2020.09.12 Saturday

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2012.01.30 Monday 23:15
前回のタイトルが「箸休め」だったので、ちょっと気分を変えて、食べ物の話をば。

つい先日スーパーで、「オータムポエム」という聞き慣れない名前の野菜を見かけたのです。
備え付けてあった説明書きを読むと、
・菜の花に似た葉物野菜で、茎と葉とつぼみを食べる。
・茎はアスパラガスのような風味と食感があり、別名「アスパラ菜」とも呼ばれる。
などと書いてありまして。

そんでまあ、目新しさと名前の美しさに惹かれて、買ってみたわけですよ。アスパラは大好物だし。

家に帰って、さっそく調理してみました。
袋に入っていた説明書には、「塩ゆでして、おひたしかサラダにするとよい」と書いてあったので、とりあえずゆでて切って皿に盛りつけました。

「どんな味なんだろ?アスパラ味?」などと好奇心に誘われるまま、一口食べてみたところ……うーん、ごく普通の、小松菜みたいな葉っぱの味だ。
しょう油をかけるかマヨネーズをかけるか迷った末に、勢いで両方かけたら、さらにわけのわからない味になってしまいました。

・・・何がいけなかったんだろう?
食後、コタツでゴロゴロ丸くなりながら、私はしばし、一人反省会をいたしました。

そんでふと思いついたんですよ。
きっと「ポエム」が足りなかったんだ!

「オータムポエム」というからには、秋にまつわる詩を口ずさみながら食べるべきだったのです。
そうすれば、もっとリリカルかつファンタスティックな味になったに違いありません。

さて、秋の詩といえば……この詩を真っ先に思い浮かべてしまった。
中原中也の未刊詩篇からの一篇。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

秋の夜に、
僕は僕が破裂する夢を見て目が醒めた。

人類の背後には、はや暗雲が密集している
多くの人はまだそのことに気が付かぬ

気が付いた所で、格別別様のことが出来だすわけではないのだが、
気が付かれたら、諸君ももっと病的になられるであろう。

デカダン、サンボリスム、キュビスム、未来派、
表現派、ダダイズム、スュルレアリスム、共同制作……

世界は、呻き、躊躇し、萎み、
牛肉のような色をしている。

然るに、今病的である者こそは、
現実を知っているように私には思える。

健全とははや出来たての銅鑼、
なんとも淋しい秋の夜です。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

(原文は旧仮名・旧漢字。こちらのサイトを参照ください。)


というわけで、次にスーパーで「オータムポエム」に出会うことがあったなら、必ずや再び買い求め、中原中也の詩を口ずさみながら、おひたしにして食べようと思います。

薔薇色に蠱惑的なデカダンスの世界にいざなわれることを、夢見つつ。

| ●月ノヒカリ● | B級グルメ | comments(2) | trackbacks(0) |
2012.01.26 Thursday 22:15
前々回前回のエントリ、少数の方から刺激的な反応をいただきました。ありがとうございます。
読んでいただいた方との密度の濃いやりとりは、ただ単にブログ記事を書くだけよりも、ずっと充実感があります。そしてちょっぴり疲労感も……それは心地よい疲労感ですが。
ふなぼりすたさんからいただいた反応を読んで、新たに応答したいと思ったのですが、ちょっと脳みそを使い過ぎたので、ここらで箸休め。

私はこのブログを始めてから、これまでにはないくらい多くの人から、嬉しい反応をもらってきたと思う。
「多くの人」と言っても、あくまでも当社比でありまして、ネットの大海の中では、このブログなんて絶海の孤島。訪れる人も少なく、ましてやこの島の風土を気に入ってくださる方はさらに稀有な存在だと、よくわかっているつもりだ。

でも、ごく少数の人が、理解してくれて、あたたかい言葉をかけてくださったこと。それは私にとってかけがえのない宝物だ。
ブログを始めてから今まで、私は、訪問者さんからたくさんのことを学んできた。

とりわけ痛感してしまったのは、自分はこれまで、人に好意を伝えるのも、受け取るのも、下手だったなぁということだ。
自分みたいに非モテ・非コミュ・非リア充をこじらせると、そうなってしまうんですね。
いや、自分が非モテで非コミュで非リア充なのはいっこうに構わないのですが、それをこじらせるのはよくないですね。

