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2017.04.25 Tuesday 20:10
体調がすぐれないため、しばらくツイッターお休みすることにしました。
その代わりに、ブログを更新します。久しぶりに、社会勉強のエントリです。

こんなニュースがありました。

■芸能人のSNS不正アクセス、容疑の26歳男書類送検(日本経済新聞 2017/4/25)
芸能人の交流サイト(SNS)に不正にログインしたとして、福岡県警は24日、福岡市博多区の無職の男(26)を不正アクセス禁止法違反容疑で書類送検した、とのこと。 容疑者は「他人の私生活ののぞき見が楽しく、パスワード解読にハッカーのような優越感があった」などと話しているそう。

ここを読んでくださっている皆さんも、ツイッター等のSNSを利用されている方が多いのではないでしょうか。

もし誰かが、自分のツイッターのパスワードを不正に取得して、勝手にのぞき見しているとしたら……?
怖いですよね。不気味ですよね。
自分は特に何も悪いことはしていなくても、見られて困るものは何もなくても、平気でプライバシーを侵害する人がいるということ自体、不気味です。

さて、他人のSNSをのぞき見する行為は、どんな法律に触れるのでしょうか?
というわけで、今回は「不正アクセス禁止法」について調べてみました。

まずはこの、富山県警のサイトにあった解説がわかりやすいので、こちらで予習しました。
■不正アクセス禁止法について(富山県警ホームページ)

ざっと概略を掴んでから、いよいよ「不正アクセス禁止法」の条文を読んでみます。

■不正アクセス行為の禁止等に関する法律(略称:不正アクセス禁止法)

「ツイッター等、他人のSNSのパスワードを不正に取得して、ログインすること」は違法行為になるのか?
不正アクセス禁止法から、該当箇所を抜き出してみました。

(不正アクセス行為の禁止)
第三条  何人も、不正アクセス行為をしてはならない。

(他人の識別符号を不正に取得する行為の禁止)
第四条  何人も、不正アクセス行為(第二条第四項第一号に該当するものに限る。第六条及び第十二条第二号において同じ。)の用に供する目的で、アクセス制御機能に係る他人の識別符号を取得してはならない。

(不正アクセス行為を助長する行為の禁止)
第五条  何人も、業務その他正当な理由による場合を除いては、アクセス制御機能に係る他人の識別符号を、当該アクセス制御機能に係るアクセス管理者及び当該識別符号に係る利用権者以外の者に提供してはならない。

(他人の識別符号を不正に保管する行為の禁止)
第六条  何人も、不正アクセス行為の用に供する目的で、不正に取得されたアクセス制御機能に係る他人の識別符号を保管してはならない。

 「不正アクセス行為の禁止等に関する法律」より引用

上記条文の主語は「何人(なんぴと)も」なので、すべての人に適用される内容です。

まとめると。
(1)他人のパスワードを、無断で入力するのは違法行為(不正アクセス)。
(2)無断で他人のパスワードを第三者に教えるのも違法行為。
(3)不正アクセス目的で、不正に取得された他人のパスワードを保管するのも違法行為。
ということになります。

罰則は以下の通り。
(1)の不正アクセス行為は、三年以下の懲役又は百万円以下の罰金(11条を参照)。
(2)と(3)は、一年以下の懲役又は五十万円以下の罰金(12条を参照)。

被害にあったときに、「それは違法行為だ」とはっきり認識できるよう、法律を押さえておくのは、大事ですね。
違法行為の被害にあったときは、「法テラス」等、無料法律相談を行っているところがありますので、相談してみるといいかもしれません。

以上、SNSを利用している皆様にも、何かの役に立つかもしれないと思って、書いてみました。

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| ●月ノヒカリ● | 社会 | comments(0) | trackbacks(0) |
2016.03.25 Friday 23:04
精神科医の斎藤環先生が一人社会運動をしてるので、その意気に感じた私も一口乗ることにしました。
3月21日に、TVタックルでひきこもり特集が放映されたらしいのですが――番組で紹介されていた「ワンステップスクール伊藤学校」というひきこもり支援団体のやり方が、ひきこもり当事者に対して暴力的な介入を含むものだったとのこと。
その「支援」方法を、斎藤環先生がTwitterで厳しく批判されたのです。

