2020.09.12 Saturday

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2013.12.14 Saturday 23:58
なんか『ハンナ・アーレント』っていう映画が評判らしいと聞きつけ、観に行ってきました(映画について知ったのはここで)。

ミニシアターでの上映のせいか、平日でもほぼ満席。
ハンナ・アーレントって名前くらいは知ってるけど――というレベルの私は、あらかじめ公式サイトの「キーワード」を読んでから出かけることに。その甲斐あってか、映画の世界にすんなり溶け込むことができた。

ハンナ・アーレントは、ドイツ生まれのユダヤ人政治哲学者。
師であるハイデッガーとの不倫関係はゴシップ的に有名だけど、この映画で焦点が当てられているのは、アイヒマン裁判だ。

ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人虐殺)の実行責任者だったアイヒマン。
物語は1960年、イスラエルの諜報機関が、亡命していたアイヒマンを見つけ出し、拘束するところから始まる。

アーレントは、イスラエルで行われるアイヒマン裁判を傍聴し、そのレポートを「ザ・ニューヨーカー誌」に連載することに。
そこに出てくるキーワードが「凡庸な悪」。
ユダヤ人を次々に強制収容所に送ったアイヒマンを、多くの人は「モンスターのような極悪人」だと見なしていた。しかし、裁判を傍聴したアーレントの目に映ったのは――「凡庸な小役人」に過ぎない男の姿だった。

このアイヒマン裁判の部分は白黒映像で、おそらくここは当時の裁判の映像がそのまま使われているのだろう。
家族を殺されたと訴えるユダヤ人を前に、アイヒマンはひたすらこう繰り返す。
「私は命令に従っただけ」
「直接手を下してはいない」

アイヒマンは反ユダヤ主義者ですらなく、上からの命令に忠実に従うだけの役人に過ぎなかった。ただ、彼が一人の人間として考えるのをやめたこと――つまり、「思考の放棄」が、20世紀最大の悪をもたらした。そうアーレントは喝破する。

これはある意味で、恐ろしいことだ。
つまり、悪魔のような人物が世紀の大虐殺を行ったというのなら、非難するのは容易い。
しかし、「凡庸な人間が、忠実に仕事をする」ことが虐殺につながったのだとしたら――しかも自らは直接手を下すことなく――私たちもまた、アイヒマンになり得るのだ。

このような問題提起は、私にとっては、きわめて納得のいくものだ。
けど、アーレントによる裁判レポート発表当時は、非難囂々だったらしい。雑誌社には抗議の電話が鳴り響き、山のような抗議の手紙を送りつけられ、アーレントは大学の職を追われ、ユダヤ人の友人を失い……もうこのあたりの描写は、観ていて胸が痛くなった。自分の主張を貫くためには、こんなにしんどい思いをしなきゃならないのか、と。(翻って今の時代、ネット上なら匿名でいくらでも過激な主張ができるというのは、私たちが自由になったということなのだろうか。あるいは無責任になったのだろうか……。)

ともあれ、周囲の反発に屈せず、毅然として主張を曲げないアーレントの姿勢は、眩しい。
アイヒマンの悪は、根源的なものではない。ただ極端なだけで、深さも悪魔的なものもない。善のみが深く根源的であり得る――という、アーレントの言葉は、深く胸を打つ。

最後まで退屈せず、2時間があっという間に過ぎた。観てよかった、と心から満足できる映画だった。

ここから先は、映画を観ながら連想したことを。


この映画を観ながら、私はずっと、この問題提起はどこか見覚えがある、と感じていた。
記憶をたどって思い出したのは、90年代後半に熱心に読んでいた『ゴーマニズム宣言』だ。

小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』は、毀誉褒貶が激しい漫画だ。私もある時期から、まったく読まなくなったし、評価をためらう部分もある。
ただ、オウム真理教や薬害エイズ問題と闘っていた時期の小林よしのりの言葉は、今も私の深部で生きている。

