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2012.01.02 Monday 23:50
新年の挨拶は省略して、いきなりアニメの話ですみません。

年末に『輪るピングドラム』の最終回(24話)を見たんです。
そんで久しぶりに、打ちのめされるほどの感動を味わいましたよ。

このアニメ、最初のうちは「生存戦略ー!!」の掛け声で始まるヘンテコなイリュージョンに魅了され、「またおかしなアニメつくってw」などと笑いながら見てたんですが―――途中からどんどん話が予想外の方向へ。そして最後は号泣。

半年間、見続けてよかった。
私は以前、「承認弱者のための生存戦略」なんてエントリを書いたことがありましたが―――あれはもう過去の話です。
世界は書き換えられたんです。「運命の乗り換え」によって。
本当に、久々に世界が変わるほどのアニメ見たわ……。

内容は説明しづらいんだけど、さわりだけ―――。
物語は、高校生の冠葉(かんば)、晶馬(しょうま)と、病気の妹・陽毬(ひまり)の生活描写から始まり、仲の良い兄妹のあったか家族もの、みたいな雰囲気だった。
その陽毬が、ペンギン帽をかぶると人格が変わって、奇怪なイリュージョンの世界で「きっと何者にもなれないお前たちに告げる。ピングドラムを手に入れるのだ。」とか言い出すの。わけわかんないよね(笑)

面倒なんで、結論だけ書いておくね。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に出てくる、私がいちばん好きなところ=さそりの火のエピソード。それが、ピングドラムの最終話に照応している。
青空文庫で全文読めるけど、ここにその部分を引用するね。
「むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎(さそり)がいて小さな虫やなんかを殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどとうとういたちに押えられそうになったわ。そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、
 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんとうにあの火それだわ。」

   (宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より)

ここからはちょっとだけネタバレになるので、折り畳みます。

  *  *  *  *  *  *  *  *

結局「ピングドラム」って、蠍の炎みたいなもので、それを誰かに分けたりもらったりして、命のやり取りをしてるんだな。そうやって、「選ばれなかった子どもたち」は生き残ってきたんだ。
(というのは、運命の乗り換え後に駅名プレートが変わって、「命」と「蠍の炎」が双方向に行き来するイメージを示されたから、わかったことです。)

そのピングドラムのやり取りは、ふたりの間だけで完結するようなもの(一対一の恋愛みたいな)ではなく、冠葉→晶馬→陽毬と手渡されて、最後にまた冠葉に返されるという感じで、ぐるぐる回ってるから「輪(まわ)るピングドラム」なのだろう。これ、凡庸な家族礼賛、恋愛礼賛モノではないところがいい。

ピングドラムというのは、「手に入れる」ものではなくて、「分け与える」ものなのだろうな、と思った。いちばん最初に冠葉が晶馬に、自分のりんごをはんぶん分け与えたように。
あるいは、「すでに持っていることに気づく」たぐいのもの。


物語には、16年前(1995年)にテロ事件を起こした宗教団体(オウム事件を彷彿とさせる)が絡んでくる。
また、「選ばれなかった子どもは透明な存在になる」というセリフなんかは、酒鬼薔薇事件を連想させる。
さらに運命の乗り換えができる日記帳とか、「子どもブロイラー」とか、ちょっと薄気味悪くて不思議な世界観が登場するのだけど……そのあたりは実際に見て確かめてください。


物語の核心に話を戻すと、銀河鉄道のさそりのエピソードも、『輪るピングドラム』も、自己犠牲の物語と解釈するのが妥当なんだろうけど―――私はちょっと違う印象を持った。

確かにピングドラムは一見「自己犠牲」のお話に見えるんだけど、メタメッセージとして「愛の純粋贈与」があったように私は感じたんだ。
「愛の純粋贈与」というのは、昨年5月の高橋源一郎さんのTwitter「メイキングオブ『「悪」と戦う』」連続ツイート第4夜、キリスト教の幼児洗礼についての話に出てきた言葉だ。
ちょっと長くなるけど引用する。
メイキング4の④
キリスト教では、生まれて数日後の赤ん坊に「洗礼」を施します。つまり、「キリスト教徒」になるのです。よく考えれば変ですよね。「信教の自由」は世界中で認められた権利なのに、知らないうちに「キリスト教徒」にさせられるって。ぼくたちは調べている中にある事件に出会いました

