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2020.09.12 Saturday
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2012.02.26 Sunday 22:26ご無沙汰しております。
久しぶりの拍手レス……と思ったら、えらいことレスがたまってしまいました。
え〜と、このブログは、計画的に更新しているわけではなく、ブログ主の気が向いたときに好きなことを書いてるので、今回はちょっと間が空いちゃったね。
そんなわけで、今回もえらいこと長くなってしまいましたが、拍手コメントされた方はぜひレスを探してみてください♪
基本的にこれまで「レス不要以外のコメントには全レス主義」でやってきましたが、今回、通りすがりの挨拶だけっぽいコメントは、省かせていただいてます。申しわけないです。
ではどうぞ〜。 -
2012.02.21 Tuesday 23:27久しぶりに「病気」カテゴリの更新。
といってもこの話、病気でない人にも、心に触れるものがあるのではないだろうか。(そうであってほしい。)
精神科医である中井久夫の著書には、「心の生毛(うぶげ)」という言葉がしばしば登場する。
漠然とした表現だけれども、臨床に携わる人の間では、よく通じることばだという。
『分裂病と人類』(1982)という本に出てくる説明が、とてもわかりやすく琴線に触れる表現だったので、本文とそれに続く注の部分をここに引用する。
分裂病者の社会「復帰」の最大の壁は、社会の強迫性、いいかえれば強迫的な周囲が患者に自らを押しつけて止まないこと、である。われわれはそれを日々体験している。われわれは社会の強迫性がいかに骨がらみかを知っており、その外に反強迫性的ユートピアを建設することはおそらく不可能である。
ただ言いうることは、私がかつて分裂病者の治癒は「心の生ぶ毛(*)」を失ってはならないといったが、実はそれこそは分裂病者の微分(回路)的認知力であり、それが摩耗してはすべてが空しいことである。少なくともそれは、分裂病者あるいはS親和者から彼らが味わいうる生の喜びを奪うであろう。
(*)
たまさかの治療場面で、治療者が感じる、慎しみを交えたやさしさへの敏感さにあらわれているような―――きわめて表現しにくいものではあるけれどもあえて言えば―――一種の「心の生ぶ毛」あるいはデリカシーというべきものは、いったん失われたら取り戻すことがむつかしい。
このことをわざわざ述べる必要があるのは、慢性分裂病状態からの離脱の途がどうも一つではないらしいからである。自然治癒力それ自体が、新しい、多少とも病的な展開を生む原動力となりうることは、自己免疫病や外傷性ショックをはじめ、身体疾患においては周知のとおりであるが、慢性分裂病状態からの離脱過程においても、一見、性格神経症、あるいは“裏返しの神経症”という意味でのいわゆる精神病質的な状態にはまり込むことが少なくない。
これらは、いわば「心の生ぶ毛」を喪失した状態である。「心の生ぶ毛」を喪失すること自体は何も分裂病と関係があるわけでなく、そういう人は世に立ち交っている人のなかにも決して少なくないけれども、「高い感覚性」をかけがえのないとりえとする分裂病圏の人にとって、この喪失の傷手はとくに大きい。
(中井久夫『分裂病と人類』P.33-34 適宜改行を加えました。)
ちょっと注釈を入れると、ここでは「分裂病」という用語が使われているけれども、2002年からは「統合失調症」と病名が変更されている、というのが一つ。
それから「S親和者」というのは、分裂病(schizophrenia)親和者という意味だろう。
この『分裂病と人類』は、ちょっと専門的すぎて、全体を読んでレビューするだけの力は私にはない。
ただ、この引用部分は、自分経験に照らしても、心から共感できるものだった。
確かに私もまた、統合失調症の急性期が過ぎた後、「心の生ぶ毛」を失った状態になっていたと思う。
何を見ても楽しいとも悲しいとも思えず、笑うことも泣くこともなく、生きる喜びをまったく失った状態。
あの苦痛は本当に耐えがたいものだったが……説明しても理解されることは少ない。
でもこうして、中井久夫の書いたものを読むと、ストンと腹に落ちる。
中井久夫の語るように、「心の生ぶ毛」を失うのは、精神病者に限らないのだろう。
病気でない人でも、いや医師にだって、「心の生ぶ毛のすり切れた人」はいる。「心の生ぶ毛」を失ってしまったら、本人も、周囲の人も不幸だ。
社会に適応するには、たくさんの摩擦をやり過ごさなくてはならなくて、そのためにはどこか「鈍感」にならないと、やっていけないのだと思う。
「繊細」な人は、すぐに折れてしまうから。
でもやっぱり、「やわらかさ」は必要で。
