2020.09.12 Saturday

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2012.08.31 Friday 22:59
前回書いた通り、火曜から木曜までの三日間、活字を読まないというエクササイズ―――名づけて「活字ダイエット」、やってみました。

まず、「ネットに三日間アクセスしない」なんて、久しぶりのことでした。その上「読書(新聞も含め)もしない、テレビも見ない」という、自分としては珍しい生活を送ったのですが―――ここにその結果をご報告します。ジャジャーン!!

まず、結論から言いますと、「活字を読まなければ、創造性が高まる」というのは、幻想でしたorz
いつもグータラなダメダメ星人が、ネットや活字を断ったからといって、いきなりアーティストに変身できるはずがないのです。まあね、わかってはいたんだけどね……。

でも、やっぱり、「ネットと新聞をやめた」影響はけっこう大きかったみたい。(私は、もともとテレビはほとんど見ないので、テレビの影響はわからないけど。)
なんていうか、「いつも情報に追われている」感じがなくなって、時間がゆったりと流れているような気がしたね。
いつもよりゆっくりご飯を作ったり、掃除をしたり、時間をかけてヨガやウォーキングをしたり、CDを聴きながら瞑想をしたり―――なんだかとっても贅沢な時間を過ごした気分です。
体重もちょっぴり減りました。300グラムほどですが。(「ダイエット」と言えるほどの成果ではないな。)

で、ネットと新聞には、かなり自分の時間とかエネルギーを費やしてたんだなーと、改めて実感しましたね。
ネットのつながりは楽しいし、刺激的ではあるんだけれども……いつも頭の中がざわざわしてるような感覚があったんだよね。
あと、ネットも新聞も、「チェックしなきゃいけない」みたいな、強迫観念みたいなものがあったんだけど……そういう「情報が次から次へと押し寄せてくる」のがなくなって、「やっと一人になれた」って感じ。

・・・と、こんなことを書いたら「いいことづくめ」みたいに思われるかもしれないけど―――実際には、もうちょっと複雑な問題もある。それについて、この三日間考えていたんだけど。

つまるところ、自分は「ネット中毒」だし「活字中毒」なのだろう。
ネットがなくても本が読めれば、まあ生きていけるし、本が読めなくてもネットがあれば、そこそこ楽しい日常を過ごせる。でも、両方なくなってしまったら、自分にとってはかなりしんどい状態になる、と思う。
ネットや活字へ依存というのも、「依存症」の一種かもしれない。アルコールや薬物への依存ほど、問題になることはないけれども。

で、奇しくも先日、ある精神科医の先生がTwitterでつぶやいてたんだけれども……何かの「中毒」になるというのは、「逃げ出したくなるような耐えがたい現実」への対処法という側面があるのだ。
確かに、私にとっても、ネットや本は「しんどい現実」からの避難場所として存在していた、という面がある。

ということは、「中毒はよくないから、それを止めればいい」という、単純な問題では済まない可能性がある、ということなんだ。
それを止めたら、「耐えがたい現実」を直視しなければならなくなるから。

実は私も、この三日の間に、何度かネガティブな気分に襲われた。
長年ヨガをやってきたおかげで、「自分の呼吸を観察する」というメソッドで何とか乗り切れたけど。
あと、ノートは毎日書き続けていたので、その効果もあったかもしれない。

でも、単に「依存だから良くない、中毒だから止める」というのは、無理があるんじゃないかなあと思ったのも事実だ。それよりもむしろ、「つらい現実との向き合い方」を考え直さなきゃいけないんじゃないかと。

ネットにしろ何にしろ、ネガティブな気分のときに、無理に止めようとすると、かえって害になるかもしれない。「精神安定剤を失う」ことになるから。
ということは、もし「やめたい習慣」があるのなら、気持ちが上向きのときにやめてみるべきじゃないかなぁ。

