2015.11.27 Friday 20:44
アキ・カウリスマキ監督作品『ル・アーヴルの靴みがき』をDVDで観た。
カウリスマキ監督作品は、ネット上で「市井の人々の日常を描いた名作揃い」という評判をちょくちょく目にするので、一度は見ておきたいと、前々から思っていたのだった。
フランス語の映画だったけど、カウリスマキ監督はフィンランド人らしい。

映画の主人公マルセルは、フランス北西部の港湾都市ル・アーヴルで、靴みがきを生業としている初老の男。妻のアルレッティ、愛犬のライカとつつましく暮らす平凡な人間だ。しかしある日、彼の妻が不治の病で入院することになる。その上、ひょんなことから、アフリカから来た難民の少年を自宅に匿うことになる。
ハリウッド映画的な派手さはないけれども、地味にドラマチックな展開ではある。

難民問題は、私にとっては身近なニュースではなく、遠い世界の出来事だと感じていた。 けど、この映画を見て、難民の存在がリアリティを伴って理解できるようになった。
――などと書いたら、大間違いなのである。

実はこのDVDには、特典映像として、主役のアンドレ・ウィルムと警視役のジャン=ピエール・ダルッサンのインタビューが収録されているんだけど、そこでは意外な裏話が語られていた。

例えば、映画の序盤、コンテナに潜んでいたアフリカからの不法入国者たちが、警察の監視のもとで発見されるシーン。 インタビューでは、監督のこんな言葉が紹介されていた。
「もし私が現実主義者なら、中にいる彼らを汚物まみれに描くだろう。でも私にはそんな描写をする権利はない。彼らには一番いい服を着てもらう」
確かにこのシーンに登場する難民の人たちは、長距離を移動してきたにしては、妙にこざっぱりとした格好をしていた。
つまりこの映画は、リアリズムを追求しているわけではなく、政治的な意図をもって選択された「表現」なのだ。

また、主役を演じたアンドレ・ウィルムは、こんなことを語っていた。
「私は労働者階級の男を演じるとき、きれいな言葉で話すように気をつけている」
なるほど、この映画に出てくる庶民、とりわけ主人公やその妻は、どこか上品な印象がある。それはリアルな庶民の姿ではないのかもしれない。しかし不思議なことに、不自然さはあまり感じない。この映画に流れている独特の雰囲気は、そんなところから醸し出されているのかもしれない。

しかし一方で、上記のインタビューでは、こんなことも語られていた。
「多くの映画では、労働者階級が天使のように描かれている。自由を求めて闘う彼らを賛美するような形でね。だが現実には酒に依存する人もいて、必ずしも天使とは言えない。つまり、複雑な問題を抱えている彼らを、我々の心情に合わせたやり方で描くのはよくない。彼らの厳しい現実にも目をやるべきだ」
欧州には社会主義の監督が多い。カウリスマキもその一人である――という話に続いて、述べられた内容だ。

この「社会的弱者の描かれ方」問題については、フィクションだけではなく、ドキュメンタリーやジャーナリズムにおいても、同じような側面があるのではなかろうか。当たり前のことだけど、貧困層であれ障碍者であれ、ダメな部分もたくさん持っている欠陥だらけの人間であって、必ずしも無垢な被害者であるわけではない。私がある種の報道(それも弱者に寄り添うような形の報道)に、どこか居心地の悪さを感じてしまうのは、そのあたりに原因があるのかもしれない。

映画のラストは、奇跡が起こって、ハッピーエンドで終わる。
これはある意味でファンタジーだ。
でもまったくのおとぎ話というわけではなく、リアリズムとファンタジーの絶妙なバランスの上に成り立っている物語じゃないか、と感じる。

この映画が、社会的に「負け組」の人たちに支持されるのは、理解できるように思う。
私自身、ひきこもるしかなく、どこにも行き場がない閉塞感に苦しんでいたとき、有名人の派手な成功譚などには、心惹かれることはなかった。無名の市井の人たちの、ささやかな日常を慈しむ物語こそが、私を慰めてくれた。


