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2010.04.29 Thursday 20:23
えー、このブログは、世を拗ねつつ箪笥の陰あたりにひっそり棲息している動物の、生態記録のようなものですが。
たまに拗ねた文章を書くと、心優しい読者様(のうちの何名か)が、フォローのコメントをくださるのです。ありがたいことです。

がっ! 月ノヒカリがイジイジといじけたり、穴を掘ってもぐったりするのは、年中行事なのです。そういうのを見かけても気にせずスルーしてください。と書いて本当にスルーされたら、それはそれで寂しい気もするので、適当に構ってください。

そんな感じで拍手レスいきまーす。↓からどうぞ。
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| ●月ノヒカリ● | web拍手レス | comments(0) | trackbacks(0) |
2010.04.25 Sunday 22:57
当ブログは最近、ブログ主が少ない脳みそを絞って長文を書いても反応がなく、どーでもいいB級グルメネタにコメントが集まる、という非常に残念なブログになっております。
ウフフ。アハハ。はあ(壊れた)。

皆、そんなに食べ物に飢えてるのかい?仕方ないなあ。食べ物の話を続けるか。
じゃあすでに季節外れの感がなきにしもあらずだけど、桜餅の話をするね。
今思えば、最初から桜の話じゃなくて、桜餅の話にしとけばよかったんだよね。
月ノヒカリは本来、「花より団子」「色気より食い気」の動物なんだから。

そんで桜餅ってさ、関東と関西では違うらしいですね。
どっちもピンク色で可愛くて、外側を桜の葉で包んであるのは共通しているけど。
Wikiに写真が載っているんだけど、関西風の方は、道明寺粉でつくった丸いお餅の中に、餡が入っているんだよね。
ところが関東風のは、薄焼きした皮で餡をクレープのように包むらしいんです。
私は関西風のしか食べたことないんですが、江戸風の桜餅ってどんな味なんだろ? 気になるわ〜。

関東と関西で異なるといえば、「赤いきつね」とか「どん兵衛」も、東と西では微妙に味が異なるみたいです。一度食べ比べしてみたいなぁ。これも。
ハイ話がそれました。これからもっと、どんどん話は遠くにいくよ〜☆

えっとね、これ話すと人に「意外!」って驚かれるんだけど、わたし実は、ミステリって苦手なんです。なんでかっていうと、怖いんですよね、人が殺される話を読むの。
なんてね、山野一の『四丁目の夕日』とか読んでる人間が言うことじゃないですよね。本当はバイオレンスも苦手なんですけどね。

でもミステリが苦手といっても、「嫌い」とはビミョーに違うんだな。
名探偵とその助手とか、腐女子的には楽しい(妄想できる)関係だし。
基本的にミステリは苦手なんだけど、名探偵というキャラクターには、魅力的な人がたくさんいるんだよね。栗本薫作品に登場する伊集院大介のすっとぼけた性格も素敵でしたが。

それよりも、島田荘司のミステリに登場する、御手洗潔っていう名探偵の変人っぷりがすごく好きだったんです、私。高校生の頃の話だけど。
ただ、島田荘司のミステリって、私がいちばん苦手なタイプの、猟奇的な殺人事件が題材だったりするんだよね。
猟奇殺人モノを読むのは怖くて、でも御手洗潔は好きで、だから当時、すごく葛藤しながら読んでたんだ。怖いよ〜でも御手洗はステキ!みたいな(笑)

その御手洗潔シリーズ第一作『占星術殺人事件』は、もう伝説的な作品。
結構な長編なのに、読み始めたら犯人がわかるまで、つまり最後まで読まないと落ち着かなくて、徹夜で読んでしまったという思い出があるんですが。
この小説の最後、御手洗潔が真犯人に会うシーンで、「餡の入っていない桜餅」を食べてるんだよね。場所はたしか京都の嵯峨野って書いてあった。
私はそれを読んでから、「餡の入っていない桜餅ってどんなんだろ?」って、気になって気になって。
その数年後、食べることができました。京都・嵐山にある琴きき茶屋というお店で。あのときは嬉しかったなあ。「これが御手洗も食べた桜餅かぁ」とか思ったりして。