斎藤環先生の一連のツイートは、Togetterにまとめがあります。
■http://togetter.com/li/953049

件の番組の動画を見つけたので、私も見てみました。
■ビートたけしのTVタックル ひきこもり 3月21日(動画)
確かに4分50秒あたりで、ドアを蹴破る場面が出てきます。全体の結論としても、「ひきこもり問題をこんなふうにまとめられたくはない」という終わり方でした。

斎藤環先生のTwitterから、一部引用します。

Togetterまとめの続きには、ひきこもり当事者向けに、この手の業者に踏み込まれたときの対応策も書いてあります。暴力的な介入には「NO」と言っていい、しかしそれにはやり方があるんだ、ということは、ひきこもり当事者の皆さんも知っておくといいかも。


さらに斎藤環先生、同番組について、BPO(放送倫理・番組向上機構)に審査要請を出されたとのこと。
斎藤先生の用意した依頼文例には、問題点をわかりやすく説明してあるので、以下に引用します。 申し立てはこちらからできますので、賛同される方はぜひご協力を。


そして昨日、斎藤環先生のFacebookページに「ワンステップスクール伊藤学校の関係者のみなさまへ」という投稿がされました。「このページを(検索上位に来るよう)拡散してほしい」とのことですので、リンクを貼った上で、以下に一部引用します。
……
 伊藤学校の「支援」は端的に暴力です。「暴力的」ではなく「暴力」。そこまでひどくないとお考えの方はDVの定義をご確認ください。同意なしに個的領域(身体、心、尊厳、自由、プライヴァシー)を侵犯する行為はすべて暴力です。番組内で確認し得ただけで、廣岡さんはひきこもり当事者の部屋のドアを蹴り破り、部屋に土足で上がり込み、長時間説得し、怒鳴り上げ、罵倒していましたね。暴力であり支援対象を「おとしめる」行為です。伊藤学校に限らず、この種の「支援」団体はすべて私の批判対象です。

 あのような暴力を「親を苦しめているんだから当然」とか「生徒が社会復帰したんだからOK」と言うのなら、体罰もしごきもDVも虐待も「結果オーライ」になってしまいます。しかし、そのような考え方は、「関係性の暴力」にとことん甘い日本社会でしか通用しません。ひきこもり当事者にも人権があることをお忘れですか? 伊藤学校があの手法をとることをやめない限り、私は批判をやめるつもりはありません。

 関係者の方は廣岡さんにお伝えください。ただちに暴力的支援をやめ、あのような番組に被支援者を出演させたことを当事者に謝罪してください、と。ほかに手段がない? たしかに押し寄せる依頼の数をさばくには暴力は効率が良いでしょう。若い支援者が陥りがちな勘違いですね。

 いかなる支援も、支援の対象者の尊厳を尊重しつつ、丁寧に関係性を築くところからはじめるべきです。その過程において、支援者の加害性・侵襲性を常に念頭に置く必要があります。「ひょっとしたらお節介かも知れない」という不安を忘れたら支援ではなくなります。それではただの「ひきこもり退治」です。
……
(斎藤環氏のFacebookページ、2016年3月24日の投稿より)
https://www.facebook.com/tamaki.saito/posts/10156772343405473?pnref=story

「ひきこもり支援」の名の下に、当事者への暴力的な介入が行われるのは、許されないということ。
こういう意識、皆に共有されほしいです。
2006年に起こった「アイ・メンタルスクール事件」をご記憶の方もいらっしゃるでしょう。暴力的な「支援」によって死に至った若者も存在するのです。

それだけじゃない。マスメディアが興味本位でひきこもりを取り上げると、番組に取り上げられた人だけの問題では済まないのです。報道の陰で、余計に苦しむことになるひきこもり当事者が増える可能性もあるんです。

過去にニートバッシングが起こった時もそうでした。
若年無業者には、様々な事情があって困難な状況に陥った人も多いのに、ひたすらニートを「甘えだ」と叩く報道がされたことで、布団の中でブルブル震えるくらい脅えていた人もいるのです。マスメディアの報道の仕方によって、苦しんでいる当事者を、余計に苦しめる可能性もあるということは、忘れてないでほしい。

