2015.02.02 Monday 23:42
   芝生
        谷川俊太郎

 そして私はいつか
 どこかから来て
 不意にこの芝生の上に立っていた
 なすべきことはすべて
 私の細胞が記憶していた
 だから私は人間の形をし
 幸せについて語りさえしたのだ

ぐちゃぐちゃ考えながら文章を書いているうちに、思いもかけない結論にたどり着くことがたまにあるんだけど、前回のエントリはまさにそんな感じだった。
先のエントリの末尾で、自分の「欲望」と「義務」が重なり合う地点こそ、人がもっとも幸せに生きられる場所ではないか、と書いた。
それについて、もう少し考えを進めてみたので、長くてややこしい話になっちゃうけど、よかったらお付き合いください。


「幸福」とはいったい何だろうか?
それを定義するのは難しい。
でも、私の中には、「幸福」のイメージのようなものはある。
昨年書いたエントリ、「負け組」にとっての幸せとは? 〜「黒子のバスケ」脅迫事件に寄せてとも関連する話だ。 その中で私は、「仕事の成功」や「家族やパートナーからの承認」が「幸せ」と結びつけられることが多い――と書いたんだけど、私が囚われている「幸福」のイメージは、まさにその二つに集約される。

「仕事の成功」というのは、必ずしも社会的地位や収入の多寡を意味するものではない。どんな仕事であっても、「自分なりに納得のできるいい仕事をしたい」と考えて、それに打ち込めるなら、それは「幸福」だと思う。
それとは別に、「仕事はキツいし辞めたいけど、大切な家族やパートナーがいるから頑張れる」と言えるなら、それもまた「幸福」だと思う。
これに同意してくれる人は、多いのではないだろうか。

その二つの「幸福」は、持っている人は当たり前に持っているものだ。だから、それらをすでに手にしている人たちは、自分たちがとりたてて「幸福」だという実感はないのかもしれない。

しかし、そうであるからこそ、「持ってる人は当たり前に持っている幸福」から疎外された人間は、途方もない痛みや空虚さを抱えることになる。自分が持っていないからこそ、より一層、世間に流通している「幸福のイメージ」に囚われ、縛られてしまう。

今の私は無職だけど、かつて私が従事していた仕事は、「心身の健康を損なうくらい苦痛で、かつ誰の役も立たない仕事」だと感じていた。その上「家族やパートナーからの承認」もない。それは生きるのが辛いのも当然だよな、死にたくもなるよな、といま冷静に思い返しても、そう感じる。

ただ一方で、こうも思うのだ。
人が幸せになるためには、「仕事の成功」か「家族やパートナーからの承認」が必要不可欠なのだろうか。
人は、否この私は、そのどちらかを手に入れるまで「幸福」になれないのだろうか。

そうではないはず、と私は思う。
「仕事の成功」や「家族やパートナーからの承認」が手に入らなくても、人は幸福になれるはずだ。そう私は信じている。
ただ、そのためには、世間一般に流通する「幸福」のイメージを書き換えるしかない。
そこで、前回のエントリの末尾に繋がるわけです。

「欲望」と「義務」が重なり合う場所で生きていけること。
それこそが、人間にとっての幸福であると、私は定義したい。

前回のエントリで、多くの人は人生のある時期において、親や周囲の望む「いい子」でいるのをやめるときがくる、と書いた。さらに「いい子」でいることをやめた後、進むべき方向としては「自分の欲望の形を知ること」である、とも書いた。
そして自分の欲望と出会った後、その実現に向かって、一つ一つ石を積み上げていくように、自分の足で歩いていかなければならないのだ、と。

ただ、ここにはちょっとした落とし穴がある。
人に従うことをやめ、義務感ではなく、自分の欲望をベースに行動すること、それ自体はいい。
でも実は、欲望だけしか持っていない人間というのは、さほど強くはないのだ。
「やりたいこと」を一生懸命探している人が、どこか滑稽に見えるように。
「やりたいこと」とは別に、「なすべきこと」があるのではないか、と私は思うのだ。

つまり、「義務」をベースに生きるのをやめて、自分の「欲望」を見出した後、再び「義務」を背負わなければならないときがくるのではないか? ということだ。
「義務」を負わずに、ひたすら「欲望」だけを追求すると、袋小路に入り込む。
欲望が実現するとは限らない。自分の望みが実現しないという苦しみ、それも当然あるだろう。
でもそれよりも何よりも、もし自分が願うあらゆる望みがすべて実現したと仮定して、それは本当に「幸福」な状態と言えるのだろうか? そんな疑問が湧いてくる。
私はそんな「自分の望みがすべて叶う」などという状態を経験したことはないので、想像するしかないのだけれども――おそらく充足を感じるのは一瞬だけで、そこから先も飽くなき欲望に追い立てられるか、あるいは空虚さに苛まれるか、そのどちらかではなかろうか。

自分の欲望の形を知り、欲望を実現しようとすること自体は、まったく悪いことではない(もちろん、自分の欲望を実現することが、他者に対する侵害となるケースもあるだろうけど、ここではそうではないと仮定して、話を進める)。
しかし、「欲望」を実現しようとする過程で、再び「義務」に戻らなければならないときが来るのではないか。その「義務」こそが「幸福」と密接なつながりがあるのではないか。

ただし、「欲望」ベースに歩き始めた後に見出される「義務」というのは、例えば「親や教師の指示に従う義務」とか「上司の命令に従う義務」とは別物である。「法律で決まっているから従わなければならない」という問題でもない。 そうではなく、自分の意志で自らに課す義務のことである。あるいは、冒頭に掲げた谷川俊太郎の詩に登場するような「なすべきこと」である。
ここで仮に、前者を「押しつけられた義務」、後者を「内発的な義務」と名付けることにする。

