2017.12.25 Monday 00:55
ツイッターの #MeToo ハッシュタグで、性犯罪やセクハラの被害を訴える動きが、世界中で広がっている。
ハリウッドの女優が大物プロデューサーのセクハラを告発したことから始まるが、日本でも、有名ブロガーのはあちゅうさんが電通勤務時代に受けたセクハラ・パワハラについての記事が出て以降、続々とセクハラ被害にあった女性の声が上がって「炎上」のような様相を呈している。
過去、自分のツイッターTLに、女性の性犯罪やセクハラ被害体験談が流れてくることはちらほらあったので、潜在的な被害者は多いのだろうな——とは思っていたけど、改めてその数に圧倒された。

単なる「嫌がらせ」と「ハラスメント」との違いは、権力関係の有無にある。
権力を握っている側が、立場の弱い人間に対して、人格や尊厳を侵害するレベルの理不尽な行為をすれば「パワハラ」だし、それが性的な嫌がらせを含む場合は「セクハラ」になる。
そう考えると、私が今年に入ってから、とある人たちにされた嫌がらせは、「パワハラ」であり「セクハラ」でもあったと思う(例えば、事実ではない異性関係の噂を広めたり、容姿や胸が大きい小さいなどと揶揄することもセクハラに当たる)。

私は現在、会社勤めをしているわけではないので、典型的な「セクハラ」「パワハラ」の被害を受けた、とは言いづらい状況だ。ただ、被害者の告発を読んでいると、私自身が過去にされた「嫌がらせ」の痛みと重なる部分があるように感じた。
様々な証拠や条件が揃っていたら、私ももっときちんと詳細を書いて、自分の被害体験を公に問いたかった。残念ながら自分にそれができないということは、いま表に出ている被害体験は「氷山の一角」に過ぎず、もっと多くの被害が水面下にあって、今も一人で苦しんでいる人がたくさんいることの証左のように思われる。

これから書くことは、特に目新しいことのない、個人的な思いにすぎないかもしれない。でも、私自身が抱えている痛みからの回復のためにも、書くことにする。

すでに多くの女性が述べていることだけど、はあちゅうさんのセクハラ告発記事を読んでいて、悲しくなったのは、以下の部分だ。
「私の場合、自分が受けていた被害を我慢し、1人で克服しようとすることで、セクハラやパワハラ被害のニュースを見ても『あれくらいで告発していいんだ…私はもっと我慢したのに…私のほうがひどいことをされていたのに…』と、本来手をとってそういうものに立ち向かっていかなければならない被害者仲間を疎ましく思ってしまうほどに心が歪んでしまっていました」
 https://www.buzzfeed.com/jp/takumiharimaya/hachu-metoo?utm_term=.bn3GZkOk2#.ed11eJVJR

ここを読んで、伊藤詩織さんが、著名なジャーナリストから受けたレイプ被害を告発した時、女性からの非難があったと語ったことを思い出した(こことかここを参照)。
私はそれが不思議で仕方なかった。なぜ女性が、性犯罪の被害にあった女性を叩くのか?
私はレイプのような重い性犯罪の被害にあったことはないけど、それでも女であるがゆえの理不尽な差別や犯罪の被害、それに伴う苦痛は、多少なりとも理解できる。だから、なかなか言葉にはしづらいけれども、詩織さんのように勇気を出して被害を告発する人を、応援したい気持ちはある。

でも、現実には、女性がセクハラや性犯罪の被害を告発するとき、「女性からの反発」があることを覚悟しなければならないみたいだ。とても悲しいことだけれども。

伊藤詩織さんは、年配の世代の女性は、我慢して男社会に合わせるのが当たり前だったから、自分のように告発することに否定的なのではないか、と述べている(参照URL)。
確かに、年配の世代の女性は、今より我慢しなければならないことも多かったかもしれない。今でも、生きていれば我慢して他者に合わせなければならない場面も多くある。でもその「我慢」は、本当に必要な我慢か? という疑問は、考えてみてもいいんじゃないかと思う。
ハラスメントに耐えて、心身を病んでしまった人、中には自ら命を絶つ人も存在するのだ。加害者の体面を保つことは、本当に、被害者の命よりも大切なことだろうか?