といっても、こじらせた人、私は好きなんですけどね。
非モテとか非コミュとか非リア充などというものは、こじらせればこじらせるほど面白くなるものですね。自分も含めて。
ただそれは、漫画みたいに作品として鑑賞するのなら楽しいけど、生きていくにはなかなかに難儀なことで。

こじれてもつれた糸を解きほぐそうとするのなら、「書くこと」はけっこう効果があるみたいだ。

いまだに私は、人に好意を伝えるのも、受け取るのも、うまくできない。
失敗することも多い。
でも、もうちょっと素直に、まっすぐに伝えられたらいいな、と思っている。
ブログの訪問者さんからたくさんの(あくまでも当社比ですが)好意をいただいて、そう思えるようになった。

自分が言いたいことが「伝わる」ことなんて、実は滅多にない、稀なことなんだけど―――だからこそ、少しでも「伝わった」手応えを得たときの充実感は、何物にも替えがたい。

うん、ここまで読み返して、自分の書くものはずいぶん「まっすぐ」になったなあと我ながら思うんですけど……どうでしょうか?

まあでもね、自分みたいな自意識過剰人間は、放っておいてもまたすぐに、こじらせるものです。
こじらせてグニャグニャと曲がりくねった文章がお好きな方は、ブログ主がこじらせるのを楽しみにお待ちください。

では、次回の更新まで、しばしお待ちを。

| ●月ノヒカリ● | 日記・雑感 | comments(0) | trackbacks(0) |
2012.01.20 Friday 21:33
前回のエントリ「批判 ≒ 愛 ということ」は、自分が(ネット上etc.で)発信している立場の人には、ピンとくるものがあったみたいだけど……そうじゃない人には、関心のない話題だったかもしれない。

こんな話を続けるのは、読書が進まなくてレビューが書けないから……というわけではなく(いやそれもあるけど)、今ちょっと自分のスタイルを変えてみたいと思っているからです。

で、前回の続き。
前回、「私は人を批判するのが苦手だ」と書いたけど、かつての私は、むしろ人のあら探しばかりするタイプだったように思う。長所よりも先に、欠点に目が行っちゃうの。(でも口には出せなかったのですが。)

それは、大学教育を受けたせいじゃないのか?―――とひそかに私は考えている。あるいは、評論系の本を愛読していたせい。
もちろん「批判的に本を読む」とか、「批判的にデータを見る」というのは、重要なリテラシーだ。
私は十代の頃、本の内容を無批判に信じてしまうタイプだったから、「批判的に見る視点」を学んだこと、それ自体はよかったと思う。

でも、これではマズいと気づいたのは、社会に出てからだ。
「批判」ばかりしてると、性格悪くなるんだよね。(上野千鶴子先生は、「フェミやると性格悪くなるよね」とおっしゃってましたが、同じことだと思う。)

人間関係を円滑に築いていくためには、「人をほめる」とか、「人の長所を見つける」ということがけっこう重要なんだ(ということに、長いあいだ気づかず苦しんできた非コミュなダメ人間が、このブログ主です)。

でも「人をほめる」のって、そんなに簡単ではない。
そもそも私は、「お世辞」というのが大の苦手だった。
お世辞は、自分が言うのも、言われるのも大嫌いだ。これはいまだに変わらない。

今の自分は無職ヒキコモリで、お世辞を言われる機会なんてないんだけど……ずっと昔、服を買いに行ったお店で、店員に「センスがいいですね」とか言われたことがあった。
あれはイラッとしたなあ。
こう言っては何だが、私はファッションにはさっぱり関心がないのである。
いや、自分が着る服には、自分なりのこだわりがある。
でもそのこだわりは、「昔のバンカラ学生が高下駄を履く」類いのこだわりであって、「お洒落」からは遥かにかけ離れたものなのだ。
だから服屋の店員に「センスがいい」などと言われる筋合いはない。
こういうお世辞というか、「営業ほめ」は、はっきり言って不愉快である。

・・・とまあ、こんな性格だから、自分は友人の一人もできないのだろう。
昨年はそんな自分をちょっと反省して、「自己評価が異常に低い人のためのライフ八苦」というエントリで、「ほめ言葉は素直に受け取ろう」と書いたわけです。