例えば、あなたが兵士として戦場に赴き、上官に民間人を殺すよう、命令されたとする。
軍隊組織というのは、上官の命令に従うのは絶対的な義務だ。だから、兵士であるあなたは、敵国の民間人を殺す。それは「押しつけられた義務」だ。

それとは別様の「義務」も存在するのではないか。
つまり、自分の良心に従って、上官の命令を拒否すること。「民間人を殺さない」という選択をすること。そのために自分が不利益を被ることになったとしても。
そういった内発的な動機に基づく義務。
それは、損得勘定を第一に考えるような今の時代の潮流の中では、見つけにくいものかもしれない。でも、そういう生き方をする人も存在するということを、私たちは知っているはずだ。実は私たち自身、心のどこかでそんな生き方を欲しているのではないか。
「そうしなければ自分は生きていけない」という切実さを伴った、内側から涌き起こってくるエネルギーのような形であらわれる義務=「なすべきこと」。


ここで、私自身の話に戻る。
私は、自分の欲望に従って、このブログを書き始めた。
先々月、選挙前のエントリで書いたように、私がこのブログを「社会を変える」などという大それたタイトルをつけて書き始めたのは、何よりもまず私自身が、「社会から疎外されている」「どこにも居場所がない」と感じていたからだ。自分の思いを言葉にすることによって、自分と同じように疎外感を抱えている人と、もしかしたら繋がれるかもしれない。そういう利己的な動機でもって、始めたことだった。

そうしてブログを書いてきて、私の言葉に共鳴してくれた人の中には、子どもの頃から自殺願望を持ってたり、今も持ち続けている人、生活保護を受給している人、障碍者や難病患者、生きづらさを感じつつ何とか生き延びてきた人が、たくさんいた。
このブログを読んで、私の言葉に反応してくれた人たちは、私にとって、もはや見知らぬ「赤の他人」ではない。
生活保護について、精神身体の病気や障碍について、非正規雇用の問題について、メディア等で語られるのを見聞きするとき、それらはもはや私にとって「他人事」ではない。このブログを通じて出会えた、具体的個人を思い浮かべ、その痛み・苦しみを、わがこととして想像することになる。

もちろん、他人の苦しみを知ったところで、自分に何ができるわけでもない。そもそも今の私は、たいした能力もない、無力な存在に過ぎないのだから。
でも私は、自分以外の人の苦しみを知ったこと、気づいたことによって、ある種の「責任」のようなものを負うことになったのだと思う。

これから先、私が何かをするときは、自分だけではなく、自分以外の「困ってる人」「苦しんでいる人」たちを想像しつつ、どうすれば皆が幸せになれるのかを考えながら、行動することになるだろう。
選挙のとき、このブログを通じて出会えた人を思い浮かべつつ投票したように。
いま困っている人、苦しんでいる人たちの姿は、「もうひとりの私」であり、「もしかしたらそうであったかもしれない私」なのだから。
知ってしまった者として、気づいてしまった者としての「責任」のようなもの。それは決して、単なる重荷ではない。むしろ背負うことが喜びであるような荷ですらある。

自分ひとりの欲望を追求するのは、実は虚しい。
一方、自分以外の誰かの幸福を願うということは、それ自体、願う者自身に幸福をもたらすのだ。

私個人だけではなく、私以外の誰かの幸福を願うこと。その実現のために、自分に何ができるのかを考え、ごく小さなことでも行動すること。それが今の私にとって「自ら自分に課した義務」だ。
「内発的な義務」をもって生きることは、私の日常生活における行動を、ささやかながら変えることになる。

私の幸せが他の人にとっての幸せでもあるような、そういう世界を目指して歩くこと。
欲望と義務が重なり合う場所で生きること。
言い換えると、「やりたいこと」と「なすべきこと」が縒り合わさって一本の糸になるように、生きていくこと。 そんなふうに生きられるなら、それこそが幸福な生だと言えるのではないか。

つまり、今の私は、幸福なのだ。
それを覚えておくために、ここに書き記すことにする。
これから先、他の誰かが語る「幸福のイメージ」に惑わされることのないように。






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2017.04.25 Tuesday 23:42
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Comment
2015/02/03 7:36 PM posted by: kane-bun
黒子バスケなどの記事を面白く読ませてもらったんですけど、今回の記事は何だかあまり共感できませんでした。

幸福だと自然に感じれば幸福、感じないなら(不幸とまでは言わないけど)幸福でない状態。・・・というだけの話だと思うんですが。
世間で幸福がどう定義されていたって、それと関係なく幸福なら幸福だと感じるし、幸せと定義される状態にいてもそうでなければ自然と幸せじゃないと感じますから。
ここまで理論武装して、自分は幸福だと言い聞かせることは、人生にとって必要なのでしょうか。

月ノヒカリさんの幸・不幸はわからないんですけど、理論的には幸せだとして、それで本当に幸せなのでしょうか。
2015/02/04 12:47 PM posted by: 雪月
>「欲望」と「義務」が重なり合う場所で生きていけること。
>それこそが、人間にとっての幸福であると、私は定義したい。

なるほど。
欲望と義務、自分自身では深く考えていなかったのですが、これは私も理想ですね。

ここ何年かで数人の友達から似たようなことを言われたのを思い出しました。
「雪月は○○が好き(得意)でしょ?
それを活かすことはできないのかねぇ」

メンタル的に落ちているときはなかなか出来ないことなので、自分では諦め半分でしたし、まさか人に言われるとは思いもしませんで面くらいました(ほぇ?←アホ面)。

きっとその人たちは、

>私の幸せが他の人にとっての幸せでもあるような、そういう世界を目指して歩くこと。

をできれば私にしてほしいのかなと。
貴女がこう生きられたら私も嬉しい、みたいな。
有難いことです。

でも現実は何も出来ていない自分に嫌気がさす日々。
少しでも期待に応えられるような人間になれたらいいのになー。ってこれは「いい子」でしょうかね?(笑)