それについて、泉谷閑示の『「普通がいい」という病』に、いいヒントが書かれている。
敏感な人は、同時に神経が細いという、やっかいな面がある。
ふつうは「敏感で細い」か「鈍感で太い」か、どっちかしかないのだけど―――。
「敏感で、太くなる」という道もあるのではないか(P.188〜189)―――というものだ。
「心の生ぶ毛」を失うことなく、いい意味で図太くなる、ということ。
そうなれたらいいなあ。
←拍手はこちら〜。コメントも送れます。 -
2012.02.18 Saturday 23:23私はネット空間が好きだ。
ネット上では、公の場でおおっぴらに語られないこと、語ることのできないことが、ひそかに打ち明けられていたりするから。
ときには、行間から血が滲み出るような、痛みに満ちた言葉の群れに出会うこともある。
彼らの勇気の敬意を表しつつ、私も書いてみようと思う。
災害や、事故や、病気などで「愛する者を失った悲しみ」を伝えるメディアは多い。
それを語る言葉も、あちこちで見かける。
でも私は、そういった語りを見聞きするたびに、言いようのない空虚さを感じずにはいられなかった。
私には、「愛する者を失った悲しみ」というものは、自分とまったく別世界の物語に思えて仕方ない。
だって私にはそもそも、「愛する者」なんて存在しないのだから。
「人を愛せない」ことと、「人に愛されない」ことでは、重なる部分もあるけれども、やっぱり別のものだと思う。
私はおそらく、両親や祖父母に愛されて育ったのだろう。両親は、彼らなりの方法で、私を愛してくれたのだと思う。だから私は生きている。
でも私にとっては、子どもの頃の記憶や、さらに複数の病気に苦しみ続けてきた経緯もあって、家族関係にはあまりいい思い出がない。
家族については、愛よりもむしろ憎しみの方が勝っているように感じる。
家族の他にも、特に誰かを愛した記憶はない。
だから、例えば「仕事はつらいけど、家族がいるから頑張れる」というような常套句を聞くと、私は苦しくなった。
守るべき家族なんて私にはいないのに、そしてこんなに苦しいのに、なぜ私は生き続けなければならないのだろう?と。
それでも、たまに二次元の世界の住人たちを愛することがあった。二次元の世界があったからこそ、私に人生はそれなりに豊かなものだったと思う。
人を愛したり、愛されたりということは、多くの人にとって当たり前のことなのかもしれない。
でも私にとっては、全然当たり前じゃない。
そもそも愛する者なんて誰ひとりいない世界が、どれほど荒涼としたものか、想像できるだろうか。
一滴の水もない乾いた砂漠。
あるいは凍てついた氷の世界。
魂の芯から凍えるような孤独、というものは確かに存在する。
あらゆる人間関係は、苦行でしかなかった。
生きていること自体がただただ苦痛で、地獄だった。
ごくわずかに楽しみがなかったわけではないけれども、これほどの苦痛を耐えてまで、味わいたいものではなかった。
生きていることがそれなりに楽しければ、「生きることの意味」なんて考える必要もないだろう。
でも、生きること自体に、耐えがたい苦しみを感じている者は、どうしても「生きることの意味」を問わずにはいられない。
今の私は、「書くこと」ができる。それが救いだ。
ごく少数存在するかもしれない、私と同族の人たちに、言葉を残す道がある。
かつて私が、名前も知らない誰かから受け取ったように。
・・・ただ一つ付け加えると、私がこういうことを書けるようになったのは、現在の自分は、生きることに対して、かつてほどの苦痛を感じていないからだと思う。
(本当に苦しいとき、地獄の底の底にいるときは、そもそも言葉を発することもできなかった。)
今の私は、見知らぬ人から受けた小さな親切や、誰かを助けることができた小さな経験に、喜びを感じることができる。
私もまた、ちゃんと「ギフト」をもらっているのだ。
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2012.02.14 Tuesday 00:01今年もまた、例の日がやってまいりました。
2月14日は「もずくの日」です。
「チョコなんてなくても、もずくがあれば、人は幸せになれる」を合い言葉に、一昨年も、去年も、ブログ主はもずく推進運動を繰り広げてまいりました。
【参考】昨年2月14日の当ブログ記事
さて今年も、ブログを読んでくださっている皆様に愛を込めて、もずくを送る…のは面倒だからブログ主が代わりに食べておきます―――という企画です。
なぜ「もずく」なのかと言いますと、ブログ主はアンサイクロペディアのこの運動に賛同しているからです。
■Uncyclopedia:バレンタインデー撲滅/2012年バレンタインデー中止のお知らせ
↑これ、非モテなら一度は読んでおくべきだね!
