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2020.09.12 Saturday
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2012.11.29 Thursday 21:13更新をサボってるうちに、すっかり寒くなりましたが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
月ノヒカリはめっきり秋らしく、アンニュイな気分に浸っていたのですが……そろそろ冬籠りの支度を始めようかと考え中です。(つまりはいつも通り、ひきこもってダラダラしようという魂胆です。)
ところで皆さんは、無性にケーキが食べたくなるときがありませんか。
生クリームのぽってりした感触を恋しく想う日はありませんか。
でもケーキ屋に行くのが面倒だったりしませんか。
そんなときにピッタリのモノを見つけてしまいました。
明治のドレア(Dorea)、ご存じでしょうか?
これね、初めて見つけたとき、写真からなんとなく、雪見だいふく的なモノを想像していたのですよ。
そんで私は、凍えそうに寒くても、たとえ雪が降ってても、アイスへの愛は決して消えないくらい、アイスクリームマニアなわけですよ。
おいしそうなアイスを見つけたら、買わずにはいられないわけですよ。
当然のごとく買ってみましたよ。
で、実際に食べようしたところ、これが予想を裏切るシロモノでした。
まずこれね、冷凍庫から出してすぐに食べちゃダメらしい。さあ食べようと、いそいそと外箱を開けたら―――パッケージにこんなことが書いてあるんですよ。
「一度でいいから、冷蔵庫で90分以上解凍し、24時間以内に食べてみてください。おいしくなります!!」
えぇぇぇえ〜〜? 今食べたいのに! すぐ食べたいのに!!
なんてブツブツ言いつつも、書いてある通り冷蔵庫で解凍し、じ〜っと待ちました、待ちましたよ。
待ってる間にすっかり存在を忘れちゃって、翌日になってしまいましたよ。
でもまあ「24時間以内」って書いてあるからいっか、と気を取り直し、食べてみました。
結論。アイスじゃなかった。むしろケーキに近い。
スプーンですくって口に中に入れると、こってりした生チョコの中に、ふわっと生クリームが入ってる。これはうまーい!!
食べた後でパッケージをよくよく見ると、「アイスクリーム」じゃなくて「洋生菓子」と書いてありました。
アイス売り場にあったから、当然アイスだと思ってたのに!思ってたのに!!
予想外の展開に、ダメダメ星人もビックリ。
でも美味しかったから、どっちでもいいことにしよう。
このドレアのフレーバー、チョコと抹茶の二種類あるのです。
私はチョコの方が好きだけど、抹茶味もなかなか。抹茶風味の生チョコの中にふわっと生クリーム、上品な味わい。
お値段は、二個入りで294円が定価らしい。私がこれまでに見つけた最安値は、某スーパーの235円でした。
今までチーステ命だった月ノヒカリは、今ではすっかりドレアの虜。
冷凍庫を開けると、いつでもケーキ(っぽいもの)が入っていて、好きなときに食べられるというのは、夢のような贅沢です。(ダイエット中なら「悪夢」かもしれんが。)
解凍するのが面倒になって、冷凍庫から出してすぐに食べたこともあるけど……やっぱりクリームのふんわり食感が楽しむには、少し解凍した方がいいみたい。
私のおすすめは「冷蔵庫で30分解凍」。ちょっぴりクリームがひんやりしているくらいが食べごろだと、個人的には思っております。
でもやっぱりね、たまにはさ、本物のケーキが食べたいよね。特に誕生日ならなおさらね。
ちなみに月ノヒカリの誕生日は13月13日です。(わが故郷ダメダメ星では、1年は16ヵ月あるのです。だから年末なんてまだまだ先っ!クリスマス?何それ?)
