2020.09.12 Saturday

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2019.11.07 Thursday 20:44
前々回のエントリで触れた「統合失調症短歌」を読んでくださった方から、「(統合失調症ではないが)共感できる部分もある」というコメントをいただきました(コメントくださった方、ありがとうございます)。

「何かに責められているような感じ」というのは、心の病・症状を抱える方にとって、共通する感覚なのかもしれない、と考えさせられました。

さて今回は、noteで作品を発表していて、改めて気づいたことを書いてみます。

   *   *   *   *   *

noteで短歌を発表した後、タグを辿って、他の人の文章や作品に触れることがある。
そうしたら、プロフィール欄に「統合失調症」「精神障害者」と書いている人もちらほら見かけるのだ。
noteは、良く言えばクリエイター志向、つまり自分の文章や作品を発表しようという意欲のある人たちが集う場所だから、ごく普通の「精神障碍者」と同一視はできないとは思う。
そうであっても、「統合失調症」「精神障碍」をオープンにすることは、かつてよりもハードルが下がってきているのかもしれない。

しかしこれは、あくまでもネット上で、ハンドルネームで活動する上での話だ。
リアル生活で、周囲の人に病名をカミングアウトするか否かは、やはり迷うところではないだろうか。

たまたま先日読んだ文章では、「自分が統合失調症であることを、周囲に話すことを選んだ人」と、「話さないことを選んだ人」、両方の意見に触れる機会があった。
どちらにもメリット・デメリットはある。

病気についてカミングアウトするか否かの問題は、精神疾患だけではなく、がんという病気についても同様だ。
近年、著名人が乳がんに罹患した、というニュースに触れる機会が格段に増えたため、かつてよりも、がんをオープンにすることのハードルは低くなっている、と感じる。
でも、私が最初に乳がんと診断された15年前は、今よりずっと言いづらい病気だった。まだ「AYA世代」という言葉もなかったため、若年でがんに罹った人の孤独感も大きかった。

乳がんの患者さんの中でも、「病気をオープンにする人」と「家族や患者仲間以外には話さない人」、それぞれ存在した。
病気について打ち明けて、「それをどう受け止めるかは相手の問題」と考えられる人は、カミングアウトするメリットの方を選ぶのだろう。
一方で、他の人の何気ない一言にくよくよしてしまうタイプの場合、「話さない方が無難」と思ってしまうかもしれない。

私は長く後者だったけど、少しずつ前者に近づいてきているように思うから、これは不変ではない。
けれども、「病気について打ち明けたら、離れていく人がいた」というのもよく聞く話で、それを受け入れられるものかどうか。

やはり私は、今でも、病名を打ち明けないことの方が多い。
今の私は、急に体調が悪くなるリスクがあるので、それについて知っておいてほしい人には、「今ちょっと病気の治療中で…」と言うことにしている。

「乳がんと統合失調症、どちらがカミングアウトしづらい病気か?」と考えると、圧倒的に統合失調症の方が言いづらい病気だ。つまり、統合失調症の方が、スティグマ性が高い病気なのではないか。
乳がんに罹患したことは、一部の友人・知人に話したことがある。けれども、統合失調症については、まだ話したことはない。

乳がん罹患後うつ病になった、という話は珍しくない。親しい患者仲間にもそういう人がいる。
そういう相手であっても、私が統合失調症で精神科に通院していることは、話せなかった。

つまり、私が「再発乳がんの患者であり、統合失調症の患者でもある」ということは、家族以外は、医療者や支援職に相談するために必要な場合しか、話していない。

唯一、その両方について打ち明けられる場所が、ネットなのだ。

乳がんと統合失調症、この二つは私にとって、どちらも巨大な体験だった。
その二つを統合できる場所が、私にはネット、つまりこのブログしかなかった。

相手によって、環境によって、見せる自分の顔が異なるということ。
作家の平野啓一郎が「分人主義」と名付けたように、これは現代において、特に珍しいことではない。

でも私は、バラバラの自分のままでは不安だった。私には、「再発乳がんと闘っている自分」と「統合失調症の後遺症に悩む自分」を統合する場所が必要だったのだ。
私が、このブログを必要とした理由の一つは、これだと思っている。

いや、病気だけではない。
BL好きや腐女子であることも、一般世間にはカミングアウトしづらい。
あいちトリエンナーレなんかは比較的「話しやすいテーマ」だ。けれどもどんな分野であっても、興味のない人には、どこまでも興味のない話題でしかない。

だから私にとって、このブログは、「さまざまな自分を統合する場所」として、必要だったのだ。
自分の病気のみならず、私が好きなもの、関心を持っていること、それらすべてを一つにまとめて眺めることができる場所として。
それが、このブログだった。






| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(2) | trackbacks(0) |
2019.10.01 Tuesday 12:02
大事なことだから、最初に書いておこう。

「表現の自由」については、過去にこのブログにも書きながら考えたことがある。
私は、「表現の自由」は無制限に認められるべき、とは思っていない。
「アート」の名を借りて、甚だしく差別的な行為、倫理的に大いに問題のある行為が「作品」として公開されていることを、ネットを通じて知ったこともある。女性に対して、明らかに差別的(かつ稚拙な)表現が、「作品」と称して公開された例も見たことがある。

