拍手レスへの反響レス
2012.05.13 Sunday 22:38
最近ロクに更新できてなくてすみません。
本当はたまった拍手レスを書こうかと思ったのですが、その前に―――拍手レス番外編ふたたび、です。

先月のエントリ「ちょっとだけ拍手レス[番外編]」、多くの反響をいただきました。
あの記事で取り上げさせていただいた桜餅の葉っぱさん(というHNに決まったようです)からの拍手コメントに、共感する方が結構いらっしゃったんですね。
なので、あのエントリに関連するコメントのみ、こちらでまとめて公開レスさせていただくことにしました。
元記事を読み返しつつ、以下をどうぞ〜。
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| ●月ノヒカリ● | web拍手レス | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
どうしてもやめられないもの。
2012.05.08 Tuesday 22:31
どうしてもやめられないもの。
私は、お酒にもタバコにも縁がない生活をしているので、「わかっちゃいるけどやめられない」ものってあんまりないのですが……チョコとアイスは、やめられないです。定期的に摂取しないと、禁断症状が出ます。

そんなわけで今回は、私がいまハマっているアイスをこっそり教えちゃいます。
アイスクリーム
左側がグリコの「堂々ロール」。
クリームたっぷりのロールケーキといえば「堂島ロール」が有名だけど……私はあれ食べたことないからわかんないや。
この「堂々ロール」は、ロールケーキ生地の真ん中に、白いバニラとほんのり黄色のカスタード、2種類のアイスがたっぷり入っている。
濃厚な味でクリームいっぱい。(お値段のわりには)贅沢な味のアイス。
お上品なお嬢様なら、きっとお皿に載っけてスプーンで食べるのだろうけど……ダメダメ星人の月ノヒカリは、ガシッと手づかみでバクッとかじりついてます。
手づかみで食べる方がウマいです。たぶん。

右が森永の「MOW(モウ) ストロベリーチーズ味」。
MOWについては、以前にクリーミーチーズ味とキャラメル味がおいしかった―――と過去にこのブログにも書いたけど、やっぱりMOWにハズレなし。
イチゴ味が濃い!!チーズ味が爽やか!!

ああ、やっぱりアイスはやめられない。
わずか百円で幸せになれるんだもの。

そう言えば、アイスの他にももう一つ、「やめられないもの」がありました。
ずばり「ネット」です。
ネットって時間ドロボウだよね。 たまにはネットをやめて、のんびり・・・のんびり・・・アイスでも食べて過ごしたいなあ。なんつって。



| ●月ノヒカリ● | B級グルメ | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
貴戸理恵 『「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに』
2012.05.05 Saturday 22:49
岩波ブックレットの一冊。
著者は、不登校の経験があり、今は大学の教員として働いている女性だ。

この本の内容は、前々回のエントリとちょっと関係してるんだけど……「自己責任か、社会の責任か」という問題に、新しい視点を示してくれた。この視点は、不登校・ひきこもり・ニートといった問題について考えたいときに有益だと思う。

「コミュニケーション能力がない」ということ、私も何度かこのブログに書いてきた。
でもよくよく考えたら、これはおかしな話だ。
「コミュニケーション能力」なんて測定不可能で曖昧なもの、相手や場所によって変わるはずのものなのに。それを「個人の能力」とするのは適切なのか?
著者はそれを、個人と社会のあいだに生じる「関係性」の問題として捉え直し、不登校やひきこもりの問題を「関係的な生きづらさ」として考える視点を提示している。

例えば、「働きたくても仕事がない」(失業)とか、「働いても生活が成り立たない」(ワーキングプア)という悩みなら、労働市場の問題として取り上げることができる。

一方で、「働くことに踏み出せない」「働き始めてもつらくなって辞めてしまう」という悩みは、「甘えだ」と言われ「自己責任」と見なされることが多い。
しかしその内実は、本人にとっては「ぎりぎりまで頑張ってもどうにもならない」という圧倒的な経験であることが少なくない(P.10)―――この話、当事者になった経験のある人なら、身につまされるのではなかろうか?

