2020.02.17 Monday 23:24
新型コロナウイルスの感染拡大が、現実味を帯びてきました。
抗がん剤治療中なので、もし感染したら、自分は重症化するリスクが高いのではないか、とハラハラしています。
ですが、通常の感染対策以外に、特に自分にできることはなさそうなので、このブログでは、予定通りの記事をUPすることにします。

   *   *   *   *   *

最近、「人生会議」という言葉を目にする機会が増えてきた。
昨年、厚生労働省による「人生会議」PRポスターが、がんの患者団体から批判され、ニュースになったのを見た人もいるかもしれない。
私も闘病中のがん患者だけど、あのポスターに対して、特に不快感はなかった。
一方で、あのポスターの表現が不用意に刺さる患者さんやご遺族もいるわけで、これは扱うのが難しいデリケートな問題なんだな、と改めて考えさせられた。

「人生会議」は、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の普及を進めるためにつけられた愛称だ。
アドバンス・ケア・プランニングとは、人生の最終段階に受けたい(あるいは受けたくない)医療・ケアについて、患者、家族、医療従事者が話し合い、患者の価値観を確認し、目標を共有すること。

私はこれ、まだ経験したことがない。家族と話したことはあるけれども、医療従事者を交えて話し合ったことはない。
病状がもっと進んで、抗がん剤治療ができなくなるか、治療をやり尽くした時点で、医療者と家族を交えてのアドバンス・ケア・プランニングが行われるのかもしれない。

ただ、「人生会議」が厚労省によってアピールされているのは、「もしものとき」に備えて、「事前に(元気なうちに)」終末期の医療について考えて、家族で話し合っておいてほしい、という意図があってのことだろう。

自分の意識がはっきりしているときは、受けたい医療について、自分で決めればいい。
けれども、事故で意識不明になったり、そうでなくても終末期には、患者本人が意思表示できないこともある。 そうなったときのために、元気なうちに、「終末期に、どういう医療を受けたい(あるいは受けたくない)か?」を家族に伝えておいてほしい。
そういうことだと思う。

で、いったい、何を考えて、話し合えばいいんだろう?

がんの遠隔転移がわかってから、終末期医療についての講演に行ったり、がん相談支援の場で質問してみたものの、私は「人生会議」について、まだ漠然としたイメージしかもっていない。

自分が意思表示できなくなったときに備えて、受けたい/受けたくない医療について、元気なうちに文書で表したものを「リビングウィル」と呼ぶ。私も日本尊厳死協会の会員になって、書式に従ったものを用意してある。
日本尊厳死協会のサイトにも掲載されているけれども、「死期を引き延ばすためだけの延命措置はしないでください」「苦痛を和らげるための医療は行ってください」といった内容だ。

しかし実は、私はまだ、「死期が迫ったとき」の自分の状態について、リアルに想像できない。リビングウィルを用意しておきながら、こんなことを言うのも困ったものだと思うけれども。

いろいろ話を聞くと、どうやら「人工呼吸器」と「胃ろう」について、まず話題にされることが多いみたいだ。
自力で呼吸が困難になったとき、人工呼吸器をつけるのか?
自力で食事が困難になったときに、胃ろうを造設するか?

ただ、これも看護師さんに聞いたところ、「人工呼吸器や胃ろうをつけて、数ヶ月単位で延命できる場合は、意味がある。けれども、がんの場合は、それらをつけても数日延命できるだけのことが多く、医師もあまりお勧めはしないと思う」とのことだった。

今の私の希望としては、「苦痛はできる限り取り除いてほしい。一方で、延命治療は望まない」が基本方針だけど、単純にこれだけでは判断できないケースもあるらしい。
例えば、肺炎で苦しいとき、管を通したら苦痛が和らぐ可能性がある場合。でも、いったん通した管を外すのは、簡単ではない。さあどうするか?
自分の頭がはっきりしていて、自分で意思表示できればいいんだけど、そうではない場合、家族が判断することになる。家族が判断を迫られた場合、「本人なら、どう考えるだろう?」という判断材料となることを、普段から家族で話し合って、共有しておいてほしい。
——と、いうのが、「人生会議」の意図のようです。