さて、今年の月ノヒカリは、例年よりワンランク上を目指してみました。
今回食べるのは、ちょっと豪華な「もずくの極(きわみ)」。
黒い包装に金色の文字が、高級感を醸しだしています。
さっそく食べてみると―――ちょっと太目のもずくは、量は少ないけど上品な味。
酸味をおさえた黒酢、はちみつのわずかな甘み、とってもまろやかで食べやすい。
「最後の1滴までタレを飲み干していただけます」と書いてあったので、しっかり飲み干しました。あ〜うまかった。
お値段は3個パック198円也。
ああ、今年のもずくデーはすっかり贅沢をしてしまいました。
明日からはまた、質素なもずく生活に戻ろうと思います。
では皆さんも、楽しいもずくデーを!
☆すべての非モテ・非リア充に幸あれ☆ -
2012.02.11 Saturday 17:28
私はこれまで著書を読んだことはなかったけど、十代の頃に「JUNE」なんて雑誌を読んでいたので、伏見憲明さんのお名前は知っていた。
この本、感想を書くべきかどうか、迷ったんだけど……出版社のサイトに著名人のレビューがたくさん並んでいるし、それを読むだけでお腹いっぱいだから。
でも、やっぱりちょっとだけ、自分なりの感想を書いておくことにした。
この本のサブタイトルは、「人は差別をなくすためだけに生きるのではない」。
私はこれまで、反差別運動に関わってきたことがないからかもしれないけど、この本をざっと読む限り、すごく真っ当な主張だと思った。
あとがきに「命がけで書いたから、命がけで読んでほしい」と書いてあったので、ちょっと気圧されたんだけど……拍子抜けするほど、穏健な内容だった。少なくとも、私にとっては。
すごく乱暴にまとめちゃうと―――差別される側、痛みを感じている側に、絶対的正義があるわけではない。他者の痛みにも耳を傾けるべきだ。また、痛みだけではなく、自分の欲望も実現していいし、他者の欲望も尊重すべき。社会というのは、異なる人間の利害関係を調整する場なのだ―――。
う〜ん、私には、「ごく普通のこと」を語っているようにしか見えない。
ただ、この本が生まれるまでの歴史的背景を知ると、少し理解が変わってくる。
私がこの本を読んだきっかけは、「コイトゥス再考 越えがたきジェンダーという背理」というネット上の伏見さんへのインタビュー記事を読んだから、なんだけど。
それによると、一般的に「ゲイ」というワードが流通していくのは90年代以降、それまでは蔑視的に「ホモ」と呼ばれていた―――とあって、これは私の記憶とも一致する。
その続きから、伏見さんの発言を一部引用する。まず、「社会との関係」という感覚自体がなかった。性の問題が社会問題であるという意識が、同性愛に限らずなかったんですね。性というのはあくまでも下ネタにすぎず、そもそも社会でまっとうに語られる事柄ではなかった。だから同性愛は「問題」ですらなかった。ぼく自身、自分の性的嗜好(指向という考え方も当時はまだなかった)に対しては「隠さなきゃ」とか「どうしよう」とか「死んじゃおうか」とか……他人にも家族にも言えない「苦悩」だった。70年代の後半には、当事者のなかにわずかながらゲイリブを目指すようなグループも生まれましたが、それは指で数えられるほどのマイノリティであった。
確かに上記のような状況にいたら、マイノリティの側にいる人が「社会全体は敵だ」と思ってしまうのも無理はないし、だからこそ反差別運動は「正義」を主張してきたのだろう。
(中略)
90年代までは一般的にもまだまだ変態性欲、忌むべき病気扱いでしたし、今でもそう考える人はいますよ。現在に至ってさえそんな状況ですから、当時は「ゲイであることを肯定的に生きる」なんていう感覚は自然には芽生えなかったですし、それを語る言葉がまずなかった。みんなただ混乱していたんじゃないですかね。言葉がないと、人は、自分の痛みの輪郭さえ捉えられずにひらすら混乱するんです。
(コイトゥス再考 #20 伏見憲明 越えがたきジェンダーという背理)
ただ、そうやって「正義」を追求して、効果があったかと言うと……一般の人にはむしろ「面倒なことは避けて通る方が賢明だ」というような、「差別を乗り越える」のとは逆の方向に進んでしまったのではないか?