そんなわけで今回、月ノヒカリもまた、じっくりネガティブな気分を味わい、久しぶりに孤独を噛み締めましたとさ。
やっぱダメダメ星人は、永久にダメダメっすね。

・・・と、オチが決まったところで、報告はおしまい。

←拍手はこちら〜。コメントも送れます。




| ●月ノヒカリ● | 日記・雑感 | comments(6) | trackbacks(0) |
2012.08.27 Monday 23:23
先月書いた件からこっち、なかなか調子が戻らなかったのですが……やっとちょっぴり回復してきました。
せっかくなので、ちょっとリハビリを兼ねて、ずっと試してみたかったことをやってみようと思います。

題して「活字ダイエット」。

以前からやりたかったのは、「ネットダイエット」、つまりネットにアクセスする時間を減らしたかったんだけど……実はもうすでに、ネット接続時間は減ってるんだよね。
それをもう一歩進めて、「三日間、活字を読まない」という試練(?)に挑戦してみよう!というわけです。

「三日間、活字を読まない」なんて、普通に実践している人もいるかもしれない。けど、ネットをやめて、なおかつ読書もせず、新聞も読まない生活というのは―――ここ最近の自分には考えられない生活だ。

なんでそんなことをしようという気になったかというと。
だいぶ前に衝動買いした本『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』をパラパラ読んでいたら、「一週間、活字を読まない・エクササイズ」というページに目が止まって、ちょっとやってみようかと思い立ったわけです。いきなり一週間は無理だから、まずは三日間。

この本の原題は「The Artist’s Way」、自分の中の創造性を回復するメソッドがいろいろ紹介されている。内容は、自己啓発とスピリチュアルが混ざったような感じかな。ちなみにこの本でも、「1日3ページ手書きの文章を書く(モーニング・ページと呼ばれる)」ことが奨励されていて、ちょっぴり「スマートノート」に通じるものがある。

「活字を読まない」というのは、「外から来る情報をシャットアウトして、感覚の世界に戻る」というのが目的らしい。(本には、「テレビやラジオも遠ざけておくこと」と書いてある。)
最近では「ネットジャンキー」というのはよく聞くけれども、もっと昔から「活字中毒」という言葉はあったんだよね。読書や新聞を読むことは、ネットよりは高尚で「良いこと」のように思われがちだけど―――実際のところ、活字も刺激物には違いないと思う。自分を振り返って。

それこそブロガーなら、「たくさん本を読んで、一つでも多くのレビューを書く」のが本道かもしれない。
実は今現在、読みたい本も、読みかけの本も、読むつもりで積んである本も、たくさんある。あり過ぎるくらいある。
でも、「たくさん読む」というのは、今の自分にとっては、ちょっと違うなあと感じるんだ。

「たくさん本を読んで知識を詰め込む」ということ、今の世の中では「良いこと」とみなすのが一般的だろうけど―――東洋思想の世界では、逆のことを言う人が結構いる。『老子』にも「学を断てば憂い無し」という一節があるし、私が長年続けているヨガの先生にも、「(知識を増やすのではなく)余分なものを捨てる」ということを、よく教えられる。

だから私も、とっちらかった頭の中をいったんリセットしたくなったんだ。「情報を捨てる」というのを実践してみようかな、と。

ついでに書いておくと、上記の本には「活字を読まないときにやること」がいくつかリストアップしてある。こんな感じ。
・音楽を聴く。 ・犬を洗ってやる。 ・旧友に手紙を書く。 ・植物の鉢を替える。 ・編み物をする。 ・料理をする。 ・水彩画を描く。 ・寝室の壁を塗り替える。 ・繕い物をする。 ・体を鍛える。 ・瞑想する。 ・本棚を整理する。 etc.
「活字を読まないでいると、遅かれ早かれ手持ち無沙汰になって遊びたくなる」というのが、このエクササイズのねらいなんだって。

「もし何もすることを思いつかなかったら、チャチャを踊ろう」なんて親切なアドバイスまで書いてあったのですが……「チャチャ」と言われてもピンと来なかったので、ちょっと調べてみたら、こんなダンスでした。