私の「幸福のイメージ」は何だろう…(遠い目)
少し考えてみたいテーマです。
ありがとうございました。
2015/02/04 11:37 PM posted by: 月ノヒカリ
kane-bunさん、はじめまして、でしょうか。
こんな長文エントリを読んでくださってありがとうございます。
たぶんこんなこと書いても理解されないだろうなーと思いつつUPしたので、「共感できなかった」という感想も、さもありなんという感じです。


>幸福だと自然に感じれば幸福、感じないなら(不幸とまでは言わないけど)幸福でない状態。

そういった考え方では、私は満足できなかったんです。
そもそも自分は客観的な指標に照らしても、また主観的にも、決して幸福ではなく、常に苦痛に苛まれている状態でしたから。
そういう「不幸な」状態から何とか抜け出そうと、足掻いてきた結果がこのエントリです。

自分としては「哲学している」つもりだったのですが、kane-bunさんから見たら「理論武装して自分は幸福だと言い聞かせている」ように見えるのですね……。
いや、他人の評価とは厳しいものですな(笑)
ちなみに哲学というのは、永井均の言葉を借りると、「そのままでは水中に沈んでしまうタイプの人間が、水面にはいあがるための唯一の方法」のことだと私は思ってます。
(当ブログの永井均『<子ども>のための哲学』レビューをご覧ください。
 → http://newmoon555.jugem.jp/?eid=139


>理論的には幸せだとして、それで本当に幸せなのでしょうか。

「本当の幸せ」って何でしょうね?
少なくとも私は、幸福は「理論」の中ではなく、実際に「生きてゆくこと」の中にあると思ってます。
生きてゆくといっても、私は「ポテチでも食べながら毎日テレビを見れたら幸せ」とは思えなくて、その背後に「私はこういうやり方で生きていくんだ」という、「生き方」みたいなものが必要なんです。あくまでも私にとっては、の話ですが。
このエントリで私は、自分の「生き方」について、つまり「自分はこのやり方で生きていくんだ」という大まかな方向性を示したつもりです。私にとっての幸福というのは、私が定義した生き方に則って日々を生きていく、その中にあるのだと考えているのです。
これが一般化できる話かどうかは、読んでくださった方のご判断に任せるしかありません。

ちなみに私の「幸福」についての考え方は、このブログでも何度か紹介した福田恆存の『私の幸福論』の影響を強く受けていることを付記しておきます。たとえ不幸のうちにあっても、幸福であり得るような生き方への道筋を示してくれた本です。

というあたりで、答えになってますでしょうか。
コメントありがとうございました。よろしければまたお越しください。
2015/02/04 11:39 PM posted by: 月ノヒカリ
雪月さん、こんばんは。
こんな長文エントリを読んでくださってありがとうございます〜。

雪月さんは、いいお友達をお持ちですね。
本当に、「自分が好きなこと、得意なこと」を活かせるなら、それは何よりですよね。

ただ、なにがしかの才能があっても、それが収入に結びつくかは別問題なんですよね〜。
昔、将棋界に興味をもってた頃に知った話ですけど、将棋がものすごく強ければ、プロ棋士になって稼ぐことができる。でも芸術的かつ難しい「詰め将棋の傑作」をつくる能力があっても、一円も収入にはならないのだそうです。
もちろん、そこまでの才能がない人の方が多数派なので、いや本当に現実は厳しいものですな……。

でも雪月さんは決して、「何も出来ていない」ってことはないと思いますよ!
こうしてブログにコメントいただけて、私を幸せにしてくれていますし(笑)

「自分に嫌気がさす」のだとしたら、今はまだ「人の期待に応えよう」とするよりも、自分の欲望=やりたいことを追いかける時期なんじゃないかと感じました。
わが座右の書『「普通」がいいという病』にも、「まずは自分の欲望と正直に向き合って、それを満たすこと」が大事だと書いてありましたし。
つまり「もっとわがままになれ」という話ですね。「人の期待に応えよう」としちゃう利他的なタイプの人は、多少わがままなくらいで丁度いいんじゃないかと。

お互い毎日を楽しみつつ、マイペースで歩いていきましょう♪
コメントありがとうございました〜。
2015/02/06 8:56 AM posted by: 雪月
ひと言だけ〜
>才能があっても、それが収入に結びつくかは別問題
(゚∀゚)!!!
それが言いたかったのですー(笑)

>自分の欲望=やりたいことを追いかける時期
そう言っていただけると少し心も軽くなります。
ありがとうございました〜
2015/02/07 10:58 PM posted by: 月ノヒカリ
雪月さん、再びこんばんは。
そうですよね〜。
「雇われて働く」のではなく、「自力でお金を稼げる」というのも、一種の才能なんじゃないかと思うことがあります。

それでも「好きで、得意なこと」ができるなら、たとえ収入につながらなくても、幸せなことじゃないかと思うんですよね。
お互いのんびり気楽に行きましょう♪

コメントありがとうございました〜。
2015/02/08 6:27 PM posted by: ふう
こんばんは。

今回のエントリーは、私にとってとてもしっくりくるものでした。

このようなことを、私も思って生きているのですが、きちんと言葉に出来る月さんはさすがだな〜と思います。
私のふわっとした気持ちを明文化して下さってありがとうございます。
より一層意識がクリアになりました。

やりたいことと、なすべきことは、私の中にもいくつかあって、ボランティアの社会活動としてなら実現可能なんです。
ただ、それで収入を得るというのは、なかなか難しいですね。

収入を得られるかという観点で仕事を選ぶのではなく、なすべきことをしていたら収入は後からついてくるもの、なのかな〜とも思うのですが、超凡人の私にはハードル高いです。

ともあれ、やりたいこととなすべきことが一致する瞬間が少しでもあることは、少しは幸せってことですね。

ありがとうございました。
また楽しみにしています!