というわけで、月ノヒカリの誕生日には、皆様ぜひケーキとかケーキとかケーキとか、ダメダメ星まで送ってくださいね。
待ってまーす。
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2012.11.18 Sunday 00:04L. フェスティンガー,S. シャクター,H.W. リーケン
勁草書房
¥ 5,250
(1995-12)
■斎藤環先生 pentaxxx の「嘘つき」Uの話。(Togetter)
このツイートの後半は、某ジャーナリストを揶揄したものだろうが……私が引っかかったのはそこではない。数年前、ES細胞の論文捏造事件でニュースになった韓国の黄教授について、「黄教授の捏造が徹底的に暴かれ、科学者としての信頼を完全に失ってしまった後も、彼を根強く支持しつづける者が大勢いた」と書かれた部分。
ふと『「負けた」教の信者たち』に、これと似たような話が載っていたのを思い出したのだ。
というのは、17世紀に登場したユダヤ教の(自称)メシア、サバタイ・ツヴィにまつわるエピソード。サバタイは当時のユダヤ人コミュニティにおいて熱狂的な支持を集めたのだが、それに危機感を持ったトルコのサルタンに捕らえられ、なんとイスラム教に改宗してしまったのだ。しかし奇妙なことに、メシアの背教という裏切りにもかかわらず、サバタイをメシアとする信仰は存続したという。
このちょっとそそられるエピソードについて調べているうちに、この本、『予言がはずれるとき』の存在を知ったのだった。
原著は1956年刊、社会心理学の古典らしい。
3人の著者の連名になっているけれども、その一人、レオン・フェスティンガーは「認知的不協和」理論の提唱者として有名。
「認知的不協和」については、wikiにも載っている「喫煙者の不協和」の例が、説明としてわかりやすいだろう。
この本『予言がはずれるとき』には、「この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する」というサブタイトルがついているが、その根幹にあるのが「認知的不協和」理論だ。
歴史上、この世の終末を予言(しかも「○年○月に世界は滅ぶ」などと、具体的な日付まで特定)した宗教団体は、数多く存在する。だが、そういった予言は当たったためしがない。「予言がはずれた」と明らかになったとき、信者はどうしたのか?
普通に考えれば、「信じていたことが間違っていた」と認識を改めると思うだろう。
しかし著者の説によると、予言がはずれた後に、むしろ信念が強固になり、布教活動が活発化する例が多く見られるというのだ。
なぜか?
著者の説明によるとこうだ。
「世界が滅びる」という予言を信じ、それに基づいて行動した人たちにとって、「予言がはずれた=終末がやってこなかった」と明らかになったとき、重大な不協和が起こる。その際、ある種の人々にとっては「(予言を信じた)自分が間違っていた」と認めるよりも、不協和に耐え忍ぶほうが、まだしも苦痛が少ないらしい。とりわけ予言に強くコミットメントした人たち(終末にそなえて、財産を捨てるとか、仕事を辞めてしまったという例が多い)にとっては。
しかし、「終末は来なかった(=予言がはずれた)」という紛れもない事実は残る。そこで彼らは、さらに熱心な布教活動をするようになる。もしそれが功を奏して信者が増えれば、自分の周囲には同じような信念をもつ人ばかりが集まり、世間の冷笑も気にならなくなり、不協和は低減される、というわけだ。
第一章では、歴史上の文献から、終末予言を行なった宗教団体の事例を引き、予言がはずれた後の信者の行動について解説している。(サバタイ・ツヴィのエピソードもその中に含まれている。)
この第一章を読む限りは、堅苦しい学術書のように感じたのだけれども……第二章以降はガラッと雰囲気が変わった。ここから終章までは、著者たちがまさに同時代に、「終末」を予言したグループを見つけ出し、潜入観察した記録なのだ。これがなかなかに愉快な展開だった。
主役をつとめるキーチ夫人(仮名。実名は巻末の訳者解説で明かされている)は、いわゆる「チャネラー」である。クラリオンと呼ばれる惑星の、高次の存在(守護霊だとかイエスの化身だと信じられている)からメッセージが送られてくると主張し、それを筆記しているのだ。
