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2012.02.04 Saturday 23:28
さて、やっと本題に戻ります。
1月16日のエントリ「批判 ≒ 愛 ということ」に、ふなぼりすたさんからブログで応答をいただきました。

■「批判≒愛ということ」めざして(お花畑めざして byふなぼりすたさん)

というわけで、再レスいたします。
おお、このブログでこういうの、初めてかもしれないわ〜。

まず、「ディベート」というものについて、ちょっと誤解とか混乱があるように思ったのですが……。
ふなぼりすたさんの記事にリンクが貼ってある記事、内田樹「呪いの時代に」を読むと、ディベート=「平気で他人の発言を遮り、切り捨てて、大声で自説をまくし立てるだけの貧しく刹那的なやり方」だと誤解してしまいそうだけど……。

私はディベートというものを正式に学んだことがないので(日本ではあんまりやってないですね)、乏しい知識からの受け売りなんだけど―――私の認識では、ディベートとは、あるテーマについて、二つの陣営に分かれて議論し、勝ち負けを争うゲームだと思っていた。

例えば、原発に「賛成」と「反対」の二陣営に分かれて、議論をして、最終的にどっちの主張に説得力があるか、で勝敗を決めるゲーム。

この二陣営は、「本来の自分の意見とは異なるチームに属する」こともある、というのがポイントだと思う。
つまり、「心情的には脱原発を望む私が、ディベートの場では、原発賛成側の論客として討論し、最終的に勝ってしまう」というシナリオもあり得るわけだ。

この認識であってます?
そうだとしたら、ディベートは「自分とは異なる意見の人たちの立場になって、物事を考える」ために、役立つツールなんじゃないかな。

「相手の立場になって考える」ということは、日常生活ではもちろん、政治的な議論の場でも必要なことだと、つねづね私は感じていた。
原発をなくしたいと願う人は、「いや原発は必要だ」という人の声に耳を傾けるべきだし、原発推進派は、「原発をなくすべき」という人の声を聴くべきだと。
「相手の主張に耳を傾け、落としどころを探る」(by内田樹)ことこそが、政治的な手続きというものだと。

だから、本来の「ディベート」というのは、「相手(≒敵)の立場になって考えてみる」ためのツールだ思うんですよ。
日本で、本来の意味での「ディベート」をする機会がほとんどなく、誤解されているのは残念なことだと思うけど……本来の意味での「ディベート」には、価値があるのではないでしょうか。

その上で、ですよ。
ディベートって結局、「ゲーム」だよね。
私は、このブログで、ゲームをやるつもりはないなあ。

というのも私は、自分を離れて「客観的な立場で語る理論」というものを、あまり信頼していないから。
私がここで書いていることは、あくまでも自分=30代無職未婚の病人女という個人的な事情を背負って、語る言葉だ。

だから、私がこのブログで書いている文章は、厳密には「言論」の世界に属するものではない。
言論ではなくて、「手紙」のつもりで書いているのだから。

ちょっと実際にやってみよう。

さっきリンクを貼った記事内田樹「呪いの時代に」、1ページ目は私も同意したんだけど、2ページ目からのロスジェネ批判については、私はロスジェネ世代として、ものすごい反発を感じたんですよね。
どうも内田樹氏は「ロストジェネレーション論が中高年層への憎しみを煽っている」ように感じたようだけど……内田樹氏は中高年層だから、そう受け取ったのでしょう。
でもロスジェネ世代である私には、また別の思いがありました。

「年長者一般に対する憎悪」は、かつての私も持っていたのです。
だってずっと長い間、私たちこそが、年長世代から呪いの言葉をかけられていたのだから。
それこそ朝日新聞の「ロストジェネレーション」キャンペーンも含め、赤木智弘 、雨宮処凛といった人たちが声をあげるまでは、それに抵抗することもできないまま。

内田樹はこう書きました。
 朝日新聞の「ロストジェネレーション」も、それぞれ自分の身体や生活を持っている人々を、前述のように「強欲で無能な中高年」という記号にして、彼らへの憎しみを煽った。暴力性の桁は違いますが、これもアメリカの「イスラムのテロリスト」に対する憎悪と本質的に同型のものです。記号として扱われ、顔を持たない人間たちに対して、人間はいくらでも残酷になれます。
   内田樹「呪いの時代に」
これに対しては、ひとこと(以上w)言わずにはいられません。

実は私たちこそ、それよりずっと以前から、年長世代からの憎しみの言葉を浴び続けてきたのです。
「フリーターなんて勝手な奴らだ。定職に就け」
「ニートとかいう働かない若者が増えているそうだ。最近の若者は甘えている」
この手の「呪いの言葉」を、年長世代からどれほど聞いてきたことか。

それこそ、「若者」にだって、個々の生活があり、身体があるのに、です。
そもそも仕事がないとか、正規の職業に就けないからフリーターをせざるを得ないとか、病気であるとか、障碍があるとか……etc.
私個人の事情については、過去に「就職氷河期の敗残兵からひと言」「病歴」のエントリに書いてきました。

それぞれ固有の身体と生活を持つ若者が、それぞれに事情があることをまったく無視して、働かない(働けない)若者はバッシングされてきました。
それに対する反論としては、『「ニート」って言うな!』だけで充分だと思います。(あの本を読んだとき、私はどれほど救われたことか……。)

そうやって、年長世代から「呪いの言葉」を浴びせられ続けた私たちは、どうなったか?
その一部が、「“助けて”と言えない30代」です。
自分の努力が足りないのだと、自分を責め、助けを求めることもできなくなった。
そんな私たちの世代の中から、年長世代を呪う声が出てきても、それは当然のことだと感じました。