ただ、今回のあいちトリエンナーレで問題とされた「平和の少女像」は、公開中止に追い込まれるべき作品とは思えない。
とりわけ国や行政が、表現の内容に介入して公開を禁止するのには、反対だ。

私は、「平和の少女像」を含む「表現の不自由展・その後」の作品たちを、この目で見たかった。
それらの作品が公開中止になったことに抗議して、作品を非公開にしたり、改変した作家たちの作品も、元の形で見たかった。
「平和の少女像」の写真なら、ネットニュースなどでいくらでも目にすることができる。でも、あの作品は、少女像の隣の空いた椅子に座ることができて、「隣に座ってみて何を感じるか」まで含めての鑑賞体験になるらしい。私もそこまでやってみたい。

また、河村たかし名古屋市長による、あいちトリエンナーレへの圧力と受け止められる発言は、名古屋市民としてとても残念に思う。文化庁が後出しで「補助金を交付しない」と発表したのも、「そこまでするか」と驚いた。
文化庁による補助金不交付への抗議表明として、ネット署名活動をしているのを知って、私も署名した。関心のある方はぜひ署名を。

■文化庁は「あいちトリエンナーレ2019」に対する補助金交付中止を撤回してください。(change.org)


前置きはこれくらいにして、トリエンナーレの話を。
芸術監督にジャーナリストの津田大介氏を迎え、参加アーティストの男女比を平等にすることで、開催前から話題になった今回のあいちトリエンナーレ。

開催後すぐ、「平和の少女像」を中心に作品への脅迫を含めた抗議が激しくなり、「表現の不自由展・その後」の展示は公開中止。連帯して作品を公開中止にするアーティストたちも現れた。

そんなニュースが飛び交う中でも、会場は静かで、落ち着いて鑑賞できる状況だった。
ほぼ全ての作品が「写真撮影自由」で、SNSに投稿することも奨励されているみたい。 私もいくつか撮影したものがあるので、記録も兼ねて掲載。

今回のあいちトリエンナーレは、大まかに4つのエリアに分かれている。
愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、四間道・円頓寺周辺、そして豊田市駅周辺。
もちろん一度に全部は回れないので、それぞれ別の日に行くことに。

まずは愛知県芸術文化センターへ。
私は地下から入る派なので、ピア・カミルの作品「ステージの幕」がお出迎え。
音楽バンドTシャツをつなぎ合わせて作ったものだそう。 ピア・カミル 本当ならスピーカーから音も出るらしいんだけど、無音だった。
近くに、今回のトリエンナーレ参加アーティストが連名で出した抗議声明文「表現の自由を守る」が貼られている(この声明文は、その後、あちこちの公開中止された作品の場で見ることになる)。


愛知県美術館のある10階に上がって、入り口にはエキソニモの「The Kiss」がお出迎え。 エキソニモ

展示作品中、最もフォトジェニックだったのは、こちらのピエロの部屋。
ウーゴ・ロンディノーネ「孤独のボキャブラリー」。
ウーゴ・ロンディノーネ ウーゴ・ロンディノーネ よく見ると一体一体、頭の形が違う。すごくリアルで、今にも動き出しそう。
ピエロと並んで写真を撮っている人も多かった。


他に印象に残ったのは、キャンディス・ブレイツ袁廣鳴(ユェン・グァンミン)の映像インスタレーション。 過去のトリエンナーレでは、映像インスタレーションは「退屈」なイメージしかなくて、すぐに席を立ってしまったと記憶しているけど、今回はじっくり見入ってしまう映像作品が多かった。


そして豊田市へ。
当初は「名古屋市内の展示だけ見ればいいや」と思っていたんだけど、「(豊田市駅近くの)喜楽亭の展示がすごい」という噂を聞きつけ、見に行くことに。
写真は撮らなかったけど、ホー・ツーニェン「旅館アポリア」、特攻隊員も宿泊したという旅館・喜楽亭で、特攻隊にまつわる映像インスタレーションを見るという得難い体験をした。旅館の畳の部屋での映像鑑賞、古い旅館の建物がガタガタ揺れる演出も相まって、なかなか迫力があった。小津安二郎や漫画家の横山隆一、京都学派の哲学者の、戦時中の活動についての言及も興味深い。


高嶺格「反歌:見上げたる 空を悲しも その色に 染まり果てにき 我ならぬまで」。廃校のプールを使ったインスタレーション。 高嶺格 炎天下の坂道を登った先にあったので、正直グッタリ。


豊田市美術館、実はこれまで行ったことがなかったんだけど、水と緑と現代アート作品に囲まれた、美しいロケーションだった。 豊田市美術館 敷地内にある茶室「童子苑」は、350円で抹茶と和菓子をいただける、おすすめスポット。


豊田市美術館内に展示されているスタジオ・ドリフトの「Shylight」、これは動画でお見せしたかった。 スタジオ・ドリフト 天井からゆっくりと、白いふわふわの布で包まれた花のようなライトが降りてきて、開いたり、閉じたり、まるで生きているよう。 床に寝転んで鑑賞できるのもgood。


豊田市美術館、レニエール・レイバ・ノボの作品も公開中止になっていて、壁にかけてあった絵(?)が、新聞紙で包んである。その包み紙が、今回のあいちトリエンナーレ、「表現の不自由展」公開中止関連の記事を掲載した新聞各紙だと気づいて、面白いプロテスト方法だと思った。思わず記事を読みふけってしまったよ。 レニエール・レイバ・ノボ (写真撮っていたので、載せておきます。)