これは難易度高すぎ! 月ノヒカリはダメダメダンスでじゅうぶんです。
というわけで明日から三日間、月ノヒカリはひねもすダメダメソングを歌いつつ、ダメダメダンスの振り付けを考えながら過ごそうと思います。

「活字ダイエット」が終わったら、またブログ更新しにきますね。
ではまた後日。皆さんお元気で〜。




| ●月ノヒカリ● | 日記・雑感 | comments(0) | trackbacks(0) |
2012.08.23 Thursday 22:55
タイトルが『ウェブ炎上』だけれども、別に「炎上するネットって怖いよね」という話ではない。
前回取り上げた『インターネットは民主主義の敵か』がしばしば参照されていることからもわかるように、「ウェブ上での議論がより豊かなものになることを願って(「著者あとがき」より)」書かれた本だ。
この本は2007年刊なので、現在の状況にはそぐわない部分もある。けれども、『インターネットは民主主義の敵か』と同様に、学ぶべき点も多かった。

ウェブは、自分用にカスタマイズできるメディアだ。
前回も取り上げたように、インターネットは、「デイリー・ミー」と呼ばれる「わたし用にカスタマイズされた新聞」に似ている。Twitterのタイムラインを思い浮かべるとわかりやすいが――ウェブ上では、各人によって「見ている景色が違う」。

そしてウェブ空間は、似た者同士が集まることを容易にする一方で、「デリート・ユー(あなたを排除する)」――つまり不快な意見(ノイズ)を排除することも簡単にできてしまう。それによってコミュニケーションが円滑になる反面、必要な批判であっても排除してしまう危険性がある。

インターネットはしばしば、「他の人の意見を聴く」というよりは、「自作のエコーチェンバー(音の反響する部屋)に閉じこもる」ような、もともとの自分の意見の増幅装置として機能してしまうのだ。
その結果、「集団分極化」(前回の記事を参照)、「サイバーカスケード」(カスケード=小さな滝)と呼ばれるような、極端な言説パターンに向かって集団が滝のように流れていく現象が起こる。
・・・とまあこのあたりは、『インターネットは民主主義の敵か』を敷衍した内容だ。


この本では、日本で実際に起こった「サイバーカスケード」の例がいくつか取り上げられている。
とりわけ題材として興味深いのが、2004年に起こったイラク人質事件についてだ。
当時のネット上では、テロリストへの非難ではなく、「人質となった3人の日本人」へのバッシングが沸き上がるという、異様な光景が繰り広げられた。
この本の第3章、ネット世論が「人質バッシング」になだれ込む仕組みを分析しているあたりからは、学ぶところが多かったので、以下で少し説明してみる。

「マスコミの影響力」というのは、個人がもともと持っている意見や態度を大きく変えることはない。そうではなく、「何が政治的争点であるか」というトピックスの重要性について影響を与えるのだ――という社会学者・大澤真幸の説を引いて、荻上は次のように分析する。
イラク人質事件の際のネット世論では、「立ち位置のカスケード(人質は自己責任か否か)」だけではなく、「争点のカスケード」が起こった、というのだ。

日本のネットユーザーの間では、主として「なぜ人質となった日本人はあんな危険なところへ行ったのか(あの三馬鹿トリオは何を考えているのか)」という問いが共有された。
しかし本来ならば、他にもっと問われるべき論点があったはずなのである。例えば、「なぜ日本人がテロリストに狙われるのか(テロの生まれる背景は何か)」とか、あるいは「政府はどう対応するべきなのか」「イラク戦争は是か非か」「それを支持する日本政府は是か非か」といった政策提言の水準で議論をするための問い。

もし「人質は自己責任」というサイバーカスケードを批判したいのなら、それを無化あるいは中和する方法を考えなければならない。
単に反対意見を述べるだけでなく、議題自体を変更したり、論点を再構築する力が必要なのだ――という提言には、目から鱗が落ちる思いだった。