餡の入っていない桜餅は、すごく上品な味でした。餡が入ってない分、お餅の優しい甘さが引き立って、桜の葉の香りが口中に広がって。
これは京都に行かなければ、味わえないのではなかろうか?
というわけで、皆様も京都にお出かけの際は、ぜひお試しください。餡の入っていない桜餅。おいしいです。

といっても私はもう何年も食べてないんですよねこれが。食べたい。でも京都は遠い……仕方ないので近所のスーパーで買った桜餅食べてますが。
「やっぱり桜餅には餡が入ってないとね」とか負け惜しみを言いつつ、あの繊細な味わいがたまらなく懐かしくなる四月の夜なのでした。

 そろそろ柏餅の季節か
| ●月ノヒカリ● | B級グルメ | comments(2) | trackbacks(1) |
2010.04.21 Wednesday 23:33
<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス
永井 均
講談社
売り上げランキング: 22,987
コメント:〈ぼく〉が存在することの〈奇跡〉を、全身全霊をかけて考える


私は2chのメンヘル板をたまに覗くことがある。2chって、ある種の人たちにはすごく嫌われてるみたいだけど、私が見ていたスレは、親切でちょっとお節介な人たち――要するにごく普通の人たちが集まるあたたかい場所だった。

そのメンヘル板のとあるスレで、かつてこんな書き込みを見たことがある。
「この世界は虚像かもしれない、他人に意志はないかもしれない、という不安に捕われている」と。
こんな悩み、精神科医に相談したら、抗不安薬を処方されるだけでおしまいだろう。
でもそのスレの書き込みには、「それは哲学でいう独我論というものではないか?」というレスがついた。悩んでいた当人は、自分の悩みが哲学的に確立された問題であると初めて知り、哲学への門が開かれたのだ――それが幸か不幸かはわからないけど。

独我論」というのは、私たちが、とりわけ「大人」が普通に社会生活を営む上で、存在しない(ことになっている)問題である。だけど、こういう疑問を、子どもの頃に抱いていた人は、少なからずいるのではないだろうか?
私が永井均の『〈子ども〉のための哲学』を初めて読んだのは、もう十年以上も前のことだけど、永井のいっぷう変わった独我論に触れたときの、鮮烈な驚きと感動は、今も忘れない。

この本は、私が「哲学」というものに対して抱いていたイメージを、根本から変えてしまった。
それまでの私は、「哲学」というのは、カントだのヘーゲルだのニーチェだのといった、有名な哲学者の著書を「解読する」学問だとばかり思っていた。

でも永井均は違った。
「誰とも共有できない問いについて、自分ひとりで答えを考え続ける」というのが、永井のいう哲学だ。
たぶん子ども時代は誰でも、こういう哲学をしていたのではないか。世界が、宇宙が、そして自分がここに存在し、「現に今こうである」ことを、素朴に不思議がっていたのではないか。
大人になると、子どもの頃にそんな問いを抱いていたことすら、忘れてしまうらしい。まあそんな問いをマトモに考えても、何の役にも立たないからね。それどころか逆に、普通に生活をする上で、邪魔になったり害になったりもするから。
それでも、大人になってもある種の問いにこだわってしまい、それを考え続ける人がいる。永井均はそういう人のことを〈子ども〉と呼ぶ。哲学は本来〈子ども〉の営みだという。

〈子ども〉の問いに、大人は答えてくれない。それどころか問いの意味すら理解されない。だって〈子ども〉は、世の中のほとんどの人が当たり前に受け入れている「前提」そのものを不思議に思っているのだから。
だから〈子ども〉の哲学をし続けるということは、ある種の欠陥を抱えているということに他ならない。

永井均の言うところによると、哲学というのは「自然にしていると水中に沈んでしまうタイプの人間が、水面にはいあがるための唯一の方法」だという。
もうね、ここ読んで私、目から鱗がポロポロこぼれ落ちましたよ。
そうか!哲学ってアタマがいい人がするものだとばかり思ってたけど、まともに世界に適応できないダメ人間がするものだったんだ!

