2010.04.21 Wednesday 23:33
<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス
永井 均
講談社
売り上げランキング: 22,987
コメント:〈ぼく〉が存在することの〈奇跡〉を、全身全霊をかけて考える


私は2chのメンヘル板をたまに覗くことがある。2chって、ある種の人たちにはすごく嫌われてるみたいだけど、私が見ていたスレは、親切でちょっとお節介な人たち――要するにごく普通の人たちが集まるあたたかい場所だった。

そのメンヘル板のとあるスレで、かつてこんな書き込みを見たことがある。
「この世界は虚像かもしれない、他人に意志はないかもしれない、という不安に捕われている」と。
こんな悩み、精神科医に相談したら、抗不安薬を処方されるだけでおしまいだろう。
でもそのスレの書き込みには、「それは哲学でいう独我論というものではないか?」というレスがついた。悩んでいた当人は、自分の悩みが哲学的に確立された問題であると初めて知り、哲学への門が開かれたのだ――それが幸か不幸かはわからないけど。

独我論」というのは、私たちが、とりわけ「大人」が普通に社会生活を営む上で、存在しない(ことになっている)問題である。だけど、こういう疑問を、子どもの頃に抱いていた人は、少なからずいるのではないだろうか?
私が永井均の『〈子ども〉のための哲学』を初めて読んだのは、もう十年以上も前のことだけど、永井のいっぷう変わった独我論に触れたときの、鮮烈な驚きと感動は、今も忘れない。

この本は、私が「哲学」というものに対して抱いていたイメージを、根本から変えてしまった。
それまでの私は、「哲学」というのは、カントだのヘーゲルだのニーチェだのといった、有名な哲学者の著書を「解読する」学問だとばかり思っていた。

でも永井均は違った。
「誰とも共有できない問いについて、自分ひとりで答えを考え続ける」というのが、永井のいう哲学だ。
たぶん子ども時代は誰でも、こういう哲学をしていたのではないか。世界が、宇宙が、そして自分がここに存在し、「現に今こうである」ことを、素朴に不思議がっていたのではないか。
大人になると、子どもの頃にそんな問いを抱いていたことすら、忘れてしまうらしい。まあそんな問いをマトモに考えても、何の役にも立たないからね。それどころか逆に、普通に生活をする上で、邪魔になったり害になったりもするから。
それでも、大人になってもある種の問いにこだわってしまい、それを考え続ける人がいる。永井均はそういう人のことを〈子ども〉と呼ぶ。哲学は本来〈子ども〉の営みだという。

〈子ども〉の問いに、大人は答えてくれない。それどころか問いの意味すら理解されない。だって〈子ども〉は、世の中のほとんどの人が当たり前に受け入れている「前提」そのものを不思議に思っているのだから。
だから〈子ども〉の哲学をし続けるということは、ある種の欠陥を抱えているということに他ならない。

永井均の言うところによると、哲学というのは「自然にしていると水中に沈んでしまうタイプの人間が、水面にはいあがるための唯一の方法」だという。
もうね、ここ読んで私、目から鱗がポロポロこぼれ落ちましたよ。
そうか!哲学ってアタマがいい人がするものだとばかり思ってたけど、まともに世界に適応できないダメ人間がするものだったんだ!

永井均の哲学は、「社会」というよりは「世界」に適応できない人にフィットするものだと思う。
「社会に適応できないダメ人間の苦悩」なら、「文学」で代用できる。永井均の言葉を借りれば、それは「青年の哲学」だ。青年は哲学に「よりよく生きる」というような、意味や価値を求めてしまう。
しかし永井均という〈子ども〉の哲学は、まったく違う。青年の哲学(≒純文学)のような、じめじめした自意識の鬱陶しさは微塵もない。カラッとしていて、しかもロジカルだ。生まれて間もない子どもが、初めて「世界」に出会って、ごく当たり前に感じる不思議。それを長いあいだ手放さず、どこまでもクールに思索し続けた永井の軌跡を、この本で味わえる。

この『〈子ども〉のための哲学』で取り上げられるのは、「なぜぼくは存在するのか」「なぜ悪いことをしてはいけないのか」という、ただ二つの問いだけだ。
どちらも「問いの意味すら他者に理解されない」ところから、永井均は思索を始めなければならなかった。

