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2011.04.30 Saturday 23:34
全宇宙のダメダメ星人の皆様、今日もおいしいご飯を食べてますか?

このブログ主は普段、皆様からのコメント&拍手を主食に生きております。
拍手とコメントをくださる皆様のおかげで、月ノヒカリは今日も呑気に、ダメダメ体操を踊ったり、ダメダメソングを歌ったり、ダメダメツイートをつぶやいたり、安心してダメダメライフを送れるのです。

がっ!やはりご飯は食べたいのです。 ご飯がおいしいと一日が幸せだよね〜。
というわけで、今日も楽しいB級グルメの時間がやってまいりました。

今回は、私が最近ハマりにハマっている簡単料理のレシピをご紹介します。
月ノヒカリは相変わらず、面倒な料理は嫌いなので、オサレなレシピとは程遠いものとなっております。だから誰にでも作れるよ。たぶん。

一つ目は豆腐。
そもそもの始まりは、一ヵ月ほど前、次のサイトに出会ったのがきっかけでした。
■豆腐ぶっかけ丼がおいしすぎる(平民新聞)
家にあるものですぐに作れて、不器用なビンボー人にもやさしいレシピ。
さっそく試そうとしたんだけど、そのときはご飯がなかった。
なので、豆腐だけでつくって食べてみたんですが、これが意外とイケる。
それ以来、豆腐があるときはしょっちゅう作るようになりましたとさ。

以下は平民新聞さんのレシピを自分用にアレンジした、豆腐だけバージョンのレシピ。
豆腐ぶっかけ丼の豆腐だけ
材料:豆腐、ネギ、ゴマ油、麺つゆ
●鍋に水、だしの素、酒、みりん、醤油をテキトーに入れて煮立て、麺つゆっぽいものを作る。
●豆腐をスプーンで崩しつつ投入、軽くあたためる。
●刻んだネギを入れ、ゴマ油をひとかけする。
●お好みで七味(一味でも可)をかけて食べる。
ご飯なしで豆腐だけなので、味つけは薄めにしています。
ゴマ油が味の決め手だから、これは絶対に外さないで!
ところで麺つゆって、フツーの家には常備してあるのだろうか?
ウチには常備してないので、適当にそれっぽいものをつくってるんけど、麺つゆがある人は使った方がラクチンでしょう。
ネギは、家にあるのは万能ネギなので、それを使ってるんですが、いずれ白ネギでも試してみたいなあ。
豆腐はもともと大好物だったけど、これを知ってからはさらにもっと好きなりました!


次はご飯が余ったときに作ってるもの。
簡単キムチチャーハン
材料:ご飯、キムチ、卵、ゴマ油
フライパンを熱し、ゴマ油でキムチを軽く炒める。
後は、ご飯と生卵を混ぜ合わせたものを投入して、炒めるだけ。
先にご飯と卵を混ぜておくのが、ご飯がべちゃっとしないパラパラチャーハンにする裏ワザなんだって。
これは別に自分で考えたわけではなく、『花のズボラ飯』という漫画に出てきたレシピを真似してみたのです。ちなみにこの漫画、『孤独のグルメ』の主婦バージョン。
漫画では、ネギとか麺つゆとかきざみ海苔も入れてるんだけどね。
月ノヒカリは花(漫画の主人公)よりもっとさらに上をいくズボラ人間なので、キムチ・ご飯・卵だけで作ります。それでも十分ウマイです。

上のレシピの豆腐とキムチチャーハンを交互に食べてたら、ゴマ油の減りがやたら早くなった今日この頃。
ゴマ油をたらすだけで、単純な料理なのに風味が変わるよね。

月ノヒカリはすっかりゴマ油の虜となり、今ではゴマ油なしでは生きていけない体になってしまいましたとさ。
んな大袈裟な、と思われる方は、一度豆腐ぶっかけ丼を試してみてください。
納豆にゴマ油、というのも美味しそうだな。今度試してみよっと。

ああ、ゴマ油のある国に生まれてよかった……☆


| ●月ノヒカリ● | B級グルメ | comments(0) | trackbacks(0) |
2011.04.27 Wednesday 23:03
「統合失調症」は、カミングアウトするのに勇気のいる病名だと思う。
少なくとも、私にとってはそうだった。