そんでね、私はずっと考え違いをしていたなあ、と気づいたんですよ。最近。
私は、人をほめる=お世辞を言うこと、だと思ってたんですね。
でも、それは違った。
なんていうか、自分が見たもの・聞いたもの・触れたものについて、「いいな」「素敵だな」と感じたときに、素直に「いいね!」「素敵だね!」と言葉にして伝えること。
それだけでよかったんだよね。「お世辞」を言う必要はなかったんだ。
好きなものを「好き」というだけでよかった。
こういうこと、もっと早く気づけばよかったんだけどなぁ……まあ仕方ないです。自分がトロいのは昔からなので。

そこで、「ほめ言葉」と「批判」の話に戻るんだけど―――。
「ほめ言葉」を、見知らぬ人、通りすがりの人からもらうのは、とても嬉しいものだ。
でも「批判」は逆に、自分のことをよく知ってくれている人からされる方が嬉しい。
そういう違いがある。

だから、やっぱり「批判」というのは、そんな簡単にできることではないのですよ。
批判するときは、その人のことをよく見て、よく聞いて、よく知ってからでないと意味がない。
まっとうな批判というのは、批判する前に「その人のことをよく見る」という段階が入っている。だからこそ、「批判 ≒ 愛」なんだ。

その上で、ですよ。
「愛ある批判」ってどんなものだろう?という、前回の結びなんですけどね。
自分がよく知っていて、しかも親愛の情をもっている人を「批判」したいとき、どうすればいいのか?

それを考えていて、ふと思いついたことがある。
「ことば」とは、もっとフレキシブルなものじゃないのか、という基本的なことだ。
私たちが普段使っている言葉は、「ほめ言葉」と「批判」にはっきり二分できるわけではない。
ほとんどが「どちらともつかないもの」だったりするわけで。

だから、「単純なほめ言葉」や「紋切り型の批判」ではないやり方で、相手の心を動かすことができるのなら、それこそが、「表現力」とか「レトリック」と呼ばれるものではないのか?

つまり、結論としては―――「愛ある批判」をするためには、まず相手をよく知ること。さらに、自分のことばや表現力を豊かにすること―――ではないでしょうか?

はあ、この長〜い話、やっとまとまりました。

えっと、ひと言でまとめると、「女性は服をほめれば喜ぶ」という一般論は、私には通用しない。むしろ服をほめられたりしたら、私は怒り出すよ!というお話でした。
(・・・それがオチか?)

| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(8) | trackbacks(0) |
2012.01.16 Monday 23:50
私は「批判」が苦手だ。
だから、このブログの書評には、批判レビューがほとんどない。
それは私の、あるいはこのブログの欠点だと思っている。

本の感想としては、ごく部分的に違和感を表明することはあるけれども、全体としては自分が感動したとか、良いと思ったものしか取り上げない。

理由は簡単で、誉めるほうが楽だからだ。
ときには読んで嫌な本、ムカッとする本に出会うこともある。
でも、それを批判しようと思ったら、その本を通読した上で、丁寧に自分の違和感を言葉にしていかなければならない。

それ、ハードルが高いんだ。
私はたいてい、好きになれない本は、最後まで読まずに途中で投げ出しちゃうし。
ましてブログに書くには、それだけの時間と労力を必要とするのだけど……そうするだけのエネルギーというかモチベーションが湧いてこない。

これまでに唯一、批判めいたレビューを書いたのは、栗本薫についてだ。
でも彼女に対しては、批判以上に揺るぎない愛があったから。だからこそ、書けたんだよね。

つまり、「批判」っていうのは、「愛」とほとんど同成分なんだと思う。
そして私は、何かを批判するだけの愛を持ち合わせていないんだ。今のところ。

私から見ると不思議なんだけど、ネット上には、いつも批判ばかりしている人も存在する。 アカデミックな世界にいる人に多いように思う。
学者というのはきっと、批判するのが仕事なんだろうな。
アカデミックな学問の世界は、先行研究の批判的継承から成り立っているから、そうなるのが必然なのかもしれない。(サンデルはロールズ思想の批判者だけれども、それ以前にロールズ思想の継承者でもある。)
碌に批判もできない自分には、きっと学者になる素質はないのだろう。

ただ、「建設的な批判」というのは、ネット上ではあまり見かけない気がする。
ネット上には、例えば2chやTwitterでは、「叩き」や「ツッコミ」なら山ほど見かける。
でもそれは、「批判」とは別のものに見える。

本を通読しなくても、「叩く」ことはできる。部分的なアラを見つけて、突っ込むこともできる。
でも、そういう叩きやツッコミは、おそらく著者の心には響かないだろう。(アンチは喜ぶかもしれないけど。)

