2017.12.25 Monday 00:55
ツイッターの #MeToo ハッシュタグで、性犯罪やセクハラの被害を訴える動きが、世界中で広がっている。
ハリウッドの女優が大物プロデューサーのセクハラを告発したことから始まるが、日本でも、有名ブロガーのはあちゅうさんが電通勤務時代に受けたセクハラ・パワハラについての記事が出て以降、続々とセクハラ被害にあった女性の声が上がって「炎上」のような様相を呈している。
過去、自分のツイッターTLに、女性の性犯罪やセクハラ被害体験談が流れてくることはちらほらあったので、潜在的な被害者は多いのだろうな——とは思っていたけど、改めてその数に圧倒された。

単なる「嫌がらせ」と「ハラスメント」との違いは、権力関係の有無にある。
権力を握っている側が、立場の弱い人間に対して、人格や尊厳を侵害するレベルの理不尽な行為をすれば「パワハラ」だし、それが性的な嫌がらせを含む場合は「セクハラ」になる。
そう考えると、私が今年に入ってから、とある人たちにされた嫌がらせは、「パワハラ」であり「セクハラ」でもあったと思う(例えば、事実ではない異性関係の噂を広めたり、容姿や胸が大きい小さいなどと揶揄することもセクハラに当たる)。

私は現在、会社勤めをしているわけではないので、典型的な「セクハラ」「パワハラ」の被害を受けた、とは言いづらい状況だ。ただ、被害者の告発を読んでいると、私自身が過去にされた「嫌がらせ」の痛みと重なる部分があるように感じた。
様々な証拠や条件が揃っていたら、私ももっときちんと詳細を書いて、自分の被害体験を公に問いたかった。残念ながら自分にそれができないということは、いま表に出ている被害体験は「氷山の一角」に過ぎず、もっと多くの被害が水面下にあって、今も一人で苦しんでいる人がたくさんいることの証左のように思われる。

これから書くことは、特に目新しいことのない、個人的な思いにすぎないかもしれない。でも、私自身が抱えている痛みからの回復のためにも、書くことにする。

すでに多くの女性が述べていることだけど、はあちゅうさんのセクハラ告発記事を読んでいて、悲しくなったのは、以下の部分だ。
「私の場合、自分が受けていた被害を我慢し、1人で克服しようとすることで、セクハラやパワハラ被害のニュースを見ても『あれくらいで告発していいんだ…私はもっと我慢したのに…私のほうがひどいことをされていたのに…』と、本来手をとってそういうものに立ち向かっていかなければならない被害者仲間を疎ましく思ってしまうほどに心が歪んでしまっていました」
 https://www.buzzfeed.com/jp/takumiharimaya/hachu-metoo?utm_term=.bn3GZkOk2#.ed11eJVJR

ここを読んで、伊藤詩織さんが、著名なジャーナリストから受けたレイプ被害を告発した時、女性からの非難があったと語ったことを思い出した(こことかここを参照)。
私はそれが不思議で仕方なかった。なぜ女性が、性犯罪の被害にあった女性を叩くのか?
私はレイプのような重い性犯罪の被害にあったことはないけど、それでも女であるがゆえの理不尽な差別や犯罪の被害、それに伴う苦痛は、多少なりとも理解できる。だから、なかなか言葉にはしづらいけれども、詩織さんのように勇気を出して被害を告発する人を、応援したい気持ちはある。

でも、現実には、女性がセクハラや性犯罪の被害を告発するとき、「女性からの反発」があることを覚悟しなければならないみたいだ。とても悲しいことだけれども。

伊藤詩織さんは、年配の世代の女性は、我慢して男社会に合わせるのが当たり前だったから、自分のように告発することに否定的なのではないか、と述べている(参照URL)。
確かに、年配の世代の女性は、今より我慢しなければならないことも多かったかもしれない。今でも、生きていれば我慢して他者に合わせなければならない場面も多くある。でもその「我慢」は、本当に必要な我慢か? という疑問は、考えてみてもいいんじゃないかと思う。
ハラスメントに耐えて、心身を病んでしまった人、中には自ら命を絶つ人も存在するのだ。加害者の体面を保つことは、本当に、被害者の命よりも大切なことだろうか?

若い世代の女性で、セクハラ告発に批判的な例として、指原莉乃さんの記事がある。指原さんは、「セクハラなんて自分にもまわりにもない」と発言したらしい(参照URL)。
AKB界隈で「セクハラがない」というのはちょっと信じがたいのだけれども、指原さんはかなり「空気を読んで、自虐しつつ発言する」タイプで、そうすることで「勝ち抜いてきた」タレントだから、彼女の中では「セクハラなんて存在しない」ことになっているのかもしれない。

これについては、トイアンナさんのブログ記事を読んで、腑に落ちる面があった。ある種のゲームを戦っているエリート層にとって、「優秀さ」というのは「女性であることを売りにできる、そこを使ってのし上がること」も含まれる、とのこと(参照URL)。

