2020.09.12 Saturday

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2011.06.28 Tuesday 22:55
わずか一ヵ月の短いお付き合いでした。
あの方は、一方的に別れを告げて、私のもとから去っていってしまいました。

貴方に関する噂はいろいろと聞いてました。
貴方を私の林檎にインストールした日には、「これで私も芥川賞作家の仲間入りかー」などと胸が高鳴ったものです。
しかし事務局は、無情にも二人の仲を引き裂いたのです―――(ジャジャーン!!)

・・・なんだかよくわからない書き出しになってしまいましたが、以前のエントリ(文章がみるみる上達する魔法のアイテム☆)で取り上げた、ATOKの話です。
つまり、ATOKの30日間の無料お試し期間が過ぎてしまって、アンインストールされてしまった、ということです。早い話が。
そんで、まあ一応、ATOKを使ってみた感想を皆様にご報告すべきかと思いまして。

◎結論:よくわからなかった!

いや、いろいろ便利な機能はあったんですよ。悪文を校正してくれるツールもあったし、「連想変換」は類語辞典に近い機能だったし。
でも結局使いこなせなかったっていうか、30日間では、ことえり(Macに標準装備されている日本語入力システム)との違いがよくわからなかったというか。

ATOKとことえりを比較してみた結果、確かに漢字変換は、ATOKの方がスムーズにできた気がする。 例えば、「白湯(パイタン)」はATOKで変換できたけど、ことえりではできなかった。
しかしなぜか、尹東柱(ユン・ドンジュ=韓国の詩人)と打ち込んだら、「ことえり」は一発変換したんだよね。ATOKでは変換できなかったけど。でもこれは例外で、ほとんどの場合、ATOKの方が変換効率はよかったと思う。

となるとやっぱり、使う側に問題があるんだろうなー。
私は、タイピングのスピードがめちゃ遅い上に、ミスタイプも多い。
だから、いくらATOKが賢い子でも、ブログ主のスペックではその真価を発揮できないんだね。スムーズに流れるように変換するためには、ミスなく速くタイピングする能力が前提になっているみたいだ。まあ当たり前かもしれないけど。

あと、「ユーザ辞書」に登録しなおさなければいけない、というのも面倒だった。
ウチの林檎辞書には、岡田斗司夫とか内田樹とか明川哲也とか、普通の変換では出てこない人名を登録してあるのですが、それをまた登録しなおすのも煩わしくて、その度にイラッとしつつ、結局ことえりに切り替えたりして。

そんなわけで私の場合、ATOKではなく、長いお付き合いのことえりに軍配が上がりました。
やっぱり何年もかけてワタシ好みに調教してきた子に、いきなりポッとインストールされた新人が勝てるわけがなかったんだね。

ただひとつ心残りなのは、「物書きならATOKを使うべし」みたいなATOK神話の根拠が、最後の最後まで私にはわからなかったことです。
実際に、私がネット上でヲチしている作家(や作家志望の人)の中には、ATOKを使っていると公言している人も多い。
ネット上の評判を見ても、「ATOKは金払ってでも使う価値がある」と力説する書き込みも見かける。
あれは何でだろう?
やはりATOKには、私が知らないだけで、隠された秘密の機能があるのだろうか。
・・・という妄想に一瞬とらわれそうになったのですが、別れた人(ATOK)への未練をたらたら言うと、ことえりがつむじを曲げそうなのでやめておきます。

ごめんよ、ことえり。
ATOKなんかに浮気した私がバカだった。
これからはキミ一筋だよ。もう迷わない。

そして、さようならATOK。
短い付き合いだったけど、逢えて嬉しかったよ。
ATOKの辞書に登録されていたビミョーな顔文字をここに晒して、お別れのご挨拶に代えさせていただきます。
_(._.)_ ヘ(^o^)/ !(^^)! (=_=) (/_・)/ (~o~) (^。^) (‘_’) (o^^o) (。・ω・。) (ё_ё)

| ●月ノヒカリ● | 日記・雑感 | comments(0) | trackbacks(0) |
2011.06.23 Thursday 23:57
ねえねえ、みんな知ってた?
愚痴を言うときってね、「これは愚痴なんだけど……」って前置きしてから言うといいんだって。で、愚痴を聞く方は、真剣に考えずに聞き流していいんだって。

というのは、前回取り上げた本『その後の不自由』に書いてあったことなんだけどね。いやー、こういうことはもっと早く知りたかったね。

というわけで、今から愚痴タ〜イム!
ここんとこ毎日、雨ばっかりで気分がウツウツだったんだけど、昨日久しぶりに晴れたのでシーツを洗ったらスッキリしたよ。
「洗いたてのシーツ」の上でゴロゴロするのって、気持ちいいよね。
・・・ってこれ愚痴なのかな?

