-
2020.09.12 Saturday
一定期間更新がないため広告を表示しています
| スポンサードリンク | - | - | - | -
2014.08.21 Thursday 23:08相変わらず暑い日が続いていますね。
気候に合わせて――というわけではないのですが、このブログも、今しばらく暑苦しいエントリが続きます。
一つ前のエントリ、「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述を読んでに、こんな拍手コメントをいただきました。
*渡邊被告やブログ主様からすれば
強い者側からの意見かもしれませんが、
多くの人に長時間不快な思いをさせた犯罪者として
渡邊被告が好きになれません。
被告の生い立ちには同情しますが、
間違った方法による主張だったと思います。
陳述書は一部しか読んでおりませんが、
自分が理不尽に傷つけられてきたという思いがあるなら、
なぜ自分も理不尽に傷つける力を持っており
理不尽に傷つけられた人はどう思うかというところまで想像がいたらなかったのでしょうか。
ただ、生きて発言し続けるべきというブログ主様の意見には賛成です。 自殺者に残された者としては、
なぜもっと周囲に迷惑をかけてでも自己主張してくれなかったのかという思いがあるからです。
(加害者になることを大変嫌う人でした)
今となってはそれが彼にとって周囲に迷惑をかけず自身の苦痛を減らす最良の選択に思えたのかなと思うばかりです。
自殺をした方、自殺を真剣に考える方の気持ちが判っていないのかもしれないと今でも後悔します。
被告の内面的世界がどんなものであろうと、
法的な処罰を受けた上で、被告が自分の人生を探っていただけたらと思います。
乱筆乱文ご容赦ください。
*昨日、被告のことは好きになれないと送信した者です。
今日陳述書を一通り読み終えました。
好きになれないとは書きましたが最後まで読んでやや印象を改めました。
陳述書の最後で、人の幸せを願うことができているということは、
被告の更生は既に始まっているのはではないかと思いました。
更生という言葉を被告は嫌うかもしれませんが。
コメントありがとうございます。
渡邊被告について、私自身の考えは、前回のエントリに書いた通りですが、もちろん人によっていろんな捉え方はあるだろうな、と思っていました。
ただ私は、そもそも3月に冒頭意見陳述を読んだときにも感じたことですけど、渡邊被告は、自身が述べているような「クズ」だとはとても思えないんですよ……。
ひとまずその話は後にして。
コメントを拝読して、コメント主さんは、近しい方を自殺で亡くされた経験をお持ちのようで……こういうデリケートな問題に触れていいものか躊躇いがあるし、自分なんかがそれについて語る資格があるのか、という迷いも常に付きまとっているのですが。
でも、ちょっと思い出したことがあるので、それについて書いてみます。
先にお断りしておきますと、私自身は、近しい人を自殺で失った経験はありません。
ただ、自分自身ずっと、強い自殺願望を持ってきたことは、このブログにも書いた通りです。さらに、癌という病気を患ったため、同世代の健康な人よりちょっとだけ「死」に近い位置にいた、とは思ってます。
そういう立場で書いているということを念頭に置いた上で、お読みいただけると幸いです。 -
2013.11.01 Friday 23:34これまで自分は、何度か「死にたいという気持ちがある」と書いてきたし、実際にそう思っていた。
でも、よくよく考えてみると、本当に自分は「死にたい」のだろうか? と疑問が湧いてくるんだよね。
というのも、私は「自分の死」というものを体験したことがない(当たり前だが)。自分が死んだらどうなるのか、死後の世界はあるのか、本当にはわかっていない。
「死」がどういうものか理解していないのに、それを望むというのは、ちょっと矛盾している気がする。
なので、もっと自分の望みに近い言葉を探してみたら――ふと思いついたことがある。
私は「死にたい」わけじゃなくて、単に「休みたい」だけなんじゃないかって。
これ、ちょっと奇異に聞こえるかもしれない。
仕事や家事で忙しい毎日を過ごしている人が「休みたい」というのは、理解を得やすいだろう。
でも、今の自分は無職だ。多少は家事の手伝いもするけど、普通の人と比べたら、全然「忙しい」わけではない。むしろ「暇」そうに見えるのかもしれない。
でも私には、「暇をもてあましている」という感覚は、まったくないんだよね。
それだけでなく、ここ十数年、「暇」とか「退屈」を感じたこともない。
いつも何かに追い立てられているような、あるいは押しつぶされそうなプレッシャーを感じてきた。
これについても、思い当たることがある。
