2020.09.12 Saturday

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2013.06.29 Saturday 23:58
ひきこもってます。今日も順調にひきこもってます。
しかも「家から一歩も出ない」レベルのひきこもりで、こういうのは久しぶり。

というのも先日、ちょっとハードな(←当社比)運動をしたら、脚を痛めてしまったのです。
その時点で、おとなしくしてればよかったものを―――痛みを無視してさらにストレッチを続けたら、歩くのも困難なくらいに悪化してしまいました。
バカだな〜自分、やっぱり痛いときは休まなきゃいけなかったんだなあ、などとジタバタしても後の祭り……。

というわけで、過去エントリで予想した通り、順調に「3歩進んで4歩下がる」ことと相成りました。

まあこれも想定内というか、以前にもこういうことあったからね。
以前なら、こんなふうに「後退」したときには、めちゃくちゃ落ち込んだものだけど―――今回はさほどヘコんでいないあたり、進歩と言えば進歩なのかもしれないな。

精神科医・中井久夫氏の著書『世に棲む患者』に、こんな一節があった。
患者の精神健康には、「背水の陣」ではなく、「逆櫓の構え」が必要だと。
逆櫓(さかろ)の構え」というのは、前進も後退も自由にできるような態勢を意味しているのだろう。
病気を抱えている人にとっては、「死ぬ気で全力を尽くす」よりも、「具合が悪くなったら休めるように準備しておく」方が、ずっと大切なのだと思う。「前進」だけではなく、「後退」することもまた、生活の一部として受け入れること。こういう心構えが、生き延びるためには必要なのだろう。

というわけで私も、外出できない分読書がはかどるわーなどと、前向きに今の状態を楽しむことにしました。
で、せっかくだから長編小説でも読むか、と思って読み始めた本が、あんまり面白くなくって、ちょっぴり残念な感じではあるのですが。
ちなみに読んだのはこのシリーズ。某所で「グインサーガよりも面白い」と耳にして、興味をもったのですが―――読んでみたら、グインサーガの方が、断然面白かったよ。しくしく。キャラの魅力もストーリーの壮大さも、グインサーガの方が何倍も素晴らしい。
改めて、グインサーガは偉大な物語だったなあ、と再認識しました。

ただ、これも中島梓の持論だったと思うけど、「玉石混淆」って大事だそうです。良い本・面白い本だけを読むのではなく、つまらない本も読んでこそ、光り輝く宝石の価値がわかる、ものらしい。

外へ出られなくても、たまたま読んだ本がつまらなくても、それもまた長い目で見れば、自分の人生の「肥やし」になり得るのだろう。
そう信じることにして、今日もマターリひきこもり読書です。






| ●月ノヒカリ● | 日記・雑感 | comments(3) | trackbacks(0) |
2013.06.25 Tuesday 23:57
傘が壊れた。
正確に言うと、雨降りの日、傘をさしながらバスを待っているとき、気づいたのだった。傘の骨が一本、ポッキリ折れていることに。
わりと気に入っていた傘だった。淡いブルーと鮮やかな水色の格子柄で、柄も持ちやすく、大きさもちょうどよくて。

それにしても、短い付き合いだったなあ、と思い返す。使い始めてから、まだ1年ちょっとしか経っていない。安物だから、すぐに壊れたのだろうか。(と言っても、千円くらいはしたはずだ。)かつて、学生時代に買った傘は、7〜8年は使っていたというのに。

最近の製品は総じて、寿命が短くなっているように感じる。
傘に限らず、洋服でも、家電製品でもそうだ。
デフレで、いろんなものが昔より安く変えるようになったのは確かだろうけど―――どうも「安いけど、粗悪な品」が増えているような気がする。Tシャツなんかも、安いものは生地がペラッペラだし。

閑話休題。
一度折れてしまった傘は、元に戻らない。というわけで、街へ出かけるついでに、新しい傘を買うことにしたのだった。

傘を選ぶのは楽しい。
これが他の物だったら―――例えば洋服を買うときは、いつも「これは本当に必要なのだろうか?」と自分に何度も問いかけて、買うのを躊躇してしまう。無職の人間は、お金を使うときは常に、心の隅に罪悪感を隠し持っているものなのだ。

しかし、傘なら話は別である。なんといっても生活必需品だ。
生活必需品であっても、これが例えばセロテープやゴム紐やサランラップを買うのは、決して楽しい作業ではない。選択の余地がないからだ。
でも傘なら、色や柄やデザインに、自分の好みを反映することができる。

