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2015.08.04 Tuesday 23:30
ドキュメンタリー映画『ルック・オブ・サイレンス』を観てきた。
昨年このブログでも取り上げた、『アクト・オブ・キリング』の続編にあたる作品だ。
いつも参考になる町山智浩さんの解説はこちらに。

『アクト・オブ・キリング』は、1960年代後半にインドネシアで起こった大量虐殺事件について、今も罪に問われず安楽に生活する加害者たちの姿を撮影したドキュメンタリーだった。

今作の『ルック・オブ・サイレンス』は、虐殺された被害者の遺族たちに――今も沈黙を強いられ、怯えて暮らしている被害者側に寄り添ったドキュメンタリーだ。といっても、さすがはオッペンハイマー監督、ステレオタイプな展開にはならない。

実は、昨年書いた当ブログの『アクト・オブ・キリング』評について、「やらせ」という検索ワードでの訪問が少なからずあった。私もまたそれ以来、「ドキュメンタリーとは何か」ということを、改めて考え直すきっかけとなった。
ドキュメンタリーは、単に「事実を切り取ったもの」ではあり得ない。そもそもカメラを向けること自体「現実に干渉する」ことになるし、撮影した映像を編集する際には、作り手の主観が入り込む。だから、「やらせ」と「演出」の境界線を引くのは難しいのだ。

オッペンハイマー監督の『アクト・オブ・キリング』及び『ルック・オブ・サイレンス』は、撮る側の作為も含めて観客に提示する手法のドキュメンタリーだった。どちらも「過去の歴史」を探究するのではなく、被害者・加害者の「現在」を描き出そうとする試みだ。


今作『ルック・オブ・サイレンス』の主人公は、60年代の虐殺で殺された被害者の弟・アディという40代の男性である。
アディは、オッペンハイマー監督のカメラと共に、虐殺の加害者に会いに行く。アディは眼鏡屋で、加害者に「眼鏡を作りますよ」と言いつつ近づき、検眼しながら、世間話をするようなトーンで、過去の虐殺について問いかける。
虐殺の加害者は、今も政権側にいる人たちで、自らが過去に犯した殺人について自慢気に話す様子は、『アクト・オブ・キリング』でも映し出されていたとおりだ。

しかし、アディが「自分の兄も殺された」と打ち明けた途端、加害者は動揺し、態度を変える。
ただ、加害者から出てくる言葉は、悔恨ではない。「私は命令に従っただけ」という開き直りだった。この加害者の姿は、アイヒマン裁判を、ハンナ・アーレントの語る「凡庸な悪」を想起させる。

アディが訪問した加害者の中には、年老いて認知症になった者、すでに他界している者もいた。その場合、アディ(及びオッペンハイマー監督のカメラ)は、加害者の妻や子どもと対面し、虐殺について話すことになる。加害者の娘や息子ら(40代のアディと歳はそんなに変わらない)は、「今さら話を蒸し返すな」と怒り出す。あるいは「父を許してあげて。過去のことは水に流して」などと言う。
もちろん、加害者の子どもたちには、直接の罪はないだろう。そうであっても、「過去のことは水に流そう」だなんて、少なくとも加害者側が言うセリフじゃないよな、と思ってしまうわけで。


このシーンを見て、連想することがあった。
そう、先の戦争の加害者としての日本と、被害者としての東アジア諸国との関係だ。

家族を虐殺された遺族は、今も傷が癒えることはなく、怯えて暮らしている。そんな両親の姿を見て育ったアディ。
一方、加害者は、自己正当化を繰り返し、「過去のことを蒸し返すな」と言いつつ、のうのうと暮らしている。
被害者と加害者の間にある、圧倒的な溝。
それを目の当りにして、妙に腑に落ちるものがあったのだ。

「この映画を、遠い異国で起きていることを映し出す『窓』ではなく、自分自身の姿を映し出す『鏡』だと感じてほしい」。
映画のパンフレットには、オッペンハイマー監督のこんな言葉が収録されていた。

私たち日本人は、先の戦争において、東アジア諸国に対しては、加害者側の人間だ。
しかし、現代に生きる私たちの多くは、戦争に直接関わった経験はない。
そうであっても、加害者側の子孫として、先の戦争について、被害者側に対してどういう態度を取るべきか(あるいは取ってはいけないのか)、この映画から学べることはあると思う。


さらにもう一歩進んで、私個人の問題として、考えてみる。

私自身は、子どもの頃から反戦平和教育を受けてきた。
空襲や原爆といった「被害者としての日本」だけではなく、「加害者としての日本」の残虐な行為についても、子どもの頃から繰り返し聞かされ続けてきた。「加害者としての日本を直視せよ、反省せよ」という主張は、ごく当たり前のものとして受け入れてきた。
そういう子ども時代を経て、成長してから、小林よしのりの『戦争論』を読んで、衝撃を受けたのだ。「そういう視点があったのか」と、ものすごく新鮮に感じたのだった。