というわけで、当ブログの社会的影響力なんてほぼゼロですが、多少なりとも「支援という名の暴力」について、マスメディアの報道のあり方について、皆さんと共有できればと思い、ブログに書かせていただきました。

社会を変えるって、こういう「小さなことからコツコツと」やっていくしかないですから。






| ●月ノヒカリ● | 社会 | comments(0) | trackbacks(0) |
2015.11.16 Monday 00:05
ずいぶん更新の間が空いてしまいましたが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
ブログをお留守にしている間にも、ちょこちょこコメントや拍手コメントをいただき、こんな辺境ブログを見捨てずに訪問してくださる方もいるのだなあと、ありがたいやら申し訳ないやら、そんな今日この頃です。

今日は、久しぶりに見たテレビ番組のことを書きます。
11月7日のNHKのEテレ、ナチス政権下のドイツで行われた障碍者虐殺についての特集番組「それはホロコーストの‘リハーサル’だった 〜障害者虐殺70年目の真実〜」。
14日に再放送があることをツイッター知り、滑り込みセーフで録画しました。教えてくださったフォロワーさんに感謝。

内容は、想像以上に重かった。
ナチス政権下のドイツで、ユダヤ人虐殺が行われたのは有名な話だ。
しかし実は、それより前に、多くの障碍者がガス室で殺されていたのだ。とりわけ自分の意見を主張しづらい精神障碍者、知的障碍者が犠牲になった。しかも医師が率先して、組織的に殺害を行ったのだという。
この件について、ドイツの精神医学会が公式に罪を認め、謝罪したのは、わずか5年前、2010年のことだ。

障碍者殺害の根底に流れているのは、優生思想だ。
「障碍者は生きているだけで金ばかりかかる価値のない存在である」「障碍者を支えるための国の負担は、国の財政を圧迫する」といったプロパガンダが、ナチス政権によって広められていた。

1939年9月1日、「T4作戦」と呼ばれる障碍者安楽死命令が、ヒトラーによって発せられた。
治療が不可能な患者を安楽死させることは、「恵みの死」と呼ばれ、T4に関わった多くの医療者も、その行為に疑問を感じることはなかったという。

計画は極秘裏に進められ、人目につかない、辺鄙な場所にある病院が、殺害場所として選ばれた。連日、患者がバスに乗せられ、施設に運ばれていった。
当時の様子を覚えている80代の男性は、インタビューで次のようなことを語っていた。
――病院からはいつも煙が出ていて、嫌な臭いがしていた。帰還兵士はその臭いを「死体が焼かれるのと同じ臭いだ」と話していた。患者が乗せられた満員のバスは、帰りは空っぽだった。施設はすでにいっぱいのはずなのに、おかしい。住民たちは「何かおかしなことが起こっている」と気づいていた。けれども、誰も止めようとしなかった。山の上で何かが起こっているけど、自分たちとは関係ないと距離を置くようになった――。

・・・というのが、番組の前半部分のあらすじ。
パーキンソン病の父を、てんかんの叔母を、殺害された遺族へのインタビューも含めて、思わず涙ぐんでしまう箇所も多々あった。

殺害の対象となった精神病として、当然スキゾフレニア(今の統合失調症)も含まれていたので、私にとっては他人事とは思えなかった。

それだけじゃない。
障碍者殺害の動機になった考え方と同じような価値観、つまり「働いていない自分は、価値がないから死んだほうがいい」とか、「自分のような病人は、存在しない方が社会のためだろう」という思いは、これまでずっと私自身を苛み続けてきたものでもあった。
そういった考え方は、ただ単に私個人の思い込みにすぎない、というわけではないと思う。
それは目に見えにくいけれども、この社会全体を覆っている価値観の一つだ。

もちろん今の時代、公然と「障碍者、病者を殺害しろ」と主張する人は、まずいない。
けれども、「病人はお荷物だ、迷惑な存在だ」と内心思っている人は、少なからず存在する。それはある意味で事実だ。
まして「健康であることはいいことだ」という考えを否定するのは難しい。