なるほど、「女性であることを売りにする」のは、私にとってものすごく苦手な分野だ。そういう価値観の場所では、私はきっと生きていけないだろう。

えっと、つまり、まとめると。
男社会で女性が生きていくためには、自分の「女性」の部分を売りにしつつ、でもセクハラは上手にかわしつつ、男性と同じ仕事をして出世するしかない、と。
・・・いやそれ、無理ゲーでしょ。少なくとも私にはできない芸当だ。

はあちゅうさんの記事に戻ると、上記引用の続きで、彼女はこう語っている。
「けれど、立ち向かわなければいけない先は、加害者であり、また、その先にあるそういうものを許容している社会です。私は自分の経験を話すことで、他の人の被害を受け入れ、みんなで、こういった理不尽と戦いたいと思っています」
 https://www.buzzfeed.com/jp/takumiharimaya/hachu-metoo?utm_term=.cgOBWq8qj#.umeA6V5V9
この言葉、私も全面的に賛同したい。


もう一点、はあちゅうさんの記事に戻って、妙に共感してしまったポイントを挙げてみる。
セクハラ・パワハラ加害者は、少なくとも「仕事」の面では、実績があり尊敬できる存在だった、という点。ハラスメントを告発しづらい、それどころか「被害者本人が、ハラスメントの被害にあっていることに、気づくことすら難しい」のは、この問題があるからだと思う。

実は私自身、簡単に人をリスペクトしてしまって、でもよくよく近づいて見てみたら、「こんな卑劣なことが平気でできる人なんだ…」と知って愕然とする、ということが、過去に何度かあったのだった。そういうことを複数回繰り返しても懲りないあたり、自分は本当に馬鹿だなあ、と呆れてしまうのだけれども。

誰が見ても人格的に問題のある人物からハラスメントを受けたのなら、逃げることもさほど難しくはなかったと思う。
でも、仕事上の実績があって尊敬している人にハラスメントされると、「逃げ遅れる」こともあるのだ。尊敬している人が、そんな酷いことをするはずがない、と心のどこかで信じたいから。

これもよく言われることだけれども、社会的に「人当たりの良い、親切な人」という評価をされている人であっても、目下の女性に対しては、高圧的な態度をとる男性もいる。立場が上の相手には慇懃に振る舞い、立場が弱い相手に暴言を吐くタイプだ。

性犯罪やハラスメントの被害でも、今回の #MeToo 運動でも、「声を上げた被害者を孤立させてはいけない」と言われている。でも、加害者が対外的に「善い人」という評価を得ている場合は、被害者が「ハラスメントの被害にあった」ことを、周囲に理解してもらうためのハードルが上がる。
ましてや仕事上の実績がある加害者と、弱い立場にある被害者とでは、被害者が泣き寝入りすることが圧倒的に多いであろうことは、想像に難くない。とても残念なことだけれども。

このあたりの事情については、fujiponさんの次のブログ記事に書かれている実例が参考になる。
■狭い世界での「権力者によるパワハラ・モラハラ・セクハラの複合攻撃」について(いつか電池がきれるまで)

結論の部分から、一部引用してみる。
 世の中には、人格的には最低最悪なのだけれれど、素晴らしいコンテンツを作ることができたり、仕事で凄い能力を発揮したりする人がいて、一緒に働くのはまっぴらごめんだが、社会全体としてはメリットが大きい、という人がいる。そういう怪物をどう扱うべきなのか。
(中略)
 彼らの能力を利用しようとして、行状を黙認してきた人たちにも、責任はある。
 ということは、僕にも責任はあるし、もし、「誰もがいいなりにならざるをえないような権力」を自分が持っていたら、同じことやるかもしれない、という不安もあるのだ。僕は無能で、自信がないから、やらないだけなのではないか。いや、そんなふうに考えることが、ああいう行為を本人や周囲の人に「特別な人間に与えられた特権」だと勘違いさせてしまっているのかもしれない。
 あるいは、本人たちにとっては、「ああいう形の愛情表現」というのが、本当にあるのではないか。コンテンツとしての「歪んだ愛情表現」は、世界に満ち溢れている。
 http://fujipon.hatenablog.com/entry/2017/12/18/170319

上記引用の末尾の部分と関係することだけど、世の男性の一部には、「女性は、セクハラされて喜んでいる」と思い込んでいる人もいるらしい。確かに、そういう「歪んだ愛情表現」を描いた作品、「セクハラ的な行為をされて喜ぶ女性」を描いた表現は、結構な数で存在しているように見える。
ただ、「表現の自由」や「表現規制」については、複雑な問題を孕んでいるので、ここでは触れないことにする。

「人格的に問題のある人が、素晴らしいコンテンツを作る」例は、私も思い当たるフシがある。
私もこれまで、セクハラやDVの噂がある男性の書いた著書や文章に、深い感銘を受けたことがあった。また、上に書いたように、「仕事」は尊敬できるけど、「人物」はとんでもないハラッサーだった、という例も知っている。実はスティーブ・ジョブズもそういうタイプだったらしいし。

「仕事の業績」とその人の「人間性」は、切り分けて考えられるものなのか?
この問いについては、わりと長く考え続けているのだけれども、まだ答えが出ない。
自分が直接の被害にあったハラッサー(ハラスメント加害者)の「仕事」や「作品」がどんなに素晴らしいものでも、それを目にするとトラウマのような記憶が蘇ってくるため、リスペクトし続けることは難しい。
でも、直接の被害にあっていなければ——どうだろう?