2015/02/09 8:31 PM posted by: 月ノヒカリ
ふうさん、こんばんは。
読んでくださってありがとうございます〜。

ふうさんには、「やりたいこと」と「なすべきこと」があって、それが実現可能なら、それだけで十分素晴らしいです!
あとはもう、燃え尽きないようにふうさんのペースで、どんどこ歩いていってください。応援しています♪

本当に、これで収入面がクリアできれば、言うことないんですけどね〜。

一般の雇用労働に従事しても、「やりたいこと」ができるわけではなく、それが誰かの役に立っていると実感できる瞬間もなかなかないのが現実だと思うんです。

「仕事」という言葉を、「お金を稼ぐこと」ではなく、「誰かのためになる行為」と定義しなおせば、世の中の「仕事」をめぐる環境もずいぶん変わると思うんですよ。まあ夢物語のような話ですが、でもそうした方が「多くの人にとっての幸せ」に近づく気はするんですよね。

お金というのは、人が生活していくために必要な道具であって、お金のために生きているわけじゃないですから。
一方で、誰かのためになる行為は、収入につながらなくても、幸せに近づくんじゃないかと。

ではでは、コメントありがとうございました〜。
2015/02/09 10:13 PM posted by: しみしみ
月のヒカリさんって、どうやって生活されてるんですか?
私も、月のヒカリさんみたいに、優雅にブログ書いたり、抽象的なこととか役に立たない事考えるの好きなので、哲学(?)して生きていきたいとも思うんですが、それじゃ収入が生まれませんもんね。
収入とか、デリケートな話だと思うので、答えられなかったら無理に返答頂かなくて大丈夫ですので。
2015/02/09 11:54 PM posted by: 月ノヒカリ
しみしみさん、はじめまして、でしょうか。

生活については、このブログでも普通に書いてきましたが、親元で暮らしているので、何とかなってます。
http://newmoon555.jugem.jp/?eid=65

このブログは、自分としては、血反吐を吐く思いで書いてきたのですが、他人から見たら「優雅」に見えるのか!
というのは、ちょっとした驚きでした。

コメントありがとうございました。
2015/02/10 2:13 PM posted by: ふう
ふたたび、こんにちは。
お返事ありがとうございます。
応援して下さって嬉しいです。

仕事について少し考えてみました。

やりがいや、誰かのためになっている、という実感を得にくいのは、なぜだろうと考えた場合、
あまりにもシステムが巨大化、複雑化しすぎて、自分がどこを担っているのか分かりにくい、というのが1つあるのではないかと思います。
全体としては人の役になっていても、自分の担当が細分化された1パートになると、ストーリーを描きにくく、やりがいも感じにくいだろうと思います。

それを解消するには、と考えた場合、自給自足や、物々交換や、小さいコミュニティー経済圏を作るというのは、有効ではと考えました。

全てをそれで賄うのは難しくても、一部でもそのサークルに属していれば、やりがいを感じられるのではないか。

というところで、伊藤さんの「なりわい」を思い出しました。(あのエントリーで「はな」としてコメントしたのは私です)

でさらに思い出したのが、月さんも触れられてましたが、仲間作りを奨励していたことです。
そう、実現するには仲間が必要なんです。コミュニケーションが苦手な人間には不利なんですよね。

そっか〜
やっぱり人の役に立つと実感するのは、人と繋がって初めて得られるものなのかもな。
私の弱点に改めて気づきました。


しかし、月さんがツイートしていた熊谷晋一郎さんの記事で、絶望が深いほど共有できたときの希望は力強いとあったのが、私としては希望です。
仲間がいない、やりがいが感じられない、という絶望が繋げる縁もあるのではないかと。
(ツイートに返信したの私です)

月さんのこのブログもきっとそのような取り組みなのですよね。


絶望を共有する仲間が出来る

やりがいが生まれる

「やりたいこと」と「なすべきこと」が見つかる

なんかこんな感じで自分の中でまとまりました。

月さんのブログで、自分の頭の整理をさせてもらっちゃってすみません。

ありがとうございました。
2015/02/10 7:17 PM posted by: にゃんこう
いつも拝見しています。
今回のエントリーは、ちょっと難しかったですが、いつもの通り、考えるきっかけを与えてくれました。こういう見方もあるんだ、と。
私にとって幸福とは、美味しいものを食べ、好きな音楽を楽しみ、って感じです。温泉とマッサージとか、ダラッとして飼い猫の寝姿を見れれば、まあ幸せなので、俗物的です。
首都圏で暮らしてますけど、名古屋圏ぐらいが人間的な生活ができるギリギリの線じゃないかなと思います。
2015/02/10 8:44 PM posted by: はな
スピリチュアルだか人間の本来は幸福である
ってありますよね。
状態というか存在が幸福だったかなあ。
瞑想してるような状態ですか。
世間に合わせられるように、あと安心を求め行動もしましたが
叶わないし嫌な記憶が残るばかり。
世間でいうステイタスを外して自分が何がしたいかってことですかね。
どうしても表現したいとか。
内的な義務をそういった極限状態ではなく日常で発揮できたら
警察いらない世界になると思いますが。。。
今嫌な記憶ばかりよみがえってつらいんでmay j聴いてます。