この映画を見て、ふと思い出した本がある。
良知力による社会史の名著『青きドナウの乱痴気』のあとがきに出てきたエピソードだ。
良知氏が貧乏学生としてウィーン留学中、グレーテという小さな身障者の老女が、同じアパートに住んでいたのだという。彼女は子どもの頃に病気をして、身長が1メートル8センチしかなく、いつもどこかが悪くて医者通いばかりしていた。
良知氏夫妻とグレーテとの交流が簡素に著述されているだけなのだけれども、私はこの短い文章がとても好きで、幾度も読み返したのだった。
このあとがきの最後のほうに、こんな一節が出てくる。
 むかし貧しいグレーテは、小さな古ぼけたラジオでいつもシュトラウスのワルツを流していた。彼女自身もなかなかいい声でウィーン子らしくよく歌を口ずさんでいた。身障者で夫も子供もなく、孤独でしかも貧乏なのにいつも陽気で、明るくニコニコと振舞っていた。私が何気なくそのことにふれると、彼女は一瞬真面目な顔になって、「ウィーン子はね、苦しみや悲しみみたいなものはシュトラウスを歌いながらみんな喉の中に流しこむのよ」と言った。

   良知力『青きドナウの乱痴気』p.268

このささやかなエピソードが、生きるのがつらくてたまらなかった頃の私を、どれほど慰めてくれたかわからない。 その後、シュトラウスを聴くたびに、私はグレーテおばあさんのことを思い出した。
私は、「成功」したいわけでも「勝ち組」になりたいわけでもなかった。こういう慎ましやかな日常の幸せをこそ、取り戻したかったのだ。

アキ・カウリスマキ監督の『ル・アーヴルの靴みがき』もまた、深い絶望に苛まれる人たちに、あたたかな希望の光を手渡してくれる、そんな映画じゃないかと思う。

     

上に引用した良知力『青きドナウの乱痴気』のあとがきは、『日本の名随筆 別巻59 感動』にも収録されているようです。




| ●月ノヒカリ● | 音楽・映画 | comments(4) | trackbacks(0) |
2015.08.04 Tuesday 23:30
ドキュメンタリー映画『ルック・オブ・サイレンス』を観てきた。
昨年このブログでも取り上げた、『アクト・オブ・キリング』の続編にあたる作品だ。
いつも参考になる町山智浩さんの解説はこちらに。

『アクト・オブ・キリング』は、1960年代後半にインドネシアで起こった大量虐殺事件について、今も罪に問われず安楽に生活する加害者たちの姿を撮影したドキュメンタリーだった。

今作の『ルック・オブ・サイレンス』は、虐殺された被害者の遺族たちに――今も沈黙を強いられ、怯えて暮らしている被害者側に寄り添ったドキュメンタリーだ。といっても、さすがはオッペンハイマー監督、ステレオタイプな展開にはならない。

実は、昨年書いた当ブログの『アクト・オブ・キリング』評について、「やらせ」という検索ワードでの訪問が少なからずあった。私もまたそれ以来、「ドキュメンタリーとは何か」ということを、改めて考え直すきっかけとなった。
ドキュメンタリーは、単に「事実を切り取ったもの」ではあり得ない。そもそもカメラを向けること自体「現実に干渉する」ことになるし、撮影した映像を編集する際には、作り手の主観が入り込む。だから、「やらせ」と「演出」の境界線を引くのは難しいのだ。

オッペンハイマー監督の『アクト・オブ・キリング』及び『ルック・オブ・サイレンス』は、撮る側の作為も含めて観客に提示する手法のドキュメンタリーだった。どちらも「過去の歴史」を探究するのではなく、被害者・加害者の「現在」を描き出そうとする試みだ。


今作『ルック・オブ・サイレンス』の主人公は、60年代の虐殺で殺された被害者の弟・アディという40代の男性である。
アディは、オッペンハイマー監督のカメラと共に、虐殺の加害者に会いに行く。アディは眼鏡屋で、加害者に「眼鏡を作りますよ」と言いつつ近づき、検眼しながら、世間話をするようなトーンで、過去の虐殺について問いかける。
虐殺の加害者は、今も政権側にいる人たちで、自らが過去に犯した殺人について自慢気に話す様子は、『アクト・オブ・キリング』でも映し出されていたとおりだ。

しかし、アディが「自分の兄も殺された」と打ち明けた途端、加害者は動揺し、態度を変える。
ただ、加害者から出てくる言葉は、悔恨ではない。「私は命令に従っただけ」という開き直りだった。この加害者の姿は、アイヒマン裁判を、ハンナ・アーレントの語る「凡庸な悪」を想起させる。