一つ言えるのは、どんなに素晴らしい仕事上の業績がある人でも、法に触れる行為をしたなら、きちんと法の裁きを受けるべきだし、そうでなくても倫理的に大きな問題のあるハラスメントや著しい人権蹂躙などの行為をしたなら、社会的な制裁が下されなければならない。これは当たり前のことだと思う。でもその「当たり前」が機能していないことが問題なのだ。加害者の多くが見逃され、被害者の多くが泣き寝入りしているのが現状だ。

法や人倫に反する行為をした人たちが、全く裁かれることがなく「上」にいるのは、被害者だけの問題ではなく、集団全体にとって、ひいては社会全体にとって、大切なものを損なうことになる。社会を支えている土台の部分が損なわれる。権力を持つ側の腐敗を放置しておくと、その腐敗は、集団全体をじわじわと侵食し、やがて全ての構成員の首を絞めることになりかねない——と、ここで警告しておく。

適切な法の裁きや社会的な制裁がなされた後でも、なお加害者の「仕事」は素晴らしいものであり得るのか?
権力を握っている人間が、弱い立場の人間にハラスメントをしてしまうのは、人間の本性なのか?
これらの問いについては、これからも考え続けたい。

まとまってないけど、ひとまずこれで。皆さんにも問題を共有してもらえると嬉しいです。






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2017.10.28 Saturday 21:40
癌の進行の不安は尽きないけれども、ひとまず今は「闘病ブログ」的なことじゃなく、本当に「書くべきこと」を優先しようと思う。ブログの更新も、無限にできるわけじゃないから。

このブログの過去記事で紹介させていただいた、末井昭氏の「見て見ぬふりせず死者悼め」は、これまで幾度も読み返して、心の支えにしてきた文章だ。
私は今、自殺を考えているわけではないけれども、再発癌の進行(と、その先にある死)に脅えつつ生きている状態で、そういう意味では、今も「命をかけて」言葉を発している。「命をかけた言葉」は、「みんなに届く」かどうかはわからないけど、「誰か」には届くんじゃないか、届いてほしい、という願いを込めて。

これまでもブログに書いたことだけど、今年に入ってから、酷い嫌がらせの被害にあった。その一部は、過去記事「Twitterアカウント削除した経緯について」にも書いた(その他にも、「ストーカー行為」とか「裏でデマを流す」といった嫌がらせもあったらしい)。
その嫌がらせのストレスで体調を崩し、結果として、癌の肝転移の悪化、腫瘍マーカーの上昇という、命に関わるレベルの事態になったことも、過去記事に書いた通りだ。

私の周囲では、「ステージ4の癌患者に対して嫌がらせをする」などという話は聞いたこともなかったので、本当に驚いた。
もっと驚いたのは、命に関わるレベルの事態になった後でさえ、いじめに加担した加害者の多くが、その後も平然とツイッターを続けていて、罪悪感なんてまるで持っていないように見えたことだ。

今回、私が受けたいじめは、表からは見えにくい、陰湿なものだった。
精神科医・中井久夫の「いじめの政治学」(『アリアドネからの糸』所収)によると、いじめは「(被害者の)孤立化」→「(被害者の)無力化」→「(いじめの)透明化」という段階を追って進むのだという。
中井久夫の言葉を借りれば、繁華街のホームレスが「見えない」ように、善良なドイツ人に強制収容所が「見えなかった」ように、いじめが行われていても、外部からはまったく見えなくなる。だから、このブログを読んでくれている人や、ツイッターのフォロワーさんにも、私がどんないじめを受けて、どれほどの苦痛を被ったのか、おそらく見えなかったはずだ。

「無視」や「排除」もいじめの一形態だと思うし、それも問題といえば問題だ。
でも、今回の私に対するいじめはもっと酷かった。何よりも、ツイッターのDMを勝手に盗み読みされたのは、私だけの問題ではなく、私とやり取りしてくださったフォロワーさんのプライバシーをも踏みにじる行為で、本当に心苦しかった。私もフォロワーさんも、見られて困るような悪いことは何一つしていないけれども、だからこそ、私たちの尊厳を踏みにじる行為を許すことはできない。

今回の私へのいじめ行為の根底には、差別心があったんじゃないかと思う。
私はなんでもかんでも「差別」と呼ぶのには抵抗があるから、「差別」という言葉を軽々しく使うのは控えてきた。でも今の私は、歴史的に低く見られてきた、複数の立場に属しているのは事実だ(とりわけ「精神障碍者」については、ナチスドイツではガス室に送られた歴史さえある)。
「女性」に対する差別、「精神疾患の患者」に対する差別や偏見、「病気で働けない人」に対する差別や偏見、「ネットで表現活動している人」に対する差別や偏見……。そういった差別や偏見が根底にあるからこそ、ここまで酷い嫌がらせをして、なおかつ開き直れるのではないか?
私にとっては、陰で嫌がらせをして開き直る彼らこそ、「おぞましい」「不気味」な存在にしか見えないのだけれども。