そして名古屋市美術館
作品数は少ないものの、見応えがあった。

入り口近くにあった、藤井光「無情」。
正面のスクリーンには、戦時中、台湾の人々を「日本人化」する目的で設けられた「国民道場」の記録映像が流れている。 藤井光 向かって右側のスクリーンには、日本で学び働く若い外国人らが、上記フィルムの中で行われている訓練を再演した映像が。 藤井光 あれ、もしかして、いまの私たちって、日本で働く外国人労働者に対して、過去に台湾や朝鮮半島で行なった「皇民化政策」と同じようなことをしてるのかな? などと考えさせられた。
今回のトリエンナーレ、先の戦争をテーマにした作品が思いのほか多い。


抗議のため展示を中止・改変した作品の中で、特に目を引いたのは、モニカ・メイヤー
もともとは、身近で起こったセクハラや性暴力について、来場者が紙にコメントを書いて展示できるはずだったんだけど……こんな無残な姿に。 モニカ・メイヤー モニカ・メイヤー 通常の展示を見るより、目に焼きつく光景だったかもしれない。


すぐそばに展示されていた、桝本佳子の陶器作品。愛らしい。 桝本佳子 桝本佳子


青木美紅「1996」。人工授精によって産まれたと母親に告げられた自分と、同い年生まれのクローン羊ドリーを重ね合わせたインスタレーション。 青木美紅 実家のダイニングルームを模したという小さな部屋、可愛らしさの中に狂気を感じた。


写真は撮らなかったけど、ホドロフスキーの「サイコマジック」セラピー、クライアントからホドロフスキーへの感謝の手紙を日本語訳した冊子を配布していて、家に帰ってから読んだのだけど、「なんじゃこりゃ」とドン引きしてしまった。そういえば映像もカルトっぽかった。


おまけ。
美術館の窓から見えた(たぶん)常設作品。 名古屋市美術館


最後に四間道・円頓寺界隈
名古屋に住んでいながら、足を踏み入れたことがなかった通り。
街のあちこちに作品が点在していて、道に迷いそうになりながらも、各所に配置されたボランティアスタッフが丁寧に対応してくれたため、気持ちよく鑑賞できた。

この界隈での一番は、キュンチョメ「声枯れるまで」。 キュンチョメ トランスジェンダー・Xジェンダーで、名前を改名した人へのインタビュー映像、そしてひたすら自分の名前を叫ぶシーンが圧巻。「声枯れるまでー」の叫びが、今も耳に残っている。


最後に、全会場を回った感想など。
2010年、2016年、2019年とあいちトリエンナーレを見てきたけれども、今回がいちばん良かったように思う。
ところどころ歯が抜けたように公開中止の作品に出くわしたが、そうであっても、前回のトリエンナーレより、印象に残る作品は格段に多かった。

不思議なことに、作品の不在や改変によって、より感情を揺さぶられる結果になったみたいだ(今回のトリエンナーレのテーマは「情の時代」だった)。アーティストたちの熱のこもったステートメントが、戦時のような非日常を想起させる。
展示中止事件がなかったら、何も考えずに素通りしていたのかもしれないのに、(脅迫者たちにとっては皮肉なことに)今回の騒動によって、より深い鑑賞の機会が与えられたように思う。

会場で、視覚障碍者の方や車椅子ユーザーの方と出会えたのも、忘れがたい体験となった。
今回のトリエンナーレでは、愛知県美術館の会場内に、観客が作品の感想を話し合うスペースが設けられていて、そこで彼らと話す機会があったのだ。この一点だけ取ってみても、意義深い試みがされていたと思う。

ただ、公的な美術館は、身体障碍者の方も比較的アクセスしやすいだろうけど、まちなかにある展示作品を鑑賞するのは難しいだろうな、と感じた。小さな建物の狭い階段を上った先の、狭い部屋に作品がある、という例も多かったから。もちろん、美術館ではない場所で、作品を鑑賞することの意味もあるんだけど。バリアフリーは遠い課題ですね。

「表現の不自由展・その後」を含めて、公開中止作品が、会期中に無事展示再開されることを祈りつつ。






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2019.04.27 Saturday 13:02
身体性の宿る言葉、というものについて考えてみる。

何年か前の話だが、「ネット(特にツイッター)の言動は、身体に影響を与えることはない(だからネットは安全圏)」という意味のことを語る人がいた。その人は、いわゆる「知的」な人だった。

それを読んで、私はびっくりしたんだよね。
私は、ネット上の言葉であれ、とんでもなく酷い言葉をぶつけられたとき、お腹のあたりに、ぐわっと痛みのようなものが走る。あるいは実際に、吐き気に苛まれる。もっと深刻な症状に悩まされたこともある。

本を読むことは、こころに働きかけることはあるけど、身体に働きかけられるものはあまりない。
でも、ネットの言葉は、私にとっては、現実の身体に迫ってくるものとして存在していた。
ネットは私にとって、ちっとも「安全圏」なんかじゃなかった。

上記の「知的」な人の発言を見て、「身体性を伴わずに言葉を発する人は、どうやら少なからず存在するらしい」と知った。
身体を伴わず、頭の中だけで言葉を処理する、脳内だけで「概念操作」をしている人たち。