キーチ夫人はある日、「(1954年の)12月21日に大洪水が起きて、世界は水没する」というメッセージを(彼女が信じる高次の存在から)受け取る。しかし選ばれた者たちだけは、空飛ぶ円盤に乗せられて別の惑星に移住できる、と信じている。キーチ夫人の周囲には信奉者が集まり、小規模ながら「UFOカルト」とでも呼ぶべき小集団を形成していた。(蛇足ながら、キーチ夫人のメッセージというのは、とりたててオリジナルな内容ではない。ラエリアン・ムーブメント等、この手のUFOカルトにありがちなものだった。)
9月末に新聞記事になったその「予言」に出会ったとき、3人の著者は狂喜したと言う。上記の理論について、直にデータを収集する機会に恵まれたからだ。著者らは数人のメンバーと共に、「予言の日」までの約3ヵ月間、観察者としてグループに潜入し、観察を始めることになった。
この記録がとんでもなく面白いのだ。どこにでもいそうで、でもちょっぴり風変わりな登場人物や、素っ頓狂な出来事が生き生きと描写されていて、コメディタッチのドラマをみているよう。
キーチ夫人を盲信するアームストロング医師夫妻、UFOマニアの学生や、いきなり「造物主が憑依した」とトランス状態で語り始める女性まで登場し、まるで『トンデモ本の世界』に出てきそう人たちの大集合なのだ。
大学生を含め、高い教育を受けた人(自然科学系の博士号を取得した人もいた)までもが、こういう話を熱心に信じているあたり、首をひねってしまうところだが……巻末の訳者解説によれば、科学的思考とオカルトへの関心が共存する例は、西洋でも多く見られるという。(オウム真理教もそうだった。)
この観察記録に次々と出てくる珍妙なエピソードに、読んでいて思わず失笑してしまうこともしばしば。
アームストロング博士は40代の医師だが、キーチ夫人のもっとも熱心な信奉者だ。笑っては悪いと思いつつ、いい年した大人が、「空飛ぶ円盤にピックアップされる」と本気で信じている様子は、なんというか、心なごむものがある。
こんなエピソードもある。
アームストロング博士宅では、UFOやらオカルトやらに関心をもつ学生を集めて、定期的にミーティングが行われていた。
ある観察者がそのミーティングに参加した際、そこにいたメンバーに手紙が回され、サインを求められたという。その手紙は、アイゼンハワー大統領に宛てたもので、「空飛ぶ円盤について空軍が収集した秘密情報を公開してほしい」という内容だった(P.96)―――などと何気なく書いてあるのが、なんともおかしい。
また別の女性観察者が、アームストロング夫人のもとを初訪問した際、夫人に「あなたは派遣されてきたのです。彼らが、あなたを送り込んで来たのです」などと言われて、慌てたシーン(P.93)にも、思わず笑ってしまった。彼女は観察者として派遣されたのがバレたのかと焦ったのだが、アームストロング夫人は「守護霊が彼女を派遣してきた」と言いたかったらしい。
この手の「こじつけ」は、このグループでは日常茶飯事らしく、この後も何度も描写されている。
「予言の日」が迫るにしたがって、キーチ夫人宅を訪れる者は誰でも、「守護霊からのメッセンジャー」にされかねない状態だった。著者の一人がキーチ夫人宅のミーティングに訪れたとき、夫人に「あなたが指令を持ってきたんでしょう。私たちを導いてください」としつこく迫られ、困惑したシーン(P.121)―――これもギャグとしか思えなかった。
末尾の「方法論に関する付録」に付記されているが、著者らが身分を隠して(つまり研究目的は内緒にして)グループに入って観察したことは、「学問としての客観性」という意味では、疑問が残る。著者や観察者は、できるだけ中立性を維持しようと努めたらしいが、当然のことながら、キーチ夫人らの活動に何らかの影響を与えてしまったはずだ。
(しかし、たいへん興味深いフィールドワークの記録であることに変わりはない。)
真面目な学術書だというのに、この先――とりわけ「予言がはずれるとき」には――どうなるのか、ワクワクしながらページをめくり続けてしまった。
詳しい過程は実際に読んでもらうとして、結論としては―――当然、洪水なんて起こらなかった。予言ははずれた。そして著者の仮説どおりの展開になった。
それまで「選ばれた人のみが救われる」と信じ、マスメディアへの露出や広報活動を避けてきたキーチ夫人は、予言がはずれた直後に一転、自らマスコミに電話をかけ、活発な布教活動を始めたのだ。
巻末の訳者解説によると、終末予言がはずれたときによく用いられる論理は、「(霊的な存在によって)人々に試練が与えられた」とするか、「我々の祈りが届いたから、危険は回避された」とするかのどちらかだという。このグループでも、その両方の論理が用いられ、予言は正当化され続けた。
