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2020.09.12 Saturday
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2011.02.27 Sunday 23:51ついこの間ね、2chに「ダメ人間のブログをヲチするスレ」があるのを発見したのです。
で、「わーもしかしてこのブログもヲチされてるのかしら」などと、ちょっとドキドキしながらスレを見たのですが―――残念ながら当ブログはエントリーされていませんでした。
2ちゃんねるの皆様〜、ここにもダメ人間がいるんですよ〜。遠慮なくぜひぜひヲチしてくださいな。なんせこのブログ主は、2chにブログのアドレスを貼られると喜ぶイタイ奴なのですから。
それはさておき。
つい最近思い出したんですけど、このブログのコンセプトは、「政治とか社会問題に関心のないダメ人間が、ダメなりにものを考えてみる」というのだったんですね。
「馬鹿の考え休むに似たり」という諺のごとく、しょーもない内容でしたが、読んでコメントくださった皆様、ありがとうございました。
このブログは、読者の皆様の方がブログ主よりも頭がいいので、ブログ主は安心してダメ人間を続けられます。
そんなこんなで皆ありがとう!の拍手レスです。↓からどうぞ。 -
2011.02.23 Wednesday 22:57山岸 凉子
メディアファクトリー
¥ 637
(2010-12-22)
全国のバレエファンを魅了し、手塚治虫文化賞まで受賞した傑作『テレプシコーラ』の完結巻が発売されていることを、発売日から2ヵ月経つまで気づかなかったとは!
慌てて買った完結巻。出遅れたけど、すんごく楽しめました。
◎第1部のあらすじ(全10巻)
バレエ教室に通う六花(ゆき)ちゃんは、踊り手としてのテクニックは今ひとつだけど、コリオグラファー(振付師)としての才能の片鱗を見せている。(本当はもっといろいろ事件があるんですが、未読の方のため割愛。)
◎第2部のあらすじ(全5巻)
六花は若手ダンサーの登竜門「ローザンヌ国際バレエコンクール」に挑戦中。
コンクールの結果とかは、ネタバレになるのでここでは書くまい。
この巻を読んでビックリ驚いたこと。
最後の方でちらっと出てきた、ローザンヌ予選のための、六花ちゃんが自分で振り付けた小作品のタイトル。
意表をつくそのタイトルは、なんと「引きこもり」。
―――箱の中でポーズをとるだけなんだけど、なんかドキドキした。こういうバレエ作品が実際にあるなら、見てみたいなあ。
あと、コンクールの審査委員長で、六花ちゃんを評価したJ・N氏というのは、有名な振付家のジョン・ノイマイヤーがモデルみたいですね。
YouTubeで動画を漁ったら、この動画にノイマイヤー氏が登場しますが(4:25あたりから)、漫画のN氏にそっくり。
日本では、バレエといえばいまだに「白鳥の湖」とか「くるみ割り人形」とかクラシック中心な感じだけど、動画を見るとコンテンポラリー作品の方に魅力を感じるなあ。YouTubeでは、ノイマイヤー振付の「月に寄せる七つの俳句」とか、漫画でローラ・チャンが踊った「ノクターン」の動画もあった。これはぜひ劇場で生で見てみたいですね。
完結巻を読んだら、前の巻まで遡って読み返したくなって、結局全巻読み返すことになりまして……しばらくどっぷり『テレプシコーラ』の世界に浸っておりました。
以下は全巻読んで、改めて振り返っての感想。ネタバレしまくりなので、未読の方はご注意を。 -
2011.02.19 Saturday 23:41私は「友達のいない人」だ。
ということは、これまでにも何回か書いた。
子どもの頃から友達は少なかったし、「友達とうまくやっていく」ことは私には難しい課題だった。