実は、その方が効率がいいのだ。
身体を伴わなければ、言葉はどこまでも遠くまで行ける。しかも速い。

どうも私は、その手の言葉に好感を持てない。
のろくても、愚直に身体性を通した言葉を地道に語る方が、性に合っているらしい。

だから私の短歌も、自分の体験を通過して、その上でつくられたものが多い。初期の作品ほど、その傾向がある(体験を通過したからといって、「事実そのものをそのまま記述している」のとは、距離があるわけだが)。

もちろん初期の作品にも、「想像でつくった歌」はある。
でも、想像で書かれたものが、まったく身体を経由していないかというと、そうでもない。
異世界ファンタジーの中であっても、例えば、「美味しそうな食べ物の描写」なんかは、書き手が現実に食べ物を「おいしい」と体感した経験がなければ、リアリティのある描写にはならないのではないか。

ちょっと話はそれるけど、栗本薫は、グインサーガの中でしばしば「とてつもなく美味しそうな食べ物」を登場させたものだった。
けれども彼女の最晩年のグインサーガにおいては、「おいしそうな食べ物」は登場しなかったと記憶している。おそらく彼女が患っていた癌の進行によって、現実に「食べられなくなった、食べ物をおいしいと感じなくなった」ことによるのではないか。もちろんこれは、憶測に過ぎないけれども。

体験が先行して、その後、言葉によって作品がつくられる。それがもともとの私のやり方だった。
しかし一方で、短歌の世界には、体験よりも、言葉が先にあって、言葉をパズルのように配置することによって歌をつくる人もいると知って、それは新鮮な驚きだった。
言葉の美しさ、言葉による驚きだけをどこまでも突き詰めた作品。確かにそれは、美しい。

そういう作り方もあると知ってから、実際に自分でも、実体験を経ない、言葉先行の短歌をつくってみたりした。
私の短歌作品のうち、どの歌が実体験を経ていて、どの歌が言葉先行でつくられたものか、見抜ける人はいるのだろうか。
たぶん、いない。あるいは、一人か二人、いるかどうか。

だから私は、野暮を承知の上で、幾つかの作品の自作解説なんてことをして、「どこまで自分の実体験か」を明かしてきた。

もちろん、自分の実体験であれ、短歌作品であれ、本人だからといってすべてを「解説」できるわけではない。むしろ解説できない、膨大な部分が手付かずのまま残されている。それは承知の上で、こう書いているんだけど。

でもじゃあ、「体験先行の歌」と「言葉先行の歌」の違いを誰も見抜けないなら、ぜんぶ嘘でもよくない?
ぶっちゃけ、AIが自動生成した短歌が美しければ、それでもいいんじゃない?

私は、古い人間なのかもしれないけど、それについては否と言いたい。
ネットと同じで、短歌だって、その言葉の背後に、人間の身体、息づかいが感じられるから、こころが動くのではないか。

じゃあ言葉先行の作品は意味がないかというと、そう単純な話でもない。
体験を言語化して作品にするのとは、逆方向の力もあるのだ。
つまり、言葉を使って作品を仕上げた後で、その言葉自身が、預言のように、実体験として迫ってくる、と言うパターン。
言葉が呪力をもつごとく、後になって自分自身に降りかかってくるという体験。

こう書くと、オカルト的に聞こえるだろうか。
でもそれもまた、私の「体験」だ。

言葉は怖い。
だから結局のところ、私は(私たちは、と書きかけて、「私は」と言い換える)、自分の身体で引き受けられるだけの言葉しか、発することはできないのだと思う。

身体を通した言葉だけが、その息づかいまでも残すことができる。
言葉とは、そういうものではないだろうか。






| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(6) | trackbacks(0) |
2017.12.25 Monday 00:55
ツイッターの #MeToo ハッシュタグで、性犯罪やセクハラの被害を訴える動きが、世界中で広がっている。
ハリウッドの女優が大物プロデューサーのセクハラを告発したことから始まるが、日本でも、有名ブロガーのはあちゅうさんが電通勤務時代に受けたセクハラ・パワハラについての記事が出て以降、続々とセクハラ被害にあった女性の声が上がって「炎上」のような様相を呈している。
過去、自分のツイッターTLに、女性の性犯罪やセクハラ被害体験談が流れてくることはちらほらあったので、潜在的な被害者は多いのだろうな——とは思っていたけど、改めてその数に圧倒された。

単なる「嫌がらせ」と「ハラスメント」との違いは、権力関係の有無にある。
権力を握っている側が、立場の弱い人間に対して、人格や尊厳を侵害するレベルの理不尽な行為をすれば「パワハラ」だし、それが性的な嫌がらせを含む場合は「セクハラ」になる。
そう考えると、私が今年に入ってから、とある人たちにされた嫌がらせは、「パワハラ」であり「セクハラ」でもあったと思う(例えば、事実ではない異性関係の噂を広めたり、容姿や胸が大きい小さいなどと揶揄することもセクハラに当たる)。

私は現在、会社勤めをしているわけではないので、典型的な「セクハラ」「パワハラ」の被害を受けた、とは言いづらい状況だ。ただ、被害者の告発を読んでいると、私自身が過去にされた「嫌がらせ」の痛みと重なる部分があるように感じた。
様々な証拠や条件が揃っていたら、私ももっときちんと詳細を書いて、自分の被害体験を公に問いたかった。残念ながら自分にそれができないということは、いま表に出ている被害体験は「氷山の一角」に過ぎず、もっと多くの被害が水面下にあって、今も一人で苦しんでいる人がたくさんいることの証左のように思われる。