「本当に問うべき論点」を構築する力のある論者は、今ではネット上の言論空間でもしばしば見かける。

例えば数ヶ月前、タレントの河本準一氏の親族が生活保護を受給していた問題でバッシングが起こった際、きっちりと論点を示して批判した例をして、下記のブログがある。
■「河本準一氏叩きで見失われる本当の問題」(絵文録ことのは)
「そもそも不正受給だったか」「親族に扶養義務はあるのか」「バッシングの結果起こり得るマイナス面」といった、「本当に問われるべき議題」に焦点を当てて書かれた良記事だと思う。

また、原発関連では、「反原発派と推進派の二極対立」ではない議論を提起するコラム記事もある。
■大飯ぐらいは働かさなきゃダメか?(小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」・日経ビジネスオンライン)
小田嶋隆さんは、国民世論の7割は「ゆるやかな脱原発派」であるという現状認識のもと、国のエネルギー政策の大方針という鳥瞰図から見た「再稼働」を検討するべき、という持論を展開している。


インターネットを、自分の声を聞く「エコーチェンバー」としてではなく、さまざまな価値観をもつ人同士の「翻訳装置」として機能させること。ウェブ空間で、さまざまなトライブ(種族)を、「分断」するのではなく、「横断」する流れを構築すること。

この本の中で荻上は、スピーディーなカスケードに対して、ゆったりと言説を蓄積できる場所――即時性を重視する衆議院に対して、時間をかけて言説を吟味し、良識の府たろうとする参議院のような役割を担うようなハブサイトを構想していた。(それを具現化した場所の一つが、「シノドス」なのだろう。)

ただ、シノドスも含め、そのような議論のプラットフォームがネットユーザーに共有されるのか?と考えるに、はなはだ心もとない気もする。
先のイラク人質事件の際も、「ブログではまっとうな議論が行われていた」という意見に対して、「議論を求めている人は喧噪を避け、議論が成立しているブログに集まったから、そう見えるだけだろう」――というのが著者の見解だった。
議論の土台そのものが「分断」されている現状。
加えて、ネット上の情報の流れはますます速くなり、ウェブが言説を積み上げる場所(ストック)ではなく、フロー型のコミュニケーションの方が中心になってきていると感じる。熟議とは程遠い、脊髄反射的な反応も、Twitter等では散見する。

そんな脊髄反射的な反応も含めた「政治空間」を構想したのが、東浩紀の『一般意志2.0』なのだろう。
私は『一般意志2.0』、未読なんだけれども……『ウェブ炎上』の著者、荻上チキが、東浩紀にインタビューしているシノドスジャーナルの記事は興味深い。
「一般意志2.0」を現在にインストールすることは可能か? 東浩紀×荻上チキ

「熟議には限界がある」という東浩紀が、それを補完するものとして「政治空間をニコ生化する」構想を展開する。
東浩紀は「リベラル」「左派」に対して挑発的な言葉を投げかけているけど……例えば次のような東の提案は、有意義でもあり、かつ実現可能でもあるのではないだろうか。
(東浩紀発言)それこそ、南京大虐殺とかアジアに関するアカデミックなシンポジウムなんて数えられないくらい開かれているんだろうけど、そういうのをすべてニコ生とかで中継して、ネトウヨ板やVIP板に貼られて、どんどんコメント受け付けたらいいと思うんですよ。そうすれば、自分たちがどういう国で、どういう環境で喋っているのかがわかる。そのうえで「共存」とか「リベラル」とか言ってほしい。『一般意志2.0』はそういうことを提案した本でもあります。

 (http://synodos.jp/info/1651/11

地理的・時間的に、あるいは階層的にかけ離れた場所にいる者同士が、容易につながることができるネット空間。
「異なるトライブを接続する」場所としてのウェブには、リスクだけじゃなくて、可能性もあるはずだ。

ネット空間がどう変化しようとも、私はきっと「ゆっくりと考える」ことしかできないだろうけど……それでも自分なりに、できれば有意義な議論に関わっていきたい、と思う。
『ウェブ炎上』、 自分もまたウェブで発信していく上で、多くの示唆を受けた本でした。




| ●月ノヒカリ● | 読書感想 | comments(0) | trackbacks(0) |
2012.08.15 Wednesday 23:25
荻上チキの『ウェブ炎上』の元ネタになっているのがこの本らしい、と知って読んでみた。