この問題、「わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない」という結論になりやすいけど……著者はそこから一歩踏み込んでくれた。
なぜ「働いて自活している人」には、「ひきこもっている人」の語りが理解されないのか?
著者が考案した「生きづらさ」を理解するための6つの枠組み、目から鱗だったので、ここに書き写しておく。

まず、「生きづらさ」を以下の2つに分ける。
(1)学校や仕事などキャリアに関わるもの
(2)「病」「障がい」「老い」「性」など特殊化された個体性に関わるもの

そしてその上で、それぞれの「生きづらさ」をABCの三つの立場から考察する。
A「市場」を重視する立場
B「社会」を重視する立場
C「当事者」を重視する立場

すると全部で6つのバリエーションができる。それぞれについて簡単に説明する。

■(1)のA:「選んだ以上は自分の責任」(自己責任論的立場)
「生きづらさ」を「市場」重視の立場から理解すると、仕事をしない/できない若者については「甘えている」と見なされ、自己責任とされる。

■(2)のA:「弱者は負けてもしょうがない」(優生学的立場)
病者や障碍者、老人、女性など、特殊化された個体性に固有の「生きづらさ」を、「市場」重視の立場から理解すると―――弱い個人を「普遍的な個人」に近づけるように「支援」するという立場になる。いわゆる「自立支援」である。
しかし「自立支援」を言えば聞こえはいいが、それは「社会的な救済」を否定し、「弱い個体は淘汰されよ」とする優生学的立場に他ならない。

(1)のB:「選ぶように追い込む社会の責任」(社会要因論的立場)
個人が安定した仕事を得られないなどの問題の原因を、産業構造や雇用状況の変化といった「社会的なもの」に求め、自己責任論を批判する立場。

(2)のB:「弱さは社会で負担しよう」(社会保障的立場)
病者や障碍者、老人、女性などの抱える困難について、社会が責任を負うべきという「社会保障」を重視する立場。具体的には、所得の再分配によって福祉サービスや医療等を提供する。

(2)のC:「自分の弱さを受け入れよう」(無力さの承認の立場
特殊化された個体性に固有の「生きづらさ」を、「当事者」重視の立場から理解する枠組。具体例として、アルコール依存症者の自助グループや、精神障碍者のグループホーム「浦河べてるの家」が挙げられている。

ここまで5つの立場について説明してきたけど、もうひとつ「理論的にはあり得るはずなのに、現実には存在しにくい」枠組がある。
それが(1)のC「自分で選んだ、でも社会に追い込まれた」という立場だ。ひきこもりの生きづらさは、これに当てはまる。

  A 「市場」 B 「社会」 C 「当事者」
(1)“キャリア” 自己責任論的立場
「選んだ以上は自分の責任」
社会要因論的立場
「選ぶように追い込む社会の責任」
存在しにくい立場
「選んだ、でも追い込まれた」
(2)“弱さ” 優生学的立場
「弱者は負けてもしょうがない」
社会保障的立場
「弱さは社会で負担しよう」
無力さの承認の立場
「自分の弱さを受け入れよう」

これ、私にとって、実感としてよくわかる。
私には「病い」という固有の生きづらさがあるけど、自分がひきこもり状態にあるのは、それだけが原因じゃないわけで。
人と関わるのが苦手だったり、集団の中でうまくやっていけなかったりといった、自分本来の性格と切り離せない問題なんだと思う。
確かに私が人と関わりたがらないのは、「自分で選んだ」という側面もあるけれども、決して好きでこうなったわけではない、「追い込まれた」という側面もある。

こういう話は、「自己責任論」でも「社会要因論」でも理解されづらい。
著者の端的な説明―――私たちが不登校・ひきこもりを理解できないのは、「貧困」でもなく、「病気」でもなく、「個人の意志」でもないからなのです(P.40)―――という言葉、思わず噛み締めてしまった。

確かにこの立場は、「明らかな貧困」や「重い病気や障碍」に比べたら、「なまぬるい、ぜいたくな話」と思われるかもしれない。
しかし「どっちつかずの曖昧さ」というのにも、また独特の苦しみがあるということは、以前書評した本『障害・病いと「ふつう」のはざまで 〜軽度障害者どっちつかずのジレンマを語る』でも語られていた。
私たちの語りが「どうすれば伝わるのだろうか?」と考えるときに、この枠組は心に留めておくと良いのではないだろうか。

あともう一つ、著者は大事な問題提起をしてくれた。
ひきこもりの人と、働いて自活をしている人との間にある、ディスコミュニケーションについてなんだけど……。
端的に言うと、「生きづらさ」というのは、「働いて自活している人」の問題でもあるのだ、ということだ。
過酷な市場競争は「働いて自活している人」をも巻き込み、「フリーターは燃え尽きた正社員の明日」でもある。
疲れの取れない身体を引き摺るようにして仕事を続けている人達には、「もしかしたら自責の念に耐えながら布団の中で丸まっているかもしれない」ひきこもりの苦しみを、想像する余裕がない。
それにしても、体調や精神のバランスを崩しながら働き続けることが「適応」と呼ばれるのなら、「適応」が望ましいことだと本当にいえるでしょうか(P.45)―――という著者の言葉、かつてそういう状態にあった私にとって、心底共鳴できるものだった。

