2020.09.12 Saturday

一定期間更新がないため広告を表示しています

| スポンサードリンク | - | - | - |
2012.03.29 Thursday 23:51
どうも、恒例の拍手レスです。
「初めまして」の方に一応ご説明いたしますと、当ブログでは、拍手ボタン経由でいただいたコメントを公開の上、定期的にレスしています。
拍手コメントを公開されたくない方は、「レス不要」にチェックしてコメント送ってくださいね〜。

そういえば、3月11日、当ブログでは震災について特に触れませんでしたが、別に忘れたわけではないのです。
このブログ主は、クリスマスもバレンタインデーもまったく無視してゴーイング・マイウェイに生きておりますので、メディアで特集があったからブログ記事にする、ということはしていません。
被災地の復興については、個人的にいろいろと思うことはありますが、ブログ記事にできるほど考えがまとまっていないのです……。

それとは別に、「挫折や喪失を体験した人間は、どうすれば再び生きる力を取り戻せるのか?」ということ、私がずっと追い続けているテーマだったりします。
自分が読む本も、それに関係するものが多いんですけどね〜。読んで感銘を受けた本ほど、ブログにレビューを書くのは難渋したりして。

そんなこんなでマイペースなブログですが、今後もボチボチやっていきますので、マターリ見守ってください。
では拍手レス、「続きを読む」からどうぞ〜。
続きを読む >>
| ●月ノヒカリ● | web拍手レス | comments(2) | trackbacks(0) |
2012.03.24 Saturday 22:12
学校というのは、じっと椅子に座って先生の話を聞くところだと、子ども時代の私は思っていて、実際のところそうだった。

その意識がちょっと変わったのは、大学浪人して、予備校に通っていたときのことだ。
予備校の先生のお話は、高校までの授業とは違って、すごく刺激的だった。
授業の余談に、ちょっとした社会批評や学生運動の体験を語る先生もいた。

その予備校で出会った、ある国語の先生。
すごく話が面白くて人気の先生だったんだけど、生徒の前で熱く自分の主張を述べたあと、最後は必ずこんなひと言で締めくくるのだ。

「・・・と、ぼくは思うんですけど、皆さんはどう思われますか?」

こう言われたとき、私はちょっと感動したんだよね。高校までの先生は、こんなこと言わなかったから。
「自分の考えを持っていいんだな、先生と違う考えを持ってもいいんだな」って、一人の対等な人間として見てもらえた気がして、嬉しかった。


別の英語の先生は、こんなことを言っていた。
「大学へ行ったら、学問をしなさい。勉強じゃなくて学問だ。この二つは別物だよ。勉強は〈勉めて強いる〉もの。学問は〈学び問う〉ことだ。」
このことばに、目から鱗が落ちる思いだった。
高校までの自分は、「与えられたものをただ受け取る」だけの「勉強」しか知らなかった。
でも、本当の学問は、自分が主体となって問題点を発見し、それについて学び、考え、人に問いかけることだと、そのとき初めて気づいた。


そして一年の浪人生活を経て、実際に大学に入ったら……ちょっとガッカリしてしまったんだよね。
大学は、私にとっては「学問」をする場とは思えなかった。

でもただ一人、教育者としても研究者としても尊敬できる先生がいた。
日本史の先生だったんだけど、高校までに習った教科書の知識を覆すような、それでいて緻密な研究に裏付けられた講義に、私はただただ圧倒された。
専門外だったから、直接ゼミで教わることはなかったのだけど、そのことを後々まで後悔した。
厳しい先生という評判だったけど、試験は穏当なもので、講義を聴いていれば解答できるものだった。

ただ、驚いたことに、この先生の試験問題には、こんな一文が書き添えてあったのだ。
「講義内容への批判・反論も歓迎します」と。
私は講義についていくのが精一杯で、批判や反論なんてとてもできなかったけど……そんなことが書いてある試験問題は、後にも先にも見たことがない。