かといって、「加害者としての日本を直視せよ」という主張を「自虐史観」として退ける気にはなれなかったのは、自分の中で、バランスを取る力が働いたからだと思う。
うろ覚えだけど、当時の斎藤美奈子さんの書評に、こんな一節があった。 「新しい歴史教科書をつくる会」なんて言うけど、戦後史として見ると、小林よしのりの『戦争論』等で提示される考え方はむしろ「古い」考え方で、「加害者としての日本を直視せよ」という考え方のほうが、新しく出てきたものだ、と。
それを読んで、ああそうだったのかと思い、その後の小林よしのりに対して強い違和感を抱くようになった結果、私は「ゴー宣」から離れることになったわけだが。

でも、そういう自分の生育史を振り返ると、自分が子ども時代から受けてきた反戦平和教育には、「加害者としての日本を直視せよ」と主張する側にも、何かが欠けていたんじゃないか? と思わざるを得ない。

それについては、映画のパンフレットにあった森達也監督の解説から、ヒントが得られそうだ。
森監督は、『ルック・オブ・サイレンス』を読み解くために、二つの補助線を提示してくれている。

一つは、親鸞の『歎異抄』だ。森監督は、『歎異抄』から、次のような一節を引用している。
親鸞が弟子の唯円に「私が『人を千人殺せ』と命令したら、お前は殺せるか?」と問うた。唯円は、「師の命令であったとしても、私には一人も殺すことができません」と答える。親鸞は言う。「これで分かっただろう。心が善いから殺さないのではない。業縁がなければ、師の命令であっても人を害せるものではない。また、害そうと思わなくても、もしそこに業縁があるならば、人は百人千人をあっさり殺してしまうこともあるのだ」と。
それを受けて、「分ける境界は善悪ではなく『業縁』なのだ」と森監督は説く。

あともう一つ、森監督は、「殺す男たちは個人ではなく、常に集団だ」という視点も示してくれた。
一人称単数である「私」や「俺」が、「我々」とか「我が党」とか「我が国家」とかに肥大した結果、述語が乱暴になり、一人称単数に依拠する躊躇や逡巡や悔恨が薄くなる、というのだ。

単に善悪で裁くのはない、「業縁」という視点。
一人称単数である「私」の躊躇や逡巡も含めて、先の戦争を捉えなおすこと。
そういった見方で、私たちの間にある対立を乗り越えることはできないか。

自分の身内が、自分の祖父母が関わった戦争犯罪と向き合うことには、苦痛が伴う。
それでも、そういった痛みを経由しないまま口にされる「反省」という言葉を、私は信じることはできない。

『ルック・オブ・サイレンス』というドキュメンタリー映画を観て、そんなことをつらつら考えたのだった。






| ●月ノヒカリ● | 音楽・映画 | comments(8) | trackbacks(0) |
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Comment
2015/08/05 1:47 PM posted by: バンガード
エントリーを拝読し、作家の故司馬遼太郎さんの言葉を思い出しました。

“わたしたち、日本人は、戦中、アジア諸国で誠に馬鹿なことをした。 わたしたち日本人は、そのことをある種の“負い目”としてアジア諸国のひとびとと、付き合う必要があるのではないかと考える…。” 司馬さんは、戦後、個人的に朝鮮半島のひとびとと、深い交流を持たれ、何度も訪問されたそうで、そのたびに、旧日本軍閥のやらかしたことを悔やまれたそうです。
若いひとたちに遺す言葉として、こうも語られました…、、“人間は優しくなくてはならないが、その優しさは、自然に身につくものではない。訓練が必要だ…。”と…。

虐殺…、、本当にあってはならないことですが、集団が狂気に走るとなにをしでかすかわかりませんね…、、ボク自身も今の平和な時代に身を置いて、偉そうに反戦平和などを口にしていますが、果してあの戦中に於て、小林多喜二の様に、特高による凄惨な拷問を受けて信念を貫けるか?…と問われたら、その自信はありません。。。恥ずかしながら…、、。
親鸞の言葉も深いですね。
2015/08/06 11:42 PM posted by: 月ノヒカリ
バンガードさん、こんばんは。

司馬遼太郎さんは、世代としては「戦中派」なので、戦時中の記憶も、戦争の爪痕も、戦後生まれの世代とは比べ物にならないくらいのリアリティを持っていたのでしょうね。
「優しさ」というのは、お題目として唱えるのは簡単ですが、実践のためには、様々な修練が必要だと感じます。

故・山本夏彦氏のコラムに、「平和なときの平和論」という言葉がありました。平和な時代に反戦平和を叫ぶことは、ものすごく簡単なことなのだ、と。
戦時中に、反戦平和を訴えることが「非国民」と呼ばれ村八分にされ、場合によっては刑務所行きになる時代に、同じことが言えるかどうか?
「良心的兵役拒否」が認められない時代に、兵士として人を殺すことを拒否できたかどうか?