第一の問いは、冒頭に挙げた独我論に関係する。ここで、永井均は「ぼくが存在する」ということの特異性を、いくつかの思考実験で証明しようとする。この過程は、まるでSF小説を読んでいるみたいに、スリリングで面白い!
入り組んだ思考実験を何段階もクリアして、永井の出したあっと驚くような結論を読んだとき、私の体内に、震えるような感動がわき起こるのを感じた。この本の前半部分を読んだ後、明らかに私の世界が色合いを変えたのだ。
こういう問いに親近感を感じた人は、ぜひこの本の前半部分は読んでみてほしいな。この問いを(一部でも)共有する人が、永井の哲学に触れずに一生を終えるとしたら、すごく「もったいない」気がする。

第二の問いについては、第一の問いを読んだときのような感動はなかったけど、これも面白く読めた。「道徳」についての話なんだけど、永井均が、世の中の常識との間にズレを感じている様がヒシヒシ伝わってきて、ときどきクスリと笑えたりもした(というか身につまされた)。

例えば、こういう箇所。
教習所では教えてくれないけど、時速30キロの道路では40キロぐらいで走るのが常識らしい。それと同様に、道徳なんてのも、杓子定規にそれに従ってはいけないものなのだ、と永井は言う。
 まったく不思議なことだが、学校で習ったわけでも、親に教えられたわけでもないのに、ふつうの人はこのことをはじめから知っているらしい。いつも道徳的に善いことをしなくてはいけないなんてことはないし、いつも道徳的に悪いことをしてはいけないなんてこともない、むしろ逆に、いつも道徳的に善いことばかりしようとしたり、けっして道徳的に悪いことはしなかったりすることはおかしなこと、変なこと、だからいわば悪いことなのだ。そんなことだれも教えてくれなかった。それなのに、みんな当然のように知っていた。ぼくは一人でそれを考えて、付加的な規則として、道徳の欄外にあからさまに書き込まなくてはならなかった。
   『〈子ども〉のための哲学』P.158-159(太字は原文では傍点)
ここ読んで、「こういうの、あるある!」って妙に共感してしまった。
だいたいこの世の中には、誰も表立って言わない「欄外に付加的に書かれた規則」っていうのが多くないですか? ※ただしイケメンに限るとか(笑)
まあそれは冗談として、この世界と自分との間に、どうしようもなくズレを見つけてしまうのが哲学者なんだなあ、と感じ入りました。

〈子ども〉の哲学は、「何かの役に立つ」とか、「よりよき人生」を求めるものではない。ただ真摯に問い続ける知的な営みがあるだけだ。
そして納得のいく答えが見つかったとき、その人はただ「ふつうの大人」になる。哲学ってそういうものだ、と永井は言う。

永井均の、私たちがこれまで「当たり前」ということにしてやり過ごしてきた世の常識を、まったく別の角度から洗い直す考察は、すごく新鮮でエキサイティングだった。
それでもこれらの問いは、あくまでも永井均の問いであって、私の問いではない。私は私自身のやり方で、自分の問いを考え続けなければ、「水に浮かぶ」ことはできないみたいだ。

永井均は、この本を通じて、大切なことを教えてくれた。
他人の哲学を味わうことと、自分が「哲学する」こととは、まったく別物なのだと。
世の中ではまったく誰も問題にしていない、自分だけがこだわっている問題があるとするなら、それを考え続けるのは、(世の中の役には立たなくても)意義のあることであり、そうしてもいいのだ、と。

「世界」と「自分」との間に、他人は気づかないような断層を感じとってしまい、そこに橋を架けようと苦闘する、すべての〈子ども〉達に。
この本はそんな〈子ども〉達への応援歌であり、哲学という途方もない「遊び」の指南書なのだ。

| ●月ノヒカリ● | 読書感想 | comments(6) | trackbacks(1) |
2020.09.12 Saturday 23:33
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Comment
2010/04/21 11:52 PM posted by: 村野瀬玲奈
スパゲッティナポリタンから哲学へ...

