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2020.09.12 Saturday
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2011.06.10 Friday 22:48前回の続き。
「ハーバード白熱教室」から個人的に、すごく感銘を受けた部分を。
「白熱教室ノート」みたいなまとめサイトは、他にいっぱいあるので、私がやる必要はなかろう。
私が「個人的に感銘を受けたこと」だけを書こうと思ったのは、高橋源一郎氏がTwitterでサンデルを批判していた(「『痛み』としての教育」「一度だけの使用に耐えうることば」)のを読んで、共鳴するものがあったからだ。
「『痛み』としての教育」の以下の部分に、私は心の底から頷いた。「ならいおぼえたものを伝える」だけの教育者は、「ならいおぼえたものを伝える」ことしか知らない者を産み出す。個人的な「痛み」を通過した「信条(クレド)」の伝達だけが、次の「信条(クレド)」を産み出す産婆となる。
だから、私もまた「私の個人的な痛み」を通過したことのみ、語ることにする。
http://twitter.com/takagengen/status/26312948678922240
というのは、白熱教室第6回、カントの思想についてだ。
とっつきにくく難解な回だったんだけど、私は妙に感動してしまった。
カントは「すべての個人は尊厳を持っている」と主張し、功利主義を否定した、というのがサンデル先生の解説だった。
それが、ずっと心に引っかかっていた東浩紀の下記Twitter発言と繋がったのだ。人間はかけがえがきかない、お金には換算できない、というのは、学生の甘っちょろい理想とかではなくて、現代社会の基礎概念のひとつなのです(哲学史的にはカント)。人類がそういう前提を選んだという歴史を、「世の中結局コスト計算なのよ」とかで乗り切れると考えることのほうが圧倒的に淺い。
http://twitter.com/hazuma/status/20026630543
「コスト計算」というのは、功利主義的な考え方だ。 功利主義というのは、「最大多数の最大幸福」を目指すもので、それ自体は間違っていないように見える。
でも、功利主義者はすべてを数値化しようとする。人の命でさえも、お金に換算できるというのが功利主義者だ。
白熱教室第2回で、費用便益分析(=コスト・ベネフィット分析)という言葉が出てくるんだけど、これはいわゆる「コスト計算」に近い。
ここで、講義で取り上げられた、ちょっとヒドい「費用便益分析」の例を紹介してみる。
あるタバコ会社(本にはフィリップモリスと書かれている)が、チェコで次のような調査を行ったという。
国民が喫煙することによって政府が失うお金(費用)と政府の利益になるお金(便益)とを、天秤にかけてみたところ―――。
費用 便益 医療費の増加 タバコ販売からの税収
早期死亡による医療費節約
早期死亡による年金節約
早期死亡による高齢者向け住宅費節約
表のように費用(コスト)と便益(ベネフィット)を比較した結果、フィリップモリス社は「市民が喫煙することで、チェコ政府は得をする」という、驚くべき結論を出したのだ!
つまり、「喫煙者が増えると肺がんで早死にする人も増えるから、そのぶん政府は得をするよ」と言っちゃったわけ。もちろん非難囂々だったらしいけど。
でも、この種のコスト計算は、現在も至る所で行なわれているように思う。
裁判では、「人の命がお金に換算される」なんてこと、普通にされているし。
そんで私もずっと、自分に対して「費用便益分析」をやってた気がする。結果はすっごく悲しいことになるんだけど。
私が働いて稼いだお金と、私が病気になって使った医療費を比較すると、圧倒的に医療費の方が高いのだから。つまり自分は、生きるのにコストのかかりすぎる「赤字」人間ということになるわけだ。自虐ではなくて、本当にそう考えていた。
でも、東浩紀のTwitter発言と、ハーバード白熱教室のカント思想を知って、ちょっと風向きが変わった。
これまで何となくキレイゴトだと感じていた「人の命はお金に換算できない」とか、「すべての人間は尊重されるべき存在」という言葉が、腹の底にストンと落ちてきたんだ。
そんなときに書いたのが、このブログエントリ(「死にたい」という気持ち)だったわけです。
ただ単に「自分が生きている」ということに罪悪感を感じるのは、実はとんでもなくエネルギーを消耗するんだけどね。でも、私にはそういうところがあった。そして、そういう考えに捕われている人は、他にも少なからず存在するみたいだ。
でも、やっぱりそれは間違いなんだよ。
一人ひとりの人の命は、かけがえのないものなんだよ。
「人の命はお金に換算できない」「すべての人間は尊重されるべき存在」というのは、カントに発する「普遍的な」思想であって、人類はその道を選んだのだ。決して、甘っちょろい理想主義者の文言なんかではない。
「普遍的」というのは、「時代や地域、人種を越えて通用すること」という意味だ。
現代社会は、多元的な社会・多種多様な価値観が認められる社会で、「唯一絶対の真理」というものを主張するのは難しい。
それぞれの共同体には固有の価値観があって、それを認めようという「価値相対主義」が行き渡っている。それはそれで必要なことだったと思う。
でも、「奴隷制」は、やっぱり悪ではないのか?