2015/02/10 9:43 PM posted by: 青
「はな」で投稿したコメント「青」です。
訂正お願いします。すみません。
2015/02/11 6:49 PM posted by: 山田◎σ
一般的な二つの幸福は最近になって実感しているんだけど、それは私にとっては従なんだよなぁ。

ちょうど自分の日記に先日書いたことに繋がるなぁと思って。

世間(といっていいのかな)では、ネットの功罪について取り上げられることが多く。学生のネット中毒的な話も耳にします。

その前提って、リアルがあってこそのネット。

でも、私にはネットがあってこそのリアル。
いまリアルで充実しているけど、ネットがなければ
それも半減。

だから、コメントするし、コメントできることが幸福の一つ。


2015/02/11 11:34 PM posted by: 月ノヒカリ
ふうさん、再びこんばんは。

>システムが巨大化、複雑化しすぎて、自分がどこを担っているのか分かりにくい
>全体としては人の役になっていても、自分の担当が細分化された1パートになると、ストーリーを描きにくく、やりがいも感じにくいだろう

それはあると思います。
例えば「モノをつくる」のも、作り始めから仕上げるところまで自分の手でできるなら、「完成する喜び」があると思うんです。
でも毎日毎日、一つの部品だけを作り続ける工場労働では、やりがいも感じにくいんじゃないかと。

それとは別に、明らかに「いらない仕事」もあると思うんですよね。
その最たるものは「振り込め詐欺」みたいな詐欺商法ですけど、そこまでいかなくても、理不尽な仕事ってあると思うんです。
例えば、以前コメントくださった方が、ブログにこんな仕事について書かれていたのですが。
「開花調査」
http://d.hatena.ne.jp/funaborista/20120312/1331535279

本当に、理不尽な雇用労働よりも、「自分がやりたくて、人のためになる仕事」をする方が何倍もいいんじゃないか、その方が自分の幸せにも皆の幸せにもつながるんじゃないかって思うんです。たとえ収入にならなくても。


>自給自足や、物々交換や、小さいコミュニティー経済圏を作るというのは、有効

そうだとは思うんです。
思うんですけど、実現は難しいんですよねー。
いや、「ナリワイ」の人みたいに、できる人には簡単にできることなんでしょうけど、私にはめちゃくちゃハードル高いです。

熊谷晋一郎さんの記事、お役に立てたようで嬉しいです。
おっしゃる通り、このブログに集まってくれる人は、コミュニケーションが苦手だったり、何らかの病気を抱えていたりで、疎外感を持つ人が結構いるのです。そういう人達にとって、このブログがささやかな居場所になれるのなら、私もブログを書いた甲斐があったなあ、としみじみ思います。
私の方も、読んでくださった方からのコメントに励まされてますし。
ふうさんのコメントからも、考えるヒントやエネルギーをもらってます!

いつもありがとうございます。今後ともヨロシクです♪
2015/02/11 11:36 PM posted by: 月ノヒカリ
にゃんこうさん、お久しぶりです。

私も、「漫画や本が読めて、チョコとアイスが食べられれば幸せ」と思えればよかったんですけど……っていうか、かつてはそんなふうに考えてた時期もあったように思うんですけど、いくつかの病気を経て、そんなふうには思えなくなってしまったんですよね。
ある意味、こんなふうにいろいろ考えちゃうのは不健全なことで、にゃんこうさんの方が健康的なんじゃないかとも思うのですが。

>名古屋圏ぐらいが人間的な生活ができるギリギリの線じゃないかな

そうなんでしょうか?
最近は、田舎暮らしを称える人もいますが、あれも向き不向きがありそうですね。
私は、人口の多い都市での生活しか知らないので、たぶん田舎暮らしは無理じゃないかなと、勝手に思ってます。

コメントありがとうございました〜。それではまた。
2015/02/11 11:38 PM posted by: 月ノヒカリ
青さん、こんばんは。
ハンドルネームをたくさんお持ちなのですね(笑)

スピリチュアルの幸福については、そんなに詳しくないのですが……ヨガの最後に瞑想している間、何とも言いがたい安心感を得ることが、ごく稀にありました。普段は雑念だらけなので、なかなかその境地には至れないのですが。

世間に合わせようとして、かえって嫌な思いをするなら、それはもう諦めて、世間から外れたところで生きていった方が、幸せに近づくと思うんですよね。個人的には。

「世間でいうステイタス」を本当に自分が求めているなら、それを追いかけるのもいいと思うんですけど……少なくとも私が欲しいのは、「ステイタス」ではなかったです。

私は、平時と非常時では、別のマインドセットが必要なのかなって考えてます。
極限状態とまではいかないですが、自分もおととし癌の再発がわかったときと、今とでは、心の持ちようが違ってますし。

つらいときは、自分に厳しくせず、なるべくゆったり好きなことをする時間をつくってくださいね。何がしかの行動をするのは、もっと元気が出てからで十分です。
青さんのつらい記憶が、少しでも軽くなりますように。

コメントありがとうございました〜。それではまた。
2015/02/11 11:39 PM posted by: 月ノヒカリ
山田◎σさん、こんばんは。

「ネットがあってこそのリアル」というの、わかる気がします。
今はまったくオフ会等には参加していないのですが、ネットで情報を得て出かけることも多々ありますし。ネットのおかげでリアル世界も広がりますよね。

ただ、今の若い世代は、それこそ「スマホで一日中ネットにつながってる」のが普通だったりするわけで、それはそれで自分とは異世界ですね……。
LINEを既読スルーすると気まずくなるとか、うわーめんどくさそうって感じで。
回線を切断して、独りでのんびりしたいときもあります。旧世代としては。