このナチスドイツ時代に起こった障碍者虐殺は、過去の出来事だ。でも、その根底に流れている優生思想は、今も形を変えて、私たちの中に生き続けているように感じる。

そういう価値観を、目に見えない部分で刷り込まれ続けてきたら、障碍者・病者自らが「もういいから安楽死させてくれよ。その方が〈社会のため〉だ」とか、「健康な人だけを残して、健全な社会をつくればいい」とか、そう主張し始めてもおかしくはない。私自身、何度そういう言葉が喉まで出かかったかわからない。このブログに寄せられたコメントにも、安楽死を望む声が、幾つも存在した。

そして、だからこそ、番組の後半に登場した、障碍者虐殺を公然と批判したある宗教者の言葉には、深い感銘を受けたのだった。

多くの人が見て見ぬ振りをしたナチス政権の障碍者虐殺に対して、初めて公然と声をあげたのは、クレメンス・アウグスト・フォン・ガーレンという、ドイツ北西部の町ミュンスターの司教だった。
彼は教会での説教の中で、「いま障碍者に行われているのは、『恵みの死』ではなく、単なる殺人だ」ときっぱり述べたのだった。
番組中で語られたフォン・ガーレン司教の言葉、ぜひ皆さんとも共有したいと思ったので、ここに書き起こしてみる。
「貧しい人 病人 非生産的な人 いてあたりまえだ
 私たちは他者から生産的であると認められたときだけ生きる権利があるというのか
 非生産的な市民を殺してもいいという原則ができ 実行されるならば
 我々が老いて弱ったとき 我々も殺されるだろう
 非生産的な市民を殺してもよいとするならば
 いま 弱者として標的にされている精神病者だけでなく
 非生産的な人 病人 傷病兵
 仕事で体が不自由になった人すべて
 老いて弱ったときの 私たちすべてを 殺すことが許されるだろう」

このフォン・ガーレン司教の言葉は、聴衆の心の深い部分に訴えかける力があったのだろう。その説教の原稿は、書写され、全国のキリスト教団体に、そして市民へと広まったという。

そして、司教の説教から20日後に、T4作戦は中止となった。
そう、独裁政権による非道な行為であっても、市民が声をあげれば、止めることは不可能ではないのだ。

ただ、番組の最後で、さらに衝撃的な結末が待っていたのだけれども。というのは、T4作戦の中止によって取りやめられたのは、ガス室での殺害だけだったのだ。T4作戦の中止を不満に思っていた医師たちは、薬の過剰投与や計画的餓死などの形で、その後も患者殺害を続けたのだという。
このT4中止後の安楽死(「野生化した安楽死」と呼ばれる)の犠牲者も含めると、殺害された患者は、ドイツ全土で20万人以上にのぼるとのこと。

そしてその後、1941年以降に本格化したユダヤ人虐殺の舞台となった収容所には、T4に携わっていた医師や看護師が派遣され、ノウハウを教えていたのだという。
つまり、「T4作戦」は、実質的に「ホロコーストの予行演習」のような形となったのだ。

番組に登場した、障碍者虐殺の調査に携わった歴史家・ハンス=ヴァルター・シュムール教授の締めの言葉を、最後に引用したい。
「……
 私たちは人間を改良しようと考えるべきではありません
 社会の中に 病、障害、苦悩、死が存在することを受け入れる
 こういった意見が少なすぎます
 命に関する問題に直面したとき
 他人の価値観に振り回されていないか
 それがもたらす結果まで想像できているかと
 自分に問う必要があるでしょう」

「他人の価値観」、つまり世間一般に流布されている価値観をそのまま受け入れることは、病や障碍を抱えた人間にとって、害毒となることもある。
「人は働くべきだ」「健康なのはいいことだ」というのは、否定しがたい価値観だから。
でも、その価値観こそが、病・障碍を抱えてきた私自身の、苦しみの源泉だった。

この社会は、病や障碍をもたない人間を基準に設計された社会だ。
その基準から外れた人間は、隙間で生きることになる。
世間一般に流布している価値観とは、別の考え方、生き方が必要になる。ただ生きていくため、それだけのために。