傘の値段はというと、ピンからキリまであるだろう。
雑貨店なら、千円から3千円くらいが相場だろうか。
これがデパートの傘売り場だと、5千円から1万円くらいの品がごく普通に並べられていて、ビンボー人は軽く目眩に襲われる。

さて、ここで問題。
あなたなら、「1年で壊れる千円の傘」と、「5年間は使える5千円の傘」となら、どっちを選ぶだろうか。
私は、後者の方を好ましく思う。すぐに壊れる物を次々に買って捨てるよりも、品質のいい一つの物を長く使い続ける―――そういうライフスタイルに、私はちょっぴり憧れているから。

こういうスタンスは、LOHASだの「持続可能な社会を目指す」だのと言われるような、そんな立派なものではなく、単に「ケチ」なだけじゃないかとも思ったりする。
実際のところ、「名古屋人はケチ」というのは、通説になっているみたいだ。「ケチ」という言葉が悪ければ、「堅実」と言い換えてもいい。

こんな話を読んだことがある。もう何年も前、ヴィトンのバッグがやたら流行った頃のことだ。
名古屋の人がヴィトンのバッグを持つのは、見栄とか流行ってるから、という理由ではない。「ヴィトンは丈夫で長持ちするし、壊れても直してもらえるから、安物を買うよりもかえって得」だから―――というのが、名古屋嬢(←古い)の感覚なのだそうだ。
ヴィトンのバッグなんてさっぱり持ったことなんてない私も、その感覚はくっきりと理解できる。
安物を買うよりも、丈夫で長持ちする物を買った方が、結果として得、ということ。そんな名古屋の「堅実」遺伝子を、私もまた受け継いでいるのだろう。

そんなわけで私は今回、千円の傘ではなく、長持ちしそうな5千円の傘を買うことにした―――などと決めつけるのは、浅はかである。
いくら丈夫であっても、私は5千円の傘を買うことはない。
なぜなら。
傘というのは、「置き忘れる」リスクがあるからだ。

人生において一度も傘を置き忘れたことのない人なんて、実在するのだろうか。もしいたら尊敬する。マジで。
かくいう私は、2回しか置き忘れたことがないのだから、まあ少ない方だと思う。
忘れた場所がはっきりしている場合は、そこに取りにいけば、戻ってくる可能性もある。しかし、置き忘れた場所がはっきりしない場合、あるいはバスや電車の中に忘れた場合は、その傘が戻ってくる可能性は、限りなく低くなるだろう。

そんなこんなを熟考して、傘売り場を巡り歩いたあげく、結局、2千円ほどの傘を買うことにした。
選んだのは、「軽くて丈夫で長持ち」と書いてある傘だ。
デザインもいい。柔らかいオレンジ色で、柄の部分は木でできていて、どこか暖かみを感じる。梅雨時や肌寒い時期に使うと、ちょっぴり明るい気持ちになれそうだ。

そうして傘を買って、新しい物を買ったときに特有の、ちょっとしたウキウキ感に満たされつつ、家に帰った。
そしたら、なんと帰宅後に―――思いがけないオチが待っていた。
傘にぶら下がっていた説明書をよくよく読んでみたら、こんなことが書いてあったのだ。

「強風のときは使用しないでください。破損する恐れがあります」

・・・・・・・。
まあね、そりゃね、強風のときに使わなければ、滅多に壊れることもないだろうし、長持ちもするでしょうが。
しかし、「強風かつ雨降りの日」なんて、しょっちゅうとは言わないまでも、年に何回かはあるだろう。そんな日はどうすればいいのだろうか。傘を畳んで小脇に挟み、暴風雨の中、濡れ鼠になりつつ歩かなきゃならんのだろうか。
不条理である。あまりにも不条理である。

―――というわけで。
当初のウキウキ感は、「失敗した買い物」に付きものの悲哀に取って代わられることとなった。

この傘とも、さほど遠くない日に、お別れすることになるかもしれない。
まだ出会ったばかりなのに、早くも別れの日を想像してしまい、切なさに打ち震えた雨の夜、であった。



※たぶんいないとは思うけど、タイトルを見て「恋人同士が別れる間際の微小な前兆」について考察したエントリかと期待された皆様、ごめんなさい。このブログはあくまでも非モテブログなのです。






| ●月ノヒカリ● | 日記・雑感 | comments(3) | trackbacks(0) |
2013.06.19 Wednesday 22:04
雨の季節だ。

子どもの頃、雨は苦手だった。
とりわけ土曜日の午後、一緒に遊ぶ友達もなく、外に遊びにも行けず、テレビもつまらない番組ばかりで、何にもやることがなかった日には、退屈で退屈でしかたなかった。