今ひきこもっている人もそうでない人も、この本から得るものは多いのではないだろうか。
「ひきこもっている自分だけの責任」として一人で解決を考えるのではなく、問題を周囲の人と共有し、その人を含む「場」の全員が問題解決を担う―――というのが、著者の主張する「関係性のレベルで問題を捉えなおす」方法の焦点である。

わずか63ページの薄いブックレットだけど、中身はすごく濃いので、興味のある方はぜひご一読を。

最後に。
この本は、いつも愛読しているブログ「グレーゾーン学とアブノーマライゼーション論」から、「グレーゾーンへ(36) ニート概念の支援外的批判」のエントリで紹介されて知った本です。こちらも参考に。




| ●月ノヒカリ● | 読書感想 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「空気」、読めますか?
2012.04.29 Sunday 22:27
久しぶりに、非コミュカテゴリのお話を。
「空気」という曖昧かつ日本的な概念については、すでに研究され尽くしている気もするけど……私の個人的な表明として、ここに書いておく。

「空気読め」って言われたこと、ありますか?

私はこの言葉が大っ嫌いだ。
自分が「空気を読む」のが苦手だから―――というのもあるんだけど、それだけじゃない。
何か場違いな言動をした人に対して、「空気読め」という言葉でそれを圧殺しようとする行為は、フェアじゃないと思うんだ。

「空気」というのは、「自分の意見」ではないから。
私は「あなた」の意見を聴きたいのに。
「空気」を盾にして、言動を圧殺する行為は、どうしても好きになれない。

ちょっとここで、特定の場の「空気」に対する態度を、便宜的に4つに分けて考えてみよう。
(1)空気に違和感なく馴染める人。
(2)空気を読まずに言いたいことを言っちゃう人。
(3)空気を過剰に読んで、何も言えない人。
(4)空気を読んだ上で、その空気を打ち破る言動のできる人。

こう分類してみると、このブログの読者さんは、(3)の人が多い気がする。何となく。私もわりとそういうタイプだったから。

でも、私自身が心惹かれるのは、(2)と(4)の人なんだよね。
「空気」から外れることができる人。
「空気」に逆らう人は、アクが強かったり、一癖も二癖もある人に見えて、近づき難く感じることもあるんだけど……アクや癖って、実は人間としての魅力の源泉でもあるんじゃないかな。そういう人にはキラッと光るものがあって、目をそらせなくなったりするから。

実際のところ、(2)の人は、その時々によって「愛すべき性格」に見えたり、「礼儀知らずの迷惑な人」に見えたりする。それは、なろうとしてなれるものではない。

私が「こうなりたい」と思うのは、(4)のタイプなんだ。
重苦しい空気を、ほんのひと言で明るくしてしまえる人、たまにいるよね。あれは憧れるなー。
それとは逆に、「お気楽なムードに、冷や水を浴びせるような発言をする人」もいて。こっちのタイプは、嫌われることの方が多いかもしれない。それでも、そういう人も世の中には必要なんじゃないか、と私は思うんだよね。
「何かおかしい」と気がついたら、それはきちんと声に出して、確認した方がいい。そういうことを現場でちゃんとやっていたら、防げた事故はたくさんあるんじゃないかと思う。

とはいえ、(4)のタイプになるための道のりは、簡単ではないみたいだ。
私は今でも「空気」を読むのが苦手だから。
「空気」なんてマジックワードで誤魔化すのではなく、きちんと言語化してほしい、ちゃんと「ここに齟齬がある」と面倒でも言葉で指し示してほしい―――と声を大にして叫びたくなることがよくある。

でもそれ、実際に「言語化する」のは難しいみたい。
現実には、「察しろよ」という無言の圧力があるだけだったりして。

ふと、去年このブログに、こんなことを書いたのを思い出した。
世の中には、私の知らない「暗黙のルール」がたくさんあって、でも自分にはその暗号が読み解けずに、ずっと右往左往しながら小突き回されて、迷い込んだ洞窟から出られない。
……できれば「暗黙のルール」は明文化してほしいものです。
   (web拍手にレス29 より)
ここに書いた「暗黙のルール」というのは、「空気読め」の「空気」に近いものだと思う。
そしたら、ある読者さんが、拍手コメントでこんなアドバイスをしてくれたんだよね。
「隠されたルール」を知るためには、「取りあえずやってみること」、そして失敗して学ぶこと、なんだよね。

最悪なのは「間違わないようにマニュアルを要求したり、予めマニュアルを渡したりすること」
   (web拍手にレス30 より)
……あの頃から私は、ちょっとは成長したんだろうか?