タイトルは忘れたけど、昔読んだ精神科医の著書に、こんな一節があった。
「不登校の子は、学校を休んでいても、心の中で『学校、学校』と唱え続けているから、実はぜんぜん休んでいない」
これ、私も「なるほど」と感じ入るものがあった。
私もまた、働いていないときも、病気そのものの苦痛のみならず、「病気を治さなきゃ」とか「働かなきゃ」という緊張感や焦慮、さらに過去のトラウマティックな記憶で、心の中がいっぱいになっていた。だから、ちっとも「休んだ」という感覚がないんだ。
ここまで書いて、ふと思い出したことがある。
去年のことだけど、『暇と退屈の倫理学』の著者・國分功一郎さんがTwitterで、「引きこもり」に言及していたのだ。
過去ツイートを探し出したので、引用してみる。
あと『暇と退屈の倫理学』の問題系に関わる極めて重要な情報。斎藤さんから伺う。引きこもりの人は家でDVD観まくりみたいに思われているが全然違う。彼らは横になったり座ったりしているだけで本当に何もしていない。そして、にもかかわらず、全く退屈を感じていない。退屈だ、とは決して言わない。
「斎藤さん」というのはおそらく、精神科医の斎藤環先生のことだろう。
なぜかと言うと、引きこもりの人たちの心は強烈に焦っている。だから、退屈を感じる余裕がないのだという。そして、彼らが「なんか退屈になってきました」というと、斎藤さんは「ああ、だいぶ回復してきたな」と思う、と。
https://twitter.com/lethal_notion/status/264949150003646465
https://twitter.com/lethal_notion/status/264949588987883520
この「引きこもり」の感覚は、私もわかる気がする。
私もまた、読書やウォーキング等、日課はあるものの、普通の人と比べてそれほど多くのことをこなしているわけではない。
それでも「退屈」を感じたことはない。「退屈」って、自分には手が出ない贅沢品みたいに思っていた。常に疲労感が体にまとわりついているのが普通だから。
たまに元気なときは、それこそ恩寵のような時間であって、「退屈」が入り込む隙き間はない。
きっと私にとっては、その「たまに身体が軽くなる、恩寵のような時間」こそが、「休んでいる時間」に相当するのだろう。
そう考えると、ちょっと希望が見えてくるかもしれない。
「死ぬこと」よりもまず先に、「休むこと」を求めてみればいいのだから。
私は前述の通り、「暇」も「退屈」もさっぱり感じないので、『暇と退屈の倫理学』は読んでいない。
でも、前述の國分功一郎さんのツイートの続きに、こんな情報があった。
依存性の自助グループの方からも、「ちょっと退屈」で「ちょっと寂しい」退屈の第二形式の中でなんとなく生きられるようになるのが回復だと伺ったことがある。
依存症の自助グループというと、真っ先に上岡陽江さんが思い浮かぶ。このブログにも著書の感想を書いたことがあって、あの本に書かれていることと重なる部分がある。
https://twitter.com/lethal_notion/status/264950381451309056
回復というのは、「ちょっと退屈」で「ちょっと寂しい」状態の中で、なんとなく生きられるようになること。
それなら、さほどハードルが高くない目標だ。自分にもできるかもしれないな、と希望が湧いてくる。
そうしてもし将来、私が「ちょっと退屈」を味わう日が来たら、ぜひ『暇と退屈の倫理学』を読んでみたいものだ。
-
2011.08.13 Saturday 22:59私は中学生の頃からずっと自殺願望を持っていて、今も持ち続けているという話は、これまでも何度か書いた。
それ以後、たまに「自殺願望を持っている/いた」という人からコメントをいただくことがある。あまり表には出てこないだけで、自殺願望をもつ人は結構いるみたいだ。
一方で、「生きることは素晴らしい」と心底思っている人には、「自殺したい」なんて気持ちは理解されないんだな、とも感じている。
「自殺願望」に対するアドバイスの定石は、「精神科を受診しましょう」というもので、それは正論なんだけど。
私のように、もう十年近く精神科に通院していて、それでも自殺願望が無くならないという人間には、的外れのアドバイスだと思う。精神科医に相談したら「薬を増量しましょう」で終わっちゃうし。
万人に効くような「自殺願望が消える薬」なんて存在しない。
でも一つだけ、比較的よく効く薬がある。「死にたい」という思いを「言葉にして表に出す」ことだ。
ずっと以前、自殺についての話をブログに書き始めたときに、批判的なコメントをもらったこともあるし、読んで不快になる人もいるのかもしれないけど……。