薬害エイズが問題になったとき、小林よしのりは、厚生省の官僚に向かって、こう叫んだのだ。
「人殺しの前と後くらい、己れの個を呼び戻せ!」
つまり、厚生省の官僚は、システムの中に個を滅却して働かなければならない存在だ。そうであっても、薬害エイズ事件のような「国民を殺す」行為の前では、個を取り戻して我に返ってほしいと、そう訴えたのだった(『新ゴー宣』1巻第12章)。

同じように小林は、「一般のオウム信者はいい人たち。悪いのは幹部連中」という言に対し、「オウム幹部もいい人たちで、人を欺いたり殺したりするような凶悪な存在ではない」と言い返す。彼らはただ、「(教祖への)帰依」という言葉で「個を喪失」してしまった者たちなのだ、と。「自分の頭でモノを考えないやつは恐ろしいやつなのだ」(『新ゴー宣』2巻)。

当時の小林よしのりが、アーレントを根拠としていたのかはわからないが、上記のあたり、アーレントの「凡庸な悪」と相通ずるものを感じる。
私が愛読していた頃の『ゴーマニズム宣言』は、ギャグ漫画家である小林よしのりが、「一庶民」の側に軸足を置き、自分の頭で考えて、おかしいと思ったことにはっきり物申す、そういう漫画だった。

さらに言えば、小林よしのりは、読者にも釘を刺すのを忘れなかった。
「リーダーを責める時は大衆の側も自分を顧みた方がいい」
「自分が就職して組織の一員となって働くとき、他人の命がかかるようなギリギリのところで個を目覚めさせることができるか、やってみるのだ」
これらの言葉は今も、私の中に根を張っている。私はそれからずっと、「自分だったら、ギリギリの状態に置かれたとき、流されずに我に返ることができるのだろうか?」と己に問い続けることになった。

思想というのは、遠くの世界の出来事を論ずることではない。今ここにいる、自分の足元からしか始められない、ということ。
私が『ゴーマニズム宣言』から受け取った芯の部分は、そういうことだったように思う。

その後、ある時期からの『ゴー宣』は、一庶民としての自分の実感からあまりにもかけ離れていると感じるようになったため、私は読むのをやめたのだけれども……その話はまた機会があれば。

あれから十数年が過ぎ、原発事故が起きた。
「組織の中で、平凡な人間が、日常業務を行う」ことが大惨事につながる。そういう例を、私たちはいくつも見てきた。
「思考を手放してはならない(アーレント)」、「己れの個を取り戻せ(小林)」という言葉、今こそ思い出すときではなかろうか。

システムに組み込まれた「凡庸な悪」との闘いは、想像していたよりもずっと困難な道のりみたいだ。
解決への近道は、たぶんない。
そして一個人にできることは、本当にちっぽけなことでしかない。
それでも、まずは自分の目の前で起きていることをしっかりと見つめること。目をそらさないこと。本当に月並みだけど、そこから始めるしかないんだと思う。






| ●月ノヒカリ● | 音楽・映画 | comments(4) | trackbacks(0) |
2020.09.12 Saturday 23:58
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Comment
2013/12/18 5:19 PM posted by: あそびたりあん
私もこの映画は観ました。
東京(岩波ホール、今月13日で終了)でも連日満員で、上映開始の1時間前には長蛇の列が出来ていました。
アーレントの本は何冊か読んでいますが、私にとっては、どれもとっつきにくくて、保守的でエリート主義的な政治哲学者、というイメージを持っていました。
しかし、この映画で描かれているようなアーレントの主張(『イェルサレムのアイヒマン』は未読ですが、大体の内容は知っていました)は、大変わかりやすくて説得的だと思います。

誰もがアイヒマンになり得る・・・というより、彼の立場に置かれたときに、「アイヒマン」にならずにいることは至難の業ではないかとすら思います。
さらに重要なことは、ナチスのホロコーストは、当時のドイツ国民の――積極的か消極的かは別として――広範な支持によって支えられていた、ということでしょう。
「ナチスの手口」に学んで、立法による憲法破壊を進める安倍政権を生み出してしまった現在の日本が二重写しになるようです。
その意味でも、この映画の日本での公開はタイムリーだったと言えるでしょう。
「アイヒマン」にどう対峙するのか、まさに現在の課題ですね。
2013/12/19 10:50 PM posted by: 月ノヒカリ
あそびたりあんさん、こんばんは。