そういう意味で、今回の放送は、私にとって、単なる「過去の出来事」でも「他人事」でもなく、今の自分自身につながる問題を多く含んだ、深く胸に迫ってくる番組だった。

このNHKの「ナチスから迫害された障碍者」については、12月初めに、3回シリーズの番組の再放送があるようなので、興味のある方は見てみてください。

※NHK シリーズ戦後70年 障害者と戦争 ナチスから迫害された障害者たち
(1)20万人の大虐殺はなぜ起きたのか
(2)ある視覚障害者の抵抗
(3)命の選別を繰り返さないために







| ●月ノヒカリ● | 社会 | comments(6) | trackbacks(0) |
2015.07.28 Tuesday 23:55
去る7月16日に、安全保障関連法案が衆議院で可決されましたね。現在、参議院で審議中、みたいです。
どうやら日本が「集団的自衛権」を行使できるようにする法案らしいです。

「らしい」とか何とか曖昧な書き方をするのは、正直に言って私は、今の状況について「何かマズいことが起こってるらしいけど、何がマズいのかいまいちピンと来ない」と感じてるからで。

私はもともと政治にたいして興味はない、二次元の世界を愛するオタクです。
でも、民主主義の国に住んでいて「主権者」ってことになっているのだから、最低限の政治参加はしなきゃいけないのかな、という義務感は持っているという、その程度の人間です。

だから今の状況に「怒り」を感じている人には、これから私が書くことはトンチンカンに見えるかもしれない、ということはあらかじめお断りしておきます。
これから書くことは、私なりに「わからなかった」問題点を理解するために、議論に「補助線」を入れて、交通整理をしようってことです。

   *   *   *   *   *

ここしばらく私は、安全保障関連法案に反対する側の意見をたくさん目にしてきたんだけど、今ひとつわかりづらいのは、二つの異なる論点がごっちゃになってるからではないか? と感じたのだった。

一つめは、「日本が集団的自衛権を行使できるようにするべきか否か」という論点。
もう一つは、「この法案(または集団的自衛権の行使)は憲法違反じゃないか」という論点。

この二つは、分けて考えた方がいいと思う。

前者は「国際政治学」の視点から出された問い、後者は「法学」の視点から出された問いである――と区別することができるのではないか。
この二種類のレイヤーが異なる視点について、それぞれを分けて考えてみたら、もう少し話がわかりやすくなるのではないか。

   *   *   *   *   *

まず一つめの、「日本が集団的自衛権を行使できるようにするべきか否か」という問いについて。

安全保障関連法案を「戦争法案」と呼んで反対している人達は、おそらく「集団的自衛権の行使を認めること」自体に反対しているのだろう。
でも私は、「戦争法案」のような「わかりやすいスローガン」には、違和感がある。だって私たちの多くは、「戦争したい」わけじゃないはずだから。平和がいいに決まってる。平和のために、「集団的自衛権」が必要か否か。それが知りたいんだ。

そもそも、どういう背景があって、今回の安全保障関連法案が提出されたのか?
これについては、国際政治学者の藤原帰一氏による解説が、一番納得できるものだった。

■集団的安全保障 国内消費用の議論の危うさ(2015年1月8日)
■集団的自衛権の行使 慎重な判断、期待できない(2015年7月21日)

集団的自衛権とは、「自国が攻撃されていなくても、同盟国が攻撃されたときには、同盟国と協力しつつ、武力でもって阻止する権利」のことだ。
ただし、「集団的自衛権」はしばしば濫用されてきた歴史があるということ、その一例として、1968年のチェコスロヴァキア「プラハの春」へのソ連による軍事介入も、「集団的自衛権」を口実としてなされたこと。それについては、以前このブログでちょこっと取り上げたことがある。

私個人としては、「集団的自衛権」を容認すると、泥沼の戦争に引きずり込まれそうで嫌だな、という不安がある。そういう、私が感じているような不安を、藤原帰一氏は「巻き込まれの恐怖」という言葉で表現している。実際、安全保障関連法案を「戦争法案」と呼んで反対している人の主張は、まさに「米国主導の戦争に、日本が巻き込まれる危険」を訴えているようだ。

他方、集団的自衛権の行使容認を主張する側は、「(米国に)置き去りにされる恐怖」があるとのこと。つまり、「日本に何かあったときに、アメリカが守ってくれなくなったら困る(置き去りにされる)」という不安が根底にあるらしい。