どうも予言の日の直前にメンバーが漏らした発言から察するに、(予言を信じて)仕事を辞めたり、貯金を使い果たしてしまったために、もはやメンバーの者たちは「洪水が起きてもらわなければ困る」という心境だったらしい。
ここからも、コミットメントの強かった者(仕事を辞めた人とか)ほど予言に執着し、コミットメントが少なかった者(もともと懐疑的だった人)は、信念を捨て去るのは比較的たやすかった―――ということは理解できる。
興味深いのは、予言がはずれたその瞬間、およびその後の数日の過ごし方が、「予言がはずれた後、信念を捨て去るか、あるいは保持し続けるか」に影響している、という事実だ。
第七章「予言のはずれに対するリアクション」によると、予言は成就しないとはっきりしたその日、同じ信念を持つ人たちと過ごした人は、信念を保持し続け、むしろ強化する傾向が見られた。
逆に、家族の反対にあったり、家が遠かったりで、その場に居合わせなかった人は、予言がはずれた後、信念を放棄した。
ベルタ・ブラツキー(“造物主が憑依”した女性だ)が、自身の心境を説明した部分(P.262)は、わかりやすいだろう。「(同じ信念を持つ)皆と一緒にいるときは、疑わなくてすむ。でも一人になると、疑問がわいてくる」とのこと。
つまり、同じ信念を持つメンバーと絶えず会って支え合わないと、(予言の失敗によって生じた)不協和を低減できないのだ。
この説明は、集団と個人との関係を考える上で、いいヒントになる。
もしカルトから脱会したい・させたい場合は、物理的な距離を置くことが重要になるだろう。
逆に、例えばアルコール依存症の人が断酒したいときは、同じ目的を持つ人とともに過ごすのは、有益なことなのだろう。
この本に出てくるような「UFOカルト」なんて、特殊な人たちの話だと思ってしまうけど……冒頭で取り上げた斎藤環先生のTwitter発言にあるように、現在あらゆる場所で「プチカルト化」とでも呼ぶべき現象が生じているように思う。
まして「認知的不協和」はあちこちで見られる、自分も身に覚えのある話だ。
といっても私は、カルトでもさほど害のないものなら、別に信じててもいいんじゃないかと思うのだけれども……でも身内がカルト信者になったら嫌だろうなあ。
(これも蛇足ながら、この本のエピローグにさりげなく書かれていた「金銭の申し出については、彼らは決まって拒絶した」という一節には、彼らがいわゆる「金儲け目的」ではないとわかっただけに、かえって不気味さが増した。)
というわけで、カルトの論理や「認知的不協和」について考える際に、この『予言がはずれるとき』、押さえておきたい一冊ではないでしょうか。
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2012.11.10 Saturday 23:46
多くの同世代の女性にとって、心ときめかせる懐かしい名前ではないだろうか。80〜90年代にかけて、大人気だったコバルト小説作家。
とりわけ印象に残っているのは、平安時代を舞台にした『なんて素敵にジャパネスク』シリーズ。中学時代、クラスの女子の大多数が読んでいたくらいで。
90年代半ば、『銀の海 金の大地』シリーズが一段落した後、さっぱり新作が出なくなって、寂しい思いをしていた。
そして4年前、いくつかの未完結作品を残したまま、氷室先生は他界された。
だから、今年の夏、コバルト文庫の新刊情報に「氷室冴子」の名前を見つけたときには、思わず目を疑ったしまったのですよ。
表題作の「月の輝く夜に」は、単行本未収録作品らしい。かなり心が動いたのだけれども、買うべきかどうか、しばし悩んでいた。
結論から言うと、買ってよかった。
「月の輝く夜に」は、わずか70ページ弱の短編ながら、氷室冴子らしい佳品。平安時代ものだけど、ジャパネスクシリーズみたいな、コメディタッチの話ではない。
恋愛の負の面――嫉妬、秘めた恋、果たされなかった誓約、誰も愛さない人――を描いた小説。読み進むごとに、登場人物の複雑な心理があらわになり、一筋縄ではいかない。胸の奥に、重い石を投げこまれたような読後感。それでも決して不快ではない、これぞまさに氷室冴子ワールド、という感じで。
こういう小説が「コバルト」に掲載されていたという事実に、ちょっと驚く。
そして久々に読み返した「ざ・ちぇんじ!」、思いのほか楽しかった。
こちらは「月の輝く〜」とは打って変わってコメディタッチの軽いノリで、読みながら何度も吹き出してしまった。
「ざ・ちぇんじ!」は、古い文庫を今も持っているのだけれども、それには「新釈とりかえばや物語」というサブタイトルがついていた。つまり、古典文学の「とりかへばや物語」を氷室冴子流にアレンジした作品なのだ。ひと言で説明すると、そっくりな男女の姉弟の入れ替わりモノ。