そういうのって、もしかしたらアスペルガーとか発達障碍と関係があるのかもしれないけど、専門医に診断を受けたことがないからわからない。(ちなみに自閉症スペクトラム指数自己診断テストでは40点前後だった。)
それでも学生時代には、少数だけど友達らしき人はいた。
その人たちとも、学校を卒業して、しばらくしてからは会えなくなった。会いたいとも思わなくなった。
理由は単純なことだ。
自分は病気ばっかりで、心身ともにボロボロになっているときに、友人たちは恋愛だの旅行だの、楽しそうな話ばかりしているから。
それを聞いているのはつらかった。
例えて言うと、自分はお粥を食べてなんとか凌いでいるところに、ミシュランの三ツ星レストランに行った話を聞かされる感じ。
そういう場所にいると、とんでもなく気が滅入る。
それでも本当に少数だけど、たまに連絡を取る友人はいた。その友人たちは、自分も何らかの病気を経験してきた人で、彼女らとは、そんなにしんどくならずに会うことができた。とても有り難いことだと思う。
でも今は、そういう人も含めて、人に会いたいとは思わない。
「人に会う」のって、すごくしんどいんだ。
私にとって、「人に会う」ことというのは、「感情労働」と同じだから。
「感情労働」というのは、マクドナルド店員のスマイル0円とか、「クレームに平静かつ丁寧に応対する」とか、そういうの。
今の時代、接客業など人と触れ合う仕事では、感情労働が求められる。
それは、サービスを受ける側から見れば、とても気持ちのいいことだ。
昔と違って、病院や官公庁、銀行などでも、受付ではとても「感じのいい」応対をされることが多い。
もっとも働く側にとっては、大変なことも多いだろうけど。
話を本筋に戻すと、私にとって、友人であれ他の誰かであれ、「人と会うこと」は、感情労働をすることに似ている。
これが接客業なら、感情労働も給料のうち、と思って割り切るのだろうけど。(そう割り切れるものではないから、鬱になる人も多いのかもしれない。)
で、私の場合、プライベートで人と会うときは、「お金を払って」感情労働をすることになる。
友人と会うのにもお金がかかるから。
私はお酒は飲めないから飲み会に行くことはまずないけど、ランチだのお茶だのにもお金がかかる。無職には痛い出費だ。
あと体力を消耗する。これも大きい。
私にとって「知らないところに出かける」とか「人と会って話す」というのは、心身ともにものすごく疲労するイベントなんだ。
会う約束をしたら、何日も前から体調に気を使って、当日風邪をひいてドタキャンして迷惑をかけちゃいけないとか、すごく緊張するし。
もしかしたら、普通の人にとっては「友達と会う」のは、楽しいイベントなのかもしれない。
でも、私にとっては、「友達と会う」というのは、お金を払って、感情労働をして、ただでさえ少ない体力と気力に大きなダメージを受けることだ。
そんなこんなで、私はもう何年も「誰かと会って楽しかった」という経験をしたことがない。
こういう考え方をする私はどこかおかしいんでしょうか? おかしいんでしょうね。
やっぱり病んでいるんだろうね。
病んでいると、心身に余裕がなくなるんだろうな。
そんでもって疲れてるんだろうな。楽しくないのに笑っていることに疲れちゃった。
とまあこういう話を「非コミュ」カテゴリをつくってまとめてみました。
非コミュとかひきこもりの生態を観察したい人は、ここを見るといいよ。
ついでに「非コミュ指数テスト」というサイトを見つけたので試してみたら、重度非コミュと判定されますたorz
こういうことを書くから友人もできないのであろう。 -
2011.02.14 Monday 00:01全宇宙のダメダメ星人の皆様、お元気ですか?
昨日もダメ、今日もダメ、明日もあさってもたぶんダメダメな月ノヒカリです。
また例の日がやってきましたね。
さて、今日は何の日でしょう?