古代アテネや南北戦争以前のアメリカに存在した奴隷制は、その共同体内部では「正しいこと」だったかもしれない。しかし、普遍的な正義に照らし合わせたら、やはり間違っていたのではないだろうか。
・・・とこんな話を読んで、「何を当たり前なことを」とか「何でそんなことを考えてるのか、よくわからない」とか思った人は、「まっとうな大人」なのかもしれないな。
やっぱり永井均の言うように、哲学ってのは「そのままでは水に沈んじゃう人が、なんとか這い上がろうとする」ためにあるのだろう。
サンデルの著書『これからの「正義」の話をしよう』には、「いまを生き延びるための哲学」というサブタイトルがつけられているんだけど、それは大袈裟ではなかった。少なくとも私にとっては。
カントの思想については、自由と自律とか定言命法とか、もっとややこしい話が出てくるんだけど、ブログ主はさほど興味を持てなかったので、ここでは割愛。
ただ、「カント派にとって、他人を尊重するというのは、愛・同情・仲間意識とは違う」というサンデル先生の話は印象的だった。カントにとっての尊重とは、「普遍的な人間性に対する尊重」なのだという。
これは、「社会制度がどうあるべきか」を考える際に、重要な視点だと思う。
社会というのは、困窮している人を「かわいそうだから助けてあげる」のでは駄目なのだ。どんな人間であっても、例えば、「ギャンブルばっかりして借金を抱えてしまった」というような、まったく同情できない人物であっても、人間として尊重されなければならない。
「公正な社会」っていうのは、そういうものじゃないかと。
この話は、次回につながる(予定)。
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Comment
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2011/06/11 9:20 AM posted by: 盗人・李メドベージェフ「市民が喫煙することで、チェコ政府は得をする」とのことであるが、これは日本政府にも当てはまる。
政府が得をするということは、国民全体としては得をするということでもある。
しかし、正確には得をする人と損をする人がいるということになると思われる。 -
2011/06/12 4:05 PM posted by: 村野瀬玲奈『「ならいおぼえたものを伝える」だけの教育者は、「ならいおぼえたものを伝える」ことしか知らない者を産み出す』ということも、日本政府や大阪府知事や東京都知事にも当てはまると思ってしまいました。
『個人的な「痛み」を通過した「信条(クレド)」の伝達だけが、次の「信条(クレド)」を産み出す産婆となる』、まったくその通りです。
『例えば、「ギャンブルばっかりして借金を抱えてしまった」というような、まったく同情できない人物であっても、人間として尊重されなければならない』、同意です。
同意するばかりのコメントですみません。(汗)続きもとても楽しみにしています。 -
2011/06/14 11:33 PM posted by: 月ノヒカリ☆盗人・李メドベージェフさん
はじめまして、でしょうか。
おっしゃることはその通りなのかもしれませんが、コメントされた意図がよくわかりません。
上のエントリを読み返してみたら、タバコ会社の例よりも自動車メーカーの費用便益分析を取り上げる方が内容に合っている気がしたので、もしかしたら表を書き換えるかもしれません。
☆玲奈さん
こんばんは〜。
日本政府といってもいろんな人がいるので一概には言えませんが……今の社会(特に会社)では、「従順な人間」を生み出す教育がされている気がします。
それでも、一人ひとりの人間が、自分の「痛み」を通した言葉を発するようになれば、少しは変わっていくのではないでしょうか。
次に繋がる予定でしたが、あんまり繋がってないかもしれないですね(笑)
いや「ハーバード白熱教室」全12回、頑張って見てブログに書いたものの、誰も読んでくれないんじゃないか、という気がしましたが……玲奈さんが読んでくださってよかったです!
コメントありがとうございました〜。 -
2015/11/19 9:59 PM posted by: Twitterのおっさん「障碍者でも、生産性がない人間でも、その命は尊重されなければならない」←素晴らしいとは思いますが、迷惑をかけまくっている身としては自分から尊重してくれと発信することはできるはずもなく、ただ縮こまるのみなのです。
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2015/11/20 11:52 PM posted by: 月ノヒカリTwitterのおっさん様、はじめまして。
何らかの障碍の当事者の方でしょうか。
「自分を尊重してくれ」とはなかなか主張しづらいというお話、確かにそうだと思います。
でも、当事者が縮こまって何も言わないままだと、世の人に困ってることが理解されず、余計困ることになりませんか?
なので、人に伝えるためには、こちらも多少は勉強する必要があるのかな、と思ってます。
日本でも、障碍者運動として、当事者たちが声を上げてきた歴史があるわけですし。
このブログでも、立岩真也先生の『弱くある自由へ』を取り上げたことがあります。
http://newmoon555.jugem.jp/?eid=186
個人的には、当事者の方たちには、縮こまらずに発信してほしいな、と思ってます。
コメントありがとうございました。 -
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2011/06/18 11:40 PM posted by: 村野瀬玲奈の秘書課広報室これはやはり記録しておくべき言葉です。日本の高級官僚や与党筋・自民党系政党の政治家が、国民や政治をどう思っているかという考えが垣間見られるのですから。今年の流行語大賞の受賞候補の一つにし...