>上映開始の1時間前には長蛇の列

え、それはすごいですね!
名古屋ではそこまでではなく、上映直前に滑り込んでも席はありました。


>保守的でエリート主義的な政治哲学者

あれから検索して、アーレントの公私二元論がフェミニストから批判されていたのを知りました。
読んだのはこの論文です↓
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/07-6/okano.pdf

あそびたりあんさんのイメージにも納得です。
ただ、アーレントは単純に「保守」と分類されるわけでもなさそうですが。


>彼の立場に置かれたときに、「アイヒマン」にならずにいることは至難の業

凡人が「アイヒマン」の立場に置かれても、命令に逆らうことが難しければ、職を辞すしかなさそうですね。でもそうしたところで、別の誰かがその役職に就いて、同じことをするのでしょうね……。


>「アイヒマン」にどう対峙するのか

私はむしろ「システム」との対峙、という捉え方をしていますが。
これを書いたあと、ふと思い出して村上春樹の「卵と壁」のスピーチを読み返して、通底するものを感じました。
http://ameblo.jp/fwic7889/entry-10210795708.html
やはりシステムに関わる人間すべて(私たち全員)が「個を取り戻す」ことでしか乗り越える道はないのではないでしょうか。

今の安倍政権とナチスとの類似はしばしば語られていますね。
確かに、この映画はタイムリーなのかもしれません。
ただ気になるのは「中高年に人気」というところです。(実際、映画館の客層は自分より上の世代ばかりでした。)
若い人にはピンと来ないテーマなのでしょうか?
いろんな世代の人が観てくれればいいなあと思うのですが。

コメントありがとうございました〜。それではまた。
2014/02/10 12:35 PM posted by: Milka Johanson
東京では昨年末で上映終了してしまった『ハンナ・アーレント』、とうとう私の地元(文化果つる北陸の田舎)でも今週から封切りになりました。わずか2週間の上映です。封切り後の初の週末ですが、観客は20名もいたかどうか…

しかし、映画公式サイトを見ると、最初は岩波ホールやシネマテーク名古屋、大阪や福岡など大都市圏のみの上映で終わるかと思いきや、2月「から」封切りになる地方の映画館が次々と追加されています。評判と反響がじわじわ広がっているのだと思います。 

私の感想としては、大変面白かったです、特にエルサレムでのアイヒマンの裁判の答弁(実際の当時の白黒画像を混ぜているのがまたイイ)。裁判はヘブライ語?とドイツ語、まれに英語で進行していたので、内容は字幕を信頼するしかなかったのですが、アイヒマンの答弁、いや”言い訳”にはとても同調してしまいました。

「あの時はああするしか選択肢はなかった。あの時はあれが正しかった。我々がどう言おうと上層部の意思は変わらない。抵抗するのは無駄だ」という趣旨だったかと思います。

たぶん、私はアイヒマン側の人間です。ミュンヘン大学で反ナチのチラシを撒いて吊るされたゾフィー・ショルにはなれません。決して。反抗者の正義にあこがれつつ、私には資質がないのです。


さて、「ファシズム」「ナチズム」「ユダヤ人」、人文系でアメリカ亡命…ときて私が連想したのは『自由からの逃走』のエーリヒ・フロムです。アーレントと違い、フロムの和訳は比較的読みやすいため、10代後半に一度読んだのですが、もう一度読み返さなくてはと思いました。あえて共通点を探そうとするなら、やはり「個人が自分で考えることの放棄」と「全体主義への逃亡」です。

自分の感覚を失う点については、月ノヒカリさんも書評しておられる泉谷閑示の本にも通底するところがあるような気がします。

正義はあきらめきれない、しかし、”大衆”は正義なんか求めていません。大衆の正義は、常に間違っています。そして私もその大衆の正義に屈しています。大衆の正義に逆らう異端は、わたしは本やテレビの向こうでしか会ったことがありません。私の35年ちょいの人生で、いちども生で会ったことがありません。