アディが訪問した加害者の中には、年老いて認知症になった者、すでに他界している者もいた。その場合、アディ(及びオッペンハイマー監督のカメラ)は、加害者の妻や子どもと対面し、虐殺について話すことになる。加害者の娘や息子ら(40代のアディと歳はそんなに変わらない)は、「今さら話を蒸し返すな」と怒り出す。あるいは「父を許してあげて。過去のことは水に流して」などと言う。
もちろん、加害者の子どもたちには、直接の罪はないだろう。そうであっても、「過去のことは水に流そう」だなんて、少なくとも加害者側が言うセリフじゃないよな、と思ってしまうわけで。


このシーンを見て、連想することがあった。
そう、先の戦争の加害者としての日本と、被害者としての東アジア諸国との関係だ。

家族を虐殺された遺族は、今も傷が癒えることはなく、怯えて暮らしている。そんな両親の姿を見て育ったアディ。
一方、加害者は、自己正当化を繰り返し、「過去のことを蒸し返すな」と言いつつ、のうのうと暮らしている。
被害者と加害者の間にある、圧倒的な溝。
それを目の当りにして、妙に腑に落ちるものがあったのだ。

「この映画を、遠い異国で起きていることを映し出す『窓』ではなく、自分自身の姿を映し出す『鏡』だと感じてほしい」。
映画のパンフレットには、オッペンハイマー監督のこんな言葉が収録されていた。

私たち日本人は、先の戦争において、東アジア諸国に対しては、加害者側の人間だ。
しかし、現代に生きる私たちの多くは、戦争に直接関わった経験はない。
そうであっても、加害者側の子孫として、先の戦争について、被害者側に対してどういう態度を取るべきか(あるいは取ってはいけないのか)、この映画から学べることはあると思う。


さらにもう一歩進んで、私個人の問題として、考えてみる。

私自身は、子どもの頃から反戦平和教育を受けてきた。
空襲や原爆といった「被害者としての日本」だけではなく、「加害者としての日本」の残虐な行為についても、子どもの頃から繰り返し聞かされ続けてきた。「加害者としての日本を直視せよ、反省せよ」という主張は、ごく当たり前のものとして受け入れてきた。
そういう子ども時代を経て、成長してから、小林よしのりの『戦争論』を読んで、衝撃を受けたのだ。「そういう視点があったのか」と、ものすごく新鮮に感じたのだった。

かといって、「加害者としての日本を直視せよ」という主張を「自虐史観」として退ける気にはなれなかったのは、自分の中で、バランスを取る力が働いたからだと思う。
うろ覚えだけど、当時の斎藤美奈子さんの書評に、こんな一節があった。 「新しい歴史教科書をつくる会」なんて言うけど、戦後史として見ると、小林よしのりの『戦争論』等で提示される考え方はむしろ「古い」考え方で、「加害者としての日本を直視せよ」という考え方のほうが、新しく出てきたものだ、と。
それを読んで、ああそうだったのかと思い、その後の小林よしのりに対して強い違和感を抱くようになった結果、私は「ゴー宣」から離れることになったわけだが。

でも、そういう自分の生育史を振り返ると、自分が子ども時代から受けてきた反戦平和教育には、「加害者としての日本を直視せよ」と主張する側にも、何かが欠けていたんじゃないか? と思わざるを得ない。

それについては、映画のパンフレットにあった森達也監督の解説から、ヒントが得られそうだ。
森監督は、『ルック・オブ・サイレンス』を読み解くために、二つの補助線を提示してくれている。

一つは、親鸞の『歎異抄』だ。森監督は、『歎異抄』から、次のような一節を引用している。
親鸞が弟子の唯円に「私が『人を千人殺せ』と命令したら、お前は殺せるか?」と問うた。唯円は、「師の命令であったとしても、私には一人も殺すことができません」と答える。親鸞は言う。「これで分かっただろう。心が善いから殺さないのではない。業縁がなければ、師の命令であっても人を害せるものではない。また、害そうと思わなくても、もしそこに業縁があるならば、人は百人千人をあっさり殺してしまうこともあるのだ」と。
それを受けて、「分ける境界は善悪ではなく『業縁』なのだ」と森監督は説く。