取りあえずやってみて、失敗して学ぶこと。
たぶんそれは、あらかじめ決められた「正解」なんてない現実の中で、手探りで自分なりの「正解」に近づくための、ただ一つの道なのだろう。

これからも私は、たくさん失敗して、いっぱい学びたい。
だから、「空気」なんて読めなくても、取りあえずやってみていいと、私は思うんだ。

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| ●月ノヒカリ● | 非コミュ | comments(8) | trackbacks(0) | pookmark |
ちょっとだけ拍手レス[番外編]
2012.04.20 Friday 22:23
更新が遅くなってスミマセン。
前回書いたように、現在ブログ主は「ここではない場所」でいろいろなことを学んでします。
あっちで学んだことを、いずれこちらでも活かせるかどうか、皆様に有意義な〈何か〉をお伝えできるかどうか、今はまだわかりませんが……。
このブログの読者様におかれましては、今まで通り生温か〜い目で、当ブログ&月ノヒカリを見守っていただけると嬉しいです。

さて、前回予告した、「ちょっと気になる拍手コメント」に一足先にレスする企画です。
4月4日にいただいた、こんなコメントです。

*「桜餅の葉を食べますか?」をコメントした者です。ヒカリさんのブログは面白く、かつ考えさせられます。過去の分まで遡り、ほぼ全部読みました。で、雨宮さん(の本・活動)についてですが、かなり賛同しつつ、「社会のせい」にばかりできない己を振り返ります。雨宮さん的な活動や発言は「自己責任」を問われない人については良いと思うのです。でも、この社会に生きづらさを感じつつ、しかし、自己責任も自覚している人間には、「雨宮さん的」なものに乗っかってしまうことに罪悪感を覚えるのです。例えば、失業して貧困に陥った人がいたとして、ある人は勤務先の倒産でそのような状態となり、別の人は仕事が嫌になって辞め、再就職先がみつからず、そのようになったしまったとする、前者の人は自己責任が問われないが、後者は自己責任が問われてしまうでしょう。自分は後者のほうです。そして、自分が人様に掛けた迷惑の数々を考えると、権利を主張してよいものかと考えてしまう。「無垢な被害者」ではないことが、心のなかで引っ掛かるのです。また、決して「恵まれなかった者」でもない。自分は、大学に行かせてもらい、一応、国家資格も取得しました。就職浪人にもならなかったし、これまで正規雇用で働いていた。けど、ありとあらゆるところで不適応を起こし、転退職を繰り返し、いま無職のひきこもり。何と言うか、「恵まれない無垢な被害者」でないと訴えに正当性がないような、「お前が言うな」と自分で自分を突っ込む声がします(幻聴ではなく文章上の表現です、念のため)。自己責任があっても、恵まれていても、それでも世の中に、生きづらければ生きづらいと声をあげてよいのか?助けてほしいと声をあげてよいのか?加害者である自分と被害者である自分、恵まれた自分と恵まれない自分、「つらいよ」と声をあげたい自分とそれに突っ込む自分、たぶん「それでも声をあげてもいい」が雨宮さん的なもので、「甘えるな」がネオリベな気分の今の日本。全てが自分でありながら、引き裂かれた混沌となっている。そして、混沌とした自分を受容できないから人間として未熟なのだろうか?ヒカリさんどう思いますか?それから話しはいきなり変わりますが、すがきやの味噌煮込みうどん(インスタントの袋めん)好きですか?自分は学生時代に愛知で暮らしておりまして好物になりました。

え〜こんなへっぽこブログを全部読んでくださってありがとうございます!
なんていい人なんだ〜(むせび泣き)。
さて、コメント主さんのご質問に関連する当ブログ記事は、以下の4つあたりでしょうか。
■雨宮処凛『生きさせろ!』
■NHKクローズアップ現代「“助けて”と言えない〜共鳴する30代〜」
■高森明『漂流する発達障害の若者たち』
■湯浅誠の「自己責任論」

このブログを書いてきた3年ほどの間、私もずっとあなたと同じようなことを考えていました。
私だって大学は出ているし、健康問題を除けば「恵まれている」部類なんです。「無垢な被害者」ではないのです。

