2018.04.04 Wednesday 00:16
「人生の残り時間を考えたら、つまんない本を読んでいる場合じゃない」
こういうけち臭い考え方、以前は好きじゃなかった。
「玉石混交」というのは大事だと思っていて、つまらない本から学べることだっていくらでもある。だから、いろんなジャンルのいろんな本に手を出してきた。

でも、再発癌の治療のために、読書に費やせる時間や体力が減りつつある今は、読む本を厳選せざるを得ない。体が弱っているときは、本を読むこと、PCで文章を書くこと、普段何気なくできていたことも、実はものすごく体力を必要とする営為だったんだ、とつくづく実感する。

続きを楽しみにしている漫画は当然読むんだけど、それ以外に、何を読むべきか。
「これはぜひ読んでおきたい」と思ったのが、石牟礼道子の『苦海浄土』だった。人類初の産業公害である、水俣病の患者に寄り添いつつ描かれた文学作品。

昨年5月のエントリにちらっと書いたけど、あの当時読んだ文庫版には第一部しか収録されていなくて、実は第二部・第三部もあると、読み終わってから気づいた。
というわけで、第二部「神々の村」・第三部「天の魚」も収録された池澤夏樹編集の世界文学全集版『苦海浄土』を購入し、ちびちびと読み進めて、先日やっと読み終わったのだった。

池澤夏樹が編集した全30巻の世界文学全集で、日本語作品として唯一選ばれたのが、石牟礼道子の『苦海浄土』だということ、私も小耳に挟んではいた。だから、『苦海浄土』は、「日本人なら、教養として読んでおきたい書物」と言えないこともない。
でも、今の私は、「教養としての読書」はもういいかな、と思ってて。
幾つになっても、教養を深めるのはいいことだ。ただ、今の私には、教養よりも他に求めるべきものがあるんじゃないかと、くどいようですが人生の残り時間を考えると、思ってしまうのである。


社会学者の鶴見和子さんは、脳出血で倒れた後、こんな短歌を作られたそうだ。

片身(かたみ)麻痺の我とはなりて水俣の痛苦をわずか身に引き受くる /鶴見和子

ご自身が半身麻痺になったとき、「水俣病の患者の痛苦」に思いを馳せた鶴見さんに倣って、というわけでもないのだけど、私もまた『苦界浄土』を、今の自分と重ねつつ読んでいた。
もちろん、当初は原因もわからない奇病と言われ、公害と認められるまでに辛酸を舐めつくさなければならなかった水俣病の患者の痛苦を、『苦界浄土』を読んだだけで勝手に共感するのは、あつかましすぎるというものだろう。

ただ、私自身も精神疾患を含む重い病気をいくつか体験してきて、今現在も治癒しないと言われている再発癌の治療中で、しかも病人に対する無理解や蔑視や偏見をまざまざと肌で感じてきて——そういうことがあった今だからこそ、『苦界浄土』に描き出された水俣病の患者の苦しみが、少しだけリアルに感じられる。病気そのものの苦痛のみならず、患者が受けた有形無形の差別や無理解を、かつてよりもリアルに受け取ることができる。そういう面は確かにあるのだ。

痛みを分かち合うための読書。
気分転換の読書、愉しむための読書とは別に、そういう読書も、人生の残り時間でできたらいい。


『苦海浄土』第一部の白眉とされる「ゆき女きき書」は、実際には「聞き書き」ではなく、患者の心の中の言葉、声なき声を聞き取った石牟礼道子が、文字に写したものだった。そうであっても、この「語り」の価値は損なわれない。報道や学術用語では表し得ない「なまなましさ」が宿っている。

そして「天の魚」の章、不知火海の描写が美しい。海で獲った魚を、舟の上で食べるのがいちばん旨いという漁師。その美しい海や魚が、チッソ水俣工場からの水銀混じりの廃液で汚染されているとは、漁師たちは思いもよらなかったのだろう。
この美しい描写があればこそ、公害で「何が失われたのか」が、ありありと迫ってくる。失われたのは、患者の命や健康だけではない。彼らの生業が、豊かな幸をもたらす海が、失われたのだ。


第二部以降には、水俣市民による、水俣病患者に対する有形無形の差別や蔑視も、容赦なく記されている。
「……あの病気にかかったもんは、腐った魚ばっかり食べる漁師の、もともと、当たり前になか人間ばっかりちゅうよ。好きで食うたとじゃろうもん。自業自得じゃが。会社ば逆うらみして、きいたこともなか銭ば吹きかけたげなばい。市民の迷惑も考えず、性根の悪か人間よ。あやつどんは、こう、普通の人間じゃなかよ。……」
 (『苦海浄土』世界文学全集版 p.250)

水俣病発生から二十年近くを経て、加害企業であるチッソを提訴した患者たちに対する、水俣市民の声を、石牟礼道子が記したものだ。
公害の加害企業であるチッソは、地域の経済発展に寄与した一大企業であった。その恩恵を受けている地域住民にとっては、公害の被害を訴える水俣病患者は、目障りな存在だったのだろう。

石牟礼道子は、水俣病の患者に寄り添い、加害企業であるチッソへの怒りも胸に抱きつつ、しかし声高に非難することはない。静かな筆致で、チッソや国の、無責任な体質を暴く。