学生時代は遥かに昔のことで、今はもう、英語も国語も日本史も、習ったことはほとんど忘れてしまった。
でも、あの先生達の姿勢は、今もずっと、私の中に刻まれ、息づいている。
私が「先生」から学んだのは、「知識」ではなかったのだ。



| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(6) | trackbacks(0) |
2012.03.20 Tuesday 23:05
今日は春分の日。
春分というのは、太陽が春分点を通過する瞬間のことなんだけど―――。
星占いの世界では、太陽が「牡羊座」に入って、一年が始まるスタートの時期、西洋占星術上の「元旦」みたいな日なのです。

なぜこんな話をするかと言いますと。
鏡リュウジさんのサイトで知ったのですが、今日は「国際占星術デー」、星や占星術を愛する人の記念日なのだそうです。

え〜実は私、ここでは初めてカミングアウトしますが、かなり、ものすごい星占いファンです。
ジョナサンと鏡リュウジと石井ゆかりの占いは、毎日チェックしているくらい。(すべてネット上の無料サイトです。)

ああでも私は、雑誌とかテレビに出てくる星占いは、ほとんど見ないし興味もないです。
あと、「占い師にお金を払って占ってもらった」という経験もないです。
たぶん私は、「今日はラッキー/アンラッキー」とか、「当たった/当たらない」という占いには、興味が持てないんだと思う。

星占いというと、牡羊座から魚座までの12星座ごとに書かれた占いが一般的だけど……あれは、広い占星術の世界の、ごく上澄みの一部でしかない。
本格的な占星術というのは、太陽・月・水星・金星・火星・木星・土星・天王星・海王星・冥王星の10天体が織り成すホロスコープを読み解くという、かなり複雑で奥が深い世界なんだ。

上に名前を挙げた3人は、星の配置を解読しつつ、それを魅力的な物語にしてくれる、素敵な占い師だと思う。
正確には、ジョナサンはともかく、鏡リュウジさんと石井ゆかりさんは、「占い師」ではないだろう。お二人とも、「自分は占いを信じていない」と言い切っているのだから。

私自身も、占星術をちょっとかじって、これは「科学的に正しい」ものではない、ということはわかった。
でも面白いんだよね。占星術の世界は。

だから私は、星占いを「信じる/信じない」と区分けすることには違和感がある。
むしろ「楽しめるか?楽しめないか?」という次元の話だと思うんだ。

そんで、先週の話なんだけど……。
先週の星の世界では、グランド・トラインと呼ばれるちょっと珍しい配置があった。

☆牡牛座の金星・木星
☆乙女座の火星
☆山羊座の冥王星
これら4つの星がキレイな正三角形を描くという、すごく稀な空のイベントがあったんだ。

実際に先週の日没後、空を見上げたら、西の空には明るい金星と木星が並んでいて、東の空には赤い火星が小さく光ってみえた。(冥王星は肉眼では見えません。)

グランド・トラインは、占星術の世界ではたいへんな吉兆、希望に満ちた配置とされている。
そんなわけで、先週はどんな素敵なことがあるか、ちょっとワクワクしてたんですが……。
実際のところ、自分にとってはなかなかにハードな一週間でした。
といっても、有意義なハードさだったと思うし、得たものもたくさんあったし、決して悪いことが起こったわけではないのですが……。
「ラッキー」とか「アンラッキー」というのは、そんなにきっちり見分けられるものではないんだなと、改めて感じました。

いつも愛読している石井ゆかりさんの星占いサイト「筋トレ」内の、「2012/3/12-3/18 全体の空模様。」をいま読み返すと、思い当たることがいっぱいあって、何ともはや、でした。

皆様にとって、先週はどんな一週間でしたか?

ただ、今回は、「星占いって楽しいよ!」ってことを書いたけど、実は私、単純に肯定はできないんですよね。
「あなたも星占いの世界を楽しもう!」とお誘いすることには、ちょっと抵抗があるのです。
そのあたりの話は、いずれまた機会があれば。


ホロスコープが自分で読める 鏡リュウジ 星のワークブック    星読み+    

| ●月ノヒカリ● | 日記・雑感 | comments(2) | trackbacks(0) |
2012.03.15 Thursday 23:32
ひきこもりに関する著書で有名な精神科医の斎藤環は、「理論は過激に、臨床は素朴に 」がモットーらしい。
それに対して、この本は、「臨床に携わってきた児童精神科医が語る、決して過激ではない、地に足の着いた理論」だ。
この本は、普段私たちが見落としがちな「治療」のマイナス面、あるいは「援助」というものが本質的に孕む危険性を直視している。