メイキング4の⑤
戦争中のことです。二十世紀最大の神学者カール・バルトが、キリスト教界を揺るがす発言をしました。「教会の洗礼論」と名付けられた講演で、バルトは、「幼児洗礼は、教会のからだに傷つけられた傷」と激烈な批判を行ったのです。バルトの批判は、簡単に言うと、こういうものでした

メイキング4の⑥
「信仰は、主体的責任を負うことのできる個人が、神との間に直接結ぶ契約なのだ。判断できない幼児に、洗礼という強制を行うのは、信仰でもなんでもない。国民教会に成り下がった教会の組織防衛の儀式にすぎない」と。このバルトの論理は揺るぎないように思えたのです。

メイキング4の⑦
ぼくはキリスト教徒ではありません。そんな無宗教のぼくにとっても、バルトの論理は過ちがないと思えました。動揺するキリスト教の世界から、敢然とひとりの牧師がバルトへ反論を開始したのです。名はオスカー・クルマン。彼は、バルトの発言の真摯さを認めつつ、こう言ったのです。

メイキング4の⑧
「バルト博士。あなたの論理は悲しいほどに正しい。けれど、一つだけ間違っている。あなたが言っているのは、宗教ではないのだ」と。バルトは、主体的な判断ができない幼児への洗礼は、罪だと断定しました。しかし、クルマンは「幼児洗礼は、神からの愛の純粋贈与だ」と言ったのです

メイキング4の⑨
「幼児は洗礼によって信仰を強制されるのではない。あらゆる洗礼がそうであるように、まず、神からの愛の純粋贈与がある。これは純粋贈与だから、拒否することも、無視することも、止めることも可能だ。子どもたちはまず愛されたのだ。幼児洗礼にそれ以外の意味はないのである」。

(全文はこちらで→ http://togetter.com/li/18161

この部分、過去にこのブログには取り上げたことはなかったけど、すごく心を揺さぶられたところだ。
生まれたときに、まず「愛された」という刻印が与えられる世界って、なんて素晴らしいのだろうと。
正直、クリスチャンの人が羨ましいとまで思いましたよ……。

この次の日のツイッター(5月6日)では、原罪、つまり「関与していないことについて、わたしたちは有責である」という論理について、高橋さんは語っているんだけど、それも合わせて読むと、より理解が深まる。

陽毬の「生きるってことは罰なんだね」という言葉や、晶馬の「僕たちの罰も、僕たちの愛も、みんなわけあうんだ」というセリフと、ぴったり合致する。

ピンドラの「運命の乗り換え」がなされたあとの世界で、かつて桃果に救われた多蕗(たぶき)とゆりは、こんな会話を交わしている。
「僕らは<あらかじめ失われた子ども>だった。でも世界中のほとんどの子どもたちは僕らと一緒だ。だからたった一度でもいい。誰かの愛してるって言葉が必要だったんだ。」
「たとえ運命がすべてを奪ったとしても、愛された子どもはきっと幸せを見つけられる。私たちはそれをするために世界に残されたのね。」

そして、ピングドラムの最終回のタイトルは「愛してる」
これは、「あらかじめ失われた子どもたち」「選ばれなかった子どもたち」に向けての、(制作者からの)メッセージだと私は受け取った。
神からの愛の純粋贈与に近い形で、「愛してる」というメッセージを私たちに届けてくれたのだと。

この最終話に涙を流したのは、私もまた、誰かからピングドラムを受け取った記憶があるからだろう。
私たちはすでに、「運命の乗り換え」後の、愛を与えられた世界に生きているのだ。
さそりの火が天を照らす世界に暮らしているのだ。

だからさあ、もう承認されたとかされなかったとか、選ばれたとか選ばれなかったとか、そんなことにこだわって世界を呪うのはバカげてるよね。
もう君は愛されたんだから、どこへ行ってもいいんだよ、何をしてもいいんだよ、って言ってくれたんだよね。『輪るピングドラム』のラストは。

『銀河鉄道の夜』には、次のようなジョバンニのセリフがある。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ペん灼いてもかまわない。」
この部分、最終話ラストに出てくる二人の男の子(冠葉と晶馬か?)の会話シーンを彷彿とさせる。
ただ、「みんなのほんとうのさいわい」って何なのか、ジョバンニにも私にもわからないのが、難しいところなんだけど……。

ひとつヒントになりそうなのは、『輪るピングドラム』には、この「間違った」世界を「きれい」にするために破壊を企図する宗教団体(ピングフォース)が登場するんだけど―――彼らはオウム真理教のようなテロに走っちゃうんだよね。