著者はアメリカの憲法学者。
原書は2001年刊、邦訳は2003年刊なので、ネット論としてはやや古いし、今さら感があるんだけど……「メディア環境の激変の中で、民主主義はどうあるべきか」というテーマ自体は古びていない。
一貫して「討議型民主主義」を支持する著者が、民主的な制度を維持するために必要な条件として掲げているのは、以下の二つだ。

(1)市民は、自分が最初から意欲的に選ばなかったような、さまざまな話題への思いがけない接触が必要である。
(2)市民は(マスメディアを通じての)共通体験をもつべき。

「表現の自由」というのは、「政府の検閲がなく、個々人が自由に情報を選択することができる」ことだと一般的には考えられている。
でもそれだけでは不十分だ、というのが著者の主張だ。

インターネットは、ユーザーが入ってくる情報を好きなようにカスタマイズできる。ウェブ上では毎日、「わたし用にカスタマイズされた新聞」(「デイリーミー」と呼ばれる)を受け取ることができる。自分がフォローした人のつぶやきだけがタイムラインに流れるTwitterは、まさに「デイリーミー」に当たるだろう。

私たちは意識的にであれ、無意識的にであれ、ネット上でフィルタリング(情報のふるい分け)をしている。
もちろんフィルタリングというのは、ネット上に限ったことではない。いつも見ているニュースや購読している新聞、読書傾向や所属する集団もまた「フィルタリング」されたものだ。

でも、新聞を読んでいれば、ふと隣の記事――例えば、もともと興味のなかった国際問題についての記事――が目に入ることもある。あるいは一つのニュース番組を最初から最後まで通して見ていれば、政局から環境問題まで、さまざまな話題に触れることができる。
だが、インターネットの普及によって、そういったマスメディアの存在感が低下しているのは事実だろう。「自分の興味のある話題にしか、アクセスしない」という人は増えているし、メディア環境もそれを可能にしつつある。

個人が前もって、好きなように情報を選択できるという状況は、情報の消費者としては喜ばしいことかもしれない。しかし「無制限にフィルタリングできる(完全なフィルタリングが可能になる)状況」には、マイナス面もある。

まず、共通体験が失われることにより、社会の接着剤が失われ、分裂が進む――というのが一つ。
さらに、分裂化はときに、深刻な社会的リスクをもたらす――というのがもう一つの論点である。

「集団分極化」と呼ばれる現象がある。
「グループで議論をすると、人は、異なる意見に歩み寄るよりはむしろ、もともと持っていた性質を強化し、その延長線上にある極端な立場へとシフトする可能性が高い」という現象だ。例として、「討議後には、穏健派フェミニストの女性がもっと過激になる」といったものが挙げられている。これは過去にリアル社会で起こってきたことであるが、ネット上ではよりわかりやすい形で観測される。
色分けされた無数のグループが、それぞれのグループ内での議論に没頭した結果、バルカン化(=蛸壺化、島宇宙化)が進む。バルカン化(蛸壺化)されたグループ内での議論は、反対意見を排除し、しばしば過激主義に陥る。これもまた、「無制限のフィルタリング」が引き起こす問題点である。
そういった集団は、社会にとって危険な、テロやカルト、ヘイトグループの母胎となる可能性がある、と著者は警鐘を鳴らす。

しかし、「過激だから悪い」というのは短絡的すぎる、という指摘もしている。
集団分極化は、市民権運動や男女同権運動(これらは当時としては過激な思想だった)といった政治的意義のある運動を促進するものでもあった。
現在でも、ある種の人々にとっては、分極化されたネット上のグループそれ自体が「恩恵」であるケースも多いだろう。例えば、身近で得られる情報が少ないセクシャルマイノリティ等の人々にとっては。