同盟国(=アメリカ)の戦争に「巻き込まれる危険」と、同盟国に守ってもらえない「置き去りにされる危険」。
安全保障関連法案の反対派は前者について、推進派は後者について、主に訴えているのではないか。
そう考えると、賛成派と反対派の議論がより見通しやすくなると思う。

しかし、日本と中国の関係がかつてよりも緊張状態にある今、アメリカ側も「日本の問題に巻き込まれたくない」という思いがある、というのが藤原帰一氏の見立てだ。アメリカだって、日本と中国が戦争になったら困るのだ。戦いたくない戦争に巻き込まれることになるから。
つまり、実際には、日本とアメリカ双方に「巻き込まれる危険」と「置き去りにされる危険」両方の危険があるのだ。それら全体を見通した上で、「集団的自衛権を認めるか否か」について考えるべきじゃないか。

   *   *   *   *   *

さて次に、二つめの論点。「法学」の視点からは、この「安全保障関連法案」はどう見えるのか。

多くの憲法学者がこの法案を「違憲である」と判断したことは、大きなニュースになった(参照記事 :安保法案は違憲!?――渦中の憲法学者・長谷部恭男教授に訊く)。

日本が集団的自衛権を行使するのは、憲法に反する。戦後長い間、そう解釈されてきた。それを現内閣は、独自の判断で「合憲である」と解釈して、強行採決してしまったこと。これは、法学者の視点から見ると、「法治国家の土台を揺るがすような大事件」となる、らしいのだ。

権力は濫用される危険がある。そのときたまたま政権の座にいる人たちが、勝手に好き放題やっちゃったら、社会の安定性は失われる。だから、国家権力は、あらかじめつくっておいた「法」によって制限されなければならない。それが「法治国家」というものだ。憲法は、国家権力を縛る最大の鎖でなければならない。それが「立憲主義」の考え方だ。

その憲法を、今の政権は、無視しようとしている。「集団的自衛権」は従来「違憲」とされてきたのに、その行使を認める法案(安全保障関連法案)が、国会を通過しようとしている。
「国家権力は、法によって縛られるべき」という法治国家の理念が、目に見えないところで壊されつつあるという危機感。この危機感は、「集団的自衛権」に賛成するか否かに関わらず、もう少し皆に共有されてもいいんじゃないか。

つまり、もし集団的自衛権の行使を認める法案を成立させたいなら、まず憲法を改正するのが筋なのだ。
だからこそ、改憲派の憲法学者・小林節氏も、この安全保障関連法案については、猛烈な勢いで批判しているのだ(参照URL→http://www.asahi.com/articles/ASH6H73D9H6HUTFK024.html)。

   *   *   *   *   *

ここまでの話をまとめると。
国際政治学の視点から、なぜ今「集団的自衛権」を認める法案が提出されたのか、という問いについて。
法学の視点から、「憲法違反」と言われている法案を、国会で成立させることが「危険」なのはなぜか、という問いについて。
それぞれ、自分なりに見つけた答えを書いてみた。繰り返しになるけど、この二つは分けて考えた方がいいと思う。

集団的自衛権の行使を認めるべきか否か、そのために憲法はどうあるべきか。それについては、ここを読んでくださっている皆さんにも、ぜひ考えてほしいと思うし、私自身も考え続けたい。今後の課題として。

私が政治的な問題について、「自分の意見を強く主張する」ような書き方をしないのは、私のように迷っている人たちに、「一緒に考えてほしい」と願っているから、なんだけど。

   *   *   *   *   *

最後に、私が望んでいるおおまかな方向性について、書いておく。

日本国内における「集団的自衛権」についての議論は、どうやら世界のスタンダードからはズレているらしい。それは認めよう。日本には憲法9条があるからだ。

でもじゃあ、自衛隊を正式に「軍隊」にして、集団的自衛権を行使できるようにして、世界のスタンダードに近づくことが、「普通の国」になることが、果たしていいことなのだろうか? それは日本の国益に適うのだろうか?