ただ、落ち着いて考えてみたら、私は過去、ドキュメンタリー映画を通じて、人間のおぞましい面、不気味な面を、垣間見たことがあったのだった。
今回思い出したのは、1960年代にインドネシアで起こった虐殺事件に取材したドキュメンタリー映画、『アクト・オブ・キリング』と『ルック・オブ・サイレンス』だ(過去ブログに書いた映画レビューはリンク先にあるので、詳しくは読んでもらえると嬉しい)。

このドキュメンタリーで、オッペンハイマー監督のカメラは、「虐殺を楽しみ、しかもそれを自慢気に語る加害者」の姿を容赦なく見せつけた。

私の目には、今回のいじめ加害者の人達は、この虐殺事件の加害者と相似形に映る。
もちろん、私が被害にあったいじめは、大量虐殺とは規模が違うかもしれない。でも、「被害者に対する根拠のない噂を盾に、殺人を正当化した」とか、虐殺加害者がアイヒマンと同じく「正常な、普通の人間」だったというあたりが、今回の自分の被害体験と重なるのだ。

映画のパンフレットを読み返して、オッペンハイマー監督の言葉に、私の今の思いに通じる言葉を見つけた。一部引用してみる。
……私が撮影した加害者たちは、勝利を手にし、虐殺の上に成り立つ政権を作り上げた人々であり、今も権力を保持しています。自分たちの行いは間違いだったと認めるよう、強いられたこともありません。最初は私も、彼らの自慢話を額面通りに受け取っていました。彼らは自責の念などまったく感じておらず、自分の行為を誇りに思っていて、良心の呵責などないのだ、と。しかしながら、その考えは軽率だったと気付きました。殺人者たちによる自慢は、彼らが実は自分の間違いに気付いていることを表していて、真実から逃れるための必死の努力なのではないか、と思い始めたのです。

 もし我々が殺人を犯し、自分を正当化できる可能性が残されているなら、ほとんどの人はそうするでしょう。さもなければ、毎朝鏡を見るたびに、殺人者と対面しなければならなくなるからです。『アクト・オブ・キリング』の登場人物たちは、今も権力の座にあり、誰からも糾弾されたことがないため、今でも自分を正当化することができます。そして、その正当化を本当は信じていないために、自慢話はより大げさになり、より必死になるのです。人間性に欠けているからではなく、自分の行いが間違いだったと気付いているからこそのことです。

(『アクト・オブ・キリング』パンフレット ジョシュア・オッペンハイマーによる「監督声明」より)

私も最初は、いじめ加害者には良心が欠けているのかと思ったのだった。
でもむしろ、良心が残っているからこそ、自分も加担したいじめ行為が、命に関わるレベルの被害に結びついたことを認めたくないのではなかろうか。
私だったら、想像するだけで胸が締めつけられるくらい、つらいもの。自分は被害者でよかった、加害者にならなくてよかった、という気持ちさえあるくらいだ。

映画パンフレットの監督声明の続きには、こんな一節もある。
……しかし、悲劇的なのは、殺人を賞賛するには、さらなる悪行が必要だということです。誰か一人を殺してしまった後、同じような理由で他の誰かも殺すよう要請されたら、断ることはできません。なぜならもし断れば、最初の殺人も間違いだったと認めているようなものだからです。

(『アクト・オブ・キリング』パンフレット ジョシュア・オッペンハイマーによる「監督声明」より)
このまま加害者を放置したら、また新たな被害者が出るのではないか。その懸念は、私も持っている。
もしかしたら、この手のいじめは、過去にもあったのかもしれない。表立って声を上げる人がいなかっただけで。 でも、人の命は、取り替えが効かない。謝罪でもお金でも、解決することじゃない。まして加害者が、悔悛も自責の念もなく開き直っている状況は、不気味としか言いようがない。

今回私がされた「不正アクセス」や「陰口」や「ストーカー行為」のような嫌がらせを、私は「陰湿」だと感じた。でも、そう感じるのは、私が被害者だからであって、もしかしたら加害者にとっては「楽しい遊び」だったのかもしれない。
そう、差別もいじめも、それをする側にとっては「楽しい」ものらしい。
被害者にとって身の毛もよだつようなおぞましい体験が、加害者から見ると「ちょっとした楽しい遊び」になる。
この、被害者と加害者の間にある、圧倒的な溝。
これもまた、映画『アクト・オブ・キリング』『ルック・オブ・サイレンス』を連想した理由の一つだ。