これから書くことは、特に目新しいことのない、個人的な思いにすぎないかもしれない。でも、私自身が抱えている痛みからの回復のためにも、書くことにする。

すでに多くの女性が述べていることだけど、はあちゅうさんのセクハラ告発記事を読んでいて、悲しくなったのは、以下の部分だ。
「私の場合、自分が受けていた被害を我慢し、1人で克服しようとすることで、セクハラやパワハラ被害のニュースを見ても『あれくらいで告発していいんだ…私はもっと我慢したのに…私のほうがひどいことをされていたのに…』と、本来手をとってそういうものに立ち向かっていかなければならない被害者仲間を疎ましく思ってしまうほどに心が歪んでしまっていました」
 https://www.buzzfeed.com/jp/takumiharimaya/hachu-metoo?utm_term=.bn3GZkOk2#.ed11eJVJR

ここを読んで、伊藤詩織さんが、著名なジャーナリストから受けたレイプ被害を告発した時、女性からの非難があったと語ったことを思い出した(こことかここを参照)。
私はそれが不思議で仕方なかった。なぜ女性が、性犯罪の被害にあった女性を叩くのか?
私はレイプのような重い性犯罪の被害にあったことはないけど、それでも女であるがゆえの理不尽な差別や犯罪の被害、それに伴う苦痛は、多少なりとも理解できる。だから、なかなか言葉にはしづらいけれども、詩織さんのように勇気を出して被害を告発する人を、応援したい気持ちはある。

でも、現実には、女性がセクハラや性犯罪の被害を告発するとき、「女性からの反発」があることを覚悟しなければならないみたいだ。とても悲しいことだけれども。

伊藤詩織さんは、年配の世代の女性は、我慢して男社会に合わせるのが当たり前だったから、自分のように告発することに否定的なのではないか、と述べている(参照URL)。
確かに、年配の世代の女性は、今より我慢しなければならないことも多かったかもしれない。今でも、生きていれば我慢して他者に合わせなければならない場面も多くある。でもその「我慢」は、本当に必要な我慢か? という疑問は、考えてみてもいいんじゃないかと思う。
ハラスメントに耐えて、心身を病んでしまった人、中には自ら命を絶つ人も存在するのだ。加害者の体面を保つことは、本当に、被害者の命よりも大切なことだろうか?

若い世代の女性で、セクハラ告発に批判的な例として、指原莉乃さんの記事がある。指原さんは、「セクハラなんて自分にもまわりにもない」と発言したらしい(参照URL)。
AKB界隈で「セクハラがない」というのはちょっと信じがたいのだけれども、指原さんはかなり「空気を読んで、自虐しつつ発言する」タイプで、そうすることで「勝ち抜いてきた」タレントだから、彼女の中では「セクハラなんて存在しない」ことになっているのかもしれない。

これについては、トイアンナさんのブログ記事を読んで、腑に落ちる面があった。ある種のゲームを戦っているエリート層にとって、「優秀さ」というのは「女性であることを売りにできる、そこを使ってのし上がること」も含まれる、とのこと(参照URL)。

なるほど、「女性であることを売りにする」のは、私にとってものすごく苦手な分野だ。そういう価値観の場所では、私はきっと生きていけないだろう。

えっと、つまり、まとめると。
男社会で女性が生きていくためには、自分の「女性」の部分を売りにしつつ、でもセクハラは上手にかわしつつ、男性と同じ仕事をして出世するしかない、と。
・・・いやそれ、無理ゲーでしょ。少なくとも私にはできない芸当だ。

はあちゅうさんの記事に戻ると、上記引用の続きで、彼女はこう語っている。
「けれど、立ち向かわなければいけない先は、加害者であり、また、その先にあるそういうものを許容している社会です。私は自分の経験を話すことで、他の人の被害を受け入れ、みんなで、こういった理不尽と戦いたいと思っています」
 https://www.buzzfeed.com/jp/takumiharimaya/hachu-metoo?utm_term=.cgOBWq8qj#.umeA6V5V9
この言葉、私も全面的に賛同したい。


もう一点、はあちゅうさんの記事に戻って、妙に共感してしまったポイントを挙げてみる。
セクハラ・パワハラ加害者は、少なくとも「仕事」の面では、実績があり尊敬できる存在だった、という点。ハラスメントを告発しづらい、それどころか「被害者本人が、ハラスメントの被害にあっていることに、気づくことすら難しい」のは、この問題があるからだと思う。

実は私自身、簡単に人をリスペクトしてしまって、でもよくよく近づいて見てみたら、「こんな卑劣なことが平気でできる人なんだ…」と知って愕然とする、ということが、過去に何度かあったのだった。そういうことを複数回繰り返しても懲りないあたり、自分は本当に馬鹿だなあ、と呆れてしまうのだけれども。

誰が見ても人格的に問題のある人物からハラスメントを受けたのなら、逃げることもさほど難しくはなかったと思う。
でも、仕事上の実績があって尊敬している人にハラスメントされると、「逃げ遅れる」こともあるのだ。尊敬している人が、そんな酷いことをするはずがない、と心のどこかで信じたいから。

