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「責任」とは未来を切り開くもの
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2010.03.17 Wednesday 23:21先日感想を書いた、宮台真司の『<世界>はそもそもデタラメである』を読んで、印象に残ってることが一つあるので、それを書いておきます。
ドイツの戦争責任とヴァイツゼッカー演説について読み解いた章の、「罪」と「責任」の違いについての話に、目を開かされた。
私はずっと、巷で安易に使われる「自己責任」という言葉に違和感を持っていて、「責任って何だろう?」と考えていたところに、新しい視点を示してくれた気がした。
その部分は、宮台のブログでも読めます。
簡単に説明すると、罪は「過去清算」を、責任は「未来企図」を要求する、ということだ。
先日のトヨタのリコール問題について宮台が語った記事が、わかりやすかったので引用。
同じくドイツの社会学者ニクラス・ルーマンの発想では、罪とは過去を賠うものであり、責任とは未来を切り開くものです。マックス・ウェーバーの結果責任という概念が示すように、結果として未来を切り開けなければ、責任を果たしたとは言えない。そうした観点からすると、日本は戦争問題について、謝罪を重ねてきたものの責任を果たしてきたとは言えない。罪と責任が区分されない日本の法文化の存在が大きいと思います。
(MIYADAI.com Blog)
宮台の罪と責任についての論が、学問的に正しいのかどうか、私には判断できない。
でも、示唆に富む話だ。
「責任とは未来を切り開くもの」だ、と宮台は(ルーマンを引いて)言う。
今、「未来を語る」ことが難しくなっている。
それは、私がいわゆる「負け組」だからかもしれない。でもこれは私だけの問題ではないはずだ、と思うからこそ、こうしてブログに書いているわけですが。
「私たちはこれから、この世界をどういう方向へ導きたいのか」「自分はどんな社会に住みたいのか」という未来企図、そして道を切り開いていく不屈の精神。その覚悟を持つことこそ、「責任」という言葉の意味するところでしょう。
改めて確認しておきたい。
「責任」という言葉は、他者に向けて使うものではない。
不遇な状況にある他者を、「自己責任」として切り捨てるためにある言葉ではない。
「責任」とは、自分が「建設的な未来を創る」ために、自分の未来を引き受けるときにこそ、使う言葉だと。
ダメ人間がこんなこと書いても説得力がないか?
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セカイ系が「社会」を語るには
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2010.03.14 Sunday 23:20セカイ系。
『新世紀エヴァンゲリオン』や『最終兵器彼女』のような作品、といえばわかるでしょうか。
はてなキーワードの説明がわかりやすかったので、一部引用。
[きみとぼく←→社会←→世界]という3段階のうち、「社会」をすっ飛ばして「きみとぼく」と「世界」のあり方が直結してしまうような作品を指す
サブカル作品のみならず、「自分」と「セカイ」はあるけど、その間にあるはずの「社会」が、希薄になっているのが現代だ。
上のはてなキーワードの続きにも書いてあるけど、斎藤環が『「負けた」教の信者たち』で、従来の「媒介的なるもの」の喪失(対人関係の距離感の変質)について、別役実の言葉を引きつつ、こう書いている。
皮膚感覚でお互いに感じ取れる距離については「近景」。家族や地域社会といった共同体的な対人距離で構成される「中景」。神秘的なものや占いを信じるような態度は「遠景」につながる。そしていまや、近景と遠景を媒介するはずの「中景」が抜けてしまって、近景と遠景がネットワークを通じていきなり接続されるというのだ。
斎藤環『「負けた」教の信者たち』P.26
私はセカイ系の人間だ。
こういう用語の使い方は正しいのかわからないけど、本当にね、エヴァンゲリオンとか笑えないんですよ。
そもそも私は、子どもの頃に見たアニメの影響か、「核戦争後の荒廃した地球を少年少女が駆け回る」パターンに弱い。
『風の谷のナウシカ』、『未来少年コナン』、『AKIRA』(大友克洋)、他にも『OZ』(樹なつみ)、『FREEDOM』(日清カップヌードルCM)等、このテーマを描いた作品に出会うと、不思議な懐かしさと既視感を感じる。「荒野となった大地」「廃墟と化した都市」というアニメ映像が、自分の原風景としてある。
セカイ系、好きなんだなあ。こういうのも一種の病気かもしれないけど。
「自意識」が外へ向かうと、一気に「世界の滅亡」までいっちゃうという、このヤバさ(笑)
それとは対照的に、この「社会」について語る言葉を、ほとんど持っていない貧しさ。