「日常的な援助」、すなわち「困ったときはお互いさま」というような双方向の関係は、昔から当たり前にあった。
でも今日、それが「専門的な援助」として、例えば「心理療法」のような形で援助者・被援助者の関係が固定されるとき、そこにあるのは「対等ではない」関係だ。

外科手術のように、患者の体に負担をかける医療行為に「侵襲」があるということは、一般に知られている。
いっぽう、心理療法もまた、身体には触れないものの「侵襲」があるという事実は、見過ごされていないか?

だからこそ、著者は主張するのだ。
「専門的な援助の役割は小さめに。つつましさを忘れた援助は、痛ましい結果を引き起こすおそれがある。」

この本は、心理療法の隆盛に警鐘を鳴らす立場で書かれているから、もしかしたら援助者が読むと「耳に痛い」話かもしれない。
でも私には、ものすごく腑に落ちるところが多かった。

とりわけ私が同感したのは、特定の援助方法にこだわるのではなく、「様々な形の援助が、総体として動いている」という捉え方だ(P.54〜)。
これは著者が提示している例なのだが―――。
学校の規則を守らず、学習にも意欲が持てない中学生の少年がいたとする。教師にとって解決されるべき彼の問題は、規則破りや授業の態度。スクールカウンセラーにとって問題だと感じるのは、低い自己評価や絶望感。彼の家庭にかかわるソーシャルワーカーの目から見ると、問題は家庭の機能不全―――というように、問題の捉え方も解決の方法も、それぞれの専門性によって違いがある。そして多くの専門家がかかわっていたとしても、その「総体」こそが彼にとっての援助であり、心理療法がその中でいちばん優れている、というわけではないのだ。
この「総体としての援助」という考え方は、目から鱗だった。

また著者は、「専門的な援助は、科学的な裏付けがあるから正しい」という通念にも疑義を呈する。
たとえば、心的外傷理論(PTSD)は、アメリカ合衆国でベトナム帰還兵に生じた精神的問題として注目された概念だ。
しかし、同じく戦争の被害にあったベトナム人に生じた精神的問題を対象にしていたなら、症状や概念はまったく別のものになったはずだ、と著者は指摘する。
(このような問いは、宮地尚子『傷を愛せるか』でも言及されていた。)

さらに、安易に治療上の目標とされている「自立」「社会参加」ということばにも、著者は疑問を投げかける。
ひきこもりの人の目標に掲げられることの多い「社会参加」。
しかし、このことばにおいて想定されている「社会」とは、「仕事用の服装に着替えた人たちが経済活動に携わる場」という意味でしかない。それは「社会全体」ではなく、社会の中のごく一部にすぎない。
そのような限られた範囲の「社会参加」にこだわると、かえって息苦しく、痛々しい結果を引き起こしてしまう―――ということは、ひきこもり問題に関わった人には理解してもらえるのではないだろうか。

この本を読む限り、援助者としての著者は、「病気を治療する医師」とは別の姿をしているように見える。
例えば、「発達障害の援助を考える」の章では、著者の援助者としての姿勢が、次のように描写されている。
 発達障害の症状の多くは、彼らが生活をしていくなかで、さまざまな刺激にぶつかることで生まれてくる波しぶきのようなものである。優先されなければならないのは波しぶきを消すことではなく(もちろんそれは小さいほうがいいのだが)、彼らの進路が開けていくこと、すなわち彼らの人生がたくましく進んでいくことにほかならない。援助はあくまでも手助けに過ぎず、彼らという船が自分たちの横で通り過ぎるときに、たとえば風をよけるとか、波の抵抗が小さくなるように手伝うとかいった方法で応援するのが本分なのである。応援団である関係者にとっては、「症状」と格闘するようなイメージはあまり必要でない気がする。あまりに楽観的すぎると発達障害の子どもさんを持つご家族には叱られるかもしれないが、むしろ人生という冒険の同行者として、時には波しぶきを楽しんでもかまわないとさえ思うのだ。

 (鈴木啓嗣 『子どものための小さな援助論』P.98)

