2020.09.12 Saturday

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2012.06.25 Monday 00:15
ここ最近読んでいた本というのは、荻上チキの『ウェブ炎上』(ちくま新書)。
ウェブにおける人の行動をクールに考察した本で、レビューを書くかどうかはまだちょっと考え中だけど、得るものは多かった。

私はブログやTwitterを始めて、ネットとより親密に付き合うようになってから、ちょっと気になり始めたことがあった。というのは、ブログにしろTwitterにしろ、意図したわけでもないのに、なぜか似たような人が集まってきている、という現象についてだ。

例えば、先月話題になった生活保護の問題についてなら、「ネット上には河本準一バッシングが溢れている」というのが巷説だったわけですが……私のTwitterのTLやいつも巡回しているブログには、河本準一を叩く人なんて一人もいなかった。
この件についての片山さつき・世耕弘成議員のTwitterまとめがある。ここにまとめられている中では、私は小田嶋隆(@tako_ashi)さんとほぼ同意見で、かつ小田嶋隆さんは、私が前々からフォローしていた人だったりする。つまり、私のTwitterのTLには、そもそも小田嶋隆さんのような意見しか流れてこないんですよ。

同じように、私はとりたてて脱原発を声高に叫ばないけれども、私から見えるウェブの世界には、脱原発を訴える主張が溢れている。
同様に私は、ことさら大阪の橋下市長を批判したことはないけれども、橋本市長批判もまたよく見かける。
それらに私も心情的に同意したくなることは、よくある。(だからこそ逆に、わざわざ自分が同様の発言をしようとは思わないのだが。)

結果として、私が見ているウェブの世界では、いつも「よく知っている、お馴染みの景色」が繰り広げられている(ように見える)。それが自分にとって心地よいのは事実だ。
でも一方で、閉塞感というか、狭い世界に閉じ込められているような息苦しさも感じてしまうんだよね……。
現実もウェブも、本来はもっと多様な世界のはずなのに。

ふと、前々から抱いていた疑問が再び頭をもたげてきた―――というのは、ネット上で行われているあらゆる主張は、実効性のない「ガス抜き」にしかなってないんじゃないか、という疑念だ。

ちょっと話がややこしくなるので、政治的な主張についてはここでは置く。
私がこれまでにこのブログに書いてきたテーマは、ざっくり言っちゃうと、私自身が抱える「生きづらさ」についてだった。
その結果、このブログにはひきこもってたり、メンタルな病気の経験者だったり、何らかの生きづらさを抱えている人に多く来ていただいている。
生きづらさを抱える人達が、このブログを読んでくれて、コメントしてくれること、そのこと自体は、ダメ人間ブロガー冥利に尽きるというか、まったくもって有り難いことである。
生きづらさを抱える人達には、できればこのブログからプラスのものを持って帰ってもらいたいと願いつつ、私も書いているつもりだ。

でもさ、このブログを更新して、コメントのやり取りをしても結局「ガス抜き」にしかなってないんじゃないか―――という虚しさみたいなものが、ふっと胸を吹き抜けることがあるんだよね。

もちろん、生きづらさを抱える私たちが、お互いの生きづらさを語り共有することで、今日一日を生き延びることができるのなら、それはとても素晴らしいことだ。
でも、私がここで書いたり、コメントをもらったりしていることが単なる「ガス抜き」にしかならないとしたら―――私たちを生きづらくさせているシステムそのものは、手つかずのまま残ってしまう。そこに私は引っかかりを感じてしまうんだ。

実を言うと私は、「癒し」という言葉があまり好きではない。だから、このブログを読んだ方に、「癒されました」という感想をもらうのは、かなり不本意だったんだ。

「癒し」という言葉には、日常から離れてなんらかの体験をした後、また「元の日常に戻る」というニュアンスがある。
多くのエンターテインメントは、「癒し」であっても何の問題もないのだろう。「元の日常」に満足している人は、暇つぶしや気晴らしを求めているだけなのだから。退屈しのぎにちょっとした非日常を体験して、また元の日常に戻る。それで何の問題もない。

でも私は、このブログでそういうことをしたいわけではなかった。「元の日常」が耐えがたく生きづらいからこそ、声を出しているのであって。
生きづらさについて、自分の努力で何とかしようとすると、自己啓発本に書いてあることを実践する―――みたいな結論にしかならない。
自己啓発にも良いものはあるし、それを取り入れること自体は、決して悪いことではないんだけど。

でも私は、何度もここで書いてきた通り、生きづらさの解消を「個人の努力」に求めることには、限界を感じている。
だからこそ、個人の努力とは別の形で、「ガス抜き」でも「癒し」でもないやり方で、生きづらい日常を少しでも変化させることはできないか―――と格闘しているのであって。
その格闘が、結果として「ガス抜き」や「癒し」にしかならないとしたら、私にとっては苦い成果なんだよね……。

ここにこんなこと書いても、それこそ「ガス抜き」以上の何かになるとも思えないんだけど。
それでも自分の気持ちとしては、「癒し」が欲しいわけじゃないってこと、ブログの再出発にあたって、ここに確かめておきたい。
続きを読む >>
| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(9) | trackbacks(0) |
2012.06.20 Wednesday 23:29
どうも長らくご無沙汰してましたが、皆様お元気でしょうか。
もうすっかりこのブログのことなんか忘れ去られているんじゃないかしら―――なんてブログ主はひそかに思っているのですが。
それでも時折拍手をくださる方はいるのです。ありがたいものです。