アトピーというのは見ただけでわかっちゃうし、子宮筋腫や乳癌になったことは、幾人かの友人に打ち明けたことがある。
でも自分が「統合失調症」であることについては、これまで家族、精神科医、PSW(精神保健福祉士)以外の人に話したことはない。

その理由の一つは、やっぱり「統合失調症」という病名自体がスティグマだから、という面もある。
昔ほどではないにせよ、やっぱり精神障碍者は「キチガイ」という名誉ある称号を戴くこともあって、その代表が統合失調症だったりする。

ただ、私には別の問題もあった。
私には、自分を「統合失調症患者」というカテゴリに入れることに対する戸惑いがある。
というのも、自分には「病識」がないんですよ。病識がないこと自体が、統合失調症の特徴らしいんだけど。
私が最初に「発症」したのはもう十年くらい前のことだけど、主観的には「とても奇妙な体験をした」としか言えない。

こんなふうに書くと狂人と思われそうだし、まあ実際のところ、医師のお墨付きの狂人には違いないのだけど―――あのときの出来事は、世界の破れ目から向こう側を覗き込むような、奇怪な体験だった。
この「世界」の外側と接触するような感覚。

ことばで伝えるのは難しいけども、とても奇妙で、かつ恐ろしく、おぞましい記憶だ。
それを医師に伝えようとしたら「統合失調症」と診断されたわけだけど、私には納得がいかなかった。

そもそも私は、統合失調症という病気のことをよく知らなかった。
統合失調症は、かつては「精神分裂病」と呼ばれていた。私も昔から病名は聞いたことがあったけど、「精神が分裂する病気なの?」なんて思っていて、具体的な症状についてはまったく知識がなかった。

急性症状が落ち着いてから、多少は精神科医の書いた本を読んだり、「べてるの家」の人たちの講演会を聴きに行ったりしたんだけど、統合失調症について書いてあることは、「私の経験とは違うな」という印象だった。

それがちょっと変わったのは、2ちゃんねるメンヘル板の統合失調症スレで、当事者の書き込みを読んだときだ。
陽性症状については、
「あんな体験をしてしまったら、一生トラウマだよ。」という叫び。
陰性症状については、
「陽性症状は一時のことだからまだいい。そのあと何年も続く陰性症状こそが、本当の地獄だ。」
そういう悲痛な呻き声のような書き込みを見て、
「ああ、私の思ってたこととまったく同じだ」と感じた。

その後ネットで検索して、統合失調症患者のブログを読んだら、私の体験したことと近い記述があって、やっぱりそうなんだ、と納得した。

統合失調症というのは、ちょっと尋常ではない、厄介な病気だと思う。
「狂気」とはこういうものなのか、ということを、まざまざと体験してしまうんだから。

私の側から見たら、この世界のすべてが突然狂い出したように感じたんだけど、まあそんな話が世間に通用するわけもなく。
私の方が「狂っている」と診断されるわけである。「理性」や「医学」の側の人たちに。

以前、『「普通がいい」という病』の感想で引用したフーコーの言葉は、私自身の叫びでもある。
私がまざまざと体験した、その体験を誰も本気にしてくれない。
それは「妄想だ」と診断される。

それ以来、私は「普通に生きる」ことはできなくなった。
「自分が正気である」ということを、自分では証明できないのだ。
こんなに不安なことはない。

それでも、今も私は、自分を「統合失調症患者」というカテゴリに入れることを躊躇う。
私は過去に、恐ろしい、一生トラウマになるような異界体験をしてしまった。それを現代の医学では「統合失調症」と名づけるのだな、という認識でいる。
時代や場所が変われば、あの体験は別の呼ばれ方をするのかもしれない。「キツネ憑き」とかね(笑)

あんまり暗い話ばかりでもアレなんで、ちょっとバランスを取ると、統合失調症は「面白い」病気でもある。
これが他人事なら、あんなに面白いものも他になかろう。一部の精神科医やインテリが異様に興味を持つのもわかる。
ちょっと自慢(?)しちゃうと、私が十年前に体験した統合失調症の「妄想」は、世界一面白い!と自負している。いや、これまでに見たどんな映画より、奇想天外でスリリングだった。