コメントありがとうございました〜。それではまた。
2015/02/12 1:36 PM posted by: このミス大将
昔の自分と同じ考え方をされている人がいるのか、と懐かしく読ませてもらいました。

リアルの生活がうまくいかず、かといってその状況を打破する術も見当たらず、一人悶々としていた時期が、私にもありました。
その当時は、全く同じようなことを考えていたので、人の思考というものはやはり置かれた環境に依存するものなのかと感慨深い次第です。

日常のちょっとした幸せを感じられない、という症状は、やはりやりがいだとか、必要とされている感覚が足りないときに出てくるものだと思います。そこを満たしていけばまた精神状態も変わられるのではないでしょうか。
2015/02/13 2:49 PM posted by: ふう
みたびこんにちは。
しつこくすみません。

開花予想の記事を読みました。
なかなか大変なお仕事だなぁと思いました。

これも、巨大化、複雑化の弊害だな、と思いました。
効率化もあるかな。

これ、小さな塾で生徒の顔と名前が分かる先生が、一人一人に電話するなら良かったんだと思うんです。
「合格おめでとう!」とか、
「残念だったな。気を落とすなよ」とか言いながらやるならば、
それが塾の宣伝に使われたとしても、
生徒も嬉しいし、先生もやりがい感じるんじゃないかな。

これが大きい予備校の先生が生徒の顔と名前が分からないような場所で、
さらに関係ない下請けさんから電話きても、
生徒は嬉しくないし、電話する方も何も楽しくない。

仕事で、効率化、巨大化を求めて、皆が不幸になるのは、もう辞めたいな〜
少なくとも私は一抜けだな〜


先日、坂口恭平さんの新著、『ズームイン、服!』が発売されたので、
しっかりサイン会で握手してもらって、本をゲットしました。

彼は、作家、アーチストで、建てない建築家でもあります。
双極性障害があり、本人はお辛い思いもされてるのでしょうが、
それをも自分の個性として武器にしているのは、
勇気もらうし、希望です。

で、新著ですが、ファッション誌ポパイに連載されていたので、当初は服飾考現学と言っていたらしいですが、
すぐに逸脱して、人の生き方、稼ぎ方にスポットを当てたルポのようになっていきます。
本当に個性的な人々が出てくるのですが、
皆、主流の経済圏からは外れたところで、独自のものを発信して生計を立てています。

皆さん、軽やか。
システムに合わせることを早々に諦め、もしくは鼻から考えず、自分の道を進んでいるんですよね。
特別な人だから、と切り捨てるのは簡単ですが、
本当は誰でも出来るんではないかと思えてきます。

言い訳をしてやらないのは、自分の責任な気がしてきました。少なくとも私の場合は。

もう既存のシステムの中で悩むのは止めにして、
そろそろ覚悟を決めろ、私。
と思いましたよ。

かと言って、どこに進めばいいのかさっぱり分からないんですけどね(笑)

また、長々と失礼しました。
坂口さんの本、面白いので、機会があれば本屋で立ち読みしてみて下さい。
2015/02/13 10:58 PM posted by: 月ノヒカリ
このミス大将さん、はじめまして、でしょうか。

「人の思考は置かれた環境に依存する」というのは、その通りかもしれませんね。
ただ、今の私は、一番苦しかった時期と比較すると、精神的にはかなり楽になっていると感じます。
今よりもっと精神状態がよくなる日がいつか来るのか、見当もつきませんが……そうなったらいいな、と思います。

コメントありがとうございました。
2015/02/13 11:01 PM posted by: 月ノヒカリ
ふうさん、みたびこんばんは。

「開花予想」ではないのですが、「人に喜ばれず、働く方も苦痛な仕事」の理不尽さは私も経験したことがあるので、あの記事は身につまされましたね〜。

>小さな塾で生徒の顔と名前が分かる先生が、一人一人に電話するなら良かった

確かにそうかもしれません。
ただ、消費者目線で見ると、自分たちが「巨大化・効率化」を求めていた面もあると思うんです。
私自身、大手予備校に通っていましたが、「先生に顔を覚えられないくらいの大人数」であることの気楽さって確かにありました。

あと、「顔の見える知り合いの範囲で、物々交換や売買をする」って、昔の商店街がたぶんそんな感じだったんだと思います。
私が住んでいるのは新興住宅街なのですが、祖母の家は古くからの街にあって、さびれた商店街が今も残ってます。毎朝牛乳屋さんが牛乳を配達したり、仏壇に供えるお餅は毎月お餅屋さんで買ったり、わりと最近までそんな生活をしていたようです。
そういう生活のデメリットとしては、「欲しくなくなっても、付き合いがあってなかなか断れない」ことだと感じました。

匿名の買い物客として、ショッピングモールやコンビニを利用できるメリットは大きいです。

一方でそれとは別に、自分なりのルートを開拓したり、小さなコミュニティをつくったり、そういう実践はどんどんやっていくべきだとも思います。

私はとりあえず収入は考えずに、自分にできそうなことから手を付けていって、何か実りがあるといいな、というレベルです。
いきなり大きなチャレンジをしなくても、小さなハードルを設定してそれを越えていけば、ちょっとだけでも前に進めることを祈りつつ。時には後退しつつですが(笑)

坂口恭平さんの本、書店に行く機会があれば見てみようと思います。

お互い無理のない範囲で、マイペースでがんばりましょう♪
コメントありがとうございました〜。
2015/02/18 11:25 PM posted by: しみしみ
お返事ありがとうございました。

そうですか、親御さんが養ってくださっているんですね。
恵まれた環境にいらっしゃるんですね。
病気等されたのは大変だったでしょうが、まだ経済的に恵まれていて、よかったですね。