そういうことを問い直すべきじゃないかと、私なんかは思うわけですが……あんまりこういう話は流行らないみたいです(汗)

コメントありがとうございました〜。
2015/08/08 7:43 AM posted by: にゃんこう
興味深い記事です。
業縁、恥ずかしながら初めて聞く言葉です。

記事を読みながら、特攻隊として戦地に若者たちを行かせたのも、間接的な虐殺に近いのではないか、と思えて来ました。

今NHKとかで原爆のニュースをよく流していますが、普通の人が普通の精神状態だったら、命令されたって、原爆なんて落とせないと思います。
それができるようになってしまうのが、戦争とか、国家レベルの憎しみなのだと思います。
そういえば、狂気に至る心理の研究があまりなされていない気がします。

戦争は、産業です。ビジネスチャンスだと感じ始める企業や団体が出てきてもおかしくありません。今日本はそんなことはないですが、国家の政策によっては、そういう流れになっていってしまうかもしれません。
2015/08/10 12:18 AM posted by: 月ノヒカリ
にゃんこうさん、こんばんは。

私は『歎異抄』が好きなので、「業縁」という言葉もすんなり腑に落ちるのですが……仏教に親近感を持てない人にとっては、もしかしたら受け入れがたい観念かもしれませんね。


>普通の人が普通の精神状態だったら、命令されたって、原爆なんて落とせない

うーん、どうなんでしょう?
凡庸な人間が、上からの命令に忠実に従った結果、ホロコーストが実行された――というのが「アイヒマン裁判」を傍聴したハンナ・アーレントの出した答だったと思うのです。
それについては、このブログの過去記事、映画『ハンナ・アーレント』評にも書きました。
http://newmoon555.jugem.jp/?eid=410


>狂気に至る心理の研究

これについては、「スタンフォード監獄実験」「ミルグラム実験」という有名な心理学の実験があるのですが、ご存じでしょうか。ウィキペディアで詳しく解説されていますので、興味がありましたら検索してみてください。
ごく普通の人間が、ある役割を与えられたら、簡単に残虐な行為を実行してしまう、という実験結果が報告されています。


戦争によって儲かる企業の思惑が政治に反映されるというのは、あまり表立っては語られませんが、確実にあると思います。
軍需産業は、今の日本にも普通に存在しますよね。有名なところでは三菱重工とか。
http://blogos.com/article/117792/

wikiにあった「世界の軍需産業収益ランキング」には、三菱重工は24位にランクインしていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%9C%80%E7%94%A3%E6%A5%AD

目に見えないところで、すでに「戦争はビジネスチャンス」という動きは起こってるんじゃないかな、と思います。

コメントありがとうございました。それではまた。
2015/09/03 8:58 PM posted by: りょう
たしか、このブログにはじめてアクセスしたのが、アクト・オブ・キリングの記事だったと記憶しています。
そうですか、続編が出たのですね・・・。
今度は被害者に寄り添う形の映画みたいですが、自分の兄が殺された、と言われると、態度を変えて、命令されただけだというのは、実のところ、後ろめたいところがあるからじゃないのか、と思いました。映画を見ていないので、違うかもしれませんが・・・。
本当になんとも思っていない人間は、「殺したけど、別に悪いと思ってないよ?」ぐらいの態度なんじゃないかな、と・・・。

でも、この反省できない、したくない、というのは、すごく普遍的な問題に思えます。自分も自分のことを常に正しいと思う傾向があり、だれかに責められると、本能的に自分を守ってしまいます。
とっさに自分を弁護する言葉を言ったあとで、よくよく考えてみると、そんなに自分は正しいことをしていたわけじゃないと思ったり・・・。

自分個人の問題として考えてみる、というのは共感しました。ぼくは、加害者としての日本という考え方には、特に違和感はないですが、世の中にはそれに誇りを傷つけられる人もいるみたいですね。業縁という考え方、確かに、そういう人たちとの溝・・・を埋めることができる力を持っているのかもしれません。
2015/09/05 12:04 AM posted by: 月ノヒカリ
りょうさん、こんばんは。
「アクト・オブ・キリング」の感想エントリ、読んでくださったんですね。
この「ルック・オブ・サイレンス」は、それほど観客も多くなくて、「アクト・オブ・キリング」ほど盛り上がってるようには見えなかったのですが。