ここに描かれているのは、「症状を打ち消す」ことを目的とするのではなく、患者に伴走する者としての援助者の姿だ。

不登校の子どもについても、前々回のエントリ「レールの上を走れなかった人たちへ」に引用したように、著者は「登校させること」が解決方法だとは言わない。
以下の著者の言葉は、ひきこもっていた時間が長かった自分の胸にも、訴えかけるものがあった。
 学校を休むとこれからの社会参加が不利になる、社会経験が不足する、だから早く学校に戻らないといけないと考えてしまう大人たち。そこに見えるのは実に悲しい勘違いの行列であるが、現代では「社会参加」がほとんどお題目のように無批判に受け入れられているため、その悪循環を吟味しようという動きがほとんど存在しないのである。不登校の子どもたちが手に入れられずに困っているのは、疑似経済活動的な登校ではなく、人間本来の自然な生き生きとした生活であり、多様な社会行動のあり方を保証する時間的空間的ゆとりなのだが。

 (鈴木啓嗣 『子どものための小さな援助論』P.133)

経済活動(あるいはその前段階としての学校)という、ただ一つのレールを無条件に肯定するのは、そこから外れた人にとっては、むしろ害になりかねない。
社会とはもっと多様で豊かなものだと知ること。
生き生きとした、自分らしい生活を取り戻すこと。
それが躓いた人にとってのスタート地点ではないだろうか。

・・・本当は、この本にはもっとたくさんの論点があるんだけど、ここでは紹介しきれなくて残念です。
さらっと読んでおしまいにはできない、ずっしりと中身が詰まった本でした。

←拍手はこちら。コメントも送れます。
| ●月ノヒカリ● | 読書感想 | comments(3) | trackbacks(0) |
2012.03.11 Sunday 23:08
え〜ごめんなさい。前回予告した『子どものための小さな援助論』、読み終わってるんですけどね、文章がまとまらず、まだレビュー書けてません。でもすごく良い本です。

今回は、湯浅誠さんのブログ記事に、たいへんな感銘を受けたので、ここでご紹介を。
私は社会運動というものをほとんど経験していないんだけど、湯浅誠さんは、すごく信頼できる、尊敬できる活動家だと感じてきた。
以下のブログ記事は、とても長いけど、とても大事なことが書かれていると思うので。

【お知らせ】内閣府参与辞任について(湯浅誠からのお知らせ 2012年3月7日水曜日)

このブログを見にきてくださる方の中には、ブログやTwitterで活発に政治的な主張をしている方もいらっしゃるので、その方々には特に、心に留めておいてほしい言葉だと感じた。

以下、個人的に心揺さぶられたところ二箇所を引用します。
ひとつは、当ブログの前回のエントリ「レールから外れた人たち」に関係する部分。
そしてもうひとつは、湯浅誠さんが、「社会運動の自己責任」について訴えた部分です。

部分的に引用するのは、文脈を切断してしまう恐れもあるけど、ご容赦を。
(できれば全文読んでみてください。)
続きを読む >>
| ●月ノヒカリ● | 社会 | comments(4) | trackbacks(0) |
←新しい記事 1/2 pages 古い記事→
Search
Profile
Category
Recommend
Recommend
私の幸福論 (ちくま文庫)
私の幸福論 (ちくま文庫) (JUGEMレビュー »)
福田 恒存
たとえ不幸のうちにあっても、私たちが「幸福である」ために
Recommend
新版・小説道場〈4〉
新版・小説道場〈4〉 (JUGEMレビュー »)
中島 梓
わが人生の師。全4巻
Recommend
敗北からの創作
敗北からの創作 (JUGEMレビュー »)
明川 哲也
9・11テロ後「敗北」した私たちにできる「創作」とは?
Recent Comment
Recent Trackback
Links
Admin
Calendar
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< March 2012 >>
Latest Entry
Archive
【WEB拍手】
応援してくれる人、拍手ポチッと押してね↓↓↓
↓ブログ主に小銭を!
note 瑞木理央
https://note.com/waterfield5
(自作短歌置き場です)
Analytics
Sponsored links
Mobile
qrcode
無料ブログ作成サービス JUGEM