ただ、私個人としては、今はもう年長世代を憎むことはやめました。
その理由のひとつは、年長世代を憎んでも解決しない、むしろデメリットの方が多いという、功利主義的な理由からです。

でももう一つの理由の方が大きい。
それは、このブログを書き始めてから、年長世代の方から「個人的に」応援の言葉をいただいたからです。

「祝福」を与えられた人間は、自らもまた祝福する側になれる。
これは私の実感です。
今の私は、年齢とか世代とかに関係なく、本当に困窮している人を助けたり、助けられたりすることができるように、そういう社会になってほしいし、そうしていきたいと願うばかりです。


・・・さて、ここまで私は、内田樹氏への反論を書いてみたんだけど―――やっぱり自分が書いているのは「手紙」なんだと思う。「言論」ではなくて。

このブログの一番始め、明川哲也『敗北からの創作』の記事は、私がブログを始める上での「宣言」のつもりだったんだけど……あの本はまさに、暴力的な世界に立ち向かうための解法として、「一般の人に手紙を書く」ことを提示してくれたのだった。

「個から個への伝達が、忘却もされず、一番強い」と教えてくれたのが、明川哲也さんだ。
それぞれ個別の事情や生活や歴史を持つ、個人と個人が対話するところに、未来は開ける。そうあってほしい。

そして、ここが肝心なんだけど。
対等な人間が、本当に胸襟を開いて「対話」して、意見がぶつかりあったとき、そこに「勝ち負け」なんてない、と私は思うんだ。
Win-Winというのにも、無理がある。
むしろLose-Lose、「お互いに負けあう」ような「痛み分け」のような形にしかならないのではないだろうか。

「勝ち負け」で決まってしまうのは、ゲームだ。
しかし本来、人間の紡ぎだす言葉は、勝ち負けとか、ルールとか、そういうものの枠内に収まるものではない。

「私」という「個人」を背負って発した言葉には、「言論」という個が捨象された空間にはない力があるはずで。
ときにはその力が、人にダメージを与えたり、自分がダメージを受けたりすることもあるだろうけど―――それは「痛みを分かち合う」という形でしか、決着できない。そうしなければ前に進めないのではないでしょうか?

そういうわけで、このブログのすべての記事は、わたくし月ノヒカリが個人として、あなたに宛てた「手紙」なのですよ。
―――ということを再度確認して、終わりにします。
はぁ〜長かった……。

 ここまで読んでくれた人、ありがとう〜!
| ●月ノヒカリ● | 社会 | comments(4) | trackbacks(1) |
2020.09.12 Saturday 23:28
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Comment
2012/03/07 1:00 AM posted by: アリサ
「ニートって言うな!」の下りのあたりから胸が痛くなり、涙が出てきました。
ずっと自分はそのように言いたかったんだなと。
2012/03/07 11:10 PM posted by: 月ノヒカリ
アリサさん、こちらでもこんばんは。
この長文を読んでくださってありがとうございます!

このブログは「言いたかったけど、ちゃんと言えなかったこと」を言葉にしようとしているので、そう言っていただけると本当に嬉しいです。

コメントありがとうございました。よろしければまたお越しください♪
2012/04/24 2:17 PM posted by: アリガトウ

こうやってネットで人と会話していると、たった一言を不快に思うことがあります。
一言なんて人生からしたら、一瞬なんですよね。

1つの言葉で自分が確立したものを壊されたくないから、怒ったんだなと思いました。
既に自分で自分を否定や傷つけているというのがわかったんです。
(こういう状態だと、相手を思いやる言葉が湧きません。^^;)

それだけ脆いってことなので、他人の価値観がストレスになります。

自分に自信がないと思うと、相手のポジティブな部分でなく、ネガティブな部分(弱いとこ、未熟なとこ、恥ずかしいこと、老いること、病気になること)が見えなくなるから、人格攻撃したり自分が馬鹿にされていると思ったりするのでしょうか。

心が荒んでいると、その人のポジティブな部分(強さ、前向き、陽気さ、明瞭さ)が強調されて見え、自分が惨めに思えて気に入らなくなるんでしょうか。

根底には弱くみられたくないって思いがあると思います。
誤解されたくないってのは、他人に何か期待していることなので、自分を信頼していないということでしょうね。
自分の存在を認めて欲しくてネットで人に依存や執着をしてしまってます。(苦笑)
2012/04/29 10:34 PM posted by: 月ノヒカリ
アリガトウさん、お久しぶりです。

ここに書かれていることは、それぞれに同意する点も多いのですが……コメントを拝見していると、何となくアリガトウさんは考え過ぎているんじゃないか、という気がします。

自分の行ったコミュニケーションを反省的に振り返るのは、大事なことだと思いますけど……あまり深く考え過ぎても、かえって迷路に迷い込みますよ〜。

「ネットで依存」というのは、私もやっていることなので、偉そうなことは言えませんが……(笑)

う〜ん、どうすればいいんでしょうね?
たまにはネットをやめて外出するとかはどうでしょう?
私も明日はお出かけする予定です♪

コメントありがとうございました〜。それではまた。
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2012/02/06 5:10 AM posted by: お花畑めざして
まずは、内田樹に対する批判から。月ノヒカリさんは「手紙」として書かれていましたが、これを「言論」でやるとどうなるか。funaも、ちょっと実際にやってみよう(あくまでfuna的言論ですがw)。・・・・・・・・・・内田樹はこう書きました。・・・(引用開始)・・
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