ここで私は、「おそらくがんで死ぬ、自分の最期」を想定しているけど、家族の看取りが必要になったときにも、考えておかなければならない問題ではある。
あるいは病気に限らず、事故や何かで、いきなり選択を迫られることもあるかもしれないから、今からでも考えておく価値があるだろう。

とは言うものの、まだ元気なときに、終末期医療について考えるのは、難しいものだ。
「病気や事故にあったときのことなんて、縁起でもないから考えたくない」という抵抗もあるとは思う。
それ以上に、人工呼吸器をつけるということが何を意味するのか、胃ろうを造設するとどうなるのか、リアルに想像しづらい、という問題がある(身内の介護の経験がある人なら、また違うのかもしれない)。

身内の介護を経験した人の話を聞くと、「身内にしてあげたいこと」と「自分がしてほしいこと/してほしくないこと」は異なることもある、らしい。
「自分だったら、してほしくない。でも、家族には長く生きてほしいから、介護が必要な家族に胃ろうを造設した。結果的に、かえって本人を苦しめてしまったかもしれない」という話を聞いたことがある。

私もリビングウィルは用意したものの、今もわからないこと、迷っていることがたくさんある。
これから先、何か新たな発見があれば、その度に、このブログに書いていくつもりだ。






| ●月ノヒカリ● | 生と死を考える | comments(2) | - |
2020.01.28 Tuesday 22:09
生と死を考える」というカテゴリを作った。
年始めに予告した通り、「生きること」と「死ぬこと」について、つらつらと考えたことを書いていく予定。

このブログでは、過去「自殺について」というカテゴリで、私が十代の頃から持ち続けてきた自殺願望について、書いてきた。
自殺については、その最後のエントリで一区切りがついたというか、自分としてはあれ以上のことは書けないんじゃないか、と思っている。

今の私には、自殺願望なんてない。
それも当然というか、放っておいてもあと何年かで死ぬのなら、わざわざ自殺する必要もないわけで。「戦時中は自殺率が下がった」という話を聞いたことがあるけれども、人は、死がよりリアルになると、自殺を考えなくなるのかもしれない。

がんが遠隔転移して、「あと何年生きられるのか?」という状態で、今後自殺を考えることがあるとしたら。
がんがもっと進行して、苦痛がさらに大きくなって、「こんなに苦しいなら、さっさと安楽死したい」と口走ってしまう可能性だ。
いかにもありそうではある。

私はこれまで、「人生の最後を安楽死で終える」という選択はありだと考えてきたし、実は今もそう思っている。

ただ、以前にもリンクを貼った記憶があるが、こんな記事を読んだことで、ちょっと考えを改めた面もある。

◎安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること(児玉真美・SYNODOS)

治らない病気で苦しんでいたとしても、まだ生きる喜びを享受する可能性が残されているうちは、生きていてほしい。そう願う気持ちは、私にもある。
あるいは、「安楽死」という選択肢が示されることで、本来必要な医療・緩和ケアの発展が妨げられるのではないか、という懸念。
また、経済的な弱者や、介護の必要な人が、周囲の都合で「安楽死に追いやられる」リスクもあるのではないか。

つまり、自分は安楽死の必要性を感じていても、それが制度化されたら、社会にとって望ましくない事態に陥ることもあり得るのではないか、という視点。
私個人の好悪を超えて、安楽死を制度化することによる、社会への悪影響も考慮しなければならない。
そう考えるようになったのが、大きな変化だ。

私が個人的に「安楽死もあり」だと思ってしまうのは、過去に「死んだほうがマシ」「こんなに苦しいならいっそ殺してほしい」というレベルの身体的苦痛を味わったことがあるからだ。

安楽死に賛成している人の意見に触れると、病気や障碍を抱えている人が驚くほど多い。
そして、病気の苦しみ、しかも「死んだほうがマシ」レベルの苦痛、というのは、言葉でどんなに詳細に説明してみても、それを経験したことのない人には、まず理解されないらしい。