水俣病患者とチッソ社長とのやり取りに出てきた、このような一言も、琴線に触れた。
……症状というのはね、被害のほんの一面にしか過ぎないんです。
  (同書 p.582)

この一言の意味は、例えば次のような、石牟礼道子による地の文に照応するだろう。
 チッソ資料による水俣病患者一覧表記載の「自宅でぶらぶら。歩行やや困難」とは、田上勝喜および、彼の発病によってひきおこされたこの一家の苦難について、失われた歳月について、ひとことも語り得ていない。ましてこの一片の記載が、患者や患家の生活資金と行政当局からみなされている「見舞金」改訂の資料となるならば、その酷薄さはまことに空恐ろしい。
  (同書 pp.378-379)

私自身も、癌や精神疾患その他の病気を長く患ってきたから、思うことがある。
例えば、医師の「カルテ」には、病気のごくごく一部分しか書かれていない、ということ。
患者には、カルテには表記されることがない「生活」があり、そこにはもっともっと大きな困難や不安や苦痛や、ときにささやかな喜びもあるということ。
石牟礼道子の筆は、後者の「カルテには記載されない、患者のリアルな生活」を活写する。


上野千鶴子著『〈おんな〉の思想』は、石牟礼道子に一章が割かれているのだが、そこでこんな分析がされている。
『苦海浄土——わが水俣病』は三種類の文体で描かれている。ひとつは著者の「わたくし」を主語とする地の文章。もうひとつは水俣の方言とおぼしいはなしことば。もうひとつは医師の診断書や役所の報告書。とりわけ後二者は互いに理解不可能な外国語であるかのように本文中に説明なく投げ出され、通常のドキュメンタリーのように事件を追っていくのはむずかしい。……
 (上野千鶴子『〈おんな〉の思想』単行本版 p.41)

……その三つの言語を理解できるからこそ、互いに異言語を語るゆえに通じ合えぬ者たちをつなぐ「通辞」を、彼女はみずからに任じた。
 (同書 p.56) 

利潤を追求する企業の論理、医学や行政の論理、そして患者の生きた言葉。まるで異なる母層から生じた複数の言葉のそれぞれの意味を、石牟礼道子はかろうじて理解できるが故に、彼女は「通訳」のような役割を果たすことになった。
だから読者は、患者の立場に寄り添って記された本書から、水俣病をめぐる全体を透かし見ることができる。

私もまた、当時の水俣市民であったなら、患者に対して無言の(あるいは小声での)非難を向けたかもしれない。
あるいはもし、自分が当時のチッソに勤務していたら、患者の訴えを矮小化し、会社の責任回避に加担したかもしれない。
そんなことを考える。
今現在も、こういった社会的不正は、日本の、いや世界のあちこちで行われているのだろう。

水俣病が公害病であり、チッソが加害企業であることを、私たちはすでに知っている。
だから、今の時代に『苦界浄土』を読むとき、読者は、患者の立場に身を寄せるだろう。公害企業であるチッソは、悪役のように見えるだろう。

では、現在進行形で起こっている、似たような出来事について、私たちは、同じようなものの見方ができるだろうか?
被害者を力づけ、加害者に対する告発を応援する、そのような行動が取れるだろうか?

加害者が居直り、嘘をついて誤魔化す。被害者が責められ、貶められ、被害を矮小化され、告発を妨害される。これが水俣病の現場で起こったことだ。
現在進行形の社会不正においても、同じようなことが起きていないか。
世論が「加害者の味方」であるケースすら存在する。そうであっても、私たちは真実を見抜き、きちんと被害者と向き合えるのだろうか。
水俣病の歴史から、私たちはちゃんと学んできたのだろうか。

残念ながら、とてもそうは思えない。今も似たような社会的な不正義が横行しているのみならず、被害者に対する差別や二次被害も繰り返されているように、私の目には映る。

今も形を変えて、世界のあちこちで起こっている社会的不正の原型のようなもの。
『苦海浄土』は、その生々しい記録だ。


蛇足ながら、『苦海浄土』の読書と並行して、日本中世史研究の泰斗である網野善彦の『無縁・公界・楽』を読んでいたのだけれども、そこで小さなシンクロニシティを感じた。
網野善彦が描こうとした中世の海民の姿が、『苦海浄土』の「天の魚」の章に出てくる漁師と重なったのだ。「海の上におればわがひとりの天下じゃもね。魚釣ってるときゃ、自分が殿様じゃもね」と語り、釣った魚を船の上で食べる。この、都市ではあり得ない贅沢が許される場所は、「苦海=苦界」ではなく「公界」であり、網野善彦が見いだそうとした、日本の底流に息づく「自由」だったのではないか。そんな妄想をしてしまった。


本書を通じて知ったことを、今後何かに活かせるだけの時間が自分に残されているかどうかは、わからない。それでも、死ぬ前に、知っておいてよかったと思う。水俣病の患者が受けた痛苦を、わずかにでも知ることができてよかった。そういう読書体験もあるのだ。









| ●月ノヒカリ● | 読書感想 | comments(0) | trackbacks(0) |
2018.07.13 Friday 00:16
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