私はそれ、ちょっと疑問に思っている。

というのも、以前このブログで取り上げた、伊勢崎賢治氏の『国際貢献のウソ』に、こんなことが書いてあったからだ。
「自衛隊を『自衛軍』にして、集団的自衛権を行使できるようにするのではなく、憲法9条を持つ日本ならではの国際貢献をしませんか」と。
これ、すごくクールかつ魅力的な提案だと思うんだよね。

どうも今回の安全保障関連法案についての議論は、賛成・反対に関わらず、「日本が戦争に巻き込まれる」とか、「日本が守ってもらえなくなる」とか、日本の心配しかしていないみたいで、それが私には、少しばかり残念だった。
私たちは、「日本の平和」だけを考えるのではなく、「世界の平和のために、日本に何ができるのか」ということも、ちょっとは考えてもいいんじゃないか?

伊勢崎賢治氏は、昨年出版された『日本人は人を殺しに行くのか 戦場からの集団的自衛権入門』という本の中でも、「憲法9条を武器に世界と交渉し、非武装自衛隊が国連軍事監視団の任務を行う」という、日本にしかできない国際貢献のカタチを示してくれている。世界各地で紛争処理に当った経験をもつ伊勢崎氏ならではの、安倍政権が主張するのとは別の形の「積極的平和主義」の提案だ。
日本に憲法9条があること、「戦争をしない国」というイメージを世界に発信していること、それ自体が日本にとって、何より大きな武器になる、ということだ。

私自身は、ガチガチの護憲派ではない、つもりだ。
けど、少しずつ憲法について知るにつれ、「今の日本国憲法って、なかなか、いいんじゃないか」と思うようになったのも事実で。

日本国憲法前文には、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」という一節がある。
その憲法の精神に則って、私たちは、日本の国益だけではなく、「世界益」つまり「世界の平和のために、日本に何ができるか」ってことも、もう少し考えてみてもいいんじゃないか。

――というのが、不完全ながら、今の私に見えているものと、自分なりのスタンスです。

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2014.12.11 Thursday 23:30
今度の日曜日が衆院選なので、その前に更新。

ただ、前から言ってるように、私は政治に関心がないし、まったく選挙には熱くなれないタイプなので、「投票に行こう!」とか言うつもりはないです。
むしろ「なんで選挙に行かなきゃならないんだろう…?」と愚図愚図考えてしまうタイプの人に、シンパシーを感じます。私自身がそうだから。このブログの過去記事でも、選挙のたびにそんなことばかり書いてきました(これとかこれとか)。

えっと、先月のことだけど、東浩紀が、Twitterでちょっと興味深い発言をしてたんです。
セカイ系とか美少女ゲームとかバカにして社会派に走ったのがこの数年の批評だったわけだけど、それで結局なにも得ることなかったんだから(これは反省も込めている)、もう社会改革なんて無視して、生きるとはなにかとか愛するとはなにかとか追求することに、もういちど向かうべきだと思うのよね。
 https://twitter.com/hazuma/status/536918176617869312

ぼくたちは、選挙なんてどうでもいいから、神とか愛とかについて考えたいんだよ。そういう人間はこの国にもたくさんいるのに、「そういう連中は社会不適合者、選挙いくのがまともな大人」とかいって片付けるから、政治の質が下がるんだよ。そういうこと本気で言うのが大事だと、最近は思ってる。
 https://twitter.com/hazuma/status/536922951900078081

神がないところに、政治なんてあるわけないのであって、この国は意味不明だよ。
 https://twitter.com/hazuma/status/536923244289208320

ぼくたちの人生は限られている。それをいかに有効に使うか。なるほど税金はぼくたちが払ってる。でもそれを収めて義務を果たしているんだから、もうそれ以上 無駄な時間まで取られたくないと思うのは、果たして不合理なのか? この「国家」とかいうくだらんゲームにどこまで付き合えばいいのか?
 https://twitter.com/hazuma/status/536924925169131520
一部のみの引用で、ちょっと文脈をぶった切ってしまったけど、なかなかに退け難いテーマを含んでいるように思う。

「政治と神」というのも面白そうなテーマだけど、かなりややこしい話になりそうなので、それは置いておいて。
とりあえず今回は、「愛」について考えてみる。

「政治」というと、永田町の権力闘争みたいなものを想像する人もいそうだから、それは避けて、ここでは「社会変革」という言葉を使うことにする。

私にとって、「社会変革」と「愛」は、一本の線でつながっている。

「愛とは何か」を定義するのは難しいけれども――とりあえず、「自分にとって大切な人たちが、幸せでいてほしい。できればいつも笑っていてほしい」と願う気持ちは、「愛」と呼んでもいいのではなかろうか。