それにしても私、これまで「正しい愚痴の話し方」なんて全然知らなかったんだけど。
これって一般常識なんでしょうか?
私は「世間の常識」というものにさっぱり自信がないので、かつて『大人養成講座』(石原壮一郎)なんて本を読んで、まっとうな大人になろうと研鑽を積んだ日々もありましたが……この世の中には、まだまだ私の知らない「隠されたルール」が存在するみたいです。

でも今回、「正しい愚痴の話し方」を知ったおかげで、月ノヒカリはまた一歩、大人の階段を上ることができました。

そんなこんなの今日この頃、そろそろ恒例の拍手レスでございます。
↓からどうぞ。
| ●月ノヒカリ● | web拍手レス | comments(0) | trackbacks(0) |
2011.06.19 Sunday 22:47
上岡 陽江,大嶋 栄子
医学書院
¥ 2,100
(2010-09-01)
コメント:生き延びるための処方箋

前回までのサンデル先生とはまったく毛色が違うけど、これもまた「生き延びる」ための本。
著者のひとり上岡陽江さんは、薬物・アルコール依存症の女性をサポートする施設「ダルク女性ハウス」の代表であり、またご自身も依存症の当事者でもある。

私は以前、上岡さんの講演を聴いたことがあって、そのときは「自分とはあまり接点がなさそうだな」と感じたんだけど……この本を読んでみたら、少なからず得るものがあった。
『その後の不自由』というタイトル通り、依存症の女性が、アルコールや薬物をやめたあとの「不自由」を、丹念な当事者研究をもとに書きあらわしたものなんだけど……私も、癌や統合失調症を経験した「あと」に感じた不自由、つまり「身体が思ったように動いてくれない」というしんどさ、「普通の人のような生活を送れない」という困難さなどと、重なるところがあった。

この本で得た、いちばん大きな収穫は、「回復」のイメージが広がったことだ。
私ももう何年も心身の不調を抱えながら生きてきて、「回復」というのがどういうものなのか、わからなくなってたんだけど。
上岡陽江さんの「回復とは回復しつづけること」(P.61)という言葉に、ハッとさせられた。回復とは、何らかのゴールに到達することだと思っていたけど、そうじゃないんだ。

ちょっとここに、「回復」について書かれた部分を引用してみる。
回復というと、元気になるとか、動けるようになるとか、何かが変化するかのようにイメージされることが多いのですが、それは違います。今のままのエネルギーレベルのままで、強迫の方向性が少し変わるくらいでしょう。向けているエネルギーの方向性が変わって、少し自分をケアできるようになることで生きていける。問題は解決していないけれど、とりあえず生き延びていける、という感じです。
   (『その後の不自由』上岡陽江 P.170)

私もまた、「回復」というのは、「元気になって、普通の人と同じような生活ができる」状態を念頭に置いていて、だからこそなかなか「回復」しない現状に苛立ちや挫折感を抱いていたんだけど……どうも「エネルギーレベルの上昇」を目指すのは、あまり筋がよくない手みたいなんだよね。
でも、「方向性を少し変えること」なら、それほど無理なくできそうだ。生活のなかに「心やからだにいい習慣」を取り入れることで、少しだけいい方向に進めるのかもしれない。そんな希望が芽生えた。

もうひとりの著者、大嶋栄子氏は、「回復」についてこんなことを語っている。
一般的に回復とは、仕事に就いて経済的自立を果たすこと、女性なら家庭内の役割(妻・母であるとか)に復帰するという目標が掲げられることが多いが、「むしろ目標を設定せず、時間をかけて自分の身体と出会い、メンテナンスを続ける生活を受け入れていくことが重要だ」(P.185-186)と。
とりあえず「生き延びる」ことを第一に考えて、そのために自分のからだをケアすることが重要、という点で、上岡さんの言うことと一致している。