でもさすがに「これじゃあイカンだろ」と感じているので、「社会」の方へ意識を向けようとするんですが、これがなかなか難しいですね。
やっぱり私、思考が「社会」よりも「世界」へいっちゃうタイプなんだなあ。
ヨガをするのも、オウム真理教事件の頃はともかく、今は普通にエクササイズとして受け入れられている。けど、私がヨガに惹かれるのも、「東洋的な神秘への憧れ」という側面が確実にある。
それ以外にも、スピリチュアルとか占いとか大好きだし。ベタに信じるのではなくて、「懐疑しつつ楽しむ」というスタンスですが。
自分が「社会」に適応できなくて、だからこそ「社会」へ向かうように、ブログタイトルにも「社会」という言葉を入れたんですが……実際は、セカイと社会のあいだを行ったり来たり、という感じになりそうです。
「あるべき社会」の姿を語っても、そこに自分が存在しないのでは、何にもならない。
その一方で「自分しかいない世界」は貧しすぎる。
では自分はどうすれば?ということを考えるのに、すごく遠回りをしなければならない。メンドクサイ人種ですね。セカイ系って。
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web拍手にレス12
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2010.03.10 Wednesday 23:13前回、TwitterのIDを公開したにもかかわらず、特にフォローが増えるということもなく終わった。そうか、誘い受けって効かないのね!
というわけで、月ノヒカリは安心して、このまま我が道を邁進することにしました。
ついったーには深入りせず、「自分用メモ」として好きなように使うことにします。ええそうします。
えーっと、最近はこんなどうでもいい記事しか書いていないのに、たまに拍手コメントはいただくのです。ありがたいです。
というわけで、拍手コメントにレスです。↓からどうぞ。 -
Twitterあれこれ
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2010.03.07 Sunday 22:30今までブログには書かなかったけど、今年に入ってからTwitterのアカウントを取った。
いまどきTwitter(リンク先はwiki)を知らない人はいないと思うけど、140文字以内で「つぶやき」を書き込めるというサービスです。
昨年くらいから、ブームっていうか、煽られてますよね。Twitter解説本が続々出版されたりして。
生活の中に、こういう新しいものを取り入れることについて、私は慎重派だ。自分が使いこなせるか、わからないし。
そもそも、こういう「刹那的なゆるいコミュニケーション」って、私はあまり好きではない。かといって「長期的で濃密なコミュニケーション」が得意かというとそうでもなく、むしろ苦手なんですが。
私は、「辻褄が合わない」のが、すごくイヤなんですね。
Twitterは、複数の人のつぶやきが、一つの画面に時系列で表示される。前後の脈絡があまりない。そういうの、居心地悪い。
皆これ全部読んでるの? 頭の中でどーやって処理してるんだろう?
というわけで私は、今に至るまでTwitterをまったく使いこなせていない。
でもそれはそれ、「自分用メモ」として使えばいいか、と思って、ブログに書くまでもないこととか、書ききれなかったことをつぶやいていた。とんでもなく間違った使い方だと思うけど。
自分にはTwitterの楽しさが全くわかっていない、ということを痛感しているので、人様のブログを読んだりして、Twitterについて参考になった記事をまとめてみました。
■ツイッター7つの仮説(堀義人Blog)
すごくオーソドックスなTwitter論だと思う。
「議論の質が下がる」「リアルタイム性が上がる」「ネットコミュニケーション依存症が増える」などなど。
これに対するホリエモン(堀江貴文氏)の反論がこちらに。これも面白い。
■ブログもtwitterもSNSも日記サービス(ひろゆき@オープンSNS)
特に目新しいことを言っているわけでもないけど、わかりやすくて頷ける内容。
ブログを書くよりもTwitterでつぶやく方が、敷居が低いのは確かですね。
「Twitterもいずれ飽きられて、別のサービスに流れる」ということは、皆が共通して言っているな。けど、「いずれ」というのがどのくらい先かは、人によって見通しが異なる。
■ひょっとしたらBlog+Twitterが最強のコミュニケーション・ツールになるのかもしれない(金融日記)
ビジネスパーソンとしての分析。Twitterは人脈作りに使えるツールである、と。
「おそらくこれからの世の中、ブログを名刺代わりにして、ツイッターでネットワーキングするなんてことが普通になるんでしょう。」
某ビジネス誌のTwitter特集にも、「サラリーマンの名刺にも、メールアドレスの他にTwitterのIDを書く時代がくる」と煽られていたが……どうなんだろう?