>本当になんとも思っていない人間は、「殺したけど、別に悪いと思ってないよ?」ぐらいの態度

そうかもしれませんね。
この映画に登場する虐殺の加害者も、やっぱり目の前の人が被害者遺族だとわかった途端、気まずい思いをしたのでしょうね。だから自己正当化しようとする。

ただ、映画『ハンナ・アーレント』に出てきたアイヒマン裁判の映像では、アイヒマンは本当に「開き直っている」ような、かなり平然と「命令に従っただけ」と口にしていたように見えました(映画を観たのはかなり前のことなので、おぼろげな記憶しかないのですが)。


>この反省できない、したくない、というのは、すごく普遍的な問題に思えます。

そうですよね。以前どこかに書いたことがあるのですが、人間って「自分が被害者である」ことを受け入れるよりも、「自分が加害者である」ことを受け入れる方が、難しいんじゃないかと。

でもって、本当の意味での「反省」というのは、他人から強要されてするものではないと思うんです。
かつて「黒子のバスケ」脅迫事件についてのエントリを書いたとき、岡本茂樹の『反省させると犯罪者になります』という著書に少し触れたのですが。
http://newmoon555.jugem.jp/?eid=422

大人が子どもに「反省」を強要すると、皮肉なことに本人は「周囲の大人が喜ぶような反省の仕方」を身につけるだけで終わってしまう、とのこと。
岡本茂樹氏の主張としては、まずは「自分の内面としっかり向き合うこと」が大事、というものでした。

自国の戦争犯罪に向き合うとき、ナショナリストからの抵抗が出てくるというのは、どこの国でも起こることらしいです。
「愛国」か「反省」か、という二者択一の議論は、二十年以上前から目にし続けてきたので、もう少し別の視点から捉えられないものか、という思いはずっと持っているのですが……なかなか難しいです。おっしゃる通り、両者の間にある溝に、橋を架けるような言説が必要なのかもしれません。

コメントありがとうございました。
2015/09/10 12:04 AM posted by: りょう
>「愛国」か「反省」か、という二者択一の議論は、二十年以上前から目にし続けてきたので

自分の知らない時代に、自分の思いもかけなかった出来事があった、ということはたまに目にしますが、そんなに昔からあったんですね。
昔は、ずっと「反省」一色なのかと思っていましたが、そうではなかったのですね。自分の印象だと、00年代からそういう「愛国」言説がふりまかれてきた印象があったので…。ちょうど自己責任とか民営化とかニートバッシングなどの時期ですが…。
昔にも、「愛国」を言う人たちがいて、「反省」とぶつかっていたというのは、考えさせられるものがありました。
個人的には、反省してもそれは自虐じゃなくて、むしろかっこいいこと、というイメージがあります。だから国を愛することとも矛盾しないというか。
でも、反省を無理やりさせても、うまくいかないんだろうなとは思いますね。

アイヒマンみたいな人は、確かに反省しないかもしれませんね。そもそも自分に責任がないと思っているのかも。自分が命令に従った時点で、責任が生じてしまうと思うんですが、命令に従うことを当然としてしまうと、そういうことも思えなくなるんでしょうかね。
2015/09/16 8:31 PM posted by: 月ノヒカリ
りょうさん、こんばんは。レスが遅くなってすません。

今から20年前というと、ちょうど戦後50年で、「先の戦争を振り返る」系の言説がいろいろ出てきた年だったように思います。
個人的に印象に残っているのは、1995年に出た宮崎哲弥編『ぼくらの「侵略」戦争』です。この本は、右派左派問わず多彩な主張が収録されていて、単純な「愛国」か「反省」かという図式には収まりきらない議論もあったと記憶しています。
あの本を読んだ当時と比べると、今はむしろ、議論が「硬直」していると感じますね。「まだ20年前と同じことを言ってるのか…」というウンザリ感みたいなものが自分にはあって、だからこそ、テンプレ図式に当てはまらない言説に惹かれるんだと思います。

りょうさんのおっしゃる通り、「愛国」言説がここまで一般的になったのは、ゼロ年代だったかもしれませんね。「戦争論」以降の「ゴーマニズム宣言」や「マンガ嫌韓流」あたりが、象徴的な作品じゃないかと。
もっとも、私にとってのゼロ年代は、自分の病気のことでいっぱいいっぱいだったので、愛国とかその手の話からは遠ざかっていたのですが。

自分がブログを書くようになってから、ネットでその手の議論が沸き起こっていることを知ったのですが、かつて読んだ『ぼくらの「侵略」戦争』以上に生産的な論はあまりないなあと感じました……。

とりあえずこの辺で。
コメントありがとうございました。
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