からだのメンテナンスという意味で、この本の3章「生理のあるカラダとつきあう術」は有益だった。これは私にとって、「こういうのを読みたかった!」とかねがね思っていたテーマだ。
基本的にこの本は、依存症の女性たちの当事者研究の成果なんだけど、これは本当にいい研究だと思う。生理にまつわる話って、なかなかオープンにしづらいことだけど、こういうテーマを扱ってくれたことに心から拍手を送りたい。
私も月経のリズムに支配された生活を送ってるから、「生身はつらい!」という言葉は、ひしひしと胸にせまってくるものがあった。

もうひとつ印象的だったのは、「“はずれ者”として生きる」という節。
私もここ十数年、「社会に適応しよう」ともがいた結果、次々と新たな病気に罹った、という経緯を通過してきたから、これは琴線に触れる言葉だった。
上岡さんも以前は、「回復が進んでいけば社会生活への適応が可能になる」と考えていた時期もあったという。しかし適応しようとする人ほど、逆に危機を体験するのを見てきたせいで、考えが変わったとのことだ。
「はずれたままで、はずれ者として生きるのが、ちょうどいい落ち着きどころ」(P.201-203)というあたり、深く身に染みた。


とまあ、私は自分の病気体験に引きつけて読んできたけど、とりたてて病気とは縁がない人でも、この本から得るものがあると思う。
とりわけ、人間関係や家族関係について書かれた章は、「普通」の人でも思い当たることはあるのではなかろうか。
書き始めたら切りがないけど、ひとつだけ「今日から役立ちそうなアドバイス」じゃないかと感心したところを挙げておく。(続きは折り畳みます。)
| ●月ノヒカリ● | 読書感想 | comments(0) | trackbacks(0) |
2011.06.14 Tuesday 23:25
前々回からハーバード白熱教室のことを書いてるんだけど、イマイチ反応が薄いのは、誰もあの番組を見ていなかったからなのか? はたまた一年前の番組を話題にするブログ主に呆れているのか?
まあいいや。
前回に引き続き、ハーバード白熱教室で、とりわけ感銘を受けた内容について。

というのは、第8回「能力主義に正義はない?」、ジョン・ロールズの『正義論』を引用しつつ、「能力主義」の限界について示したあたりだ。
これ、「私もずっと前から、まさにそう思ってたことだ!」と心の底から共感してしまった。
その一部は、以前のブログ記事「努力」とか「真面目」とかにも書いたんだけど。

「能力主義」という言葉に、あなたは良いイメージを持っているだろうか。それとも悪いイメージを抱いているだろうか。
私は、「真の能力主義社会を!」を叫ぶ人たちが、ちょっと怖いと感じている。
もちろん、血縁や家柄で将来が決まってしまう社会よりは、能力主義社会の方がずっと健全だと思う。
でも、「障碍者でも能力のある人はどんどん発揮できるようにすべき」という言説を聞くとき、私はどうしても「じゃあ能力のない障碍者はどうすればいいのだろう?」と考えてしまう。
この場合の「能力」というのは、社会的に価値が認められている(つまりカネを稼げる)能力、という意味だ。
「じゃあカネになるような能力を持たない障碍者はどうすればいいの?」という疑問がどうしてもわいてくるんだよね。と考えていたら、立岩真也氏のサイト(ページ下の「能力主義」の項)にそういう主旨のことが書いてあった。

ただこの問題は、障碍者に限らず、実際にはすべての人に関係することだと思う。
白熱教室の第8回に登場するジョン・ロールズは、「能力主義」は乗り越えられるべきだ、と主張しているのだ。

ちょっとここで、サンデルの講義に戻って、整理してみる。
所得や富、機会などの「分配の正義」について、4つの理論が提示された。

一つめは、封建的な貴族社会。
これは言うまでもなく、生まれによって将来が決まってしまうから、不公平なシステムだ。

二つめは、リバタリアン的な自由市場システム。
生まれに関係なく、自分の力でキャリアを切り開いていけるという点で、貴族社会よりは進歩している。しかしこれもまた公平とは言えない。裕福な家庭に生まれるのと、貧しい家庭に生まれるのとでは、競争の結果に影響が現れるからだ。

そこで三つめの理論として、能力主義システムが挙げられる。
皆が同じ地点からスタートできるようにして、「公正な機会均等」を実現する。すると、才能のあるものが勝つ。ランナーなら、足の速いものが勝つことになる。
しかし、速く走る才能に恵まれたのは、その人の功績と言えるのだろうか?
それは、自然によるめぐり合わせ、遺伝子によるところが大きいのではないか?