■ついったーの話(mindgaterさん)
有名人ではなく、一般の利用者の感想として、興味深いです。
Twitterは無数の他者の呟きに一瞬で呑まれていく、刹那的なコミュニケーション。
「自分がいなくても世の中は回るんだ」という現実を受け入れられるかどうかが、Twitterを楽しめるかどうかの分かれめなのだ、と。
■twitterはフォロー数によって変化するインフラ (yteppeiのtwitterウォッチ)
これが一番、的を射ていると思う。
Twitterは「フォローしたり、フォローされている数によって、 SNS になったりメディアになったり形を変えていく」。つまり、使う人によって全く違うものになるってことですね。ネットやブログと同じで。
Twitterも、使う人によって、日記になったり、SNSになったり、「雑誌のようなメディア」になったり、ときにはチャットになったりするのでしょう。
なんでこんなTwitter論を並べたかというと、自分はTwitterには向いてないんじゃないか、とつくづく感じているからです。いや、向いていないといえば、私はブログにも向いていないし、そもそも人間に向いてないんですが。
自分は対人恐怖症なところがあるけど、それってリアル世界だけではなくて、ネット上でも、ものすごい対人恐怖症でコミュニケーション苦手だってことが、嫌というほどわかりました。ああああ。
ついったーがこわいんです。わたし。
「たくさん人がいて皆が好き勝手なことしゃべってる」という状況が、なんとも不気味な感じで怖い。
コミュニケーションスキルとか、情報リテラシーが高くないと、Twitterも使いこなせないんだよね。結局。
どうせ使いこなせていないんだから、恥さらしついでに、ついったーIDここにさらします。ブログのアドレスと同じで、newmoon555です。
まあフォローしても特にいいことはないけど、えーと、対人恐怖症ダメ人間のつぶやきを見てみたい人は、見に来て……いや、来なくていいです。探さないでください。
月ノヒカリの明日はどっちだ!?
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ヨガのこと
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2010.03.06 Saturday 20:39前回の日記読み返してみて、「ああ、やっぱり今の自分は不調なんだな」と改めて思った。
拍手コメントくれた人、ありがとう。こういうときは特に、コメントが身にしみて嬉しいです。
で、こういう不調は前にも経験があって、「あのときはどうやって乗り越えたんだっけ?」と考えたら、やっぱりヨガかなあと思うので、ヨガの話をします。
昨今のスピリチュアルブームの中で、ヨガはかなり良質の部類に入ると思う。
私は、「スピリチュアル」というものを馬鹿にできないものだと考えてます。
というのは、私がまったく宗教とは無縁の世界で生きてきて、そのことが自分の精神的な不安定さに繋がっていると思うから。
私のように弱く不安定な人間は、一歩間違えたら、オウム真理教みたいなカルト教団の信者になっていてもおかしくなかった。
正直な話、私は、宗教的なバックボーンのある人が羨ましいです。
宗教にすがりたい、という気持ちは昔から人一倍あって。
とはいうものの現実には、キリスト教であれ何であれ、宗教団体に所属するのは無理なんですね。いまさら。
疑い深い性格なので、教義を素直に信じ込むのは無理だし。
自他ともに認めるドケチ人間なので、怪しげな宗教団体や自称霊能者に大金を巻き上げられるのはイヤだし。
それでも人間には宗教、というか信仰みたいなものが必要なのではないかと、常々感じていました。
自分がずっと生きづらくて、自殺願望もあったし、病気もあって、「死生観」とか「生きる意味」とか考えざるを得なかった。それに答えるのって、本来は宗教の役割だと思う。オウム真理教みたいなカルト教団ではなく、いい意味で宗教が機能していたら―――というのは、ないものねだりかもしれないけど。
そういうわけで私は、スピリチュアルへの憧れはすごくあるんです。宗教的なものを必要としているのです。
だから、ヨガと出会えたのはラッキーだったな、と思う。
ヨガはスピリチュアルの中では、まあ無害というか身体を動かすから健康的だし、心や感情のコントロール法として、かなり使える部分があると思う。
街のヨガ教室でやってるのは、ほとんどストレッチ体操の延長のようなもので、私もそもそもダイエット目的で始めたのだったけど。