これもよく言われることだけれども、社会的に「人当たりの良い、親切な人」という評価をされている人であっても、目下の女性に対しては、高圧的な態度をとる男性もいる。立場が上の相手には慇懃に振る舞い、立場が弱い相手に暴言を吐くタイプだ。

性犯罪やハラスメントの被害でも、今回の #MeToo 運動でも、「声を上げた被害者を孤立させてはいけない」と言われている。でも、加害者が対外的に「善い人」という評価を得ている場合は、被害者が「ハラスメントの被害にあった」ことを、周囲に理解してもらうためのハードルが上がる。
ましてや仕事上の実績がある加害者と、弱い立場にある被害者とでは、被害者が泣き寝入りすることが圧倒的に多いであろうことは、想像に難くない。とても残念なことだけれども。

このあたりの事情については、fujiponさんの次のブログ記事に書かれている実例が参考になる。
■狭い世界での「権力者によるパワハラ・モラハラ・セクハラの複合攻撃」について(いつか電池がきれるまで)

結論の部分から、一部引用してみる。
 世の中には、人格的には最低最悪なのだけれれど、素晴らしいコンテンツを作ることができたり、仕事で凄い能力を発揮したりする人がいて、一緒に働くのはまっぴらごめんだが、社会全体としてはメリットが大きい、という人がいる。そういう怪物をどう扱うべきなのか。
(中略)
 彼らの能力を利用しようとして、行状を黙認してきた人たちにも、責任はある。
 ということは、僕にも責任はあるし、もし、「誰もがいいなりにならざるをえないような権力」を自分が持っていたら、同じことやるかもしれない、という不安もあるのだ。僕は無能で、自信がないから、やらないだけなのではないか。いや、そんなふうに考えることが、ああいう行為を本人や周囲の人に「特別な人間に与えられた特権」だと勘違いさせてしまっているのかもしれない。
 あるいは、本人たちにとっては、「ああいう形の愛情表現」というのが、本当にあるのではないか。コンテンツとしての「歪んだ愛情表現」は、世界に満ち溢れている。
 http://fujipon.hatenablog.com/entry/2017/12/18/170319

上記引用の末尾の部分と関係することだけど、世の男性の一部には、「女性は、セクハラされて喜んでいる」と思い込んでいる人もいるらしい。確かに、そういう「歪んだ愛情表現」を描いた作品、「セクハラ的な行為をされて喜ぶ女性」を描いた表現は、結構な数で存在しているように見える。
ただ、「表現の自由」や「表現規制」については、複雑な問題を孕んでいるので、ここでは触れないことにする。

「人格的に問題のある人が、素晴らしいコンテンツを作る」例は、私も思い当たるフシがある。
私もこれまで、セクハラやDVの噂がある男性の書いた著書や文章に、深い感銘を受けたことがあった。また、上に書いたように、「仕事」は尊敬できるけど、「人物」はとんでもないハラッサーだった、という例も知っている。実はスティーブ・ジョブズもそういうタイプだったらしいし。

「仕事の業績」とその人の「人間性」は、切り分けて考えられるものなのか?
この問いについては、わりと長く考え続けているのだけれども、まだ答えが出ない。
自分が直接の被害にあったハラッサー(ハラスメント加害者)の「仕事」や「作品」がどんなに素晴らしいものでも、それを目にするとトラウマのような記憶が蘇ってくるため、リスペクトし続けることは難しい。
でも、直接の被害にあっていなければ——どうだろう?

一つ言えるのは、どんなに素晴らしい仕事上の業績がある人でも、法に触れる行為をしたなら、きちんと法の裁きを受けるべきだし、そうでなくても倫理的に大きな問題のあるハラスメントや著しい人権蹂躙などの行為をしたなら、社会的な制裁が下されなければならない。これは当たり前のことだと思う。でもその「当たり前」が機能していないことが問題なのだ。加害者の多くが見逃され、被害者の多くが泣き寝入りしているのが現状だ。

法や人倫に反する行為をした人たちが、全く裁かれることがなく「上」にいるのは、被害者だけの問題ではなく、集団全体にとって、ひいては社会全体にとって、大切なものを損なうことになる。社会を支えている土台の部分が損なわれる。権力を持つ側の腐敗を放置しておくと、その腐敗は、集団全体をじわじわと侵食し、やがて全ての構成員の首を絞めることになりかねない——と、ここで警告しておく。

適切な法の裁きや社会的な制裁がなされた後でも、なお加害者の「仕事」は素晴らしいものであり得るのか?
権力を握っている人間が、弱い立場の人間にハラスメントをしてしまうのは、人間の本性なのか?
これらの問いについては、これからも考え続けたい。

まとまってないけど、ひとまずこれで。皆さんにも問題を共有してもらえると嬉しいです。






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2017.10.28 Saturday 21:40
癌の進行の不安は尽きないけれども、ひとまず今は「闘病ブログ」的なことじゃなく、本当に「書くべきこと」を優先しようと思う。ブログの更新も、無限にできるわけじゃないから。