統合失調症で、たまにアート方面の才能を発揮する人がいるみたいだけど、それ、理解できる。
私も小説とか漫画が描けたら、あのとき見たものを作品にしたかったんだけどね。才能がさっぱり見当たらないため、残念な結果になりましたが。

「正常」な人たちは、この文章を読んでどう感じるのだろうか。
やっぱり「狂っている」と思うのだろうか。
これでも自分としては精一杯、こちらの世界の言語に「翻訳」しているつもりなのですが。

このブログにこんな「狂った」エントリを書く予定はなかったんだけど―――あの震災以降、私の意識もちょっと変わったみたい。
「普通の人」を演じるのって疲れるしね。
私がかつて、2chの名無しさんの書き込みにちょっとだけ救われたように、この文章も、いつか誰かの道標になったらいいな、と願いつつUPします。

| ●月ノヒカリ● | 病気 | comments(26) | trackbacks(0) |
2011.04.24 Sunday 23:37
遅くなりましたが、前回の続きで『障害・病いと「ふつう」のはざまで 〜軽度障害者どっちつかずのジレンマを語る』の各章それぞれの短い感想。

序章〜2章までが総論、3〜8章がそれぞれ異なる病気・障碍についての記述になっている。
私が今のところ「当事者」と言えるのは、第4章の精神障碍者のみだけど、それ以外のところにも共感できるところ、学べるところがたくさんあった。

   *   *   *   *   *   *   *

【序章】脱援助と、絶えざる言い換えの努力(田垣正晋)
この本は、援助専門職を目指す学生や、援助職とかかわりを持たざるを得ない障害者を読者として想定している―――とあるが、そのすぐ後に、「筆者自身は、脱援助の立場を徹底する障害学のほうに親近感を持っている(P.16)」とあってちょっと困惑した。
「脱援助」って何?と検索したら、田垣氏の論文(PDF)を発見。「援助というのは、そもそも障害者を弱い存在と見なしている」という指摘、それに対する違和感も、なるほど理解できる。


【第1章】社会における障害とは何か(田垣正晋)
この章は勉強になった。
障碍者問題に詳しい人なら知っているのかもしれないけど、私には初めて知ることもあった。そのうち3つだけピックアップ。

[個人モデルと社会モデル]
障碍に関する考え方は、大きく「個人モデル」(医学モデルとも呼ばれる)と「社会モデル」の二つに分けられる。
「個人モデル」は、障碍を個人の身体機能や欠損の問題として捉え、治療やリハビリによって問題解決することを目指す。
一方「社会モデル」では、問題が社会制度の方にあるとする。
「個人モデルと社会モデルの統合」が、これからの障碍者福祉の課題となっている。
詳しいことは下記のサイトを。
■社会参加を促進するツールとしてのICF
この「個人モデル」と「社会モデル」の話、障碍者だけでなく、社会全体の問題だと思うので、できればみんなに知ってほしいところです。

[自立]
「障害者自立支援法」のように、近年、障碍者領域で「自立」という言葉が多用されるようになった。でも、その「自立」にこめられる意味は複数あって、曖昧な概念になってしまっている。
一般的には、自立とは「身辺動作の自立」や「経済的自立」として捉えられている。
でもここでは、そうではない例が挙げられている。「身体障碍者が自ら介助者をコーディネートし、親元や施設から離れて一人暮らしする」という意味での「自立」だ。
障碍を持った人が、仕事や教育や余暇といった社会生活に参加できるようにするという、QOL(生活の質)を重視するあり方。そういう意味での「自立」もあるんだ。

[ノーマライゼーション]
「障碍者の生活を普通にする」ことを推進する「ノーマライゼーション」。障碍者の置かれている劣悪な状態を改善する、という面では有効だった。
だが、何をもって「ノーマル」とするのか、一律ではない。だから「ノーマライゼーション」を金科玉条としてしまうと、「障碍者が健常者に合わせること」ばかり重視することになる。「ノーマライゼーション」ということばがスローガンとして一人歩きすると、ある種の障碍者にとってはかえって抑圧になる危険性があるということ、これは私も実感しているところだ。

長くなったので、ここから折り畳みます。
| ●月ノヒカリ● | 読書感想 | comments(0) | trackbacks(0) |
2011.04.18 Monday 23:14
田垣 正晋
明石書店
¥ 2,520
(2006-08-28)
コメント:「軽度障害者どっちつかずのジレンマを語る」