やってみると奥が深かった。
肩凝り解消とか、身体面でもすごく効果があるのですが、やっぱり、ヨガの本質ってどこにあるかというと、「呼吸」だと思う。
ヨガには必ず、瞑想の時間がある。私はたいてい寝ちゃうんだけど(笑)
でも瞑想は本来、「落ち着いた、静かな呼吸を見守る」ことだ。「呼吸に集中する」ことだ。これがうまくできると、心身ともにすっきりとして快適な状態になる。この瞑想の部分が、ヨガの核心だと思っている。
苦しいポーズの最中だと息が苦しくなるけど、瞑想中のような「静かで穏やかな呼吸」を目指す。
日常生活でも、苦しいときは呼吸が乱れるけど、瞑想中のように柔らかい呼吸ができるようにする。
「日常生活を瞑想中のように、落ち着いた心で過ごす」のが理想なんだけど、修行が足りないせいか、今の私は理想とはほど遠い状態ですが。
でも、ヨガを通して、「今の自分の(苦しい)状態を受け入れる」「人と比べない」「今日の自分の身体と対話する」ということを繰り返し、身体に教え込まれたことは、大きな意味があったとつくづく感じている。
まあとにかく私は、ヨガはすごく気に入ってて、これからもずっと続けていきたいな、と思っているのですが。
それでもやっぱり、ヨガにも、限界を感じてしまうんですよね。
ヨガに限らないけど、問題が起こったとき「個人的な身の処し方」で対応しようとするのがスピリチュアルだ。広い意味で、精神医療もその範疇に入る。
ただ、「個人が自力でできること」には限界がある。
今は「個人が自分の責任で問題を解決する」ことが主流、というよりそれ以外の選択肢が示されていないんだけど、「社会的に問題を解決する」という選択肢もあるはずなんだ。
人が困難を抱えているとき、個人レベルで解決しようとするだけではなく、広く社会問題として考えていくことが、本当に必要とされているのではないかと思うのですが。
で、思考を「社会」に向けようとすると、あまりにも状況が複雑で、何から手をつければいいのかわからず、途方に暮れてしまった。というわけで、ふりだしに戻ってしまったわけですが。
さて、どうするか。
とりあえず、サボらずに毎日ヨガ続けよう。明日から。
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迷いとか悲しみとか怒りとかそういうもの。
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2010.03.02 Tuesday 23:30最近、あまり文章が書けない。
正確には、ブログにUPするような文章が書けない。
理由ははっきりしている。迷いがあるから。
それ以外にも、私は本を読むのが遅すぎるとか、文章が下手すぎるとか、いろいろあるんだけど。もう本当にね、私はこれまであんまり文章を書いてこなかったんだけど、自分で書くとわかっちゃうね。自分のボキャブラリーの少なさとか、表現力の貧しさとか。
やっぱりね、私は基本的にブログは「楽しいもの」であってほしい。
いつも楽しそうで、明るい人のそばにいると、こっちも何となく気分が明るくなる。だから、楽しい人は好きだ。
でも自分がいつも気分良くいられるかというと、全然ちがう。メンヘラだし。
つまり、「書きたいこと」はあるんだけど、それをどう表現するかという問題が、別に存在する。
書きたいのは、「楽しいこと」ばかりじゃないからね。
人間には、喜びとか、笑いとか、そんなポジティブなものだけではなく、怒りや悲しみ、妬み、迷い、不安、そういう負の感情も必ずあるはずだ。
私は、怒りや悲しみを表現することが、悪いこととは思わない。むしろもっと表に出すべきだと思う。というのは、自分がこれまでそういう感情を抑圧してきたからだけど。
私だけじゃなくて、日本人は「感情を表に出さない」ことを美徳としてきたんじゃないかと思う。
でも私は、人間の負の側面に魅かれることが多いから、怒りや不安や嫉妬を表に出す人は、嫌いではない。嫉妬とか弱音とか愚痴とか、人間らしい感情で、そういうの見せられると逆に好感を持ったりする(というのは変な趣味だろうか?)。
でもねー、負の感情をそのまま垂れ流すのは、さすがに醜いよね。人前に出すときは、ちゃんと料理して、見苦しくないくらいのカタチにしないと。それが一番難しいんだよね。
愚痴でも嫉妬でも、それがちゃんと「芸」になってる場合は、読んでも見苦しくない。むしろ好ましく感じたりする。私もうまく「負の感情」を表現できるようになりたいんだけど、これは本当に難しいわ。