私がこのブログを――よりによって「社会を変える」などという大それたタイトルをつけて――書き始めたのは、何よりもまず私自身が「社会的に疎外されている」「居場所がどこにもない」という切実な痛みを抱えていたからだ。そういう意味では、まったくの利己的な動機で始めたことだった。
でも一方で、「こんなふうに苦しんでいるのは、絶対に私だけじゃないはず」という確信のようなものもあった。
これまで声を発することができなかった私が、自分が苦しんできたことを言葉にしてみたら、もしかしたら同じように苦しんでいる人たちと繋がれるんじゃないか。
そういう思いがあった。

そうして、このブログを読んでくださった方の中には、自殺願望を持つ人もいれば、生活保護受給者の人も、障碍や難病を抱えた人もいた。生きづらさを抱えながら、なんとか生き延びてきた人も、たくさんいる。
縁あってこのブログを訪れて、私が発した言葉に共鳴してくれた人たちもまた、私にとって「大切な人」だ。
その大切な人たちが、今よりもう少し苦しくなくなって、できれば笑って生きられるような、そんな世の中になってほしい。そういう世の中に近づくために、今の自分にできることがあるなら、ほんの小さなことでも、積み重ねていきたい。それが私にとっての「社会変革」だ。

でも、「選挙で投票に行くことで世の中がよくなるのか?」と問われると、うーん、と考えてしまうよね。
今の時代は、政党政治とか、議会制民主主義とか、そういう制度そのものが疲弊してしまって、機能しなくなっている。だから今とは別の形の民主主義を――と主張する学者もいるくらいだし(この人とかこの人とか)。

それでも、じゃあもう選挙なんか行かなくてもいいじゃないか、とまでは言えないよね。少なくとも私は。
私には支持政党はないし、正直言って投票したい政党もないんだけど、とりあえず今の制度の中で、よりマシな方を選択しようと、ちょっとだけ考えてみるのは、無駄じゃないと思う。それしかできないっていう、まあ「投票」というのは、ある意味、無力感に苛まれるための儀式のような気もしますが。

ただ、これも前から言ってることだけど、民主主義の本質というのは、「一人ひとりが主権者としての意識を持つこと」にあるんじゃないかと、私は考えている。言い換えれば、「社会問題はどこかの誰かが解決してくれる問題ではなく、自分もまた解決に携わらなくてはならないのだ」という自覚を持つこと。そのために自分自身もまた成長していくこと。そうしなきゃ民主主義は「生きた制度」にはならない。

えーとつまり、話が長くなったけど、「私と関わりのあった大切な人たちが、できるだけ幸せに暮らせるようになってほしい」と望むなら、「社会を変えていかなきゃいけない」と当然考えることになるよねって話です。
そりゃ「勝ち組」の人たちにとっては、現状の社会のままでもたいして困らないのでしょうから、「社会変革」なんて考えなくてもいいのかもしれないけど。でも、ギリギリ生き延びてきた人間にとっては、本当に、生きるか死ぬかの問題だよね。

だから、私にとって、「愛について考える」ことと「社会変革」は、まったく矛盾しない、ひとつながりのものなのです。


まあ、選挙前にこんな文章を書いてる自分は、とんでもなく世の中からズレまくってる気もしますが……ブログ主の頭がおかしいのは最初からなので、諦めてください。


一応、投票の参考になりそうなサイトを二つ紹介しておきます。

まずは、各政党・候補者のスタンスが一目で分かる「朝日・東大谷口研究室共同調査」。
http://www.asahi.com/senkyo/sousenkyo47/asahitodai/
集団的自衛権、原発、ヘイトスピーチへの対応など、それぞれの政党・候補者のスタンスが図で表示されます。わかりやすいです。

最高裁判所裁判官国民審査については、「ポリタス」にあるまとめが便利です。
http://politas.jp/articles/226


というわけで、今度の日曜日は、このブログを通じて出会えた方々のことを思い浮かべつつ、投票に行ってこようと思います。






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