今後の自分の参考にさせていただきます。
2015/02/22 10:53 AM posted by: 宇井宙
月ノヒカリさん、こんにちは。

ひとつ前の記事の発展形として、この記事で述べられていることは非常によくわかります。
そもそも「shouldからwant (to)へ」というのは、このブログのテーマにひとつでもあるように思います。それは泉谷閑示やエーリッヒ・フロムやバートランド・ラッセルらの思想と共通するところですね。

そのうえで、月ノヒカリさんは、
<「欲望」と「義務」が重なり合う場所で生きていけること。
それこそが、人間にとっての幸福である>
という思想に到達されたわけです。
これはフロムの言葉で言えば、「権威主義的倫理から人道主義的倫理へ」ということに相当すると思います。

つまり、第1段階としては自分の「欲望」の発見と追求、第2段階として「欲望」と「義務」の重なり合う場所の探求、となるわけですが、ここで、本当に困難なのは、むしろ第1段階だと思います。

月ノヒカリさんは「押しつけられた義務」と「内発的な義務」を区別したうえで、重要なのは後者であると述べておられます。同じことは「欲望」についても言えると思います。つまり「外発的な欲望」と「内発的な欲望」ですが、月ノヒカリさんが仰る「欲望」とはもちろん後者の意味ですね(私としては、この意味の「欲望」は「欲求」と呼びたい気がしますが、ここではこれ以上こだわりません)。

ところが、悲しいことに、内発的な欲望は、人が大人になるまでの過程で、消滅してしまうケースが非常に多いのではないかと思います。優等生ほどその傾向が強いと思います。
もちろん、趣味程度のささやかな「欲望」であれば、大人になってからでも(再)発見することは可能ですが、一生の仕事となるような「欲望」は中学から高校、遅くとも大学時代までに追求することが不可欠ではないかと、自分の失敗した人生を顧みて思います。
また、中学・高校時代に自分の「欲望」を追求できるか否かということは、家庭環境によって大きく左右されると思います。裕福か否かといった事情に左右されるケースももちろんあるでしょうが、それ以上に重要なのは、寛大で子供の自主性を尊重するような親であるか否かということでしょう。

ここで突然、話は変わりますが、先日、新聞を読んでいたら、携帯端末の利用者のうち、悪意のある投稿をしたことがある人の割合は26.9%、つまり4人に1人以上を占めるという記事がありました。驚くと同時に、なんとなく納得もいくような妙な気分ですが、悪意の投稿をする人の多くは、暇つぶしや憂さ晴らし程度の気楽な気持ちで投稿しているのかもしれません。しかし、投稿された側のショックと不快感は、到底投稿した側の「気楽さ」とは釣り合わないものですよね。そのような悪意投稿を防ぐためには、「承認制」にしたり(JUGEMってできるのでしたっけ?)、速攻削除といった方法を採るのがいいかもしれませんね。不当な不快感に耐えることに何のメリットもないでしょう。
2015/02/22 2:02 PM posted by: -
管理者の承認待ちコメントです。
2015/02/23 9:50 PM posted by: 月ノヒカリ
宇井宙さん、こんばんは。

いろいろお気遣いいただき、ありがとうございます。
JUGEMもコメント承認制にできますよ〜(ブログ設定の「スパム(あらし)対策」の画面で設定できます)。
不快なコメントはサクッと削除するのが一番なのでしょうが、以前しつこい粘着コメントする人がいて困り果てたので、IPアドレスを保存しておくためにも、コメント削除はしないでおくことにしました。
場合によっては、不快であっても公開すべきと判断することもありますし。

ブログへの嫌がらせへの対処法は、この辺のサイトを参考にしてます。
http://okwave.jp/qa/q3218797.html
http://www.yamaiko.com/blog/iyagarase.html

さらにこの替え歌を唄えば、人気ブロガーの気分を味わえます(笑)
http://newmoon555.jugem.jp/?eid=425


前置きが長くなりました。
浅学のため、フロムやラッセルの思想にはさっぱり疎くて、自分の拙い文章と類似していると言われると、むしろ恥ずかしい気持ちになるのですが……「権威主義的倫理から人道主義的倫理へ」という言葉には、なるほどと頷きました。教えてくださってありがとうございます。

その上で、自分は(というか人間は)「権威主義」から逃れることはできないのではないか、という思いも拭えずにあります。
だから、このエントリに書いたことは、自分にとって「理想」であり「目指すべきビジョン」であって、現実の自分はなかなか理想通りには生きられないものだな、という歯痒さもありますね。


>「外発的な欲望」と「内発的な欲望」

確かにその二つは違いますね。
世間一般で「それを欲しがるのは当然」と思われているものを、自分がいざ手に入れてみたら、案外嬉しくなかった、ということもあります。逆に「興味ない」と切り捨ててきたものに、意外と価値があることに気づいたり。
自分が何を欲望しているのかを知ること自体、実はものすごく難易度の高いことなのかもしれません。


>内発的な欲望は、人が大人になるまでの過程で、消滅してしまう

うーん、「消滅」というよりは、「見失ってしまう」ケースが多いんじゃないかと思うんです。


>一生の仕事となるような中学から高校、遅くとも大学時代までに追求することが不可欠

えっと、「それを職業としたいなら、十代のうちに決めておいた方が得だよ」という意味なら納得です。
実は、以前書いた「先生と私」というエントリ(http://newmoon555.jugem.jp/?eid=322)に登場する予備校の先生は、「14〜18歳くらいまでに考えてきたことが、その人の一生を決定する」という持論をお持ちだったのです。
その言葉の本質は、「十代の頃に好きだったもの・考えてきたことが、(それを仕事とするかしないかに関わらず)その後の自分の原点となる」ということじゃないかと、私は考えています。