ということで、しばらく内向きなエントリが続くかもしれませんが、これまで通りフツーに読んでください。コメントもお気軽にどうぞ。あと、更新が不定期になるかもしれません。
しかし、ここ数年ヨガとか続けてて、自分の感情の扱い方もそれなりに訓練してきたつもりだけど、やっぱり落ちるときはあるね。迷いも苦しみも、消えたと思ったらまた現れて、永遠になくならないものなんだなあ、としみじみ。
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宮台真司 『<世界>はそもそもデタラメである』
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2010.02.26 Friday 22:44やっと読み終わった感想。評価:

宮台 真司
メディアファクトリー
¥ 1,890
(2008-11)
コメント:<社会>をうまく生きられないものこそ、幸いなり
前々回と前回に、読んでいる途中思ったことなどを書いたのですが。
この本は、「ダ・ヴィンチ」誌に連載されていた映画評(2003〜2008年)をまとめたものだ。
ただ、この本の趣旨は「映画批評」にはない。「私たちが世界をどう体験しているか」を、映画作品を批評することによって、浮き彫りにしようとする<世界体験>の方に主眼が置かれている。
まずタイトルが面白い。
<世界>とは―――宮台の定義によれば―――「この社会」をも含んだ「ありとあらゆる全体」のことである。
さて、あなたは<世界>を「コスモス(=秩序あるもの)」と定義するだろうか。それとも「カオス(=デタラメなもの)」と定義するだろうか。
どちらもアリだと思うけど、前者と後者では、この世界がまるで異なって見えるはずだ。
前者は、因果応報的な秩序を前提にしており、「超越的な神様がこの世界をつくったのに、なぜ理不尽があるのか」と考える。
一方後者は、「世の中はそもそもデタラメなのに、なぜ(ありそうもない)善などがあり得るのか」と考える。
宮台は徹底して後者の立場を取る。
<世界>はそもそも、ギリシア神話のようにデタラメなものだ。本書を通じて、「理屈」よりも「なんでもありのノリのよさ」、「理解(分かり合うこと)」よりも「ミメーシス(感染的模倣)」が力強く推奨されている。
人は理解しあうことはできない。しかし感染することによって繋がれる―――。
私も宮台に感染したのかもしれない。
宮台は、私から見たら、能力、社会的地位等あらゆる面で恵まれたエリートだ。
私が生きづらいのは、自分の能力とか病気とかに起因すると思っていたけど、宮台のように恵まれた人が「この社会は、貧乏や病気がなくても、期待はずれに満ちている」と語るとき、「そうなのか」と驚き、妙に納得した。
つまり、自分がたとえ病気でなくても、やっぱりこの世は生きづらいんだろうな、という根源的な困難とか空虚さに目を開かされる。それは私にとって救いでもあり、絶望でもある。
宮台は、今日的な鬱や解離に対する処方箋として、「世の中に真面目に向き合わない方が、自分も周囲も幸せになれるのだ」と説く。その上で「敢えて鈍くなること」を勧める。間違っていないと思う。けど、私はそんなに器用には「鈍く」なれない……と思いつつ、宮台の言葉には、デタラメで不条理な世界を受容し、肯定する力を感じる。
「それでも日は昇る」「それでも人は生きている」的な開き直りと笑い飛ばし。そう。確かに人生は思い通り行かない。だから時には苦界や任侠に「身を落とす」。だが「身を落とす」ことそのものに「もののあわれ」がある。だから「浮かぶ瀬」などなくてもまったく構わない。
宮台真司『<世界>はそもそもデタラメである』P.360
「尊厳死」についての問題提起を映画『海を飛ぶ夢』に見出した回が、印象的だった。事故で寝たきりになった主人公が、周囲に愛されていながら、「そんな人生は尊厳を欠く」として死を望む。宮台は「死の自己決定権」の観点から、消極的安楽死にも積極的安楽死にも賛成する立場だが、この立場を取ることにシコリがある、と告白する。シコリを持ちつつも、宮台は「他者の主観性を尊重し、自死を許容するべきだ」との公式見解をとり、しかもそれを自明視しない。
また1960年代の躍動について書いた回の後半で、豊かな社会を望むゆえに私たちは<システム>を拡大させてきたが、今は逆に、人が<システム>にとって都合のいい存在になってしまった。そんな社会を生きなければならない理由はあるのか、と問いかける。(システムという言葉で私は、村上春樹の「卵と壁」のスピーチを思い出した。)