永井均の哲学は、「社会」というよりは「世界」に適応できない人にフィットするものだと思う。
「社会に適応できないダメ人間の苦悩」なら、「文学」で代用できる。永井均の言葉を借りれば、それは「青年の哲学」だ。青年は哲学に「よりよく生きる」というような、意味や価値を求めてしまう。
しかし永井均という〈子ども〉の哲学は、まったく違う。青年の哲学(≒純文学)のような、じめじめした自意識の鬱陶しさは微塵もない。カラッとしていて、しかもロジカルだ。生まれて間もない子どもが、初めて「世界」に出会って、ごく当たり前に感じる不思議。それを長いあいだ手放さず、どこまでもクールに思索し続けた永井の軌跡を、この本で味わえる。

この『〈子ども〉のための哲学』で取り上げられるのは、「なぜぼくは存在するのか」「なぜ悪いことをしてはいけないのか」という、ただ二つの問いだけだ。
どちらも「問いの意味すら他者に理解されない」ところから、永井均は思索を始めなければならなかった。

第一の問いは、冒頭に挙げた独我論に関係する。ここで、永井均は「ぼくが存在する」ということの特異性を、いくつかの思考実験で証明しようとする。この過程は、まるでSF小説を読んでいるみたいに、スリリングで面白い!
入り組んだ思考実験を何段階もクリアして、永井の出したあっと驚くような結論を読んだとき、私の体内に、震えるような感動がわき起こるのを感じた。この本の前半部分を読んだ後、明らかに私の世界が色合いを変えたのだ。
こういう問いに親近感を感じた人は、ぜひこの本の前半部分は読んでみてほしいな。この問いを(一部でも)共有する人が、永井の哲学に触れずに一生を終えるとしたら、すごく「もったいない」気がする。

第二の問いについては、第一の問いを読んだときのような感動はなかったけど、これも面白く読めた。「道徳」についての話なんだけど、永井均が、世の中の常識との間にズレを感じている様がヒシヒシ伝わってきて、ときどきクスリと笑えたりもした(というか身につまされた)。

例えば、こういう箇所。
教習所では教えてくれないけど、時速30キロの道路では40キロぐらいで走るのが常識らしい。それと同様に、道徳なんてのも、杓子定規にそれに従ってはいけないものなのだ、と永井は言う。
 まったく不思議なことだが、学校で習ったわけでも、親に教えられたわけでもないのに、ふつうの人はこのことをはじめから知っているらしい。いつも道徳的に善いことをしなくてはいけないなんてことはないし、いつも道徳的に悪いことをしてはいけないなんてこともない、むしろ逆に、いつも道徳的に善いことばかりしようとしたり、けっして道徳的に悪いことはしなかったりすることはおかしなこと、変なこと、だからいわば悪いことなのだ。そんなことだれも教えてくれなかった。それなのに、みんな当然のように知っていた。ぼくは一人でそれを考えて、付加的な規則として、道徳の欄外にあからさまに書き込まなくてはならなかった。
   『〈子ども〉のための哲学』P.158-159(太字は原文では傍点)
ここ読んで、「こういうの、あるある!」って妙に共感してしまった。
だいたいこの世の中には、誰も表立って言わない「欄外に付加的に書かれた規則」っていうのが多くないですか? ※ただしイケメンに限るとか(笑)
まあそれは冗談として、この世界と自分との間に、どうしようもなくズレを見つけてしまうのが哲学者なんだなあ、と感じ入りました。

〈子ども〉の哲学は、「何かの役に立つ」とか、「よりよき人生」を求めるものではない。ただ真摯に問い続ける知的な営みがあるだけだ。
そして納得のいく答えが見つかったとき、その人はただ「ふつうの大人」になる。哲学ってそういうものだ、と永井は言う。

永井均の、私たちがこれまで「当たり前」ということにしてやり過ごしてきた世の常識を、まったく別の角度から洗い直す考察は、すごく新鮮でエキサイティングだった。
それでもこれらの問いは、あくまでも永井均の問いであって、私の問いではない。私は私自身のやり方で、自分の問いを考え続けなければ、「水に浮かぶ」ことはできないみたいだ。