ロールズの主張の前提として、「所得や富、機会の分配については、自分の功績だと主張できないものに基づくべきではない」という考えがある。
生まれ持った才能、つまり遺伝子のめぐり合わせを自分の功績だと主張できないとすれば、能力主義システムは乗り越える必要がある。

そこで登場するのが四つめの理論、それがロールズの主張する「格差原理」だ。
格差原理という言葉を、私はこの講義で初めて知ったんだけど……『これからの「正義」の話をしよう』からその説明を抜き出してみる。
格差原理とは、いわば個人に分配された天賦の才を全体の資産と見なし、それらの才能が生み出した利益を分かち合うことに関する同意だ。天賦の才に恵まれた者は誰であれ、そのような才を持たない者の状況を改善するという条件のもとでのみ、その幸運から利益を得ることができる。
(中略)
自分が才能に恵まれ、社会で有利なスタートを切ることのできる場所に生まれたのは、自分にその価値があるからだと言える人はいない。だからといって、こうした違いをなくすべきだというわけでもない。やり方は別にある。こうした偶然性が、最も不遇な立場にある人びとの利益になるような形で活かせる仕組みを社会のなかにつくればよいのだ。

 (マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』P.203-204)
上記の説明は、ロールズの『正義論』からの引用である。
ロールズは、才能のある者が才能を使うことは奨励するけれども、才能を発揮した結果、得られる果実を手に入れるには条件がある、というのだ。自分よりも恵まれない人たちの便益になるような不平等だけが正義にかなうのだ、とロールズは主張する。

ロールズの格差原理は、共産主義社会のように「完全な平等」を目指すわけではない。
格差は残る。けれども、それは恵まれない人にとって意義のある格差なのだ。

このロールズの主張は、ハーバードの学生に受け入れられるのだろうか?
講義では、幾人かの学生が、格差原理への反論を表明していた。
ある男子学生は、「自分は努力してこの大学に入ったのだ。努力に見合った報酬を与えるべきだ」と苛立ちを表しつつ主張した。

この「努力が報われるべきだ」という言説への反論は、以前過去記事に引用した、二人の作業員の話を参照してほしい。能力主義の支持者たちはしばしば「努力」を称賛するが、実際には「努力の量」によって報酬が決まるわけではない。「貢献度」や「達成度」で決まるのだ。

そして、社会が認める「貢献」というものは、その社会がどんな資質を重視しているのかによって違う。(現代社会で成功できる才能と、狩猟社会や戦闘社会で成功するための才能は異なる。)
ハーバード大学の学生たちは、もちろん相当な努力の結果その地位を得たのだろう。
しかし同じくらい努力しても、その場所に行けなかった人もいるのだ。そしてその「努力」しようとする姿勢でさえ、幸運な家庭や社会環境によって左右される、というのがロールズの主張だ。

当然のごとく、リバタリアンはロールズに反論する。
講義では、リバタリアン的な言説として、アメリカの経済学者フリードマンが紹介された。
人生は公正ではない。人は、政府が自然の引き起こすことを修正できると信じる誘惑に駆られる。
         ―――ミルトン・フリードマン
自然の引き起こすこと(=個々人によって異なる能力)を修正するには、結果を均等にしなければならない。つまり、皆が競争で同時にゴールするようにしなければならず、それは最悪のことだ、というのがフリードマンの考えだ。

このような主張に対して、ロールズは『正義論』17章において、以下のように強力な批判を展開している。
自然の分配は、正義でも不正義でもない。人が社会のある特定の地位に生まれるのも不正義ではない。これらは単なる自然の事実である。正義や不正義は、制度がこういった事実を扱う方法にある。
           ―――ジョン・ロールズ

「公正な社会」を求めるのなら、貴族社会はもちろん不可、自由市場システムを支持することもできない。そして、「能力主義システム」で満足してもいけないのだ。

この「能力主義を乗り越える」という主張は、人々にどの程度受け入れられるのかわからない。成功している人々の多くは、成功したのはすべて自分の手柄だとみなし、偶然や幸運に左右されていると認めようとはしないものだから。