このブログの過去記事で紹介させていただいた、末井昭氏の「見て見ぬふりせず死者悼め」は、これまで幾度も読み返して、心の支えにしてきた文章だ。
私は今、自殺を考えているわけではないけれども、再発癌の進行(と、その先にある死)に脅えつつ生きている状態で、そういう意味では、今も「命をかけて」言葉を発している。「命をかけた言葉」は、「みんなに届く」かどうかはわからないけど、「誰か」には届くんじゃないか、届いてほしい、という願いを込めて。

これまでもブログに書いたことだけど、今年に入ってから、酷い嫌がらせの被害にあった。その一部は、過去記事「Twitterアカウント削除した経緯について」にも書いた(その他にも、「ストーカー行為」とか「裏でデマを流す」といった嫌がらせもあったらしい)。
その嫌がらせのストレスで体調を崩し、結果として、癌の肝転移の悪化、腫瘍マーカーの上昇という、命に関わるレベルの事態になったことも、過去記事に書いた通りだ。

私の周囲では、「ステージ4の癌患者に対して嫌がらせをする」などという話は聞いたこともなかったので、本当に驚いた。
もっと驚いたのは、命に関わるレベルの事態になった後でさえ、いじめに加担した加害者の多くが、その後も平然とツイッターを続けていて、罪悪感なんてまるで持っていないように見えたことだ。

今回、私が受けたいじめは、表からは見えにくい、陰湿なものだった。
精神科医・中井久夫の「いじめの政治学」(『アリアドネからの糸』所収)によると、いじめは「(被害者の)孤立化」→「(被害者の)無力化」→「(いじめの)透明化」という段階を追って進むのだという。
中井久夫の言葉を借りれば、繁華街のホームレスが「見えない」ように、善良なドイツ人に強制収容所が「見えなかった」ように、いじめが行われていても、外部からはまったく見えなくなる。だから、このブログを読んでくれている人や、ツイッターのフォロワーさんにも、私がどんないじめを受けて、どれほどの苦痛を被ったのか、おそらく見えなかったはずだ。

「無視」や「排除」もいじめの一形態だと思うし、それも問題といえば問題だ。
でも、今回の私に対するいじめはもっと酷かった。何よりも、ツイッターのDMを勝手に盗み読みされたのは、私だけの問題ではなく、私とやり取りしてくださったフォロワーさんのプライバシーをも踏みにじる行為で、本当に心苦しかった。私もフォロワーさんも、見られて困るような悪いことは何一つしていないけれども、だからこそ、私たちの尊厳を踏みにじる行為を許すことはできない。

今回の私へのいじめ行為の根底には、差別心があったんじゃないかと思う。
私はなんでもかんでも「差別」と呼ぶのには抵抗があるから、「差別」という言葉を軽々しく使うのは控えてきた。でも今の私は、歴史的に低く見られてきた、複数の立場に属しているのは事実だ(とりわけ「精神障碍者」については、ナチスドイツではガス室に送られた歴史さえある)。
「女性」に対する差別、「精神疾患の患者」に対する差別や偏見、「病気で働けない人」に対する差別や偏見、「ネットで表現活動している人」に対する差別や偏見……。そういった差別や偏見が根底にあるからこそ、ここまで酷い嫌がらせをして、なおかつ開き直れるのではないか?
私にとっては、陰で嫌がらせをして開き直る彼らこそ、「おぞましい」「不気味」な存在にしか見えないのだけれども。

ただ、落ち着いて考えてみたら、私は過去、ドキュメンタリー映画を通じて、人間のおぞましい面、不気味な面を、垣間見たことがあったのだった。
今回思い出したのは、1960年代にインドネシアで起こった虐殺事件に取材したドキュメンタリー映画、『アクト・オブ・キリング』と『ルック・オブ・サイレンス』だ(過去ブログに書いた映画レビューはリンク先にあるので、詳しくは読んでもらえると嬉しい)。

このドキュメンタリーで、オッペンハイマー監督のカメラは、「虐殺を楽しみ、しかもそれを自慢気に語る加害者」の姿を容赦なく見せつけた。

私の目には、今回のいじめ加害者の人達は、この虐殺事件の加害者と相似形に映る。
もちろん、私が被害にあったいじめは、大量虐殺とは規模が違うかもしれない。でも、「被害者に対する根拠のない噂を盾に、殺人を正当化した」とか、虐殺加害者がアイヒマンと同じく「正常な、普通の人間」だったというあたりが、今回の自分の被害体験と重なるのだ。

映画のパンフレットを読み返して、オッペンハイマー監督の言葉に、私の今の思いに通じる言葉を見つけた。一部引用してみる。
……私が撮影した加害者たちは、勝利を手にし、虐殺の上に成り立つ政権を作り上げた人々であり、今も権力を保持しています。自分たちの行いは間違いだったと認めるよう、強いられたこともありません。最初は私も、彼らの自慢話を額面通りに受け取っていました。彼らは自責の念などまったく感じておらず、自分の行為を誇りに思っていて、良心の呵責などないのだ、と。しかしながら、その考えは軽率だったと気付きました。殺人者たちによる自慢は、彼らが実は自分の間違いに気付いていることを表していて、真実から逃れるための必死の努力なのではないか、と思い始めたのです。

 もし我々が殺人を犯し、自分を正当化できる可能性が残されているなら、ほとんどの人はそうするでしょう。さもなければ、毎朝鏡を見るたびに、殺人者と対面しなければならなくなるからです。『アクト・オブ・キリング』の登場人物たちは、今も権力の座にあり、誰からも糾弾されたことがないため、今でも自分を正当化することができます。そして、その正当化を本当は信じていないために、自慢話はより大げさになり、より必死になるのです。人間性に欠けているからではなく、自分の行いが間違いだったと気付いているからこそのことです。