あともう一つ、森監督は、「殺す男たちは個人ではなく、常に集団だ」という視点も示してくれた。
一人称単数である「私」や「俺」が、「我々」とか「我が党」とか「我が国家」とかに肥大した結果、述語が乱暴になり、一人称単数に依拠する躊躇や逡巡や悔恨が薄くなる、というのだ。

単に善悪で裁くのはない、「業縁」という視点。
一人称単数である「私」の躊躇や逡巡も含めて、先の戦争を捉えなおすこと。
そういった見方で、私たちの間にある対立を乗り越えることはできないか。

自分の身内が、自分の祖父母が関わった戦争犯罪と向き合うことには、苦痛が伴う。
それでも、そういった痛みを経由しないまま口にされる「反省」という言葉を、私は信じることはできない。

『ルック・オブ・サイレンス』というドキュメンタリー映画を観て、そんなことをつらつら考えたのだった。






| ●月ノヒカリ● | 音楽・映画 | comments(8) | trackbacks(0) |
2015.02.28 Saturday 00:07
最近ちょっと気持ちが落ち込み気味なので、いつもとは違う音楽でも聴くか――
そんなとき、ふと思い出したのがブルーハーツでした。

ブルーハーツに思い入れがある世代って、たぶん今40代くらい、下はせいぜい30代後半あたりまで、かな。
私は十代の頃、ほとんど音楽を聴かない生活をしてたんだけど、ブルーハーツは別格だった。
当時はCDラジカセを持ってなくて、カセットテープが擦り切れるのを心配しつつ聴いていたのも懐かしい。
特に1stアルバムから3rdアルバムにかけては、今聴いても名曲揃い。
ただ一つ、すっごく後悔してるのは、ライブに一度も行かなかったこと。
いや、昔は(今もだけど)、ライブってリア充イベントっぽくて、ヒキコモリ属には敷居が高かったのよ……。
もしタイムマシンがあるなら、十代の自分に説教しに行きたい。
「ブルーハーツのライブには行っとけ!」と。

私はわりとネガティブ人間だけど、それでも自分の中に幾らか存在するポジティブ成分って、ブルーハーツから貰ったものじゃないかと思う。

ドブネズミみたいに美しくなりたい
写真には写らない美しさがあるから

   「リンダリンダ
と歌って、1987年にメジャーデビューしたブルーハーツ。

お前なんかどっちにしろ いてもいなくても同じ
そんな事言う世界なら ボクはケリを入れてやるよ

   「ロクデナシ

十代の頃からずっと、居場所のなさ、この世界に居心地の悪さを感じていた私にとって、ブルーハーツは救世主のような存在だった。

ボーカルのヒロトの声は、上手いとか下手とかいうレベルを超えて、私の胸の奥の奥まで、生き延びるのに必要なエネルギーを届けてくれた。

ヒロトの弾むようなボーカルは大好きだけど、ギターの真島がボーカルをとる「チェインギャング」もじんわり沁みる。
仮面をつけて生きるのは 息苦しくてしょうがない
どこでもいつも誰とでも 笑顔でなんかいられない

   「チェインギャング

「終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため」のリフレインが耳に残る中、こんな言葉が胸を突き刺すことも。
真実(ホント)の瞬間はいつも 死ぬ程こわいものだから
逃げ出したくなったことは 今まで何度でもあった

   「終わらない歌


「栄光に向って走る あの列車に乗っていこう」で始まる「TRAIN-TRAIN」を聴くと、本当に駆け出したくなるんだけど……印象的だったのは、こんな一節。
弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく

   「TRAIN-TRAIN
「ホームレスに暴力をふるう高校生」といったニュースを見聞きするとき、この一節を思い出した。
「弱い者が、さらに弱い者をたたく」のは、今ではごくありふれた、よく見かける光景だと感じる。とても残念なことだけど。


長い間アルバムには収録されてなかった「人にやさしく」もまた、私にとって特別な歌だ。
あの当時、私がヒロトから受け取ったもの。
その何万分の一でもいいから、誰かと分かち合うことができたらいい。
そう願いつつ、今の私は、ネット上に言葉を送り出している。
僕はいつでも 歌を歌う時は
マイクロフォンの中から
ガンバレって言っている
聞こえてほしい あなたにも
ガンバレ!