男っぽく育った姫が、なりゆきで元服して朝廷に出仕することになり、そのうえ大臣の娘と結婚まですることに。一方、女の子として育てられた弟は、多くの貴族の求愛を受け、当然のごとく断り続けるも、帝にまで求婚され、てんやわんや。
氷室冴子の平安時代小説は、どの程度時代考証が正確かわからないけれども……私にとって、中学・高校時代の古典に出てくる「貴族社会」のイメージは、氷室冴子作品で培われたものだ。
この本には他に、『少女小説家は死なない!』と『クララ白書』の番外編が収められている。私は、それらのシリーズにはそれほど思い入れはなかったけれども、こちらも楽しく読めた。
というわけで、懐かしい氷室冴子ワールドに再会したい人、あるいは氷室冴子入門としても、いい一冊ではないかと。
本音を言えば、『銀の海 金の大地』シリーズの「佐保彦の章」を読みたかったな――と、ちょっと切ない気持ちになったりもしましたが。
それでも氷室冴子先生の作品は、少女向け小説の歴史に燦然と輝く名作揃いなので、これからも読み継がれていってほしいものです。
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2012.11.02 Friday 23:44ときどき、自分はすでに死んでいるんじゃないか、と考えることがある。
といっても、ついさっき玄関のチャイムが鳴ったのでドアを開けたら、ケンシロウ(『北斗の拳』の)がいきなり家に入ってきて、秘孔を突かれてしまった、もうおしまいだ、という話ではない。
あるいは、「いま生きているという実感がわかない」とか、「自分の住む世界にリアリティがない」という離人症的な感覚とも、ちょっと違うかもしれない。
ただ、なんとなく、「死んだら人間はどうなるのだろうなあ」とか、「死後の世界ってあるのかなあ」なんて考えてみたこと、きっと誰にでもあるはずなんだ。
で、ふと思いついたんですよ。もしかしたら、ここが「死後の世界」かもしれないって。
ずっと前に、手術で全身麻酔をしたときか、あるいは他の何らかのきっかけで、自分は死んでしまったんじゃないか。
私の想像するに、死後の世界というのは、血の池とか針の山に囲まれたアスレチックワールドなんかじゃない。
あるいは、なんにもない退屈な世界に、意地悪でニートなお釈迦様がいて、気まぐれに蓮の池から蜘蛛の糸を垂らすような場所が、「あの世」とも思えない。
で、こんな「死後の世界」を想像してみるのだ。
こっちの世界とソックリの世界が別の次元に存在していて、この世で死んだ後、ふと目が覚めたら、「あの世」で今の続きを生きなければならなかった―――みたいな。
そしてその世界で死んでも、また次の世界で、その続きを生きなければならない。
タマネギみたいに、剥いても剥いてもその下の層から新たな世界があらわれる。
そう考えたら、ちょっと怖くないですか。
もし死後の世界がそういう構造だとしたら、それはカンダタのいた地獄以上に、残酷な地獄かもしれない。
だって「終わり」がないのだから。
私には、「死」そのものへの恐怖心というのは、あまりない。
むしろ死後の世界が「無」だとしたら、「私」がすべて消え去り「無」に還れるのだとしたら、それこそ本当の意味で私が望んでいる安息であって、願ってもないことだ。
でももし「終わり」がないのだとしたら―――それはとても怖い。
ただ、ちょっと冷静に考えてみるに、たとえば120歳まで生きて、老衰で亡くなった人が、その次もそのまた次の世界でも、「続き」を生き続けるというのは、ちょっと考えにくい。
人間が120歳を越えて、150歳や200歳まで生きるアナザーワールドがあるとしたら、それは「この世界」とはまったく別物であるはずだから。
だから、やっぱり“終わり”はあるのかもしれない。タマネギも剥き続けたら、いつかは芯にたどり着いて、最後にはなくなっちゃうように。
私は輪廻転生というのを特に信じてはいないけれど、もし次に生まれ変わることがあるとしたら、人間はもういいや。
生まれ変わるとしたら、無生物がいいな。
アンデス山脈の頂にぼっかり浮かぶ雲。あるいは、タクラマカン砂漠の砂になりたい。
次に目を覚ましたとき、目の前に広がる世界は、澄みきった青空か、一面の砂漠だったらいい。
・・・などと夢想しつつ、今夜も眠ることにしよう。
おやすみなさい。
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