しかし、サンデルは、ロールズを引用しつつ、こう述べている。
「私たちは、幸運にも持って生まれた才能を、偶然重んじる社会に生まれたことで、利益を得ている。しかしそれを当然だと思うのは間違いであり、うぬぼれだ。」
こういう話が、アメリカのトップスクールであるハーバード大学で教えられているという事実に、感心した。というかちょっと安堵した。

サンデルの講義は、「これからの正義〜」という本のタイトルのように、未来に向かって、公正な社会を目指すための議論なのだ。
前々回、私が“JUSTICE”を「正義」ではなく「公正」と訳すほうが望ましい、と書いた理由はここにある。

私たちは、共産主義のような「完全に平等な社会」を求めてはいない。
ただ、「公正な社会」であってほしい、と望んでいるのだ。
「自然」は残酷で不公平だ。
でも、「人生は不条理だが乗り越えろ」なんて励ましや説教はいらない。
必要なのは公正な社会の制度だ。

自然のままでは、人間は生まれながらにして不平等だ。だからこそ、人間社会はでき得る限り「平等」で「公正」な社会を目指してほしい。恵まれた地位にいる人は、その富をすべて自分の手柄にするのではなく、他の人々と分かち合ってほしい。
それこそが、恵まれた人が持つべき「徳」ではないかと私は思う。

というわけで、今の日本で新自由主義的な主張をする人たちには、ハーバード白熱教室第8回は見ておいてほしいな、と心から思います。
長くなったけど、「私にとっての白熱教室」のお話、これでおしまい。

| ●月ノヒカリ● | 社会 | comments(4) | trackbacks(0) |
2011.06.10 Friday 22:48
前回の続き。
「ハーバード白熱教室」から個人的に、すごく感銘を受けた部分を。
「白熱教室ノート」みたいなまとめサイトは、他にいっぱいあるので、私がやる必要はなかろう。

私が「個人的に感銘を受けたこと」だけを書こうと思ったのは、高橋源一郎氏がTwitterでサンデルを批判していた(「『痛み』としての教育」一度だけの使用に耐えうることば」)のを読んで、共鳴するものがあったからだ。
「『痛み』としての教育」の以下の部分に、私は心の底から頷いた。
「ならいおぼえたものを伝える」だけの教育者は、「ならいおぼえたものを伝える」ことしか知らない者を産み出す。個人的な「痛み」を通過した「信条(クレド)」の伝達だけが、次の「信条(クレド)」を産み出す産婆となる。
 http://twitter.com/takagengen/status/26312948678922240
だから、私もまた「私の個人的な痛み」を通過したことのみ、語ることにする。

というのは、白熱教室第6回、カントの思想についてだ。
とっつきにくく難解な回だったんだけど、私は妙に感動してしまった。

カントは「すべての個人は尊厳を持っている」と主張し、功利主義を否定した、というのがサンデル先生の解説だった。
それが、ずっと心に引っかかっていた東浩紀の下記Twitter発言と繋がったのだ。
人間はかけがえがきかない、お金には換算できない、というのは、学生の甘っちょろい理想とかではなくて、現代社会の基礎概念のひとつなのです(哲学史的にはカント)。人類がそういう前提を選んだという歴史を、「世の中結局コスト計算なのよ」とかで乗り切れると考えることのほうが圧倒的に淺い。
 http://twitter.com/hazuma/status/20026630543

「コスト計算」というのは、功利主義的な考え方だ。 功利主義というのは、「最大多数の最大幸福」を目指すもので、それ自体は間違っていないように見える。
でも、功利主義者はすべてを数値化しようとする。人の命でさえも、お金に換算できるというのが功利主義者だ。
白熱教室第2回で、費用便益分析(=コスト・ベネフィット分析)という言葉が出てくるんだけど、これはいわゆる「コスト計算」に近い。

ここで、講義で取り上げられた、ちょっとヒドい「費用便益分析」の例を紹介してみる。
あるタバコ会社(にはフィリップモリスと書かれている)が、チェコで次のような調査を行ったという。
国民が喫煙することによって政府が失うお金(費用)と政府の利益になるお金(便益)とを、天秤にかけてみたところ―――。
費用 便益
医療費の増加 タバコ販売からの税収
早期死亡による医療費節約
早期死亡による年金節約
早期死亡による高齢者向け住宅費節約

