人がいない人については、どうなるのだろう?
「無縁社会」は、10年前の新語だが、今も状況は変わっていない。親密な人間関係を持たない人にとっては、この(2)の立場は存在しないことになる。その場合、彼らは、自動的に(1)の立場——「私の死」は完全に私個人のもの——に立たされてしまうことになるのではないか。すると、もし安楽死が制度化された場合、「生きていてほしい」と願う家族がいる人よりも、家族などの近しい人間関係を持たない人が、より安楽死に追いやられやすい社会になることを意味するのではないか。

これは、私には容認しがたい。
私自身、「無縁社会」も「孤独死」も他人事ではなく、いずれ自分もその立場になるであろう、という心積もりはずっと持ち続けていた。
「私の死は私個人のものである」と言い切れない人、けれども、自分の死を分かち合えるような親密な関係を持たない人には、「私の死」について、別の考え方が必要になるのではないか。
そこで3つ目の立場が登場する。


(3)「私の死」は、人間を超えたもっと大きな存在に属するものだ、という立場

キリスト教や、仏教、その他の宗教において、「人間を超える存在」を前提とすることは、珍しくないだろう。
ただ、特定の宗教を信じていなくても、例えば「お天道様に恥ずかしくない生き方を」という時の「お天道様」に相当するものを、信じている人はいるのではなかろうか。私自身がそうで、特定の宗教の信者ではないけれども、人間を超えたより大きな存在への信仰はもっている。

この立場に立つと、自分の死に対する選択権は、自分にはないことになる。
私の死は、私が決めていいことではないし、決められることでもない。
ただ、自分より大きな存在(それを神と呼ぶ人もいるだろうし、運命と呼ぶ人もいるだろう)に従うだけだ。

科学的・合理的思考が求められる場所においては、このような信仰は「ないこと」にされている。 私もこういう考えを、表に出すことはほとんどない。
けれども、こういった感覚は、古代から人間社会に脈々として受け継がれてきたものだ。

死は、人間の、個人の思惑を超えたところにある、ということ。
特定の宗教の信者であるか否かに関わらず、こういう信仰を持つ人はいるし、持たない人もいる。

ただ、この立場を取れば、すべてが解決する、というものでもない。
はっきり言えば、「人間を超えた大いなる存在」に従って生きるということは、古代人として生きるようなものだ。けれども人は、そういった桎梏から解放され、己の運命を己で切り開くために、「個人」という存在を打ち立てたのではなかったか。

ここで、再び(1)の立場に戻ることになる。
「人間を超えたより大きな存在」が何と言おうと、苦痛を感じているのは、この私である。だから、この苦痛を止めるために、自ら死を選んで何が悪いのか。私の命は、私個人のものだ——そう主張したくなる自分がムクムクと湧いてくる。


ここまでに述べた(1)(2)(3)の立場は、すべて私の中に存在する。それぞれ矛盾を孕みながらも、私の内部に並存している。あるいはもしかしたら、私が気づいていない「第4の立場」もあるのかもしれないが。

私はここで、ただ一つの立場を選ぶことはできない。
それらのどの立場からの声も、耳を傾けていたい、と願うだけだ。

こういった問題をもっと詳細に論じている学問分野は、私が知らないだけで、きっとあるのだろう。
ただ、私は素人だけれども、死に向き合うのに素人も玄人もない、とも思っている。
というわけで、これについて何か思うことがあれば、素人意見でも玄人意見でも構わないので、コメントいただければ幸いである。






| ●月ノヒカリ● | 生と死を考える | comments(6) | - |
2020.02.17 Monday 23:24
新型コロナウイルスの感染拡大が、現実味を帯びてきました。
抗がん剤治療中なので、もし感染したら、自分は重症化するリスクが高いのではないか、とハラハラしています。
ですが、通常の感染対策以外に、特に自分にできることはなさそうなので、このブログでは、予定通りの記事をUPすることにします。

   *   *   *   *   *

最近、「人生会議」という言葉を目にする機会が増えてきた。
昨年、厚生労働省による「人生会議」PRポスターが、がんの患者団体から批判され、ニュースになったのを見た人もいるかもしれない。
私も闘病中のがん患者だけど、あのポスターに対して、特に不快感はなかった。
一方で、あのポスターの表現が不用意に刺さる患者さんやご遺族もいるわけで、これは扱うのが難しいデリケートな問題なんだな、と改めて考えさせられた。

「人生会議」は、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の普及を進めるためにつけられた愛称だ。
アドバンス・ケア・プランニングとは、人生の最終段階に受けたい(あるいは受けたくない)医療・ケアについて、患者、家族、医療従事者が話し合い、患者の価値観を確認し、目標を共有すること。