若い世代の女性で、セクハラ告発に批判的な例として、指原莉乃さんの記事がある。指原さんは、「セクハラなんて自分にもまわりにもない」と発言したらしい(参照URL)。
AKB界隈で「セクハラがない」というのはちょっと信じがたいのだけれども、指原さんはかなり「空気を読んで、自虐しつつ発言する」タイプで、そうすることで「勝ち抜いてきた」タレントだから、彼女の中では「セクハラなんて存在しない」ことになっているのかもしれない。

これについては、トイアンナさんのブログ記事を読んで、腑に落ちる面があった。ある種のゲームを戦っているエリート層にとって、「優秀さ」というのは「女性であることを売りにできる、そこを使ってのし上がること」も含まれる、とのこと(参照URL)。

なるほど、「女性であることを売りにする」のは、私にとってものすごく苦手な分野だ。そういう価値観の場所では、私はきっと生きていけないだろう。

えっと、つまり、まとめると。
男社会で女性が生きていくためには、自分の「女性」の部分を売りにしつつ、でもセクハラは上手にかわしつつ、男性と同じ仕事をして出世するしかない、と。
・・・いやそれ、無理ゲーでしょ。少なくとも私にはできない芸当だ。

はあちゅうさんの記事に戻ると、上記引用の続きで、彼女はこう語っている。
「けれど、立ち向かわなければいけない先は、加害者であり、また、その先にあるそういうものを許容している社会です。私は自分の経験を話すことで、他の人の被害を受け入れ、みんなで、こういった理不尽と戦いたいと思っています」
 https://www.buzzfeed.com/jp/takumiharimaya/hachu-metoo?utm_term=.cgOBWq8qj#.umeA6V5V9
この言葉、私も全面的に賛同したい。


もう一点、はあちゅうさんの記事に戻って、妙に共感してしまったポイントを挙げてみる。
セクハラ・パワハラ加害者は、少なくとも「仕事」の面では、実績があり尊敬できる存在だった、という点。ハラスメントを告発しづらい、それどころか「被害者本人が、ハラスメントの被害にあっていることに、気づくことすら難しい」のは、この問題があるからだと思う。

実は私自身、簡単に人をリスペクトしてしまって、でもよくよく近づいて見てみたら、「こんな卑劣なことが平気でできる人なんだ…」と知って愕然とする、ということが、過去に何度かあったのだった。そういうことを複数回繰り返しても懲りないあたり、自分は本当に馬鹿だなあ、と呆れてしまうのだけれども。

誰が見ても人格的に問題のある人物からハラスメントを受けたのなら、逃げることもさほど難しくはなかったと思う。
でも、仕事上の実績があって尊敬している人にハラスメントされると、「逃げ遅れる」こともあるのだ。尊敬している人が、そんな酷いことをするはずがない、と心のどこかで信じたいから。

これもよく言われることだけれども、社会的に「人当たりの良い、親切な人」という評価をされている人であっても、目下の女性に対しては、高圧的な態度をとる男性もいる。立場が上の相手には慇懃に振る舞い、立場が弱い相手に暴言を吐くタイプだ。

性犯罪やハラスメントの被害でも、今回の #MeToo 運動でも、「声を上げた被害者を孤立させてはいけない」と言われている。でも、加害者が対外的に「善い人」という評価を得ている場合は、被害者が「ハラスメントの被害にあった」ことを、周囲に理解してもらうためのハードルが上がる。
ましてや仕事上の実績がある加害者と、弱い立場にある被害者とでは、被害者が泣き寝入りすることが圧倒的に多いであろうことは、想像に難くない。とても残念なことだけれども。

