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2011.01.26 Wednesday 23:50
このブログには、たまに「自殺」とか「死にたい」という検索ワードで来てくださる方がいる。そういう検索ワードを見つけると、他人事ではないなあ、と気になってしまう。

私も、これまでブログで、中学生の頃からずっと自殺願望を持っていたこととか書いてきたし、自殺を「絶対にダメ」とは思っていない。
でもね、ここを見に来てくれた人には、死んでほしくないなあ、できれば生きていてほしいなあ、と勝手ながら思ってしまうんです。

そういう方々がここ読んでくれているのかわかりませんが、「死にたい」という人―――いってみれば自分の「同志」ですね―――に宛てて話してみたい。
その前に、以前ブログに取り上げた末井昭さんの「見て見ぬふりせず死者悼め」は名文だと思うので、未読の方はそっちを先に読んでね。

私も「もう生きていたくない」と思うこと、何度もあった。
でも「死にたい」と口に出しては言えなかった。「死にたい」とすら言えないのは息苦しいから、ブログに書いてるんだけどね。

ただひとつ言えるのは、「死にたい」と全身から叫び出したいくらい苦しかったとき、「なんでこんなに苦しいんだろう?」と自分に問いかけてみて、ふと気づいたことがある。
苦しいのは、「死にたい」と思う気持ちがある一方で、「生きていたい」と願う気持ちもあったからだったんだ。
それに気づいたとき、少しだけ息をするのがラクになった。

だから、心が「死にたい」と叫んでいるのなら、その声を否定する必要はない。ちゃんと聴いてあげてください。「自分は死にたいんだ」と認めればいい。

病気だったり、仕事がなかったり、何らかの事情でそもそも働けなかったり、自分を受け入れてくれる人が存在しなかったり、そういう立場にいる人にとっては、本当に切実だと思う。
だってそれは「生きる場所がない」に等しいもの。

でも、自分の心の99%が「死にたい」と叫んでいたとしても、ほんの1%でも「生きたい」と囁く声があるのなら、その声も大切にしてほしい。
100%全力で生きなくてもいいのだから。

私は、自分には生きている価値がないのではないか、という思いがずっと拭えずにある。
その一方で、私には揺るぎない信仰のようなものがある。
「生きていてはいけない人間なんていない。どんな人にも価値はある」ということ。
私は特定の宗教を信じてはいないけど、これは「真理」に近いと思う。

「すべての人間に価値がある」というのは、私個人の信仰であると同時に、普遍的な人間観でもある。
「基本的人権」という概念が指し示すように、世界的に、人類がそういう道を選びとってきた歴史がある。(ハーバード白熱教室の第6回では「すべての人間は等しく尊敬に値する」というカントの思想が紹介された。)

私には、カントのように自殺を否定することはできない。
「どうしても生きなければならない」理由も見つからない。
でも、自分にまだ「できること」があるうちは、もう少しだけあがいてみよう、と決めている。
いつまで生きられるかわからないし、これから生きていけるという自信も目処もさっぱりないんだけどね。

生きていれば、本当にどうしようもないときもあると思う。
でも、まだ「本当にどうしようもなくなる」手前にいて、少しでも自分に「できること」が残されているのなら、もうちょっとだけあがいてみてほしい。

私には言えるのはそのくらいです。
あとはこの歌でも聴いてください。→Jupiter

| ●月ノヒカリ● | 自殺について | comments(8) | trackbacks(0) |
2011.01.23 Sunday 23:24
ネタにつまったから、というわけではないのですが、死ぬほどどうでもいい話をします。
ちなみに腐女子トークです。
以下、BLとか801とかに耐性のない方、「それ何?食べられるの?」という方は、ここで回れ右。
| ●月ノヒカリ● | 801・BL・JUNE | comments(5) | trackbacks(0) |
2011.01.18 Tuesday 23:48
日曜日は大雪でした。
たかが10cmの積雪で「大雪」なんて言ったら、雪国に住む方々に笑われそうですが、わがダメダメ王国では珍しいことなのです。

それはさておき。
今まで内緒にしていましたが、私はブロガーとして、ひそかに憧れていることがあるのです。
それは何かと申しますと―――そう、「コメント欄炎上」。
いや、本当に実際に炎上したら、かなりキツいだろうし、落ち込みそうですが。
でも「コメント欄が炎上した」というブロガーの話を聞くと、羨ましくてしかたがないのですよ。炎上するほどコメントもらえるなんて!
マジで「コメント欄炎上」というのは、ブロガーにとって最高の栄誉ではなかろうか?
燃〜えろよ燃えろ〜よ〜コメ欄よ燃〜え〜ろ〜♪
などと呑気に歌っていたら、さっそくコメント欄に、2ちゃんねるの煽りみたいなコメントをいただきました!
ああ、願えば夢は叶うのね。こんなにも早くw

とまあ冗談はさておき。
拍手コメントといえば、1月6日に「末井昭」さんで検索してきてくださった方からのコメント、すごく嬉しかったです!
ああいうコメントをいただくと、「書いてよかった」と心底思います。
自分の書いた文章が「読んでほしい人に届く」というのは、なにものにも代えがたい喜びがありますね。

あと、1月15日に都条例賛成派の方からいただいたコメントも、とても参考になりました。本来、政治的な問題は「冷静な議論の積み重ね」というのが一番必要だと思うんですが……この方は「レス不要」にチェックしてあるのですね。ああガックリ。こういうコメントこそ公開レスしたいのに!