この本の原題は Republic.Com であり、決して「インターネットは民主主義の敵だ」などと主張する本ではない。
この本に書いてある現実的な政策提言としては、マスト・キャリー(掲載義務)ルール――つまり、反対意見の書いてあるサイトへのリンクを貼ろう(できれば自発的に)、というものだけだ。
マスメディアの報道は、「公平を期して」政権政党だけではなく、他の政党も取り上げることが多い。そのような公平性を、ネット上でも実現しようという目論見である。
が、これは、この本の発表から十年経った今、実現されたとは言い難い。
一つには、「公平なサイト」というのは、画一的でつまらないものになりがちだから――じゃないだろうか。ウェブ空間は、タブロイド紙並みに、あるいはそれ以上に扇情的な情報が多いのが現実だ。だからこの本は、政策的な提言という意味では、ちょっともの足りない。

ただ、「あるべき民主主義」と「メディアあり方」については、興味深い視座を与えてくれた。
とりわけ、消費者としての立場(消費者主権)と、市民としての立場(政治的主権)を分けて考える視点は、示唆に富んでいる。

「消費者」の視点から見ると、自己利益を優先すること、すなわち、好きな情報を好きなように選択できることこそが望まれている。
しかし「政治的主権」という視点から見ると――つまり民主的な政治を目標とする「市民」という立場から考えると、個人の嗜好だけを問題にするのでは不十分なのだ。

「市民」としての立場では、「自分は直接恩恵を受けなくても、他の人たちのためになる話題を知ろうとする」スタンスが必要なのだ。環境保護や福祉、戦争といった公共の問題を市民が共有するためには、「自分がもともと選ばなかったような思いがけない接触」が重要になってくる。
例えば、自分はアニメしか見なくても、「公共放送は政治的な問題についてもっと取り上げるべき」と考える人は多いだろう。
個人が「好きなものを好きなように選ぶ」だけでは出会えなかったような、多様な視点や話題、政策への本質的な問いや回答に触れることの重要性を、著者は繰り返し説く。

著者の主張の核は、20世紀前半に最高裁判事であったルイス・ブランダイスの「言論の自由」をめぐる発言の、以下のような引用に表れている。
「自由の最大の敵は消極的な国民である」。さらに、「公開議論は(権利であるだけでなく)政治的義務である」。
民主政治を維持するためには、市民による継続的なコミットメントが必要であるということ。それこそが、いささか理想主義的ではあるが、民主的な政治において、市民に求められる社会的役割なのである。

さらに、アマーティア・センによる「世界史上、民主的な報道機関と自由な選挙制度をもつ体制のもとでは、飢饉は起こっていない」という指摘も興味深い。飢饉は食糧不足の必然的結果ではなく、社会的な産物なのだ。


また、末尾の「訳者あとがき」で触れられていた、ジョン・デューイ(米の哲学者)とウォルター・リップマン(米の社会評論家)の民主主義についての論争のトピックも、この本を理解する一助となった。
デューイは「多くの国民が政治プロセスに参加することにより、市民として目覚め、人間として成長する機会こそが民主主義だ」と主張した。
一方、リップマンは、「一般市民は公的な意思決定に直接関わるべきではなく、権限を委託する専門家(エリート)を選出するだけでよい」と述べる。

「おまかせ民主主義」と呼ばれる日本の戦後民主主義――政治家や官僚に公的な意思決定を丸投げし、国民は積極的に関与しない――は、後者に近いだろう。
他方、この本の著者サンスティーンは、前者デューイの伝統を継承している。一種の参加型直接民主主義の立場である。

合衆国のニューイングランド地方では、植民地時代から、直接民主制による地方自治の伝統(Wikipedia: タウンミーティング)があったという。
そのような伝統のない日本で、デューイの主張するような民主主義が根付くかどうかはわからないけれども……数ヶ月前に読んだ、宮台真司のブログ記事(ワークショップを社会学的に論じる文章)にあった「住民投票とワークショップの組み合わせ」は、それに近いラインじゃないかと感じた。
住民投票を前に、住民たちが専門家の意見を聴き、「本当のところはどうなのか」を見極める営みとしての地域ワークショップ。宮台は、「参加&自治を通じて新たな気づきを獲得することこそ、民主主義の本質なのだ」と述べる。