(『アクト・オブ・キリング』パンフレット ジョシュア・オッペンハイマーによる「監督声明」より)

私も最初は、いじめ加害者には良心が欠けているのかと思ったのだった。
でもむしろ、良心が残っているからこそ、自分も加担したいじめ行為が、命に関わるレベルの被害に結びついたことを認めたくないのではなかろうか。
私だったら、想像するだけで胸が締めつけられるくらい、つらいもの。自分は被害者でよかった、加害者にならなくてよかった、という気持ちさえあるくらいだ。

映画パンフレットの監督声明の続きには、こんな一節もある。
……しかし、悲劇的なのは、殺人を賞賛するには、さらなる悪行が必要だということです。誰か一人を殺してしまった後、同じような理由で他の誰かも殺すよう要請されたら、断ることはできません。なぜならもし断れば、最初の殺人も間違いだったと認めているようなものだからです。

(『アクト・オブ・キリング』パンフレット ジョシュア・オッペンハイマーによる「監督声明」より)
このまま加害者を放置したら、また新たな被害者が出るのではないか。その懸念は、私も持っている。
もしかしたら、この手のいじめは、過去にもあったのかもしれない。表立って声を上げる人がいなかっただけで。 でも、人の命は、取り替えが効かない。謝罪でもお金でも、解決することじゃない。まして加害者が、悔悛も自責の念もなく開き直っている状況は、不気味としか言いようがない。

今回私がされた「不正アクセス」や「陰口」や「ストーカー行為」のような嫌がらせを、私は「陰湿」だと感じた。でも、そう感じるのは、私が被害者だからであって、もしかしたら加害者にとっては「楽しい遊び」だったのかもしれない。
そう、差別もいじめも、それをする側にとっては「楽しい」ものらしい。
被害者にとって身の毛もよだつようなおぞましい体験が、加害者から見ると「ちょっとした楽しい遊び」になる。
この、被害者と加害者の間にある、圧倒的な溝。
これもまた、映画『アクト・オブ・キリング』『ルック・オブ・サイレンス』を連想した理由の一つだ。

人間は、いじめや差別をせずにはいられない生き物らしい。
表向きは「反差別」を唱える人達ですら、いじめや差別の加害者になるのだということを、今回、痛感させられた。
現在、「良識ある」人たちは、表立って「女性」や「精神障碍者」を貶めるような発言をすることは、まずない。内心で見下していたとしても、表向きは、そういう態度を取ってはいけないことになっている。
でも、表向きは「差別は良くない」と唱える「良識ある」人達だからこそ、その差別は、(ヘイトスピーチのような直接的な発言ではなく)陰口のような陰湿な行為になりやすいのではなかろうか。

「見えないところで行われるいじめや差別」なら、ヘイトスピーチよりもマシだ——とは、私には、思えない。被差別者の心身に深い傷を残すのは、ヘイトスピーチも「陰湿な差別」も同じだ。

そして「悪質なデマを流す行為」は、過去に起こった様々な虐殺事件の前兆だったのを思い出したい。例えば、1923年の関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺事件は、「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「朝鮮人が暴動を起こしている」といった悪質なデマが広がった結果、多くの人が殺される惨事となったのだ。

「陰口を叩く人」はどこにでもいるのだろう。「悪質なデマを流す人」も、私には信じられないことだけれども、思ったより多いのかもしれない。
これまで幾度も書いてきたことだけど、私にとって「陰口のコミュニティ」は、健康を害するレベルで苦痛なので、そういう場所からは離れるしかない。
ただ、「陰口」が「悪質なデマ」につながったのだとしたら——そこから「虐殺事件」までは、ほんの数歩しかない。


ともあれ、現実社会で、最低限の秩序もモラルも機能していない状態では、創作の世界で自由に遊ぶことすらできない。私が短歌の発表を止めざるを得なかった理由は、これだ。

不正アクセスはするな。
ストーカー行為は迷惑。
デマを流すな。

これは、ごく当たり前のことだと思う。
こんな「当たり前のこと」さえ守られない場所では、端的に言って生きていけない。ステージ4の癌の闘病中なら、なおさら。

加害者は忘れても、被害者は痛みを忘れない。忘れることはできない。
今回のいじめに関わった人たちは、せめてそのことを忘れないでほしい。自身の行為(あるいは不作為)が、命に関わるレベルの被害につながったことを、忘れないでほしい。これから先、二度と同じ間違いを繰り返さないでほしい。

このブログにはコメント欄もあるし、メールアドレスも公開している。
私は、いつでも対話に応じるつもりで、ブログを書いてきた。
裏でデマを流したり、デマを真に受ける前に、疑問があるなら直接私に尋ねてほしい。 それすらしないで、裏でデマを流したりストーカー行為に走るのって、本当に悪質だからね。

こういうこと、一度はきちんと言っておかなければならないと思ったので、書くことにした。

不正アクセスや嫌がらせとは関係なく、当ブログを純粋に楽しんで読んでくださっている皆様には直接関係のない話でしたが、いじめや差別について考える際の何らかのヒントになれば幸いです。


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