「批判」というのは、書き手に届くものでなければならない。
もちろん、「誉め言葉」だって書き手に届くものだ―――ということは、私もこれまで何度か経験してきた。
「批判」というのは、おそらく「誉め言葉」と同じレベルで、書き手に影響を与えたり、あるいはエネルギーを与えたりするものであって、そうでなくてはならないものだ。

だからやっぱり、「批判 ≒ 愛」なんだと思う。
それで、やっぱり自分には何かが足りていないみたいなんだ。

このブログにはたまにコメントをいただくけど、まず好意的な意見がほとんどである。
それはとても有り難いことだ。
だけど、それはちょっとおかしい、というかバランスが悪い気がするんだよね。
だって人間なんだから、「それは違う」と違和感や反発を覚えるときもあるはずで。
自分もまた、人のブログを読んでいて、違和感を覚えることがあるのだから。
でも、そういう違和感を言葉にして相手に伝えることは、とても少ない。
摩擦を避けたいからだ。

それはマズいんじゃないか、と思って、かつてブログに「批判・ツッコミ大歓迎です」と書いたこともある。
それでも批判を書いてくる人はとても少ない。
それは、自分が「土俵に上がっていない」からだろう。無名だからだ。
おそらくプロなら、もっと批判されるはずだ。それが「土俵に上がる」ということだ。

こんなアマチュアブログでも、何度か批判めいたコメントをいただいたことがある。
そこで、やっぱり「揺れる」わけですよ。自分は。
さらに言えば、いただいた批判について「的外れだな」と思うことも多かった。
それで、「建設的な批判」ってどういうものなんだろうなあ―――なんて考えてしまったのだ。

批判とは似て非なるものとして「説教」がある。
私の勝手な定義だけど、「説教」には相手の行動への指図が含まれている。「◯◯せよ」あるいは「◯◯するな」というような指図・命令を含むもの。
例えば、ひきこもりに「さっさと働け」とか、そういうのね。
で、そういう説教には、現実的な効果はまずない。ときには有害でさえある。
たいてい本人は、考えられる努力はすでにしていて、それでもできないのなら何か事情があるのだから。
「説教」に効果があるとしたら、それは個人的な信頼関係が成立している場合のみだろう。

同じく「説教」に近いもので、「説得」というのもある。
これも不可能なものだと私は思っている。
誰か(あるいは私)が、何か強い思い込みをしているとして、でもそういう思い込みをするに至ったのには、それまでの歴史とか体験の積み重ねがあったはずである。
その思い込みを解除するには、それまでの経緯を丁寧に解きほぐすだけの時間と労力が必要なのだ。
ネット上で、言葉や論理の応酬で、人を「説得」できるとは、私にはとても思えない。

だから私は、「説教」や「説得」を試みたことがない。とりわけネット上では。
私は「素材」を提供するだけだ。「私はこういう体験をしてきた。だからこう思う」という素材。
判断は、個々人がそれぞれにすればいい。
そのスタンスは、変えるつもりはない。

ただ、やっぱり考えてしまう。
「説得」でも「説教」でもない、ましてや「叩き」や「ツッコミ」でもない、建設的な批判、愛ある批判というのは可能なのだろうか?
聞くところによると、「批評」というのはそういうものらしいけど。

これはこのブログだけの話ではなくて、自分の生き方すべてに関わる問題、自分の根本的な欠点、弱点じゃないかとひそかに思っている―――と言ったら、大袈裟に聞こえるだろうか?

「建設的な批判」「愛ある批判」ってどんなものだろう?
これ、今年の陰のテーマです。

| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(14) | trackbacks(0) |
2012.01.13 Friday 20:20
私は内田樹先生のブログは愛読しているものの、ロクに著書を読んでいないんですが……これは読みやすくて面白かった。
この本のレーベル「ちくまプリマー新書」は中高生を対象としているみたいだけど、どうしてなかなか、読み応えがある。

この『先生はえらい』、読み終わったあとに「こういう話が聴きたかった!」と思わず膝を打ちたくなる本だった。

この本は若い人達に「先生はえらいんだから敬いなさい」と説教する本では、もちろん、ない。
内田樹のいう「いい先生」とは、たくさんの知識や技術を持っている優秀な人を指すわけではないのだ。