私はこれ、まだ経験したことがない。家族と話したことはあるけれども、医療従事者を交えて話し合ったことはない。
病状がもっと進んで、抗がん剤治療ができなくなるか、治療をやり尽くした時点で、医療者と家族を交えてのアドバンス・ケア・プランニングが行われるのかもしれない。

ただ、「人生会議」が厚労省によってアピールされているのは、「もしものとき」に備えて、「事前に(元気なうちに)」終末期の医療について考えて、家族で話し合っておいてほしい、という意図があってのことだろう。

自分の意識がはっきりしているときは、受けたい医療について、自分で決めればいい。
けれども、事故で意識不明になったり、そうでなくても終末期には、患者本人が意思表示できないこともある。 そうなったときのために、元気なうちに、「終末期に、どういう医療を受けたい(あるいは受けたくない)か?」を家族に伝えておいてほしい。
そういうことだと思う。

で、いったい、何を考えて、話し合えばいいんだろう?

がんの遠隔転移がわかってから、終末期医療についての講演に行ったり、がん相談支援の場で質問してみたものの、私は「人生会議」について、まだ漠然としたイメージしかもっていない。

自分が意思表示できなくなったときに備えて、受けたい/受けたくない医療について、元気なうちに文書で表したものを「リビングウィル」と呼ぶ。私も日本尊厳死協会の会員になって、書式に従ったものを用意してある。
日本尊厳死協会のサイトにも掲載されているけれども、「死期を引き延ばすためだけの延命措置はしないでください」「苦痛を和らげるための医療は行ってください」といった内容だ。

しかし実は、私はまだ、「死期が迫ったとき」の自分の状態について、リアルに想像できない。リビングウィルを用意しておきながら、こんなことを言うのも困ったものだと思うけれども。

いろいろ話を聞くと、どうやら「人工呼吸器」と「胃ろう」について、まず話題にされることが多いみたいだ。
自力で呼吸が困難になったとき、人工呼吸器をつけるのか?
自力で食事が困難になったときに、胃ろうを造設するか?

ただ、これも看護師さんに聞いたところ、「人工呼吸器や胃ろうをつけて、数ヶ月単位で延命できる場合は、意味がある。けれども、がんの場合は、それらをつけても数日延命できるだけのことが多く、医師もあまりお勧めはしないと思う」とのことだった。

今の私の希望としては、「苦痛はできる限り取り除いてほしい。一方で、延命治療は望まない」が基本方針だけど、単純にこれだけでは判断できないケースもあるらしい。
例えば、肺炎で苦しいとき、管を通したら苦痛が和らぐ可能性がある場合。でも、いったん通した管を外すのは、簡単ではない。さあどうするか?
自分の頭がはっきりしていて、自分で意思表示できればいいんだけど、そうではない場合、家族が判断することになる。家族が判断を迫られた場合、「本人なら、どう考えるだろう?」という判断材料となることを、普段から家族で話し合って、共有しておいてほしい。
——と、いうのが、「人生会議」の意図のようです。

ここで私は、「おそらくがんで死ぬ、自分の最期」を想定しているけど、家族の看取りが必要になったときにも、考えておかなければならない問題ではある。
あるいは病気に限らず、事故や何かで、いきなり選択を迫られることもあるかもしれないから、今からでも考えておく価値があるだろう。

とは言うものの、まだ元気なときに、終末期医療について考えるのは、難しいものだ。
「病気や事故にあったときのことなんて、縁起でもないから考えたくない」という抵抗もあるとは思う。
それ以上に、人工呼吸器をつけるということが何を意味するのか、胃ろうを造設するとどうなるのか、リアルに想像しづらい、という問題がある(身内の介護の経験がある人なら、また違うのかもしれない)。

身内の介護を経験した人の話を聞くと、「身内にしてあげたいこと」と「自分がしてほしいこと/してほしくないこと」は異なることもある、らしい。
「自分だったら、してほしくない。でも、家族には長く生きてほしいから、介護が必要な家族に胃ろうを造設した。結果的に、かえって本人を苦しめてしまったかもしれない」という話を聞いたことがある。

私もリビングウィルは用意したものの、今もわからないこと、迷っていることがたくさんある。
これから先、何か新たな発見があれば、その度に、このブログに書いていくつもりだ。






| ●月ノヒカリ● | 生と死を考える | comments(2) | - |
2020.01.28 Tuesday 22:09
生と死を考える」というカテゴリを作った。
年始めに予告した通り、「生きること」と「死ぬこと」について、つらつらと考えたことを書いていく予定。