運命の乗り換えによって世界を救おうとする桃果(ももか)と、世界を破壊しようとする眞悧(さねとし・ピングフォースのリーダー)。物語はこの二人を陰の主役として、動いていく。
二人(桃果と眞悧)は、宗教のもっとも美しい部分(ピングドラム)と破壊的な負の部分(ピングフォース)を象徴しているように思われる。
もちろん前者を肯定、後者を否定しているんだけど―――実際のところ、この両者の差は紙一重ではないだろうか。

それでもできることなら私は、世界を呪って破壊するのではなく、誰かにピングドラムを分け与えたり、分けてもらったりできる世界を選びたいな。
愛も罰も一緒に分け合う世界。

『輪るピングドラム』は、古くて新しい世界を見せてくれた、古くて新しい物語、でした。

正月から長文アニメ感想をUPした痛々しいブログ主に拍手を!


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このアニメは見る価値アリです。マジで。
| ●月ノヒカリ● | オタク | comments(2) | trackbacks(0) |
2020.09.12 Saturday 23:50
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Comment
2017/08/11 12:18 AM posted by: 賢治
ピングドラム放送当時から今日まで何度もこの記事を拝見していた者です。
久しぶりに拝見して感傷に浸っていたところ、ヒカリさんが病に伏せておられると知り、私に何かできることはないかと思い、このコメントを書いています。

当時私が置かれていた環境、精神状態などからピングドラムには並々ならぬ思い入れがあり、あの作品を同じように観ている人がいると知ってとても嬉しかったのを覚えています。

あの時、たしかに私があなたから受け取ったものを、返すときが来たんだと思います。

この記事を書いてくださって本当にありがとうございました。
あなたは他人に大切な何かを与えられる人です。本当に素敵です。

体調もすぐれない中では困難を極めるとは存じますが、どうか、嫌がらせをする人のことはお気になさらず。
きっと彼らには彼らの人生があり、道理もあるんだと思います。

“私は、いろいろ病気をしたせいか、リアル生活でもネット上でも、病気を抱えている人と会う機会が多かったのですが……苦しい状況の中でも、他人の足を引っ張ろうなんて考えず、自分にできることを精一杯されている方、それどころか他の人のために尽力されている方を、何人も見てきました。”

ヒカリさんも含め、そのような方を見るとこちらまで元気が出てきます。
「夜と霧」よろしく、いつだって誰かのためにできることはありますよね。
私も、そんな人でありたいと願うばかりです。

いくつか他の記事も拝見して、ヒカリさんとは共感できる部分、些細な共通点が多くあり、他人事とは思えず、つい一方的な文章を書いてしまいました。失礼しました。

ヒカリさんと出会えて本当に良かったです。
ブログ、楽しみにしています。

ヒカリさんの人生がこれからも素敵なものであることを祈っています。
2017/08/12 11:39 PM posted by: 月ノヒカリ
賢治さん、はじめまして。
古いエントリを愛読してくださったとのこと、嬉しいです。
ピングドラムは私にとっても思い入れの深い作品でした。
今はアニメはほとんど見てないのですが、「最終回で号泣したアニメ」って、他には思いつかないです。

賢治さんには、最近のコメント欄のやりとりまで読んでくださったようで、恐縮です。
でも本当に、苦しい状況にあっても、他の人に与えることができる人は、確かに存在するんですよね。メディア等で華々しく取り上げられるような存在じゃなくても、ごくささやかな場所で、そういった行為を実践している人には、あちこちで出会えます。
もし私自身が「何かを与えられる人」であるとしたら、そういう人達に出会って、「私も見習いたい」と願ったから、だと思うんです。

逆に言えば、「見習いたい」とは全く思えないような人達からは、離れるしかないのかな、と。
「嫌がらせをする人」の中には、もともとは尊敬していた人、憧れの存在だった人もいるので、余計に傷が深くなってしまったんだと思います。

でも、この先どのくらい生きられるかわからない状況にいる今は、多少なりともリスペクトできる人の方を向いて生きていきたい、と改めて思いました。
かつては尊敬していた人のことを、まったく尊敬できなくなったのは、残念ではありますが……。

賢治さんのコメントを読ませていただいて、レスを書いているうちに、多少なりとも気持ちの整理がつきました。
できるだけ前を向いていこう、と思えるようになりました。

とても丁寧なコメント、ありがとうございました。
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