だからこそこのブログは、私が中学〜高校時代に好きだった「JUNE」とか栗本薫の話から始まりました。どちらも当時としては異端な、しかもあまり褒められたものではない趣味です。でも自分の原点がそこにあるのだから、今の自分もあまり褒められたものではない異端派になっちゃうのは、仕方ないことなのかな、と。
でも本当に、自分が十代から二十代の頃に好きだったものを振り返ると、「自分はこういうものを求めていたんだ」と、改めて腑に落ちることがあります。

家庭環境については、いろいろと思うこともあるのですが(「自主性を尊重する」のと「放任」は似て非なるものだとか)、話が複雑になるので、また機会を見つけてブログ記事にしたいと思ってます。

コメントありがとうございました。よかったらまたお立ち寄りください。
2015/03/19 2:03 AM posted by: あめ
初めまして。最近ふと栗本薫のことを思い出し、このブログにたどり着きました。
月ノヒカリさんの文章は少し私と似ているため、色々考えてしまいました。

>人が幸せになるためには、「仕事の成功」か「家族やパートナーからの承認」が必要不可欠なのだろうか。

世間一般ではやはり必要不可欠だと考えられていると思います。ただ、私も月ノヒカリさんと同じく、この価値観にはずっと疑問を抱いていました。
幸福は周囲の環境や要因に左右されるものではなく、あくまで人の心ひとつで意思決定されるものだと思うのです。

私には幼い頃から「私を承認してくれる人」がいません。学校でも家庭でもそうでしたし、社会に出てからもそうです。
そしてコミュ障とスペックの低さのせいで、仕事にも恵まれていません。
仕事や友人関係や恋愛や、世間一般の価値観での「幸福」はこれまで私には存在しなかったし、これからも存在しないだろうと思います。

「自分は幸福ではない」と断じてしまうのは簡単です。諦めて、自殺でもすればいい。
でも私は生きていたいし、この先生きていくなら幸福になりたい。他人に罵倒されても、お金も仕事もなくても、社会からも誰からも必要とされなくても、それでも人は幸福になれると証明したい。

栗本薫と出逢い、他の多くの作家を知ったことで、私の生きる意味と幸福は「小説を愛し、業界に少しでも貢献すること」になりました。今は本を買うくらいでしか貢献できていませんが(=_=;)

自分語りですみません。
自分の中に自分なりの「幸福」の形があっても、社会や世間一般からは否定されたりすることが多いので、たまに不安を感じることがあります。
月ノヒカリさんの「今の私は幸福だ」という言葉で、なんとなく救われたような気分になりました。
私も、惑わされないようにしたいと思います。
2015/03/20 11:07 PM posted by: 月ノヒカリ
あめさん、はじめまして。
この長いエントリを読んでくださってありがとうございます。

>世間一般ではやはり必要不可欠だと考えられていると思います。

やはりそう思われますか。
「仕事の成功」「家族やパートナーからの承認」をすでに持っている人にとっては、それは当たり前に存在するもので、特に意識されないのかもしれませんが……それらを持っていない者には、「世間一般からの圧力」のようなものを感じてしまうことがあるんですよね。

実際のところ、ネット上でも、何らかの不満を抱えている人が、「……でも、自分には仕事があって家族もいる。だから幸せだ」と、そこを落としどころとしている文章をしばしば見かけるのです。両方とも持っていない自分は、そのたびにモヤッとしましたね。

私も、他人からの承認を受けた記憶は、ほとんど思い当たりません。
唯一このブログで、これまでなかなか話せなかったことを文章にしたら、共感してくれる人が現れて、それは貴重な承認体験になりましたが。


あめさんのおっしゃること、

>私の生きる意味と幸福は「小説を愛し、業界に少しでも貢献すること」

これは大賛成です。
私にとっても、孤独な時間、本は大切な友達でした。
私はずっと自殺願望があったのですが、それでも生き延びてきた一番大きな理由は、「好きな漫画や小説の続きを読みたい」というものでしたし。

ブログを始めてからは、読んで面白かった本を他の人に紹介したいと思い、感想をUPすることもあります。ブログに感想を書くことが何らかの「貢献」になっているかはわかりませんが、同じ本を好きな読者さんとコメントのやり取りができることは、嬉しいことでした(実生活ではなかなかそういう機会がないので)。

あめさんも、読んで面白かった小説について、ネット上でおすすめレビューを書けば、業界への「貢献」になるかもしれませんよ〜。
Amazonレビューや読書メーターという方法もありますし(って、もう実践されていたら、余計なお世話でスミマセン)。


>他人に罵倒されても、お金も仕事もなくても、社会からも誰からも必要とされなくても、それでも人は幸福になれる

私も同感です。ただ、不当に他人に罵倒されたときは、怒っていいと思いますが。

このブログで最初に書いた記事は、明川哲也(ドリアン助川)さんの『敗北からの創作』のレビューだったのですが、そこにこんな言葉が出てくるのです。

There is no way to happiness, happiness is the way.
(幸福に至る道というものはない。幸福とは、まさにそのやり方のことなのだ)


あめさんはあめさんのやり方で幸福を追求していけば、ちゃんとそこに「幸福」は存在するのだと思います。

このエントリにコメントいただけて嬉しかったです。
私にとっても、自分の書いた文章に対して、いろいろ考えてコメントしてくださる方がいるというのは、大きな喜びです。
お互いこれからも、自分なりのやり方で、自分なりの幸福を追求していきたいですね。

コメントありがとうございました。よろしければまたお越しください。
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