それでもコメントをいただけるのは、本当にありがたいことでございます。
当ブログでは、「レス不要」にチェックされていない方のコメントには、問答無用でブログ主がレスすることになってます。

というわけで、拍手レス、↓からどうぞ。
| ●月ノヒカリ● | web拍手レス | comments(4) | trackbacks(0) |
2011.01.14 Friday 22:39
ここしばらくのタイガーマスク現象、私は何となくもやもやした気持ちを抱きながら、ながめていた。
もちろん、寄付自体はいいことだと思うんだけど。
最近は「やらない善よりやる偽善」という言葉もあるらしいけど、これはその通りだと思うし。
一方で、今回の一連の寄付を「美談」として持ち上げるのにも、違和感があった。
端的に言うと、「もらう側は本当に喜んでいるのだろうか?」ということ。

その違和感を、ご自身の体験から言葉にしてくれた人がいて、読んで思わず「そう、これだよ!」と膝を打った。
以下のブログ記事です。
■ものをあげるということについて(伊達直人騒動に関連して) (saereal.net)

「ものをあげる」「してあげる」ことにつきまとう、傲慢さみたいなもの。
「本当に相手の役に立っているのだろうか」という懐疑。

寄付とか、支援とか、ボランティアとか、そういう現場にいる人には、つきものの悩みじゃないかと思う。逆にいえば、そういう迷いや悩みを持たずに、「善意を実行している」と信じる人には、危うさを感じる。

――― ものをあげるより、問題と向き合い続けることがどれほど難しいか。
――― 単純な善意が暴力に変わることがあるってことを、ちゃんと自覚すること。
この二つは、私も胸に刻んでおきたい。


それから、こちらのブログ記事にもヒントをもらった。
■寄付をすることであなたも伊達直人になれる? (lessorの日記)

「日本には寄付文化が根付いていない」というのはよく言われるけど(伊勢崎賢治氏の著書にもあった)、潜在的に「寄付したい」と願う人は、実はかなり存在するのではないか。
今回、ブームといっていいほど寄付が広がったのは、送り主が「タイガーマスク」というキャラクターに自分を投影できること、その「物語性」の部分が大きいのではないか。
「物語性があると寄付も促されやすい」という上の記事の言葉には「なるほど」と唸った。

こういう善意をうまく掬い上げるシステムをつくれれば、もっと「必要な人に必要なものを届ける仕組み」ができるのではないか。逆にいうと、ただ「寄付用口座」をつくってそこに振り込んでもらう、というシステムでは、お金は集まらないのではないか。そういうことを考えました。

それから、報道は「児童養護施設」とか「児童相談所」の現況について触れることもしてほしい、というのも同感です。


というわけで、以下のTwitterまとめ記事を参照。
■『日本の児童養護』 〜英国との比較〜(togetterまとめ)

「子どもの側の事情から見た時に、寄付やチャリティーはどういう意味をもつのか」という視点が興味深い。
イギリスでは「施設の子ども一人ひとりに職員一人を配置している」とか、こういうのを読んで「日本は遅れている」と言うことも可能だ。
けど、ここでは、もっと本質的な問題が提示されているのではないか。

「児童養護施設」というのは、チャリティ(慈善)の対象であって、それを受け入れるべきなのか。
それとも、自分の責任ではなく社会的養護を受けることになった、「市民としての権利」主体である子どもに、十分な財源や金品を国家が支給すべきなのか。

今回のタイガーマスク騒動は、負の効果として「恵まれない子どもたち」というイメージを再度強化することにつながってしまったという問題提起には耳を傾けておきたい。
チャリティとのつながりは施設の子どもの自尊心や尊厳を損なうおそれがある」という指摘も。


今回の一連の寄付を、私は基本的には好意的に捉えている。
でも、やっぱり「寄付は素晴らしい」で終わりにはしたくない。

今回のことを出発点として、寄付や善意はどうあるべきか、これからの日本の社会はどうなっていくのが望ましいのか、それを考えるきっかけとなってほしい。
そして、今回の件に「もやもやした気持ち」を感じた人は、そのモヤモヤを持ち続けながら、考え行動してほしい。
もちろん自分も含めて、ですが。

そんな感じです。

| ●月ノヒカリ● | 社会 | comments(7) | trackbacks(4) |
2011.01.11 Tuesday 23:32
前回取り上げた本の著者、伊勢崎賢治氏について検索していたら、ちょっと面白いサイトを見つけた。 「戦争を予防するHIKESHI」というこのサイト、読んだらすごく勉強になったので、ここで少し紹介してみようと思う。