人間は、いじめや差別をせずにはいられない生き物らしい。
表向きは「反差別」を唱える人達ですら、いじめや差別の加害者になるのだということを、今回、痛感させられた。
現在、「良識ある」人たちは、表立って「女性」や「精神障碍者」を貶めるような発言をすることは、まずない。内心で見下していたとしても、表向きは、そういう態度を取ってはいけないことになっている。
でも、表向きは「差別は良くない」と唱える「良識ある」人達だからこそ、その差別は、(ヘイトスピーチのような直接的な発言ではなく)陰口のような陰湿な行為になりやすいのではなかろうか。

「見えないところで行われるいじめや差別」なら、ヘイトスピーチよりもマシだ——とは、私には、思えない。被差別者の心身に深い傷を残すのは、ヘイトスピーチも「陰湿な差別」も同じだ。

そして「悪質なデマを流す行為」は、過去に起こった様々な虐殺事件の前兆だったのを思い出したい。例えば、1923年の関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺事件は、「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「朝鮮人が暴動を起こしている」といった悪質なデマが広がった結果、多くの人が殺される惨事となったのだ。

「陰口を叩く人」はどこにでもいるのだろう。「悪質なデマを流す人」も、私には信じられないことだけれども、思ったより多いのかもしれない。
これまで幾度も書いてきたことだけど、私にとって「陰口のコミュニティ」は、健康を害するレベルで苦痛なので、そういう場所からは離れるしかない。
ただ、「陰口」が「悪質なデマ」につながったのだとしたら——そこから「虐殺事件」までは、ほんの数歩しかない。


ともあれ、現実社会で、最低限の秩序もモラルも機能していない状態では、創作の世界で自由に遊ぶことすらできない。私が短歌の発表を止めざるを得なかった理由は、これだ。

不正アクセスはするな。
ストーカー行為は迷惑。
デマを流すな。

これは、ごく当たり前のことだと思う。
こんな「当たり前のこと」さえ守られない場所では、端的に言って生きていけない。ステージ4の癌の闘病中なら、なおさら。

加害者は忘れても、被害者は痛みを忘れない。忘れることはできない。
今回のいじめに関わった人たちは、せめてそのことを忘れないでほしい。自身の行為(あるいは不作為)が、命に関わるレベルの被害につながったことを、忘れないでほしい。これから先、二度と同じ間違いを繰り返さないでほしい。

このブログにはコメント欄もあるし、メールアドレスも公開している。
私は、いつでも対話に応じるつもりで、ブログを書いてきた。
裏でデマを流したり、デマを真に受ける前に、疑問があるなら直接私に尋ねてほしい。 それすらしないで、裏でデマを流したりストーカー行為に走るのって、本当に悪質だからね。

こういうこと、一度はきちんと言っておかなければならないと思ったので、書くことにした。

不正アクセスや嫌がらせとは関係なく、当ブログを純粋に楽しんで読んでくださっている皆様には直接関係のない話でしたが、いじめや差別について考える際の何らかのヒントになれば幸いです。


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2017.10.11 Wednesday 22:39
相変わらず腫瘍マーカーは上昇していて、癌の肝転移も大きくなっているらしく、不安は尽きない毎日です、が。
殺人的な酷暑も過ぎ去ったことだし、ぼちぼちブログの更新を再開します。

前々回のエントリに、「上っ面だけの言葉が嫌いだ」と書いたら、読者さんからのコメントで、その真逆の言葉があるよ、と教えていただきました。

昨年101歳で他界された、むのたけじ氏の「体重をかけた言葉」です。
むのたけじ氏は、戦時中、朝日新聞の従軍記者でしたが、敗戦後すぐ「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」と新聞社を退社。秋田県で自ら「たいまつ」という新聞を発行し、「戦争絶滅」を訴え続けた人です。

むのたけじ氏の著書は未読だったので、さっそく『詞集 たいまつ』の1巻を手に取ってみました。
箴言のような短い文章が集められた本。まえがきにあった著者のポリシーは、「コトバに全体重をかける態度こそが大切」というもので。読む側としても襟を正して、一文ずつ、ゆっくり読むことにしました。

『詞集 たいまつ』1巻の中から、印象に残った言葉を幾つか、以下に引用してみます。

ふだんのくらしの言葉でいいあらわせば、一番わかりやすくて一番短い。それが一番簡単そうで一番むずかしい。
*     *     *

読書は第四の食事である。望ましい作法は、他の食事と同じである。暴飲暴食は精神に下痢をおこすだけである。一度に多量ではなく毎日欠かさず適量を摂取すると一番ためになる。
*     *     *

腐ったおとなに寛大である社会は、清純な子どもに対して必ず残酷である。
*     *     *

革命とは新しい尺度の創造運動である。それを在来の尺度で推測するから、わからなくなったり、おびえたりする。古い尺度は、それをどんなに神聖化しても新しい目盛りには合わない。
*     *     *

やたらに防腐剤を用いるな。古いものが腐りきらなければ、新しい芽は出てこない。腐るべきものが十分に腐らないと、毒がひろがる。古いものでも十分に腐ると、こやしになる。
*     *     *