「いい先生」というのは、あなたにとってだけの「いい先生」であって、他の人から見れば「ぱっとしないおじさん」かもしれない。
その例として、漱石の『こころ』、主人公の「私」が「先生」と仰いだ人が挙げられている。

要するに、あなたが「えらい」と思った人が「先生」だってことです。
だからこの本、かなり恋愛論に近いんだよね。

かつ、奥が深いコミュニケーション論でもある。
というか、ほとんどの部分がコミュニケーションの構造の話に割かれていて、くねくねとした迷宮にまよいこむような文体のウチダ節を堪能できる。

とりわけ強い印象を受けたのは、村上春樹が語った「うなぎ」の話の引用だ。

村上春樹いわく、小説を書くのは「三者協議」だというのだ。書き手がいて、読者がいるだけでは成立しない。そこにうなぎなるものが必要なんだ、と。
意味わかります?

『柴田元幸と9人の作家たち』からの孫引きになるんだけど、村上春樹発言を引用する。
だから僕は、自分と読者との関係にうまくうなぎを呼び込んできて、僕とうなぎと読者で、三人で膝をつき合わせて、いろいろ話し合うわけですよ。そうすると、小説というものがうまく立ち上がってくるんです。(…)
 必要なんですよ、そういうのが。でもそういう発想が、これまでの既成の小説って、あんまりなかったような気がするな。みんな読者と作者のあいだだけで。ある場合には批評家も入るかもしれないけど、やりとりが行われていて、それで煮詰まっちゃうんですよね。そうすると「お文学」になっちゃう。
 でも、三人いると、二人でわからなければ、「じゃあ、ちょっとうなぎに訊いてみようか」ということになります。するとうなぎが答えてくれるんだけど、おかげで謎がよけいに深まったりする。そういう感じで小説書かないと、書いてても面白くないですよ(笑)。
  (内田樹『先生はえらい』P.64-65)
この話、私はすごくオモシロイと思った。

たぶんこの本もまた、「うなぎ」を媒介として書かれているのだろう。
著者である内田樹氏と、読者として想定された中高生と、第三者としてのうなぎ。
この本を読んで、とても風通しがいいような、「開かれている」ような感じがしたのは、うなぎのおかげなのだろう。たぶん。

ちょっと話がそれるけど、私がネット空間を好きなのは、「うなぎ」の存在を感じられるからじゃないか、とふと気づいた。
私は、一対一の関係っていうのが実は苦手なんだけど……。
オープンなネット空間では、例えばTwitterなんかでは、一対一の会話をしていても、必ず第三者の視線を感じる。(実際には誰も読んでいなかったとしても。)
だから、スムーズに会話が進むように感じるんだ。


あともうひとつ。
私は、内田樹の文章に何度か勇気づけられたことがあるんだけど、それは「口ごもってもいいんだ」ということ。
私は本当に、話すのも、文章を書くのも、スラスラとできなくて、残念な感じなんだけど―――「それでいいんだ!」って思えるようになったんだ。

これについては『日本辺境論』の方がわかりやすいから、そっちから引用する。
 自分の固有の意見を言おうとするとき、それが固有の経験的厚みや実感を伴う限り、それはめったなことでは「すっきり」したものになりません。途中まで言ってから言い淀んだり、一度言っておいてから、「なんか違う」と撤回してみたり、同じところをちょっとずつ言葉を変えてぐるぐる回ったり……そういう語り方は「ほんとうに自分が思っていることを」を言おうとじたばたしている人の特徴です。すらすらと立て板に水を流すように語られる意見は、まず「他人の受け売り」と判じて過ちません。
   (内田樹『日本辺境論』P.119-120)

言い淀んでもいいんだな、話し下手でもいいんだな、とちょっと安心しました。
私は、すっきりと話せないのがずっとコンプレックスだったんだけど、これからは安心してジタバタくねくね話そう&書こうと決意しましたとさ。

・・・と、ここまで書いて、もしかしたら自分は、この本を、内田樹を「誤読」しているのかもしれない、とふと思う。

でも、それでいいんだよね。
ただ一つの正解が存在するのではなく、たくさんの人が、それぞれオリジナルな「誤読」をすることこそ、豊かな「学び」なのだから。

それこそが、この本のテーマなのです。
このレビューも一読者の「誤読」の一例として、お楽しみください。

・・・と開き直ったところで、おしまい。

| ●月ノヒカリ● | 読書感想 | comments(3) | trackbacks(0) |
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