   「人にやさしく



←拍手はこちら〜


20年も前に解散した伝説のバンドなので、もしかして知らない方のために、つべのライブ動画へのリンクを貼っておきます。
リンダリンダ」「TRAIN-TRAIN」「人にやさしく
終わらない歌」「チェインギャング



↑ 1st、2nd、3rdアルバムと、最近出たベスト盤CD。




| ●月ノヒカリ● | 音楽・映画 | comments(8) | trackbacks(0) |
2014.10.29 Wednesday 22:39
またもやミニシアターで映画を観てきました。
「どうして自分が観るのはミニシアター系の映画ばかりなのか?」について考察しようとしたら、長くなりそうなので、今回はやめておきます。

■映画『悪童日記』公式サイト

ハンガリー出身のアゴタ・クリストフによる原作小説は、全世界でベストセラーになったらしいけど、私は読んでいない。原作未読でも、人間のもつ本質的な残酷さや複雑さといったテーマは、映像から充分に伝わってきた。

物語の舞台は、第二次大戦下のハンガリー。田舎の祖母の家に疎開した双子の少年が、厳しい生活のなか「悪」に手を染めつつ、生き抜いていく――。

※以下、なるべくネタバレはしないように書きましたが、多少はネタバレしているので、未見の方はご注意を!


まず何より、主人公の双子の少年が美しい。その眼光の鋭さ、こちらの心の奥底まで射抜くような眼差しのもつ力は、圧倒的だ。
双子を演じるラースロー&アンドラーシュ・ジェーマントは、家庭の問題を抱えており、ハンガリーの小さな貧しい村で、厳しい肉体労働をするのが日常だったという。なるほど確かに、温室育ちの少年ではあり得ない面構えだ。

映画の冒頭では、双子は仲のいい両親と共に暮らしている。
しかし、母方の祖母の家に身を寄せてから、生活は一変。「魔女」と呼ばれる太った祖母は、双子の母と折り合いが悪いらしく、双子を名前ではなく「メス犬の子」と呼ぶ(この双子の名前は、最後まで明かされないままだった)。祖母は、双子を薪割りなどの労働にこき使いながら、まともな食事も与えない。飢えた双子の前で、飼っている鶏を絞めて焼き、自分だけ貪り食うという底意地の悪さだ。

双子は、聖書と辞書のみで読み書きを覚え、父に与えられた日記帳に日常を書き綴る。映画は、この双子の日記を軸に展開していく。

過酷な現実を生きるために、双子は次第に「悪」に手を染めるようになる。悪といっても「悪ガキのいたずら」レベルの話ではない。最初は、隣人の少女から盗みを学ぶ。と同時に、少女を助けるために、居酒屋で芸を披露してお金を稼ぐシーンもあり、その心根は決して残酷なだけではないことがわかる。

その後、双子の暴力行為は、次第にエスカレートしていく。
神父を強請って金を得る。
司祭館で働く美しい女性のストーブに爆発物を仕掛け、彼女は顔に大やけどを負う。
隣家に火をつけて燃やす。

しかし私は、それらの双子の行為を、単純な「悪」とは見做せない。というのは、双子が手を下す以前に、神父やその女性の方が悪事を働いていたからだ。双子は、彼らなりの倫理観に基づき、神の裁きの代理執行をしただけではないのか――少なくとも私は、そう受け取った。
そもそも神父や司祭館で働く女性が犯した悪徳行為は、彼らが受けた「罰」よりさらに重く、質が悪い。
双子の犯した行為は、確かに「悪」なのだけれども、その行為の内に何かしら「道徳的な正しさ」がひそんでいるように思われる。そのことが、この物語に、深みと複雑さを与えている。


さらにもう一つ、印象深かった点を挙げると。
この双子は、間違いなく祖母から虐待されているのだけれども、共に暮らすうちに、両者の関係が次第に変化していくのだ。

これはずっと前から秘かに考えていたことなんだけど……「虐待」と「愛」って、そんなにすっきり切り分けられるものなのだろうか?