ん〜しばらくブログ更新してないと勘が狂うね。
でもそろそろ再開します。

花
2009年の7月からこのブログをはじめて、もうすぐ丸3年になります。
で、実はブログをはじめるとき、「3年」というのは一つの区切りだと考えてました。
3年経ったらやめようと思ってたんだよね。
何となくブログの賞味期限って3年くらいだと思ってたし、3年も続けたらネタもなくなるだろうし―――あの当時は3年後の自分がどうなってるかなんて想像もできなかったけど。まあ今のところ、変わったこともあれば変わらないこともあったり、です。

で、今の結論としては、もうちょっと続けようかなーと思ってます。
当初書く予定だったことでまだ書いてないこともあるんだけど、それを書くかどうかは別にして。

3年間、その時々に読んだ本や考えたことや自分のこれまでを書き綴ってきて、このブログはもう自分の分身のような存在なのです。
実際のところ、リアルに存在する〈私〉よりも、ネット上にしか存在しない〈月ノヒカリ〉の方が、よっぽど自分らしいと思うこともあったりして。(それがいいことかどうかはさておき。)

「ホームページ」という言葉、今はもうあまり使われなくなったみたいだけど、このブログはまさに私にとっての「マイホーム」です。
だからここに帰ってくるときは「ただいま」なのです。

というわけで、のんびりペースになりますが、またボチボチ更新はじめま〜す。




| ●月ノヒカリ● | 日記・雑感 | comments(0) | trackbacks(0) |
2012.06.11 Monday 21:36
お久しぶりです。
ブログ全然更新できなくてすみません。
毎日アクセスしてくれてる人には、いつもいつもスカばっかりで、ガッカリさせちゃったかもね。ごめんよベイベー。そんな物好きな人いるかどうかわかんないけど。

どうも私は、一つのことで頭がいっぱいになってるときは、どうしても別のことに集中できないんだよね。
本は読み終わってるんだけど、他事が気になってて、感想が書き進まないんです。

そんなわけで更新が遅れていますが、もうしばらくしたら、もっと頻繁にブログを更新できるようにする予定です。
それまでアイスでも食べながら、のんびりお待ちください。




| ●月ノヒカリ● | 日記・雑感 | comments(2) | trackbacks(0) |
2012.06.01 Friday 23:50
私が「統合失調症」という精神疾患の患者だということは、何度かここで明かしてきた。

この病気を「発症」したのは、もう十年ほど前になる。
そのときの驚きは、「統合失調症をカミングアウトすること」に書いた。

でも、あそこに書いた病気そのものの特異性とは別に、自分の中に「差別されることへの恐怖心」があって、それもまた自分を長いこと苦しめてきたと、今になって思う。

私はこの病気を受け入れるのに、約8年かかった。
「病気を受け入れる」というのは、「自分は病気であっても、それが自分の本質を損なうことはないし、それでも生きていていいんだ」と心から思うことができる、そういう状態のことだ。
「自分の本質を損なう」というのは、病気そのものの症状だけではない。この病気について、かつての自分が抱いていた中途半端な知識や偏見が、さらに自分を苛んでいたのだ。

ちょっと思い出話をしよう。
私の通っていた小学校の近くに、G病院という精神科病院があった。
小学生だった私たちは、クラスメイトの中に奇異な行動をとる(ように見える)子に対して、「頭大丈夫? G病院へ行ったら?」、などとからかうように言ったものだった。
子どもって残酷だなあ、と今は思う。
その記憶を思い出すたびに、苦い気持ちになる。今の私は、精神科病院に通う患者なのだから。

また別の話。
子どもの頃、近所で、知的障碍のある子と、よくすれ違うことがあった。
私は何となく、その子が怖かった。「普通」と違うように見えたから。
あの当時、障碍を持った子を「怖い」と感じたその視線が、まさに今、自分自身に対して向けられているように、感じることがあるんだ。

私の中には、ずっと恐怖心がぬぐえずにある。
こうして病気を打ち明けることで、「こいつはキ●ガイだから、こんなやつのいうことはデタラメに違いない」とか、「もう関わりたくない」とか、そんなふうに思われるんじゃないかって。
そして「精神病の人と関わりたくない」と思うのは、おそらく「普通の反応」じゃないかとも、かつての自分を振り返って、思ったりもする。

つまり、これまで自分の中にあった差別や偏見こそが、何よりも、自分を苦しめることになったのだ。

大人になってから、縁あって、身体障碍者とも、知的障碍者とも、精神障碍者とも、それぞれ出会い、関わる機会があった。
その体験は、それまで持っていた障碍者に対するイメージとか、メディアで伝えられる〈物語〉とは別の、まったく独自の体験だった。
「差別はいけない」という綺麗事で語れる話ではない。「障碍者は頑張って生きていて素晴らしい」とか、「障碍者も普通の人間だ」という言い方も、ちょっと違う。
あの体験を、私はまだうまく言語化できない。

精神障碍者というのは、自分もまた当事者で、「当事者にならなければわからない」ということは、確かに存在すると感じる。
でも、そこで終わりにはしたくはない。

去年、このブログで、統合失調症と打ち明けて「それでも受け入れる」と言ってくれた人が少数でも存在してくれたこと、私はすごく嬉しかった。
一方で、ネット上にある精神疾患への差別や偏見に満ちた書き込みを見ると、その度に動揺し、胸が苦しくなる自分もいる。
前者のみと付き合って、後者を見なければいいのだろうか?(もちろん、多くの人はそんな両極端にいるわけではないと思うけど。)

私には、何が正解か、いまだにわからない。
差別や偏見というのは、今も私の内部にあるものだ。おそらく、すべての人の心の中にも。

私たちは、お互い差別し、差別される人間同士(伏見憲明『欲望問題』より)として、話し合うことはできるのだろうか?
とても難しいことだし、遠くてはてしない道のりだけど―――それでも、「この社会で、自分とは異なる人と交わりながら生きていく」ためには、そこを通過しなければならないと、私は思うんだ。



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