一方で、安楽死に反対するのも、障碍者団体であることが多い。
障碍者の間にだって、意見の相違はある。当たり前のことだが、障碍者も一枚岩ではないのだ。

本当なら、安楽死・尊厳死の問題、もっと広く幅をとって延命措置の問題については、安全な環境で、きちんと議論できる場や機会があってほしい。
でも残念ながら、私はそういった機会に恵まれていない。

リアルの場で「死」について話し合った数少ない経験はあるけれども、病気で死がリアルに迫っている人、まったくリアルに感じていない人、自分ではなく介護が必要な家族を念頭に置いている人とでは、話がなかなか噛み合わない。

仕方がないので、このブログに気づいたことを書いていくしかないのかな、と考えている。今のところ。






| ●月ノヒカリ● | 生と死を考える | comments(4) | - |
2020.01.13 Monday 20:47
note(およびはてなの短歌ブログ)で、短歌と詩を公開しています。


■【連作短歌】ヘモグロビンが足りなくなる日 へのリンク

■【断章】言葉よりも切実な言葉を へのリンク

■【連作短歌】地下劇場の王国より へのリンク

■【断章】  ◯ と私のあたらしい関係 へのリンク

■【断章】因果関係の創造 へのリンク

■【連作短歌】見えない戦争の時間です へのリンク


詩を「断章」としているのは、自分が書いているものを詩と呼んでいいのか、そもそも詩とはなんなのか、今ひとつわかっていなかったからです。
現在は、自分なりに「詩はなんのためにあるのか」「なぜ自分は詩を書くのか」の答えを見つけられました。
しかしやはり、「詩を名乗るのは恥ずかしい」気持ちがあるので、今も「断章」としています。

短歌は、一年かけて発表してきたのですが、手元にある発表予定の連作は、あと二つになりました。
残り二つを発表し終えたら、短歌をやめてもいいかな、とも思ってます。
どうするかはまだわかりません。

とりあえず、最後まで見ていただけたら嬉しいです。






| ●月ノヒカリ● | 短歌・詩 | comments(2) | - |
2020.01.10 Friday 20:33
今年最初の抗がん剤治療(点滴)、してきました。
やはりというか何というか、病院はめちゃくちゃ混んでましたが。

今使っている抗がん剤で、腫瘍マーカーは下がっているので、もうしばらく続けられるかな。続けられるといいな。

この抗がん剤を使い始めてから、バッサリ脱毛してしまったのですが(脱毛も2回目です)、減薬したため、再び髪が生えてきました。今は野球少年のような頭になってます。この髪型(?)、わりと気に入ってたりして。

前にも書いた気がするけど、自分が使った/使っている薬の名前、ちゃんと明記した方が、同病の患者さんにとって有益な情報になるのかな、とは思います。
私も患者さんのブログ経由で知ったこと、多いです。個人的にキツかった副作用とか、3割負担の費用とか(←これは知りたいのに、意外と書いてあるところが少ない)、グレープフルーツはNGの薬か? とか。

乳がんが肝臓と骨に転移して以降、これまでにすでに5回、治療法を変えてきました。
遠隔転移後の治療は、ホルモン陽性の乳がん患者の場合は、副作用が比較的少ないホルモン療法から始めるのが普通です。が、それ以後の抗がん剤治療については、「どういう順番で行うのがいいか、明確な決まりはない」らしいです。
昨年、初発の時にお世話になった元主治医に会う機会があって、私が再発後に受けてきた治療についてお話ししたところ、「セオリー通りの治療順」と言われたので、そうなんだろうと思ってます。

私が受けてきた治療について、その薬を使った順番とその効果について書いたら、同病の患者さんの参考になるかも、とは思うのですが。
それをリアルタイムで書くのは、躊躇いがあります。やはりこれも個人情報なので、どこでどう悪用されるか、わからないですし。これは3年前、ネット経由で酷い嫌がらせにあったので、余計に慎重になっている面もあります。

詳しい治療の話は、患者会等で話すだけにしておこう、と今は思っています。
ただ、自分の治療記録はつけているので、もし治療が終わった(治療方法がなくなった)時点で、余力があれば、これまでの自分の治療記録をブログに残しておくのもいいかな、とも考えています。