もうちょっとグルメネタを楽しみたかったけど、人はナポリタンにのみ生きるにあらず、ですね。

私もいろいろな問題にまだまだ答えを出し切れていませんけど、考えること、思考を深めて豊かにしていくことって大切です。

でもまあ、今晩はそろそろ眠いので、思考を深めるのはまた別の日にしよう。笑

とりあえず、答えのない哲学ネタを一つトラックバックします。
2010/04/25 11:25 PM posted by: 月ノヒカリ
玲奈さん、こんばんは〜。

面白い記事のトラックバック、ありがとうございました。
バカロレア、私は合格しそうにないです……。

思考を深めるというのも、ただ深めればいいってもんじゃなく、道しるべのようなものがないと、迷路にまよい込んじゃいそうで難しいですね……。

本当はグルメネタを語る方が気楽でいいんですけど、こっちは書いてるとお腹が減りますね〜。
深夜にナポリタンとか食べたくなって困ります(笑)

コメントありがとうございました〜。
2010/04/26 7:28 PM posted by: 痛風
こんばんは。
私は考え続ける事ができずに強引に帰結させます。私は特別な存在なんだ、と。
そう、中二病なんです。
2010/04/29 8:52 PM posted by: 月ノヒカリ
痛風さん、こんばんは。

私もいまだに中二病が治りません。これは一生治らないみたいですねw

ただ、「私が特別な存在」というのはまったくその通りで、私の存在というのはひとつの<奇跡>だ、ということを永井均は言ってます。

中二病よりも、永井均みたいな<子ども>の方が楽しいかも?と思ったりしますが……同じようなものかもしれませんw

コメントありがとうございました〜。
2011/08/02 12:22 AM posted by: skkk
こちらにもお邪魔します。
自分はこの本で、「第2の問い」の方にインパクトを受けました。
「善く生きよう」という気持ちが強いくせに、反面どうして自分はこんなに悪感情渦巻く人間なのか?、人間的に致命的な欠陥があるのではないか?という根源的な問いに悩まされていたのですが、そこになにか一筋の光明を与えてくれたような気がしました。もちろん、完全な答えなどは出せていませんが、それでも随分と気持ちが楽になったものです。
自分の頭だけで考えられるほどの知能はなく、自分で「哲学」をするのは到底無理そうですが、哲学がダメ人間のためにある、ということは、ダメ人間たる自分には大いに励ましになりました。
2011/08/03 8:20 PM posted by: 月ノヒカリ
skkkさん、再びこんばんは。

私はこの本、衝撃を受けたのは第一の問いの方で、第二の問いは面白く読んだ、というくらいなので、skkkさんとは少し読み方が異なると思うんですが……。

>「善く生きよう」という気持ちが強いくせに、
>反面どうして自分はこんなに悪感情渦巻く人間なのか?

なるほど、これは私にもわかる気がします。
記事中に引用した文章にも繋がる話だと思いますが。

私自身の、個人的かつ不完全な答えを書くとすれば―――
「善く生きよう」と願う人間が、いつも「機嫌良く、ポジティブな感情で過ごす」必要はないし、ネガティブな感情を持っているのも普通のことだ。
―――ということになるでしょうか。
私はこういった答えを、哲学ではなく、宗教(スピリチュアル)とか心理療法などから得ているように思います。

>自分で「哲学」をするのは到底無理そうで

私も、永井均のような「哲学」をやるのは無理ですね。永井均は、「欠陥」が「才能」として開花した稀有な例でしょうね。

自分に欠陥がある(=水に沈みがち)と思うのなら、息をするために水面に這い上がらなければならない。
そのプロセスを言語化できたら、それは「哲学」と呼ばれるものになるかもしれません。
あるいは「アート」とか「文学」とか、別の作品にもなり得るのかもしれませんが。

私はあまり「哲学」にこだわらず、とりあえず自分の思うことを言語化してみよう、という感じでブログ書いてます。

うまく伝わるかどうかわかりませんが、永井均の読者の方に来ていただけて嬉しかったです!
また気づいたことがあれば、いつでも書き込んでください。

コメントありがとうございました。
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2010/04/21 11:54 PM posted by: 村野瀬玲奈の秘書課広報室
当秘書課広報室の毎年恒例(笑)の記事、フランスのバカロレア(大学入学資格試験)の哲学の課題の紹介です。2007年分と2008年分は、当時次...
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