自らの正義を振りかざすような「糾弾」ではなく、お互いに「差別し差別される人間」として話し合うこと、そこから始めよう―――という、これは本の中で、部落解放運動に関わってきた人の言葉なんだけど。
その次にある『「オカマ」は差別か』から野口勝三氏の文章がわかりやすかったので、ここで再引用する。……差別の問題で最も大切なことは、普通の人間が日常的に持っているモラルの延長線上で、その問題を捉えることができる状態になっていることなんです。 「差別を受けた人間以外はその痛みはわからない」という言い方は、一見正しいように聞こえるんだけど、やはり問題で、もしそれが全く想像できないものだったら、結局抗議を受けた人は、その問題を自分の問題として考えることができないということになってしまう。 ……相手の言うことを無条件に受け入れないといけないことになる。 大事なことは、「痛み」の絶対的な了解不可能性を強調することではなく、相手の立場に立ったとき、自分の問題に引き付けて考えることができるように、問題を提出することです。このとき抗議を受けた側は、はじめてその問題を自分の問題として受け止めることが可能となり、そこでは差別をなくす可能性が開かれるんです。
(伏見憲明『欲望問題』P.54)
これは、差別問題だけではなく、何らかの問題を抱えている人にとって、大切な視点ではないだろうか。
「相手に、自分の問題に引き付けて考えてもらえるように、問題を提示する」という視点。
残酷な話だけど、この世の中は、痛みを感じている側が「痛い」と叫んだところで、誰かが耳を傾けてくれるほど甘い場所ではない―――ということは、私自身も痛感してきた。
とてもしんどいことだけど、痛みを感じているのなら、痛みを感じている人間こそが、他者に届くように表現しなければならないんだ。
ここが、個人的にいちばんズシンと来たところ、かな。
あと、この本は基本的にジェンダーの問題を中心に、フェミニズムやジェンダーフリーへの批判にもなっているんだけど(ただし単純な保守派やバックラッシュではない)、その辺はまだ咀嚼できていないので、置いておく。
ただ、「正しさの追求が快楽の追求と両立しない」とか、「ジェンダーは快楽でもあるし、抑圧でもある」というのは、ジェンダーの問題と誠実に向き合ってきた人なら、思い当たるところも多いのではないだろうか。
学術的な理論と、現実生活の間には、乖離がある。
「理論は理論、現実生活は現実生活」と、あっさり切り分けて、そうやって生きていける人もいるのかもしれない。
でも、私はそんなに器用には割り切れない。
伏見さんもそうなのだろう。
そういう意味でこの本は、著者自身が自分を誤魔化さずに書いた、誠実なものだ。「理論の上に理論を積み重ねる」だけの、実践からかけ離れた言説になることを戒めているのだから。
その上で、です。
やっぱりこの本は、「すでに社会的な居場所を得て、幸せに暮らしている」人の主張だな、と私は感じてしまうんですよ。
実際この本にも、伏見さんご自身は「ゲイコミュニティにも、パートナーを含め身近な人間関係にも満足している」と書いてあるし。
だから、いま現に生きづらさを抱えて、社会と格闘している真っ最中の人間にとっては、「梯子を外された」ような虚脱感を持ってしまったのも事実で。
それについて伏見さんは、先のネットインタビューの末尾に、こんな言葉を残している。社会はあなたのために椅子を用意してくれているとは限りません。社会というものは、すでに出来上がっているものではない。もしその中に椅子がなかったのであれば、自分で椅子を作るしかありません。
この言葉に、私は心を打たれた。
(中略)
それでも、あなたの生き難さが救われなかったら、自分で自分の言葉を探し、紡ぐしかありません。
(伏見憲明 ―コイトゥス再考― 越えがたきジェンダーという背理)
だからちょっとだけ、自分の言葉を紡いでみる。
今、「生きづらい」私の問題は、そもそも「他者とつながる」ための手がかりを持たないことに一端がある。
伏見さんが属するゲイのコミュニティのような、自らのアイデンティティの核となり得るようなコミュニティがそもそもない、ということだ。
そして今は、かつてと違って、「目に見える差別」は減ってきている。
同性愛に対する差別もそうであるように。
自分について言えば、いちばん差別されそうなのは「精神障碍者」という属性だろうけど……それこそ一部の匿名掲示板を除けば、はっきりと目に見える「差別」をする人は、ほとんどいない。
その代わりに、目に見えにくい「排除」の空気は増大していると感じる。
目に見えにくい「社会的排除」に抵抗したい場合には、どうすればいいのだろうか?
それは、「いじめ」においても同じことだ。はっきりと言われる悪口には、対処できる。言い返せばいいのだから。
でも、「無視」「黙殺」というやり方で、じわじわと見殺しにされている人間は、どうやって闘えばいいのだろうか?
社会の中に居場所がなくて、自分を表現する言葉も持たず、所属するコミュニティも見出せない。
今の私が、あるいは私たちが抱える「生きづらさ」というのは、そういう種類のものだ思う。
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