宮台の語りは、二律背反に満ちている。
不透明で、何が善きことなのか自明ではなくて、それでもこの社会を選択的に生きなければならない私たちの困難。だからこそ、単純なプロパガンダを声高に叫ぶことを嫌悪しつつ、それでも主張することを止めない宮台の姿勢には「清濁あわせ呑む前向きさ」が感じられる。絶望した後に、かすかな希望の光明が差し込む。
『日本の難点』などで語られる宮台の政治的な主張には、私は必ずしも賛同できないのだけど、それでも「前提」の部分は共有できる。
この本のまえがきで宮台は、子ども時代から一貫して、<世界>に開かれるために必死で映画にしがみついてきた、と語っている。
早い話が映画オタクなのだ。
前回も書いたように、私はこの本をある種の「文学」として享受し、宮台に感染した。宮台が映画を素材にして語る<世界>のイメージに翻弄され、そのイメージの海で泳いだり、潜ったりして遊んだだけで、決してこの本を読んで賢くなった、ということはないのが残念ですが。
とにかく宮台のクールな頭脳と熱いオタク魂に心震えた一冊でした。
やっと図書館に返しに行けるわ〜。
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前回の続き。
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2010.02.23 Tuesday 23:05前回の続きで、宮台真司『<世界>はそもそもデタラメである』を読んでいる途中で思ったことなど。
なんで私が、たいして映画好きでもないのに、映画批評本(『<世界>は〜』)を読んでいるのか?という問題について。
宮台真司という人が、面白い人だからだという他はない。
私は90年代後半に、宮台の著作を何冊か読んできたけど、ここ十年くらいは遠ざかっていた。雑誌「ダ・ヴィンチ」に連載されていた「世紀末相談」とか大好きだったんだけどね。
こちらのブログ記事によると、今や宮台読者は人文系ヲタ男子ばっかりらしい。かつては女性読者も多かったように思うんだけど。宮台本に共鳴するブログ主のようなオタク女は、相当アイタタタな存在だな、と思っておいてください。
宮台は社会学者ということになっているけど、著書を読んでもあまり「学者」って感じがしない。
社会学者って、データだけ見て勝手な説を展開する人が、結構いると思うのよ。でも宮台は、データではなくて人間を見ている。つまり、「自分」を見ている。だから宮台の著書は、すごく「文学的」で「詩的」だ。あるいは「宗教的」(福音書のような)なのかもしれない。
思えば私は昔から、宮台の著書を、学術書とか評論としてではなく、ある種の「文学」として享受してきたように思う。こういう読み方って邪道かもしれないけど、そんなのどうでもいい。教科書的な「正しい読み方」なんて学校卒業と同時に捨ててきました。
『<世界>はそもそもデタラメである』でも、時折表れる詩的な表現にシビレた。
例えば以下の文章。因みにモダニズムとは何か。「近代主義」と訳すと間違う。一口で言えば、近代化の眩しき「光」を希求しつつ、急速に失われゆく共同体の「闇」への執着との間で引き裂かれる心性である。(中略)
ああ、乱歩の世界ですね。
そこでは新旧の世界観がせめぎ合う。都市建設の陰に妖怪が蠢く。国家建設に思いを馳せる帝大生の故郷には因習的な家族が暮らす。光と闇の対象が織りなす絵模様を前に引き裂かれた心性がある。共同体の子宮から引き剥がされた嬰児が新たな代替的全体性を希求する……。
だからモダニズムの時代は長続きしない。近代化が進めば、闇が消え、闇が消えれば、光と闇に引き裂かれるモダニズムの心性も消える道理だからだ。
(宮台真司『<世界>はそもそもデタラメである』P.134)
この文章を引用したのは、単に表現が美しかったからだけど。
ここだけに限らず、『<世界>はそもそもデタラメである』は、二律背反の表現に満ちている。
光と闇の間で引き裂かれるもの。
現在は闇は消え去り、すべては<システム>の中に統合されてしまった。光も闇もない、フラットな<システム>の中の息苦しさ。
前回書いたような、「素朴に家族を生きられない」からこそ、「家族を演じるしかない」という痛切な断念。
宮台はこの本を通じて、一つの世界観を提示しているんだけど、それはまた別の機会に。
これは毒性の強い本だ。悪酔いしたのかもしれない。