伝統的かつ正統派の民主主義の理念を受け継ぎ、次世代に引き渡すこと。
それこそが、著者サンスティーンの根幹にあるメッセージだろう。

ここでは書ききれなかった点については、次回、荻上チキ『ウェブ炎上』のレビューで触れたいと思う。




| ●月ノヒカリ● | 読書感想 | comments(3) | trackbacks(0) |
2012.08.05 Sunday 23:10
ごくたまに、暗く深い穴に落ち込むことがある。
その穴の中には、不安や恐怖や猜疑といった負の感情が蠢いていて、その闇が私を捉え、苛み、支配する。
ちょっとした気晴らしをすることで、つかの間、その穴の存在を忘れることはできる。
でも決して、穴は埋まらない。その穴は、私の心にあいた穴なのだから―――。

・・・などとメランコリックな書き出しで始めてしまったのですが、実はつい最近も、そんな気持ちになったのです。鬱々とした沼の底に嵌まり込むような感覚。
おいしいものを食べたり、漫画を読んだりして、気をそらすこともできるんだけど、気づくとまた、そこに戻ってきている。

でもそんなとき、ふと手に取った本の、とある寓話を読んで、ちょっぴり心が軽くなりました。こんなお話です。
「昔ある男が、天国と地獄はどんな所なのか知りたいと考えた。男はまず地獄を見に行った。そこはまずまず良い所のように見えた。人々はそれぞれの部屋に暮らしており、夕飯の鐘が鳴ると彼らは部屋から出てきた。彼らは、長い脚と長い腕をした背の高い人々だった。彼らは長いテーブルの両側に座り、皆不安げで空腹そうだった。食事もまた申し分なく、米とパンと野菜が給仕された。人々は食事を始めスプーンで食べ物をすくって口に運ぼうとするが、彼らの長い腕は固くて曲がらないので口に届かず、食べ物は彼らの肩越し背中越しに床に落ちてしまった。先ほどテーブルの上にあったものは、今では床の上にあった。訪問者の男は笑ってしまった」

「それから男は天国を訪れた。天国は地獄とそう違うようには見えなかった。住民たちは中庭の周囲にある部屋に暮らしており、訪問者の男は、時折笑いの交じった話し声を聞くことができた。しばらくして夕飯の鐘が鳴った。長い腕と長い脚をした人々が幸せそうに部屋から出てきて、長いテーブルの両側に座った。地獄とまったく同じ米とパンと野菜の食事が給仕された。しかし、食事が始まると、人々は自分の口に食べ物を運ぼうとする代わりにそれぞれの向かい側の人に食べさせた。互いに食べさせ合うことによって、食べ物を無駄にすることなく飢えは満たされた。訪問者の男は再び笑った」

 (サティシュ・クマール『君あり、故に我あり』P.127-128)

天国も地獄も外形はよく似ているのに、そこに住む人の行動がちょっぴり異なるだけで、まったく違う世界が広がっている。そこが面白い。
「心の持ち方一つで世界は変わる」なんて、言うつもりはないけれども。現実には、そんなにすぐには変わらないけれども。
でもね、同じ場所に住んでいるのなら、できれば私は、地獄ではなく天国をイメージしながら、毎日を過ごしたい。 自分で自分の穴を塞ごうとするのではなくて、他の人の口に食べ物を運ぶことで、お互いに満たされるような世界。そっちの世界を選びたいな。

・・・とまあ、そんなふうに考えられるようになったのは、つい最近なんだけどね。ちょっと前までは「深い穴の底こそわが棲み家」なんて思ってたくらいだから。穴から出られる程度には、自分は「回復」したみたい。

ところで、上の譬え話を読んで、とある詩を思い出した。
とても有名な詩なので知っている人も多いと思うけど、その詩もここに書き写しておきます。
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| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(4) | trackbacks(0) |
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