このブログでは、過去「自殺について」というカテゴリで、私が十代の頃から持ち続けてきた自殺願望について、書いてきた。
自殺については、その最後のエントリで一区切りがついたというか、自分としてはあれ以上のことは書けないんじゃないか、と思っている。

今の私には、自殺願望なんてない。
それも当然というか、放っておいてもあと何年かで死ぬのなら、わざわざ自殺する必要もないわけで。「戦時中は自殺率が下がった」という話を聞いたことがあるけれども、人は、死がよりリアルになると、自殺を考えなくなるのかもしれない。

がんが遠隔転移して、「あと何年生きられるのか?」という状態で、今後自殺を考えることがあるとしたら。
がんがもっと進行して、苦痛がさらに大きくなって、「こんなに苦しいなら、さっさと安楽死したい」と口走ってしまう可能性だ。
いかにもありそうではある。

私はこれまで、「人生の最後を安楽死で終える」という選択はありだと考えてきたし、実は今もそう思っている。

ただ、以前にもリンクを貼った記憶があるが、こんな記事を読んだことで、ちょっと考えを改めた面もある。

◎安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること(児玉真美・SYNODOS)

治らない病気で苦しんでいたとしても、まだ生きる喜びを享受する可能性が残されているうちは、生きていてほしい。そう願う気持ちは、私にもある。
あるいは、「安楽死」という選択肢が示されることで、本来必要な医療・緩和ケアの発展が妨げられるのではないか、という懸念。
また、経済的な弱者や、介護の必要な人が、周囲の都合で「安楽死に追いやられる」リスクもあるのではないか。

つまり、自分は安楽死の必要性を感じていても、それが制度化されたら、社会にとって望ましくない事態に陥ることもあり得るのではないか、という視点。
私個人の好悪を超えて、安楽死を制度化することによる、社会への悪影響も考慮しなければならない。
そう考えるようになったのが、大きな変化だ。

私が個人的に「安楽死もあり」だと思ってしまうのは、過去に「死んだほうがマシ」「こんなに苦しいならいっそ殺してほしい」というレベルの身体的苦痛を味わったことがあるからだ。

安楽死に賛成している人の意見に触れると、病気や障碍を抱えている人が驚くほど多い。
そして、病気の苦しみ、しかも「死んだほうがマシ」レベルの苦痛、というのは、言葉でどんなに詳細に説明してみても、それを経験したことのない人には、まず理解されないらしい。

一方で、安楽死に反対するのも、障碍者団体であることが多い。
障碍者の間にだって、意見の相違はある。当たり前のことだが、障碍者も一枚岩ではないのだ。

本当なら、安楽死・尊厳死の問題、もっと広く幅をとって延命措置の問題については、安全な環境で、きちんと議論できる場や機会があってほしい。
でも残念ながら、私はそういった機会に恵まれていない。

リアルの場で「死」について話し合った数少ない経験はあるけれども、病気で死がリアルに迫っている人、まったくリアルに感じていない人、自分ではなく介護が必要な家族を念頭に置いている人とでは、話がなかなか噛み合わない。

仕方がないので、このブログに気づいたことを書いていくしかないのかな、と考えている。今のところ。






| ●月ノヒカリ● | 生と死を考える | comments(4) | - |
2020.01.13 Monday 20:47
note(およびはてなの短歌ブログ)で、短歌と詩を公開しています。


■【連作短歌】ヘモグロビンが足りなくなる日 へのリンク

■【断章】言葉よりも切実な言葉を へのリンク

■【連作短歌】地下劇場の王国より へのリンク

■【断章】  ◯ と私のあたらしい関係 へのリンク

■【断章】因果関係の創造 へのリンク

■【連作短歌】見えない戦争の時間です へのリンク


詩を「断章」としているのは、自分が書いているものを詩と呼んでいいのか、そもそも詩とはなんなのか、今ひとつわかっていなかったからです。
現在は、自分なりに「詩はなんのためにあるのか」「なぜ自分は詩を書くのか」の答えを見つけられました。
しかしやはり、「詩を名乗るのは恥ずかしい」気持ちがあるので、今も「断章」としています。

短歌は、一年かけて発表してきたのですが、手元にある発表予定の連作は、あと二つになりました。
残り二つを発表し終えたら、短歌をやめてもいいかな、とも思ってます。
どうするかはまだわかりません。

とりあえず、最後まで見ていただけたら嬉しいです。






| ●月ノヒカリ● | 短歌・詩 | comments(2) | - |
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