洋服なら既製品でもぴったり合うことがあるが、思想と現実とのかかわり合いでは既製の寸法がぴったり合うことはない。現実は生きており、思想は原則であり、従って思想は生かして使わなければならぬ。どのような現実であれ、それは変化するもの・変化させ得るものとして受けとめるところに、思想の第一歩がある。

(むのたけじ『詞集 たいまつ I』より)

初版は1976年ですが、今も古びていない、歯ごたえのある、噛みごたえのある言葉です。

ある言葉が、誰かにとっての「たいまつ」になるとしたら、それは言葉を「書くこと」や「語ること」によって、ではない。
それを「生きること」によってのみ、言葉は「たいまつ」となり得るのだ。
——そんなメッセージが、足元から響いてくるような本でした。

上に引用した読書論のくだりは、速読・多読が要請される今の時代の趨勢には合わないかも。
でも振り返ってみると、自分にとって真に「血となり肉となった」本とは、一行ずつ、時間をかけて、ゆっくり読み進めたものだったように思います。

私は、今の時代のトレンドとは関係なく、時間がかかっても、自分の「読書」をしていきたい、と改めて胸に刻みました。
人生の残り時間を考えたら、なおさら。
これまでもそうしてきたように、これからも、流行り物は横目で流しつつ、読みたい本・読むべき本を手にしていきたいです。

以下次号。



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2017.01.16 Monday 20:29
ホームレス歌人のいた冬』(三山喬著、文春文庫) という本がある。

2008年末から2009年にかけて、朝日新聞の短歌投稿欄で話題となった「ホームレス歌人」公田耕一氏の実像を追うノンフィクションだ。 この本の中では、公田氏の正体はわからず終いだったが、著者がドヤ街の取材過程で、複数の人から聞かされた言葉というのが、印象的だった。
曰く、「表現できる人は幸せだ」
本から少し引用してみる。

 表現のできる人は幸せだ――。
 公田の足取りを追い始めて以来、何人もの地元関係者が、この同じ言葉を口にした。
 寿という街を知るにつれ、私も少しずつ、そう思うようになった。野宿者やドヤ街の人々にとって、感情の起伏は、それをただ叫ぶだけでは、泣き言や愚痴としか受け取られない。第一、思いをあらわにしたところで、何になるのか……。
 空しさはおそらく、本人にも突き刺さる。しかし、それをもし、表現という形に昇華できれば、話は別である。自分の内面を見つめることが、決してネガティブな行為ではなくなる。
 感情そのものはもろ刃の剣である。自らを奮起させる原動力にもなれば、果てしなく自分を絶望に引きずり込むのもまた、感情にほかならない。しかし、己を守るために感情を押し殺すようになってしまえば、心は砂漠になる。表現、という行為は、その安全弁のようなものではないか。……

   (三山喬『ホームレス歌人のいた冬』p.173)

この一節に、胸を打たれた。
私は過去ずっと、「表現しない、できない人」だった。
私は幸いにも野宿者になることはなかったけど、表に出すことのできない、どうしようもない感情を押し殺し、窒息しそうになっていた。

ブログを書いて、しかもそれを赤の他人に読んでもらいたいなどと考えるのは、もともと文章を書くことが好きな人とか、ディープなオタク趣味の持ち主とか、何か特別に訴えたい主張があるとか、そういった人たちだろう。

私はそうではない。書かずに済むなら、こんな痛々しいブログは書きたくなかった。
私にとってこのブログは、書かざるを得なかったから、やむを得ず書いているものだ。

誰にも話せなかった自殺願望のこと、病気のしんどさ、とりわけ精神病について。
吐き出さなければ、生きていけなかった。そこまで追い詰められて初めて、書くことができた。

自分の身近にサポートしてくれる支援者がいたなら、わざわざネットで表現する必要はなかったと思う。おそらくそちらの方が「恵まれている」のだろう。
でも、「恵まれている」ことは、必ずしも「幸せ」とイコールではないのではなかろうか。

去年、私がこのブログで「当事者研究」をやり始めたのは、身近に当事者研究をやっている場所がなかったからだ(あればわざわざネットでやる必要はなかったと思う)。
やってみて結局、「ちょっとこれはネットでやるのは無理があるな」と気づいて挫折したけど、あのとき参加してくださった皆さんとの間で、とても有意義なやり取りができたと、今も感謝している。

自殺願望についても、病気のしんどさについても、身近にその思いを吐き出せる場があるなら、そっちの方がずっと恵まれていると思う。
私にはそういう場がなかったから、仕方なくブログに吐き出すしかなかった。
そんな吐瀉物のような叫びも、多少不格好でも「表現」すれば、それなりに反応がもらえる。その反応には、嬉しいものもあればそうでないものもあったけど、ごく稀に、思いがけないギフトを受け取ることができた。