このあたりの事情については、fujiponさんの次のブログ記事に書かれている実例が参考になる。
■狭い世界での「権力者によるパワハラ・モラハラ・セクハラの複合攻撃」について(いつか電池がきれるまで)

結論の部分から、一部引用してみる。
 世の中には、人格的には最低最悪なのだけれれど、素晴らしいコンテンツを作ることができたり、仕事で凄い能力を発揮したりする人がいて、一緒に働くのはまっぴらごめんだが、社会全体としてはメリットが大きい、という人がいる。そういう怪物をどう扱うべきなのか。
(中略)
 彼らの能力を利用しようとして、行状を黙認してきた人たちにも、責任はある。
 ということは、僕にも責任はあるし、もし、「誰もがいいなりにならざるをえないような権力」を自分が持っていたら、同じことやるかもしれない、という不安もあるのだ。僕は無能で、自信がないから、やらないだけなのではないか。いや、そんなふうに考えることが、ああいう行為を本人や周囲の人に「特別な人間に与えられた特権」だと勘違いさせてしまっているのかもしれない。
 あるいは、本人たちにとっては、「ああいう形の愛情表現」というのが、本当にあるのではないか。コンテンツとしての「歪んだ愛情表現」は、世界に満ち溢れている。
 http://fujipon.hatenablog.com/entry/2017/12/18/170319

上記引用の末尾の部分と関係することだけど、世の男性の一部には、「女性は、セクハラされて喜んでいる」と思い込んでいる人もいるらしい。確かに、そういう「歪んだ愛情表現」を描いた作品、「セクハラ的な行為をされて喜ぶ女性」を描いた表現は、結構な数で存在しているように見える。
ただ、「表現の自由」や「表現規制」については、複雑な問題を孕んでいるので、ここでは触れないことにする。

「人格的に問題のある人が、素晴らしいコンテンツを作る」例は、私も思い当たるフシがある。
私もこれまで、セクハラやDVの噂がある男性の書いた著書や文章に、深い感銘を受けたことがあった。また、上に書いたように、「仕事」は尊敬できるけど、「人物」はとんでもないハラッサーだった、という例も知っている。実はスティーブ・ジョブズもそういうタイプだったらしいし。

「仕事の業績」とその人の「人間性」は、切り分けて考えられるものなのか?
この問いについては、わりと長く考え続けているのだけれども、まだ答えが出ない。
自分が直接の被害にあったハラッサー(ハラスメント加害者)の「仕事」や「作品」がどんなに素晴らしいものでも、それを目にするとトラウマのような記憶が蘇ってくるため、リスペクトし続けることは難しい。
でも、直接の被害にあっていなければ——どうだろう?

一つ言えるのは、どんなに素晴らしい仕事上の業績がある人でも、法に触れる行為をしたなら、きちんと法の裁きを受けるべきだし、そうでなくても倫理的に大きな問題のあるハラスメントや著しい人権蹂躙などの行為をしたなら、社会的な制裁が下されなければならない。これは当たり前のことだと思う。でもその「当たり前」が機能していないことが問題なのだ。加害者の多くが見逃され、被害者の多くが泣き寝入りしているのが現状だ。

法や人倫に反する行為をした人たちが、全く裁かれることがなく「上」にいるのは、被害者だけの問題ではなく、集団全体にとって、ひいては社会全体にとって、大切なものを損なうことになる。社会を支えている土台の部分が損なわれる。権力を持つ側の腐敗を放置しておくと、その腐敗は、集団全体をじわじわと侵食し、やがて全ての構成員の首を絞めることになりかねない——と、ここで警告しておく。

適切な法の裁きや社会的な制裁がなされた後でも、なお加害者の「仕事」は素晴らしいものであり得るのか?
権力を握っている人間が、弱い立場の人間にハラスメントをしてしまうのは、人間の本性なのか?
これらの問いについては、これからも考え続けたい。

まとまってないけど、ひとまずこれで。皆さんにも問題を共有してもらえると嬉しいです。






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2018.09.11 Tuesday 00:55
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