ツイッターを見ていると、たまに「拾い物」をすることがある。
この本も、ツイッターのタイムラインに流れてきたものだ。

タイトルを正確に記すと、『障害・病い「ふつう」のはざまで 〜軽度障害者どっちつかずのジレンマを語る』というもの。
読んでみたら、すごく共感できるところがいっぱいあった。
学術書ではあるけれども、文章はそんなに堅くなく読みやすい。
この本の7人の執筆者のうち4人が軽度障碍の当事者、ということも関係しているのかもしれない。
(この本では「障害」と書かれていますが、ブログ主はあくまでも頑固に「障碍」と表記します。理由はこの記事に書きました。ただし、本からの引用部分については原文のままとします。)

この本の各章で取り上げられている「軽度障碍」は、知的障碍、精神障碍(統合失調症)、先天的な顔の変形、高次脳機能障碍、軽度発達障碍、慢性疾患(慢性腎臓病)である。詳しくは、次回書く予定。
どれも他人事としてではなく、私も当事者として共感しつつ読んだ。

「軽度障碍者」とはどのような人を指すのか。田垣正晋氏は次のように定義する。
一つは、障害者手帳を交付されていない(行政は認めていない)けれども、つらいこと(障碍)があるという状態。
または、障害者手帳を持っている中での「軽度」。
この二つの場合、「どっちつかずのつらさ」がある、と田垣氏はいう。
「私は障害があるから何々ができない」と自ら言ったり、あるいは逆に「貴方は健康だから何々をしなさい」と他者に言われたりした場合の違和感である。福祉サービスとのかかわりで言えば、「この程度の障害で、福祉を受けていいのか」と自ら思ったり、他人に思われたりすることである。
 (田垣正晋『障害・病いと「ふつう」のはざまで』P.54)
ここを読んだとき、「それ、まさに私がずっと思ってたことだ!」と膝を打った。

私がこれまで罹った病気を列挙すると、アトピー、乳癌、子宮筋腫(他にもすぐに熱を出す虚弱体質や、疲れやすさといった症状もあるが)etc.だ。これらの病気は、どんなにつらい症状があっても公的には「障碍」とは認められていない。現実には、病気のせいで働けない人もいるんだけど(実際、このブログには「癌で働けない」とか「アトピー 困窮」という検索ワードで来る人もいる)。今のところ患者団体を除いては、特に公的支援があるわけではないのが現状だ。

私の抱えている病気の中で唯一、公的に「障碍」と認められているのは、統合失調症だ。
え〜と、私は今まで、自分が精神疾患で精神科に通院していることは何度か書いたけど、病名は明かしていませんでした。それは、自分の中で葛藤があったからだけど、今回はっきり書きます。
私は、精神科で「統合失調症」という診断をされている。
これはやっぱりちょっと特殊な病気だと思うし、病気について説明するのは簡単ではないので、今は触れない。
ここで触れたいことは、私は統合失調症患者の中では、医師から見れば「軽度」らしい、ということだ(自分ではとてもそうは思えないんだけど)。

話をこの本の流れに戻すけど、軽度障碍者の場合、見ただけでは「障碍者」とわからないことが多い。だから、障碍にかかわるつらさ、不自由さが他人に伝わりにくい。

そこで、頑張って「ふつう」を目指すと、無理が生じる。「ふつう」の人にはできるけど自分にはできないことについて、「努力が足りない」「やる気がない」という評価をされる(あるいは、自分でそう思い込んでしまう)。
一方で、障碍をカミングアウトした場合、好ましくない同情や詮索をされたり、あるいは「差別」もあるかもしれない。
障碍のカミングアウトには、メリット・デメリット両面がある。とりわけ就職面接のとき、その悩みが顕在化する。そのはざまで悩むのが「軽度障碍者」なんだと思う。

これは、例えばずっと車椅子生活をしている重度障碍者とは、まったく別の悩みだ。
そういう「自分は障碍者と言えるのかどうか、どっちつかずのジレンマ」を言葉にしてくれた本は、これまで他になかった。
そういう意味で、この本は私にとってすごく画期的な書だ。