表のように費用(コスト)と便益(ベネフィット)を比較した結果、フィリップモリス社は「市民が喫煙することで、チェコ政府は得をする」という、驚くべき結論を出したのだ!
つまり、「喫煙者が増えると肺がんで早死にする人も増えるから、そのぶん政府は得をするよ」と言っちゃったわけ。もちろん非難囂々だったらしいけど。

でも、この種のコスト計算は、現在も至る所で行なわれているように思う。
裁判では、「人の命がお金に換算される」なんてこと、普通にされているし。

そんで私もずっと、自分に対して「費用便益分析」をやってた気がする。結果はすっごく悲しいことになるんだけど。
私が働いて稼いだお金と、私が病気になって使った医療費を比較すると、圧倒的に医療費の方が高いのだから。つまり自分は、生きるのにコストのかかりすぎる「赤字」人間ということになるわけだ。自虐ではなくて、本当にそう考えていた。

でも、東浩紀のTwitter発言と、ハーバード白熱教室のカント思想を知って、ちょっと風向きが変わった。
これまで何となくキレイゴトだと感じていた「人の命はお金に換算できない」とか、「すべての人間は尊重されるべき存在」という言葉が、腹の底にストンと落ちてきたんだ。

そんなときに書いたのが、このブログエントリ(「死にたい」という気持ち)だったわけです。
ただ単に「自分が生きている」ということに罪悪感を感じるのは、実はとんでもなくエネルギーを消耗するんだけどね。でも、私にはそういうところがあった。そして、そういう考えに捕われている人は、他にも少なからず存在するみたいだ。

でも、やっぱりそれは間違いなんだよ。
一人ひとりの人の命は、かけがえのないものなんだよ。
「人の命はお金に換算できない」「すべての人間は尊重されるべき存在」というのは、カントに発する「普遍的な」思想であって、人類はその道を選んだのだ。決して、甘っちょろい理想主義者の文言なんかではない。

「普遍的」というのは、「時代や地域、人種を越えて通用すること」という意味だ。
現代社会は、多元的な社会・多種多様な価値観が認められる社会で、「唯一絶対の真理」というものを主張するのは難しい。
それぞれの共同体には固有の価値観があって、それを認めようという「価値相対主義」が行き渡っている。それはそれで必要なことだったと思う。
でも、「奴隷制」は、やっぱり悪ではないのか?
古代アテネや南北戦争以前のアメリカに存在した奴隷制は、その共同体内部では「正しいこと」だったかもしれない。しかし、普遍的な正義に照らし合わせたら、やはり間違っていたのではないだろうか。

・・・とこんな話を読んで、「何を当たり前なことを」とか「何でそんなことを考えてるのか、よくわからない」とか思った人は、「まっとうな大人」なのかもしれないな。
やっぱり永井均の言うように、哲学ってのは「そのままでは水に沈んじゃう人が、なんとか這い上がろうとする」ためにあるのだろう。
サンデルの著書『これからの「正義」の話をしよう』には、「いまを生き延びるための哲学」というサブタイトルがつけられているんだけど、それは大袈裟ではなかった。少なくとも私にとっては。

カントの思想については、自由と自律とか定言命法とか、もっとややこしい話が出てくるんだけど、ブログ主はさほど興味を持てなかったので、ここでは割愛。

ただ、「カント派にとって、他人を尊重するというのは、愛・同情・仲間意識とは違う」というサンデル先生の話は印象的だった。カントにとっての尊重とは、「普遍的な人間性に対する尊重」なのだという。
これは、「社会制度がどうあるべきか」を考える際に、重要な視点だと思う。
社会というのは、困窮している人を「かわいそうだから助けてあげる」のでは駄目なのだ。どんな人間であっても、例えば、「ギャンブルばっかりして借金を抱えてしまった」というような、まったく同情できない人物であっても、人間として尊重されなければならない。
「公正な社会」っていうのは、そういうものじゃないかと。

この話は、次回につながる(予定)。

| ●月ノヒカリ● | 社会 | comments(5) | trackbacks(1) |
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