前回の記事で、国連が近年「保護する責任」という概念を打ち出した、ということを書いた(実はこれ、私は伊勢崎氏の本を読んで、初めて知ったんだよね)。

この「保護する責任」のなかで、最も重要なのが「予防する責任」だ。
そう、戦争が起こってから介入するより、戦争を「予防」することの方がずっと大事だよね。その方が犠牲者が少なくてすむもの。

ただ、紛争に介入したり、戦後の復興支援をする組織(国連・NGO等)は存在するけど、「紛争予防を職業とする業界」は、今現在どこにもない。
そこで伊勢崎賢治氏が考え出したのが、ピースアド=戦争予防広告。
詳しくはHIKESHI(火消し)というサイトの中の、「ピースアドとは」へ。

HIKESHIとは、紛争の火種を戦争になる前に小さくする活動のこと。
その中でも以下のページはすごく面白い。
■プロパガンダ(戦争広告)からピースアド(戦争抑制広告)へ

戦争というのは、広告(プロパガンダ)によって世論を煽って展開されるものだ。
ルワンダ虐殺では、ラジオを初めとするメディアが反ツチ族のヘイトスピーチを行い、虐殺を扇動したことで被害が大きくなったという。
上記のページ、プロパガンダについても「国(あるいはマスコミ)が国民をダマす時」の項に「戦争プロパガンダ10の法則」というのが掲載されていて、これも知っておいて損はないと思いますが。

戦争を生む広告(プロパガンダ)対して、戦争を止める広告、プロパガンダの毒消しをするコミュニケーションが「ピースアド」だ。
私が特に引き寄せられたのは、「表現の力でチャーミングに世界を変える」の部分。
これ、いわゆる「戦争」だけでなく、言葉で表現する人にとって、すごく参考になることだと思うので、以下に引用してみる。
   表現の力でチャーミングに世界を変える

・否定形ではなく、肯定形で。
・反論(アンチテーゼ)ではなく、政策提言(アドボカシー)で。
・責める(アキューズ)のではなく、愛のある批評(クリティーク)で。
・きれいごとではなく、本音ぶっちゃけで。
・頭ごなし、説教臭い、エラソウ、ではなく、折り目正しいタメグチ対等感で。
・怒りからではなく、ユーモアとアイデアとサービス精神からの発想で。
・恨み根性ルサンチマンではなく、勇気と希望で。

ここに書いてあること全部、自分の主張を表現したい人にとって、大切な提言ではないだろうか。
というか、私が心魅かれる表現者は、たいてい上記の条件を満たした言葉を使う人たちだ。

私は、「他者を否定しなければ成り立たない言葉」というものを信じない。誰か、あるいは何かへの批判しか語らない言論は、本当につまらないと思う。

もちろん、「建設的な批判」は必要だ。でもそれは、やっぱり「対案」とか「政策提言」を語ることによってしか、導かれないのではないのではないか。
それから、ユーモアとアイデアとサービス精神。これらはもっと必要でしょう。笑いのない世界って退屈だからね。

そういうことを痛感するのは、先月東京都青少年健全育成条例について書いたときに、規制反対派の言論への違和感と、自分の意見をうまく言えなかったことへの苛立ちがあるからだ。

私は「ピースアド」的な表現をしたかったんだよね。
このピースアドの表現法は、紛争だけでなく、あらゆる差別や暴力、社会問題上の対立が起こったときに、使えるものではないかと思うんですが。

でもやっぱり威勢のいい「プロパガンダ」の方が、人目を引くという現実もあるわけで。(私は嫌悪感を抱くことが多いけど。)

だからこそ、「ピースアド」を試みる人は、より魅力的な表現を目指さなければならないんだとつくづく感じた。「表現」はチャーミングでなきゃ。
「正しいこと」を語ればいい、というものではない。
眉間にしわを寄せて、難しいことを語っても、人を動かすことはできない。それがいくら正しい言論であっても。

私がハーバード白熱教室を面白いと思ったのは、内容の正しさよりもむしろ、サンデル教授がチャーミングだったからなんだよね。(政治哲学の講義で、教室が笑いに包まれるのを、私は初めて見た!)

それから、私が都条例改正について東浩紀の意見に同意したのは、東が規制反対派でありながら、賛成派との「共存」を探ろうとしているように見えたから。
「賛成か反対か」という二項対立ではない、第三の道を示そうとしていたから。

私が心魅かれるのは、そういう言論だけなんだ。
自分はまったく未熟者だなあ、とため息をつきつつ、『思想地図β』の猪瀬直樹・村上隆・東浩紀の鼎談を読んだりしているこの頃でした。

『思想地図β』は面白いけど、読むのに時間がかかる……
| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(1) | trackbacks(0) |
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