2014/02/13 11:36 PM posted by: 月ノヒカリ
Milka Johansonさん、こんばんは。コメント欄にようこそ!
『ハンナ・アーレント』、ご覧になりましたか。

>たぶん、私はアイヒマン側の人間です。

正直な方ですね。私もそうです。でもってそういう感覚、大事だと思うんです。
「自分もアイヒマンになり得る」と思うからこそ、他人事ではなく「そうならないためにはどうすればいいか」を考えることができるのですから。

ゾフィー・ショルって誰だっけ?っと思ったら、白バラの人でしたか。そんな歴史上の人物と比べられたら、たいていの人間は裸足で逃げ出すしかないのですが……。

しかし、「反抗者の正義」云々は、単に「個人の資質」の問題ではない気もします。
それこそ団塊の世代から上は、「(学生なら)反体制を訴えるのが当たり前」だったわけで、時代や環境に左右される面もあるのではないでしょうか。
(『ハンナ・アーレント』の劇場にいた人たちも、年齢的には団塊の世代くらいに見えました。)

単純に言っちゃえば、抵抗というのも、「仲間と連帯できれば可能」な面もあると思うんですが……しかし、今の日本ではそれも難しそうですね。女同士だから連帯できるというわけでもないし、障碍者だから、あるいは非正規雇用だから、という属性で連帯するのも難しい。皆が分断されている状態です。

さらに言えば今は、何が「正義」なのか、必ずしも自明ではないですし。
Milkaさんのおっしゃる「正義」というのも、具体的に何を指すのか、私には今ひとつピンと来ていないのですが。


>大衆の正義に逆らう異端は、わたしは本やテレビの向こうでしか会ったことがありません。

なるほど、これも確かにそうですね。
これは私自身が交友範囲の狭い人間で、自分の近辺では「正義」が問われるほどの大事件は起こっていない、ということも関係あるのかもしれませんが。

ただ、「正義」と呼べるほど大袈裟なものではないけど、「空気に逆らってでも、自分が正しいと思うことを貫く」というケースについては、それなりに身近にあるのではないでしょうか。もちろんそれもまた難しく、しんどいことではあるのですけれども。


で、フロムですか。私は読んだことなくて、フロイトとマルクスの継承者、くらいの知識しかないのですが。
また読まれて得るものがあったなら、感想を教えていただけると嬉しいです。
ブログを始めるのもいいかもしれないですよ〜(って、自分は最近更新していないので、お勧めしづらいのですがw)。

ただ、『自由からの逃走』というのは、実感としてすごくよくわかります。
「自由」って、凡人には耐えがたいものです。「常に自分の頭で考えて、すべてを判断する」なんて、普通の人間にはまず不可能です。

だから人は、簡単に歯車になってしまう。
それでも「人の生死がかかっている重大な場面では、我に返らなければならない」というのが、90年代の『ゴーマニズム宣言』の教えで、そこは当時、ものすごく感銘を受けたんですよね、私は。

Milkaさんはご存じかどうかわかりませんが、『ゴーマニズム宣言』はかなり売れた漫画なので、当時の私は、「これを読んだ若者が、そういう意識を持って働けば、世の中はちょっとだけよくなるんじゃないだろうか」みたいな夢想を描いていたものでした。そんな考えは甘かったみたいですけどw
その後の小林よしのりがナショナリズムの方向へ行ってしまったのは示唆的というか、「個である不安に耐えられず、全体主義に向かう」のは、もう人間の性かもしれないなあ、などと感じます。
(このあたり、『ゴー宣』をお読みでなければ興味ない話題かもしれませんが、その場合は読み流してください。)

私自身は、個を貫くほど強くはなれない。かといって全体主義に帰依するのも耐えがたい。だからその間で、もう少ししっくりくるやり方はないものか、模索し続けてる状態です。

長くなった上にまとまりのないレスで申し訳ないのですが、ひとまずこの辺で。
コメントありがとうございました〜。それではまた。
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