表現できることは幸せだ。
何も言えなかった長い時間を経て、多少なりとも表現できている今、しみじみそう実感する。

上手い下手は別として、短歌をつくれることも、私にとってはとても幸せなことだ。
でも実は、この短歌も、ブログで発表しているのは「やむを得ず」という側面がある。

短歌もね、実は、結社とか入ってみようかな、などと考えたりもしたんですよ。
十年、二十年と短歌を続けるつもりなら、どこかの短歌結社に入った方がいいのかもしれない。
ただ私の場合、数年後も生きてるかどうか、生きてても元気でいられるかどうか確信が持てず、長期的な展望も持ちにくい状態で、でも書きたいテーマはあって――それを発表できる場って、ブログやツイッターしか思いつかないんだよね。今のところ。

リアルの歌会とか、めちゃくちゃ参加してみたいんだけどね。
でも、ネットじゃない、リアルの場特有の難しさというのもあるんじゃないかと、私のような人間は考えてしまうのだ。

実は過去に、少しだけ短歌の教室に通ったことがあって、そのときに感じたことだけど。
私が本当に表現したいのが、例えば癌の短歌だったり、統合失調症をテーマにした短歌だったりしても、リアルの場ではそれ、出せないでしょう。そういう短歌を発表したいなら、自分が治らない再発癌の患者であることとか、統合失調症の患者であることを、その場にいる人全員にカミングアウトしなければならないことになる。それはちょっと……どうなんだろう。

病気のカミングアウトを避けて、その場の空気を乱さない、当たり障りのない短歌をつくろうとすると、「自分に嘘をついている」みたいで、嫌なんだよね。
つまり、自分の病歴を隠さずに、自分が本当に表現したい作品を発表できる場、というと、このブログとツイッターしかないんだ。今のところ。

自分が自分のままで「表現」できる場がある。それは、幸せなことなんだと思う。

だから、このエントリのタイトル「ブログを書く人と書かない人、どちらが幸せか?」というのは、無意味な問いだ。
ブログを書くか書かないかは、関係ない。

自分が自分らしく居られる場所がある人は、幸せだ。
そういう場を「ホーム」と呼ぶのだろう。

このブログは、私にとって「ホーム」だ。



ホームレス歌人のいた冬 (文春文庫)      



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2016.10.16 Sunday 00:37
これから、「文学は何のために存在するのか?」という話をします。
今から書くことは、文学に造詣の深い方々には「わかってるよ、そんなこと」などと言われそうなので、そういう人は特に読まなくてもいいです。
「文学? なにそれ食べられるの?」って人に、読んでほしいです。

こういう話をしようと思ったきっかけは。
先日、斉藤斎藤さんの第二歌集『人の道、死ぬと町』の中から、個人的に印象に残った短歌を二首、Twitterでつぶやいたことでした。

私のTwitterフォロワーさんの99%は短歌に縁のない人ですが、そういう人が、このツイートに反応してくれたんですよね。
短歌って、ものすごくハイコンテクストな表現なので、「短歌村の住人でなければ理解不可能な作品」が多いと思っていたのですが……「外の人」に届くこともあるんですね。

この歌の作者である斉藤斎藤さんは、1972年生まれの歌人です。余談ですが、ブログ主と同世代です。
この歌集『人の道、死ぬと町』には、2004年から2015年にかけての作品が収録されています。

とりあえずここでは、上掲の、
宗教も文学も特に拾わない匙を医学が投げる夕暮れ
という短歌について。
「なぜ私はこの一首にグッときたのか?」という話を、これからします。解説するのは野暮だとは思いますが、意味がわからない人にもわかってもらいたいので。

この歌は、斉藤斎藤さんの第二歌集『人の道、死ぬと町』に収録された「今だから、宅間守」(2007年発表)という連作の中の一首です。
宅間守というのは、2001年、大阪教育大学附属池田小学校で起きた小学生無差別殺傷事件の犯人。2004年に死刑執行されています。

まず、「宗教も文学も特に拾わない」とはどういう意味か?

前提として踏まえておきたいのは、福田恆存という評論家が書いた、「一匹と九十九匹と」という有名な文芸評論です。昭和21年に書かれたものだけど、「政治と文学」というテーマは、今でも通用する内容だと思う。これについては以前このブログにも書いたことがあるけど、もう一回、一から説明します。

福田恆存の「一匹と九十九匹と」という評論のタイトルは、新約聖書の「ルカによる福音書」に出てくるエピソードが元になっています。
聖書に出てくるイエスの言葉、新共同訳から引用します。
 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、喜んでください』と言うであろう。

 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 (「ルカによる福音書」15章より 新共同訳)

百匹の羊のうち一匹を見失ったなら、残り九十九匹を野に捨て置いても、その一匹のために駆けずり回る。
このイエスの言葉を、福田恆存は、「政治と文学の棲み分け」について語ったものだ、と解釈したのです。

つまり、どれほど善き政治が行われても、政治で救えるのは九十九匹までである。政治では救われない一匹が、必ず存在する。その一匹を救うのこそ、宗教の役割であり、文学の役割である、と。
いや、その「失われた一匹」は、あなた自身の内に存在するのではないか?
福田恆存はそう言っているんです。