ここんとこ不調が続いているのは、この本を読んでいるせいかもしれない(逆に不調だからこそ、こういう本に共鳴してしまうのかもしれないが)。
入り組んだ迷宮で、出口も見えず、過去の傷痕と向き合わされるような感覚に苛まれている。
いやこの本はそんな暗い本ではなくて、むしろ「希望」が語られているんだけど、その「希望」というのが、相当深く絶望したあとにしか現れないものなので、水深1万メートルの暗闇まで潜ってしまって、まだ浮き上がれないような感覚でいるのです。
この評論、宮台のブログでも読めるみたいです。
個人的には、ここに書かれていた「オペラ劇場の作り」の話は、初耳でちょっと驚いた。しかし言われてみれば確かに、貴族にとっては、オペラ劇場はベタに舞台を楽しむものではなく、ボックス席で互いを観察しあう社交とスキャンダリズムの場だったのだろうな、と納得。
次は本を読んだ感想をちゃんと書くつもり。
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今読んでいる本
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2010.02.21 Sunday 23:33今読んでいる本↓
宮台真司『<世界>はそもそもデタラメである』
映画批評の本なんだけど、私はほとんど映画は見ない。なのに読み始めたら面白くって、でも読みやすい本ではないから時間がかかってしょうがない。
というわけで中間報告。あとで別にちゃんと感想書くつもりだけど。
宮台真司という人は、一般的にはどの程度知られているのかわからないけど、90年代に、メディアで女子高生の援交を擁護する発言を繰り広げて有名になった社会学者だ。で、私は援交とかにはまったく関わりなかったけど、宮台の著書には共感できる部分が多くて、何冊か読んでいた。
以前書いたけど、自分の育った家庭は、きっと外から見たら「幸せな家庭」に見えるんだと思う。でも内実は、そこは地獄だと私は感じていたわけで。その理由を、宮台が示してくれたように思えた。
私にとっての宮台は、「家族」を解体した人だ。というのはちょっと言い過ぎで、もっとずっと前から、とっくに「家族」は壊れていて、宮台は「家族は幻想になってしまった」ということを「郊外化」というキーワードを通じて、教示してくれた人だった。(『岸辺のアルバム』という平凡な家庭の崩壊を描いたTVドラマが放送されたのが1977年。)
私は、自分の育った「幸せな家庭」がうそ寒いと感じていて、そのことに苦しんできたので、宮台の著書には共感できる部分が多かった。
『<世界>はそもそもデタラメである』でも、今日「素朴に家族を生きる」のは不可能だから、「家族を演じよ」と推奨する(P.333〜)。これ、私にはすごくよくわかる。
いまどき、日曜夜のサザエさん一家は、あり得ないメルヘンの世界だ。少なくとも私にとっては。
あんなふうにベタに「家族」を生きられない。「サザエさん一家」のような幸せ家族は、「現実には成就し得ない夢物語」で、でもかつては「サザエさん一家」は「平凡な家庭の代表」だったはずで、そのギャップに私は苦しんできたんだよね。
で、実際のところ、どうなんだろう?
私には、「素朴に家族を生きられる」と考えている人も、かなり多いように思えるんだけど。宮台の語るような「素朴に家族を生きられない」という苦しみは、どの程度共有されているのか?
「家族は演じるものだ」という感覚、どれほどの人が持っているのだろう?
そういう感覚を持っている人って、多数派なのだろうか? それとも少数派なのだろうか?
まずそこでつまずいちゃうというか、自分の周囲に宮台の読者だという人は一人もいなくて、リアルにこういうこと話した経験がないから、よくわからないんだよね。現実には、「ベタな家族礼賛」って根強く存在しているように思うんだけど。メディアでもよく見かけるし。
長くなったからいったんここで終わり。
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web拍手にレス11
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2010.02.19 Friday 22:47不調である。
なんだかわからないけど不調だ。もずくのたたりか?
先週から読んでる本は、まだ読み終わらないし。
そんなわけでブログを更新できないから、という不純な動機の拍手レス。
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