「バレンタイ×××」という答えは不正解です。というかそんなこと言ったら粛清されます。
一年前からこのブログを読んでくださっている皆様は、ご存じですよね。
今日は「もずくの日」です。
●参考URL●
Uncyclopedia:バレンタインデー撲滅/2011年バレンタインデー中止のお知らせ
今年もアンサイクロペディアは頑張ってますね〜。
アフリカの児童労働をなくし、この世界から不幸な人々を少しでも減らすため、バレンタインデー撲滅運動に邁進する方々に、ブログ主は心より敬意を表します。
ちなみにイランでは、バレンタインデーが禁止されているそうです。
■イラン:バレンタインデーのお祝い禁止(毎日.jp)
趣旨は少々違うとはいえ、他の国々でもバレンタインデー撲滅運動の波が広がりつつあること、歓迎したいと思います。
わたくし月ノヒカリもまた、世界非モテ同盟(←今つくった)の一員として、一部の特権階級のみがモテを享受するこの格差社会を心より憂い、この世からバレンタインデーを撲滅すべく、今後も見えない敵と戦い続けることをここに宣言いたします。
というわけで今年も、愛すべきこのブログの読者様に、心をこめてもずくを贈ります。
(なぜもずくなのかは、上記アンサイクロペディア記事内の「正しい2月14日の過ごし方」をご覧ください。) みんな、もずくの海に飛び込んで、思うぞんぶん溺れるがいい!!
本当なら皆様のご自宅にもずくを郵送したいところですが、さすがにそれは面倒無理なので、ブログ主がかわりに食べておきました。
さあ皆さんもご一緒に、チョコと怨嗟と呪詛に満ちたこの世界を、愛ともずくが溢れかえる三杯酢のユートピアに導こうではありませんか。
聖もずくデーに乾杯☆ -
2011.02.12 Saturday 23:00ふと気づいたら、ツイッターを使い始めてから、はや一年が過ぎていた。
ツイッターって、まったくもって変なメディアだとつくづく思う。使ったことのない人には、この「へんてこな感じ」を説明しづらいんだけど。
ツイッターについては、私は過去にこんなことを書いていたのであった。
■Twitterあれこれ(2010.03.27)
■歩くようなスピードで考えたい(2010.05.05)
あの当時から特に変わったことはなく、あいかわらず「自分はツイッターに向いてない」などとブツブツ文句を言いつつ、今もそれなりに楽しんでいる。
閉ざされているようで、開放されているような奇妙な空間。
ツイッターを使っていて、とりわけ面白いというか、独特だと思うのは、「リツイート機能」だ。ある文章が、文脈とは無関係に切り取られ、拡散されていくという現象。
私が考えるに、ツイッターに向いている人というのは、ネット上のニュースや時事ネタに、独自の切り口でコメントができ、かつフォロワーに絡んだり絡まれたりを楽しめる人じゃないかと思う。
そういう意味で、私が「ツイッターに向いている」と思う人は、何といっても東浩紀だ。
その東浩紀が、ツイッターについて、ちょっとユニークな見解を披露している。
東浩紀のデビュー作はジャック・デリダについての論文で、まあ私はデリダなんてさっぱり理解できないので読んでないのですが……以前『クォンタム・ファミリーズ』の感想を書いたときに引用した、雑誌『新潮 2010年7月号』に載っていた「東浩紀の11年間と哲学」という鼎談を読んで、その片鱗に触れることができた。東浩紀の提示する世界観は、私にとってスリリングなものだった。
東は、ツイッターの台頭する今の時代と、デリダ思想との類似を示唆しているんだけど、その印象的だった部分を抜き出してみる。僕たちはコミュニケーションというと、コンテクストをはっきりさせてしっかり話すことだと考える。そしてデリダはそういうコミュニケーション観に否を唱えた人です。彼はむしろ、断片が飛びかい誤解にさらされている状態こそ、コミュニケーションの基本だと考えた。
私はデリダの思想をよく知らないけど、「断片が飛びかい誤解にさらされているコミュニケーション」という状況は、まさにツイッターを想起させる。
『新潮』2010年7月号 P.214
他者の発言・自分の発言・見知らぬ人の発言リツイートが、渾然一体となって流れていくツイッターのタイムライン。
常に誤解の可能性を含みつつ、切り刻まれて消費されるショートメッセージ。
私もさんざん「切り刻んで消費」してきたから、ものすごいリアリティを感じる。
(長くなったのでここで折り畳みます。) - ←新しい記事 1/2 pages 古い記事→