何度かこのブログでも取り上げた、古い少女漫画の名作『風と木の詩』のジルベールは、叔父(後に実父であることが明かされる)であるオーギュストから虐待を受けてきた少年だ。しかし、ジルベールとオーギュとの絆は、ただ単に「虐待」として切り捨てられるものなのか?と考えると、そうではないように思う。二人の関係の底に流れているものは、それもまた「愛」だったのではないか。少なくとも、あの作品を読んだ当時の私は、そう受け取った。

話を『悪童日記』に戻すと、双子と意地悪な祖母との関係も、そんなに単純なものではない。映画の中盤から少しずつ、両者の心が通い合うシーンが現れる。
屋外で発作を起こし倒れてしまった祖母を、双子が家のなかに連れて行こうと必死で引っぱっていく場面。
あるいは、刑事から拷問を受けた双子を、祖母が心配する場面。
そして、愛する母が双子を迎えに来たとき、彼らは母と共に行かず、祖母のもとに留まることを選ぶのだ。
さらに双子は、祖母から「次に発作を起こしたときには、これを牛乳に入れて飲ませてほしい」と毒薬を託される。祖母の望み通り、双子は彼女の自死を手助けする。
祖母と双子との関係は、「虐待する者とされる者」でありながら、しかしそれだけで終わるものでない。両者の間に流れているのは、確かに「愛」ではなかったか。

あるいは、双子を祖母に預け、また迎えに来た母は、確かに双子を愛していたのだろう。しかし、双子の父が戦場にいる間に、他の男と通じて子どもをもうけた彼女の愛は、それほど美しいものだろうか。
また、戦争が終わり、双子を迎えに来た父は、彼の妻のその後の顛末を知り、双子を残してその場を去ろうとする。その彼の態度は、「息子を愛する父」のそれと言えるだろうか。

私たちは、それほど単純な存在ではない。
美しいもののなかに醜悪なものがひそみ、醜悪なものから美しい何かが生まれる。
人間は、あるいはこの世界は、そういう不可思議な逆説を孕んでいるのではないか。

そんなことを考えさせられた。
テーマは暗く重いけれども、忘れ難い映画になりそうだ。

この『悪童日記』、原作は三部作なので、できれば続編も映画化してほしいな。また成長した双子を見てみたいです。

      悪童日記 (ハヤカワepi文庫)




| ●月ノヒカリ● | 音楽・映画 | comments(0) | trackbacks(0) |
2014.04.19 Saturday 23:45
今年初の映画は、やっぱりミニシアター系でした。

映画『アクト・オブ・キリング』公式サイト

映画評論家の町山智浩さんが絶賛していると知り(ラジオ番組音声文字起こしされたブログ記事)、これは観に行かねばなるまいっ!と、公開を心待ちにしていました。

観終わったときの感想を一言でいうと――「呆然」だった。映画が終わって、無音の画面にクレジットが流れるのを見つめながら、私は「感動」でもなく「号泣」でもなく、ただただ「呆然」としてしまった。
「何だか物凄いものを見た」という感覚はあるんだけど、うまく消化できない。

内容については、上記リンク先の町山さんの解説がわかりやすい。
この映画の主役であるアンワル・コンゴは、1960年代のインドネシアで起こった大虐殺の加害者だ。

恥ずかしながら私、インドネシアでそんな大虐殺があったこと、今の今まで知りませんでした。1965年の軍事クーデター(9・30事件)以降、インドネシア各地で、共産党関係者や中国人が虐殺され、その数は100万とも200万とも言われている、らしい。その虐殺の担い手は、プレマン(英語のFree Manが語源)と呼ばれるチンピラで、若き日のアンワルもその一人だった。

アンワルをはじめ虐殺の加害者は、全く裁かれることなく、今も裕福な生活を送っている。そして、過去に自分が行った殺人について、カメラの前で誇らしげに、嬉々として語るのだ。
それがどんどんエスカレートしていって、ついにはエキストラを募って虐殺を「再演」することに。ジョシュア・オッペンハイマー監督のカメラは、それをただ静かに追う。思わず吹き出してしまうシーンもありつつ、しかし「これ、笑っていいのか?」と躊躇ってしまい、観る者の感情は宙吊りにされる。

この映画の「加害者」の異様さについては、すでにあちこちで語られているから、ここではあえて触れないことにして。

私がちょっと引っかかったのは、この映画に登場する、おそらく唯一の「被害者」側の男性だ。アンワルの隣人であるその男性は、「殺人の再演」の中で、尋問され殺される役を演じることになった。その彼が、アンワルらの前で、「私が子どもの頃、育ての父親が華僑だったため、殺された」という告白をするシーンがあるんだけれども――そのシーンに私は、何とも言えない居心地の悪さを感じてしまった。というのも、彼が「笑いながら」、とても不自然な「ヘラヘラした笑い」とともに、その話をしていたからだ。育ての父を殺されたという実体験を、「泣きながら」話すことが許されない、ということ。それが堪らなく痛ましい。