でもやっぱり、書かせてほしいなあ。
自殺願望をもつ人は、多数派ではないだろうけど、少なからずいるみたいだし。
「ネガティブな感情は表に出すべきではない」というのが日本人の美徳みたいだけど、私は、感情はちゃんと表出した方がいいと思うんだよね。ただ、「ところかまわず、誰にでも」表出していい、というわけではないから、難しいんだけど。
・・・で、今から私の自殺願望について書きます。
いま精神的に不安定な人は、ネガティブ波に感染しないように気をつけてくださいね、ということで以下折り畳みます。 -
2011.01.26 Wednesday 23:50このブログには、たまに「自殺」とか「死にたい」という検索ワードで来てくださる方がいる。そういう検索ワードを見つけると、他人事ではないなあ、と気になってしまう。
私も、これまでブログで、中学生の頃からずっと自殺願望を持っていたこととか書いてきたし、自殺を「絶対にダメ」とは思っていない。
でもね、ここを見に来てくれた人には、死んでほしくないなあ、できれば生きていてほしいなあ、と勝手ながら思ってしまうんです。
そういう方々がここ読んでくれているのかわかりませんが、「死にたい」という人―――いってみれば自分の「同志」ですね―――に宛てて話してみたい。
その前に、以前ブログに取り上げた末井昭さんの「見て見ぬふりせず死者悼め」は名文だと思うので、未読の方はそっちを先に読んでね。
私も「もう生きていたくない」と思うこと、何度もあった。
でも「死にたい」と口に出しては言えなかった。「死にたい」とすら言えないのは息苦しいから、ブログに書いてるんだけどね。
ただひとつ言えるのは、「死にたい」と全身から叫び出したいくらい苦しかったとき、「なんでこんなに苦しいんだろう?」と自分に問いかけてみて、ふと気づいたことがある。
苦しいのは、「死にたい」と思う気持ちがある一方で、「生きていたい」と願う気持ちもあったからだったんだ。
それに気づいたとき、少しだけ息をするのがラクになった。
だから、心が「死にたい」と叫んでいるのなら、その声を否定する必要はない。ちゃんと聴いてあげてください。「自分は死にたいんだ」と認めればいい。
病気だったり、仕事がなかったり、何らかの事情でそもそも働けなかったり、自分を受け入れてくれる人が存在しなかったり、そういう立場にいる人にとっては、本当に切実だと思う。
だってそれは「生きる場所がない」に等しいもの。
でも、自分の心の99%が「死にたい」と叫んでいたとしても、ほんの1%でも「生きたい」と囁く声があるのなら、その声も大切にしてほしい。
100%全力で生きなくてもいいのだから。
私は、自分には生きている価値がないのではないか、という思いがずっと拭えずにある。
その一方で、私には揺るぎない信仰のようなものがある。
「生きていてはいけない人間なんていない。どんな人にも価値はある」ということ。
私は特定の宗教を信じてはいないけど、これは「真理」に近いと思う。
「すべての人間に価値がある」というのは、私個人の信仰であると同時に、普遍的な人間観でもある。
「基本的人権」という概念が指し示すように、世界的に、人類がそういう道を選びとってきた歴史がある。(ハーバード白熱教室の第6回では「すべての人間は等しく尊敬に値する」というカントの思想が紹介された。)
私には、カントのように自殺を否定することはできない。
「どうしても生きなければならない」理由も見つからない。
でも、自分にまだ「できること」があるうちは、もう少しだけあがいてみよう、と決めている。
いつまで生きられるかわからないし、これから生きていけるという自信も目処もさっぱりないんだけどね。
生きていれば、本当にどうしようもないときもあると思う。
でも、まだ「本当にどうしようもなくなる」手前にいて、少しでも自分に「できること」が残されているのなら、もうちょっとだけあがいてみてほしい。
私には言えるのはそのくらいです。
あとはこの歌でも聴いてください。→Jupiter
-
2010.06.20 Sunday 22:59もう去年の話なのですが。
2009年10月8日の朝日新聞オピニオン欄に、「自殺防止」というテーマで白夜書房編集局長・末井昭氏の主張が掲載されていた。
「見て見ぬふりせず死者悼め」という題のこの文、私が去年「自殺について」カテゴリを書いていた際、何度も何度もくりかえし読み返したものだった。今でもときおり読み返したりする。それくらい胸を打たれた文章です。
全文引用するのは著作権的にどうなんだろう?と思ったのですが、これは最初から最後まで通して読んでこそ、価値のわかる内容だと思うので、以下に全文書き記しておきます。
ぜひ読んでみてください。 - ←新しい記事 1/3 pages 古い記事→