でもね、自己責任を問われない「無垢な被害者」なんて、世の中にはまず存在しないと思うんですよ。

「自己責任が問われる/問われない」というのは、そんなにきっちり線引きできるわけではないはずなんです。
例えば「勤務先の倒産」で失業した人に対しても、「倒産しそうな会社に就職する方が悪い」などと、自己責任を問う側からすれば、いくらでも理由を見つけて責めることはできますから。

無垢な被害者でなくても、「助けてほしい」と声を上げてもいい。そして「自分もできれば人を助けよう」。これが私の出した答えです。

湯浅誠さんの以下の言葉、もう一回読み返してみてください。
そもそも、私が巷の自己責任論にもっとも不満だったのは、それが社会の構成員としての、市民としての、主権者としての自覚を伴わない物言いだという点にありました。誰かを排除する社会に住みながら、自分もその構成員の一人でありながら、その自己に対する責任の自覚なく、自分とは関係ない誰か、とりわけ排除を受けている誰かの責任に帰して、自分は無関係だと考えるその無責任さに腹が立っていました。その意味で、いわゆる自己責任論は社会的無責任論であり、私が「貧困は自己責任ではない」という言葉で訴えていたのは、「本人の人生には一点の曇りもありません」ということではなく、「貧困は社会的無責任論では解決しない」ということでした。その意味では、私は巷に流通している、自分の無責任さを正当化する理屈としての自己責任論者とは異なる意味での自己責任論者と言えるかもしれません。
 http://yuasamakoto.blogspot.com/2012/03/blog-post_07.html
ここに書いてあるのは、「自分には責任がない」ということじゃなくて、「社会にも責任があるのだから、自分もまた社会の一員として責任を引き受けましょう」という話です。

ひとつ、コメント主さんに提案したいのは、「論点を変えてみませんか?」ということです。

「自己責任か、社会の責任か」を問うても仕方ないのではないでしょうか。
罪悪感があるのも、それはそれで健全なことだと思いますが、自分を責めてもプラスにはなりません。
そのエネルギーを、「どうすれば〈私たち〉は生き延びることができるか?」と問う方向に、方針転換しませんか?

コメント主さんは「加害者である自分と被害者である自分」「恵まれた自分と恵まれない自分」、両方を自覚しておられるのなら、むしろバランスのとれた人じゃないか、と感じます。
混沌とした自分でいいのではないでしょうか。「未熟」というのは、裏返せば「まだ成長の余地がある」ということじゃないでしょうか。
被害者である自分と加害者である自分、両方を手放さずに、いろんな人と対話してみたらどうでしょうか。
自分とは反対の考え方の人もいれば、自分に近い考えの人も見つかるはずです。
それでも自分の代弁者が見つからなければ、「自分自身の手で、自分の状況を言葉にしてみる」というのも大事なことじゃないか―――と考えて、私はこうしてブログに書いています。

これで答えになってますでしょうか。
また何かご意見があれば、コメント欄にでも拍手コメントにでも、お気軽にお寄せください♪
ちなみに私、すがきやの味噌煮込みは食べたことないです……。

◎[読むのが面倒な人のための一行まとめ]↓
「誰の責任かは関係ない。一緒に助けあって生きていこうね!」


*すがきやの味噌煮込みうどん好きのものですが、ブログの広告、いつもリクルートの精神障害者雇用支援の案内が出ます。まるで自分がうつで依存(症的)でひきこもりの無職であることが知られているかのような・・・。働きたいので一応クリックすると対象が東京・千葉・神奈川・埼玉に在住の方。自分は対象外です。対象外地域でもこの広告出るのでしょうか?

これも同じ方からのコメントですね。
広告は選べないみたいです。Google先生が勝手に決めているようです。私も過去に、宗教団体の広告や育毛剤の広告が出てきて、しょんぼりしたことがあります(こちらを参照)。
知りたいことは、自分で検索するのが一番。広告は基本的にスルーした方が良いのでは?……なぁんて、無料ブログを使っている身としては、あまり大きな声では言えませんが。

それから、コメント主さんにお願いです。
できれば今後、ハンドルネームは「桜餅の葉」か「すがきやの味噌煮込みうどん」のどちらかに統一くてくださいな。月ノヒカリとしては、「桜餅の葉」の方を推奨いたしますが。
もちろん別ハンドルでも構いません。
ブログ主としては、固定ハンドルを名乗ってくれた方が嬉しいので、そこんとこヨロシクです。

以上です♪
ではまたね。



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