永井均は、この本を通じて、大切なことを教えてくれた。
他人の哲学を味わうことと、自分が「哲学する」こととは、まったく別物なのだと。
世の中ではまったく誰も問題にしていない、自分だけがこだわっている問題があるとするなら、それを考え続けるのは、(世の中の役には立たなくても)意義のあることであり、そうしてもいいのだ、と。

「世界」と「自分」との間に、他人は気づかないような断層を感じとってしまい、そこに橋を架けようと苦闘する、すべての〈子ども〉達に。
この本はそんな〈子ども〉達への応援歌であり、哲学という途方もない「遊び」の指南書なのだ。

| ●月ノヒカリ● | 読書感想 | comments(6) | trackbacks(1) |
2010.04.18 Sunday 23:32
なぜか焼きそばの話に食いつく人が多かったので、またB級グルメな話をひとつ。

ずっと前に、安倍夜郎『深夜食堂』1巻の感想を書いたけど、この漫画に出てくる食べ物は、どれもおいしそう。特に「きのうのカレー」なんて、文字にするだけで、もう絶対これは旨い!ってわかっちゃうよね。
ただね、一品だけ「これは違〜う!」とダメ出ししたいメニューがあった。
そう、ナポリタンスパゲティです。

うーんとね、レシピは間違ってないのよ。
具はハムにタマネギ、マッシュルームにピーマン。スパゲッティをフライパンで炒めてケチャップであえる。

じゃあどこが違うかっていうと。
漫画ではね、ナポリタンをお皿に盛りつけてるんだけど―――それが違うんだよ!
皿じゃ駄目なんだよ! ナポリタンは鉄板でなきゃあ。
って、こんなツッコミ入れちゃうのは、名古屋人だけですかね?

鉄板ナポリタンって名古屋の喫茶店が発祥の地らしいし、他の地域では見たことがない。(自分の住んでるところにもあるよ、という方教えてください。)
鉄板って、お好み焼きとか焼きそばをのせるのは、どこでもやってるかもしれない。
でもナポリタンを鉄板にのせるというのも、これがなかなか冷めなくて良いのだ。

そして、ココが肝心なんだけど、ナポリタンの周囲に、溶き卵を回しかけるのです。すると鉄板の熱で、半分くらい火の通った卵焼きみたいになる。その卵をナポリタンにからめて食べるのだ! 半熟とろとろの卵と、ケチャップ味がすごーく合うのですよ。
卵の黄色、ナポリタンのトマト色、ピーマンの緑、と彩りも鮮やかで、B級グルメスキー至極の一品。

ああ、前回の焼きそばといい、私は半熟の卵がトローっていうのにヨワイんだよね。オムライスの卵も半熟ふわとろ派だし。(昔のオムライスって、薄焼き卵にケチャップライスを包んでいたような……。)

そんなわけで、B級グルメスキーとしては、ナポリタンは鉄板にのせて!卵も必需品!と大声で叫びたくなるのでした。

模範的な鉄板ナポリタンはこんな感じ
| ●月ノヒカリ● | B級グルメ | comments(3) | trackbacks(0) |
2010.04.13 Tuesday 23:13
最近ふと疑問に思ったんだけど、このブログってさ、読んでる人にとって、もしかすると「癒し系」に分類されてたりするんだろうか?
たまに「癒されます」みたいなコメントをいただくので、そう思ったんですが。

ブログ主は自分が「癒し系」な自覚がないので、「何で癒されるんだ?」と不思議に感じて考えこんでしまったのですが―――そうか、あれだな。人間って自分よりダメな者の存在を見ると安心する(by糸色望)ものなんですね。
確かにこのブログ主は、世界ダメ人間ランキングではかなり上位に食い込む自信がありますからね。ナマケモノやコアラほども役に立たない生き物、それが月ノヒカリですから(キリッ)。

というわけで、皆「ああ、ココにこんなにもダメな生き物がいる〜」と安心するために、この辺境ブログに遊びにきてくれるんだなあ、と納得いたしました。
月ノヒカリは皆様の安心のために、これからもダメダメ街道を歩いてゆこうと思います。
そんなこんなの拍手レス。↓からどうぞ〜。
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| ●月ノヒカリ● | web拍手レス | comments(0) | trackbacks(0) |
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