実は私自身が、社会運動的なものに共感しつつ、今ひとつ積極的に関われないのは、この感覚があるからなんです。

どんなに社会が良くなっても、それだけでは人は幸せになれない。
どれほど医学が発達しても、人が「死」から逃れることはできないように。

「宗教も文学も特に拾わない匙を医学が投げる夕暮れ」という一首の前には、宅間守を精神鑑定した精神科医の発言が引用されています。
宅間は人格障害(妄想性・非社会性・情緒不安定性)ではあるが、精神病ではありません。(中略)……宅間のような人間に関しては、犯罪を防止する方法はないと思います」(精神科医・樫葉明の発言より)
「医学が匙を投げる」の意味はこれです。精神科医も匙を投げた。それが宅間守という人間です。

それを踏まえて、もう一度この短歌を読んでほしい。
精神科医が、「宅間守のような人間は理解不能だ」と匙を投げるのは、まあしょうがないと思う。
でも、精神科医という「正しい社会」にいる人が投げ出したもの、宅間守のような「誰がどう見てもクズ」にしか見えない人間を救うことこそ、宗教者の役割であり、文学者の役割じゃないの?

福田恆存の「一匹と九十九匹と」に書かれているのは、そういうことじゃないかと。
文学や宗教って本来、そのくらい危険なものであり得るんです。
「医学が投げたというその匙を、文学や宗教は拾えよ」と、個人的には思います。

宅間守というのは、社会から非難されて当然、処罰されて当然(死刑制度の是非は別として)の人間ですよ。でもね、そういう「誰がどう見ても極悪人としか思えない」ような人間を救ってこその宗教じゃないのですか。あるいは、そういう不気味としか思えない人間の存在に意味を与えるのが、文学じゃないんですか。

さて、そんな骨のある宗教や文学が、今の日本に実在するのでしょうか。

で、斉藤斎藤さんは、その匙を拾いにいったんだなあ。
しかも、池田小事件が起きたのが2001年で、「今だから、宅間守」が発表されたのは、2007年。ということは、6年もかけて。
今の日本に、そんなことする人が他にいるでしょうか?
誰もいないと思う。
すっげーなーと感動しましたよ。本当に「文学」だなあ、と。

えっと、ただ私は、まだ短歌の世界に片足を突っ込みかけただけの初心者レベルなので、この連作について、「短歌としての良し悪し」は、正直よくわかりません。
でも、その志の高さは惚れ惚れとするというか、仰ぎ見るしかない存在です。

ここでもう一度、福田恆存の「一匹と九十九匹と」に戻ります。
九十九匹を救うのは政治の役割であり、私たちが「善き政治」を求めるのは、必要かつ当然の振る舞いだ。
今の日本は、「善き政治」が行われているとは言い難い。九十九匹どころか、五十匹も救っていないのが現状である。
政治的な働きかけによって解決できる問題を解決しようとする努力は、当然なされるべきだ。それに異論はない。

じゃあ、貧困その他、様々な不遇の状態に置かれている人に、文学は必要ないものなのか?

そんなことはないと思う。今から8年ほど前、朝日新聞の短歌投稿欄の常連に、「ホームレス歌人」が存在したことを覚えている人もいるだろう。
困難な状況に置かれている人には、衣食住が必要なのは当然として、文化もまた必要なのだ。

――人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られねばならない。(國分功一郎)

私たちの生活に文学が必要だとして、じゃあ今この時代に、どんな文学が必要とされているのだろう。
福田恆存は、上記評論の末尾で、「文学は、失われた一匹に対して、一服の阿片の役割をはたすものだ」と述べている。

私がこれまで好んで触れてきた短歌は、間違いなく阿片の役割を果たしてくれた。私にとって短歌は、美しい世界を映し出すメディアで、私はその美しさを心から愛してきた。
でも、斉藤斎藤の『人の道、死ぬと町』は、阿片ではなかった。

上掲ツイートにも引用した、「わたしが減ってゆく街で」(2013年発表)という連作では、低賃金の非正規雇用者であり「結婚しても出産は諦めるしかない」現実が、様々なデータや本からの引用とともに、赤裸々に表現されている。
かなり「痛い」内容である。しかし、これこそが今の時代のリアル、私たちの一側面ではないのか。
その痛さには、これまでの私が持っていた、浅い短歌観を突き崩すくらいの力があった。

私たちが文学に求めているのは、痛い現実を忘れさせてくれる阿片なのだろうか。
それとも、痛い現実に向き合うための触媒となる何か、なのだろうか。

阿片なら、代用品は他にいくらでも存在する。極論を言えば、パチンコでもいいのだから。
でも、痛い現実に向き合うための触媒となるもの、それは文学にしかできない業ではないだろうか。

『人の道、死ぬと町』から、そういう連想が広がって、しばし打ちのめされていたのだった。

というわけで、この一首の凄みを、ここを読んでくださっている皆様に、少しでも共有していただけたなら、ブログ主も本望です。



※ 文中の國分功一郎氏の言葉は、『暇と退屈の倫理学』からの引用です。




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