私もつねづね、「健常者/障碍者」という二文法では捉えきれないものがある、と考えていた。
この本は、「軽度障碍者」というカテゴリを示すことで、「障碍が軽い人には軽い人なりの悩みがある」と言ってもいいんだ、と教えてくれた。

自閉症スペクトラムという概念がある。自閉症と健常者をはっきり区別するのではなく、連続体として捉えたモデルだ。
それと同じように、「障碍者スペクトラム」みたいな考え方が普及してくれればいいと思う。
イメージとしては、下の図のような感じ。
障碍者スペクトラム
ただ、やっぱりどこかで線引きはしなければならないんだろうけど、どこで線引きをするのか、それはデリケートな問題ではなかろうか。
この本で田垣氏は、
「軽度障害」を、障害者手帳や日常生活動作といった、わかりやすい基準で決めることを慎み、オープンエンドな、開かれたカテゴリーにしておくべきである。(P.68)
と書いているが、同時に次のように述べている。
「めがねをかけている人も軽度障害者」であるとか「軽度障害者の悩みは、健常者にもある」といった発想は慎むべきである。(P.68)

めがねについては、哲学者の森岡正博氏が書評で、自身の経験に基づき、「めがねをかけている人も軽度障害者」であると言ってよいケースはあるのではないだろうか、と反論している。私は、森岡氏の主張はもっともだと感じる。

軽度障碍者の悩みは、「障碍者の権利を主張する」という従来の障碍者運動には馴染まないものも多い。
でも、やっぱり何らかの配慮はあってほしい。

ずっと思っていたことをこの機会に言わせてもらうと、失業・ニート・ひきこもり・ホームレス・自殺といった問題の背後には、「軽度障碍者」問題とリンクする部分があるのではないか。
労働市場にも福祉にもアクセスできない」軽度障碍者が困窮している例は、実は少なからずあるのではないか。
障碍がある故に、仕事が見つからない、働けない。でも障碍が「軽度」だから、あるいは公的に「障碍」と認められていないから、福祉制度も利用できない。
そうやって社会から排除されている人たちが、可視化されていないだけで、実はかなりの数存在するのではないか。
これは私自身の問題として、ここで提起してみたい。

次回は、この本の各章それぞれについて簡単に感想を書く予定。

| ●月ノヒカリ● | 読書感想 | comments(5) | trackbacks(0) |
2011.04.15 Friday 23:50
「躁」のあとに「鬱」がくる、という認識はよく知られているのだろうか。
ちょっと前、池澤夏樹さんが朝日新聞に寄せたコラムに「震災躁の後で震災鬱がやってくる」ということが書いてあった。

「躁」「鬱」という言葉は適切ではないかもしれない。
「一山越えた」あと、燃え尽きた状態になること。
「火事場の馬鹿力」というものは存在するけれども、力を出し切ったその後で、力尽きて動けなくなる―――という経験をしたことがある人は、案外多いのかもしれないなぁ。

今回の震災直後、多くの人が「躁」状態だったけど、そろそろ「鬱」になる人も出てくるのではないか、とちょっと気になる。
被災者はもちろん、それ以外の地域の人も。
被災者なら、地震直後・避難所生活を送っている間は、気持ちも張りつめているけれども、仮設住宅や安全な場所に移ってからも、心の健康については注意しておいた方がいいかもしれない。

私の個人的な経験を書くと、癌の治療後にそうなったことがある。
半年にわたる抗がん剤治療、手術、5週間の放射線治療という大きな治療をひととおり終えてしばらくしてから、からだが動かなくなった。起き上がれなくなった。
「やっと一息」という状態になったときに、周囲に「よかったね」言われたときに、反動が来た。
精神科医に相談したところ、「大病を経験したあとに、鬱状態になる人はたまにいる」とのことだった。

で、今回も、自分は、震災の直後から気持ちが張りつめていたのが、先月末くらいから鬱に変わった気がする。素人判断なので病名をつける気はないけど、しばらくの間、精神的な落ち込みがひどかった。
今はある程度持ち直したので、ブログも書けるようになりましたが。
ちょっとした落ち込みなら、しばらく休めば何とかなるみたいだ。

以下は、今回の鬱状態のときの心の中のこと。
かなり鬱陶しい内容なので、ネガティブ波を受けたくない方は、読まない方が無難です。
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| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(3) | trackbacks(0) |
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