このブログには、もう少し違うことを書こうかな、と。
例えば、「そもそも遠隔転移したがんの治療は、いつまで続けるものなのか?」とか。自分がその立場になるまで、実感が持てなかったことについて。

そういった話も、また別の日に、エントリを改めて書く予定です。






| ●月ノヒカリ● | 病気 | comments(0) | - |
2020.01.02 Thursday 17:03
初夢の話。
名古屋駅から少し東に離れた場所にいた。15分も歩けば、駅北側の商店街に出られるはずだった。
しかし、歩くのはちょっと面倒だ。近くにバス停があったので、バスに乗って行こうと思った。
バス待ち中の女性に、「このバスで駅前の文具店に行けますか?」と尋ねてみた。
女性は、「このバスでは行けない」と言う。その文具店へ行くのは別のバスで、しかもかなり時間がかかりますよ、トンネルを五つ抜けた先にあるから、と。でもその文具店には、すごく可愛い文具があって、他では買えないので、行く価値はあります。そう教えてくれた。
かなり時間がかかると聞いて、私は行くのを諦めた。文具店へ行くのは、またの機会にしよう。

——このあたりで夢が切り替わったので、後半は省きます。

この夢はちょっと変だ。現実の名古屋駅前とは、かなり異なる。
名古屋駅前は、ここ10年くらいの間に、高層ビルの建築、建て替えが進んだ。
駅の北側には、KITTE名古屋やルーセントタワーはあるけれども、「商店街」など存在しない。小さな商店がひしめいているのは、駅裏だ。
駅裏が「親不孝通り」の異名を持つのは、予備校街だからとも、オタク御用達の店があるからとも言われている。予備校とオタク、どちらも通過済みの私は、二重の親不孝者なのだろう。

そして、中学生の頃ならともかく、今の私は、「可愛い文具」に特に萌えはない。
「書きやすいボールペン」へのこだわりはあるが(ジェットストリーム派です)。

なんだったんだろうなあ、この夢は。
ちなみにこの、「実在の名古屋駅前とはちょっと異なる、夢バージョンの駅前」は、以前にも夢に出てきたことがある。リピーターなのだ。夢バージョンの特殊な駅前地図が、私の脳内にはあるらしい。
こういう、「よく知っている場所にいるはずなんだけど、現実のその場所とは少し違っている」という夢を見ることは、しばしばある。

どうせ夢でしか行けないのなら、中世ヨーロッパ風の世界とか、シルクロードとか、宇宙空間とか、もっと夢のような別世界に行けたらいいのに。
そう思わないでもない。
けれども、その手の別世界は、夢から覚めた後もありありと思い出せるようなリアリティを伴うことは、まずない。

よくよく思い出すと、今回の夢に出てきた名古屋駅前商店街は、もう少し家に近い地下鉄の駅前の、かつての姿に似ている。かなり前のことだが、私は、その駅の近くにある病院に通っていた。病院から駅へ向かう道のりも、「夢の中の名古屋駅前地図」と重なる。

そこまで考えて、気づいたことがある。
この手の夢に出てくる、「よく知っているはずの場所なんだけれども、現実のその場所とは少し異なるパラレル世界」は、自分がつくる短歌に似ているのだ。
本や漫画や写真の世界から短歌をつくったこともあるけど、自分の実体験を種として短歌が生まれることの方が、私には多い。
そのとき、実体験の描写をしているつもりでも、無意識の世界で、他の記憶や景色と混ざり合って、少し歪んだ世界を写し取ることになってしまう。

私は海外生活をしたことがないので、外国の景色や日常は、リアルな夢(あるいは短歌)にはならない。
私の日常(や、よく知っているはずのもの)が、無意識の世界を通過して、少し歪んだ姿であらわれる場所。 それがあの夢であり、自分の短歌なんだと思う。

だから、私がつくった短歌を読んでもらえるのなら。
夢を見るときのように、こちらの世界に遊びにきてほしい。

それが今年の初夢だ。






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