その彼が、「殺人の再演」の中で尋問されるシーンを演じているとき、涙を流していたんだけど――その表情が、ものすごく真に迫っていた。彼はその演技を通じて、自分の継父が殺された出来事を追体験していたのではないか。だからそれを見て私、ちょっとハラハラしてしまったのですよ。大丈夫かな、この「演技」、この男性にとってトラウマになったりしないのかなって。後でパンフレットを見たら、この男性(スルヨノという名前だった)の人物紹介の欄に、「撮影後まもなく、映画の完成を待たずして死去」と書いてあり、ええぇぇぇええええ〜!?と驚くとともに、胸がヒリヒリ痛みましたよ……。

余談だけど、この映画については、パンフレットを買って正解だった。時代背景も含めて、パンフレットを読んで理解が深まる面が多々あった。ジョシュア・オッペンハイマー監督の「監督声明」は素晴らしく、想田和弘・町山智浩らの解説も読みごたえがある。

パンフレットの冒頭、監督の声明文を読んで、腑に落ちたことがある。というのは、この映画はもともと、大虐殺の生存者を撮影していたのだ。しかし軍に阻止され、撮影は暗礁に乗り上げた。そんなとき生存者の一人から、虐殺の加害者を撮影してほしいと依頼されたのだという。「彼らはきっと自慢気に語るはずです。その自慢話を撮影してください。その映像を観れば、私たちがなぜこれほど恐怖を感じているのか分かって頂けるはずです」と。

それから何年もかけて、オッペンハイマー監督は虐殺の実行者たちを撮影し続けた。『アクト・オブ・キリング』の主人公アンワルは、監督が出会った41番目の加害者だという。そしてさらに、多くの匿名のインドネシア人が、命を危険に晒しながら撮影に協力したのだと。今のインドネシアの政治状況では、この映画に名前をクレジットすることは危険なため、「匿名」なのだ。

パンフレットのこのくだりを読んで、やっと、私のなかにじわじわと「感動」が湧き起こってきた。たくさんの匿名のインドネシア人や、今も怯えて暮らしている虐殺の生存者、そしてこの映画に10年という歳月を費やしたオッペンハイマー監督の情熱が、深いリアリティを伴って胸に迫ってきた。

この映画については、まだまだ語りたいことが、あり過ぎるくらいあるんだけど……すでにネット上にはたくさんのレビューがUPされているので、つたない文章で、これ以上多くは語るまい。

ただ一つだけ、付け加えるとしたら。
私がこの映画を観て味わったものが、まさに「ドキュメンタリー」の神髄だったんじゃないか、ということだ。

実を言うと、最近の私は、「ドキュメンタリー」というものを、ちょっと「胡散臭いもの」のように感じていた。震災ドキュメンタリーの「やらせ演出」が話題になったりしたから、なおさらだ。

ただ、少し前の朝日新聞に載っていた是枝裕和監督のインタビュー記事を読んで、目を開かされたことがあった。
是枝監督はこんなことを語っている。
ドキュメンタリーは、社会変革の前に自己変革があるべきで、どんなに崇高な志に支えられていたとしても、撮る前から結論が存在するものはドキュメンタリーではない。それはプロパガンダなのだと。
プロパガンダからはみ出した部分、人間の豊かさや複雑さに届く表現こそがドキュメンタリーの神髄なのだと。

この『アクト・オブ・キリング』という映画、私はまさに、是枝監督の語る「ドキュメンタリーの神髄」を見た気がする。
主人公の虐殺者アンワルは、この映画を見る限り、決して「極悪人」には見えない。孫を可愛がる優しいおじいちゃんだ。そして「虐殺の再演」をするうちに、アンワルの感情にも変化が見られる。
おそらく、それを撮っているオッペンハイマー監督の心にも、変化が生じたのだろう。その変化が、観客である私たちにも感染する。単純に「加害者を告発する」のではない、もっと深い次元へと、私たちを連れて行ってくれる。

この映画、観て損はないです。っていうか、必見です。
これから順次、全国で公開されるようなので、チャンスがあればぜひ劇場に足を運んでみてください。






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