大人になった今も、私には「雨の日を一緒に過ごす友人」はいない。
この場合の「雨の日」とは、「雨天の友」という言葉にあるような、「人生がうまくいってないとき」という意味だ。つまり、「まさかの友こそ真の友」とも呼ばれるような「逆境のときに側にいてくれる友人」が、私にはいない。

おそらく自分がもっと元気だったら、一緒に遊んでくれる友人も、幾人かはいるんじゃないかと思う。
でも、病気のときに会いたい友人はいない。理由は、以前このブログ記事(私が人に会いたくない理由)にも書いた通りだ。

そして私のここ十数年の天候は、「土砂降り」か「小雨」かという違いはあっても、基本的に雨の日ばかりだった。
病気でからだやこころが弱くなっているときに、「元気そうなふり」をするのは、苦しいものだ。でも友達と会うのなら、「明るく」「元気そうに」振る舞わなければならない。

もう十年以上も前のことだけど、私が子宮筋腫の診断をされた頃のこと。たまたま友人の家に遊びにいく機会があって、病気で悩んでいることを話したことがある。
その場には、気まずい沈黙が流れた。
私はたぶん、慰めとか共感とか、あるいは病気についての情報とか、そういう話ができることを期待していたんだと思う。
でも、それは叶わなかった。病気の話というのは、健康な人には歓迎されないんだな、と思い知った。それ以前にもその後にも、何度かそういう「気まずさ」を経験して、自分の病気の話を人にすることはなくなった。

それからも、ときには人と会ったり話したりする機会もあったけれども、そういうときは、しんどいことを隠して「無理」をしなきゃいけないから、疲労感ばかりが大きくて、「楽しい」とは程遠いものだった。

病気の人の中には、「家族や友人が応援してくれたから、がんばってこれた」と言う人もいる。そういう話を聞くと、嫉妬と羨望の入り混じったような、苦いものがこみ上げてくる。私には、そういう人間関係を築くことはできなかったから。

でも、支えてくれる人がまったくいなかったかというと、そういうわけでもない。
とりわけ同病の患者さんには、治療についての情報や、励ましの言葉をもらったことが、何度もあった。
不幸中の幸いと言うべきか、アトピーも子宮筋腫も乳がんも、比較的ポピュラーな病気なので、そこそこ人口の多い都市に住んでいれば、患者同士の集まりを見つけることができる。その点では、自分は恵まれていたのだろう。
統合失調症については、同病の患者さんに会う機会がまったくなくて、ずっと苦しかったけど―――それもこのブログで書いてからは、多少なりともネット上で出会うこともできた。
もちろんその他にも、ブログに応援コメントをもらって、励まされたことは数知れず……(みんなありがとう)。

そんなわけで、私には「雨の日を一緒に過ごす友人」はいなかったけど―――その時々に出会った人たちに、助けられてきた。それでいいのだと思う。
もちろん、ネット上であれリアル生活であれ、人と関わるというのは、いいことばかりではない。ダメージを受けることも、傷つくことも(あるいは傷つけることも)少なからずあった。しかしそれもまた、避けては通れない道だったのだろう。

きっと私は、人よりもダメージを受けやすい体質なんだと思う。ちょっとした台風が来たら、すぐに決壊してしまう堤防みたいに。だから雨の日は―――とりわけ暴風雨の日は、土砂崩れや洪水から身を守るために、ひきこもって一人で過ごすしかない。

ふと、逆の立場になって、つまり、私は誰かにとっての「雨の日の友達」になれるのだろうか、と考えてみると―――それは難しいだろうな、と感じた。
もし自分が健康だったら、病気の人の苦しみなんて理解できなかっただろうから、側にいて励ましてあげることはできなかっただろう。
一方、自分が病気でつらいときには、他人のために何かをしてあげられるだけの余裕はなく、やっぱり「友達を続ける」のは難しくなる。

いつか、晴れる日はくるのだろうか。
あるいは、暴風雨にも負けずに外を歩けるくらい、強くなれる日はくるのだろうか。

そんな日が来るかわからないけど、ひとまず今は、一人で過ごすことにしよう。
幸いにも、子どもの頃とは違って、今の私は「本を読む楽しみ」知っている。だから、退屈することもない。

雨音をBGMにして、普段は読まない村上春樹のハードカバーを開いてみる。そんな雨の季節だ。






| ●月ノヒカリ● | 非コミュ | comments(3) | trackbacks(0) |
2013.06.15 Saturday 22:09
今さらという気もするけど、3月にした乳癌リンパ節再発の手術のことを書こうと思う。

というのも、私は過去に4回、全身麻酔下の手術を経験してるんだけど―――たぶん今回がいちばん「ラク」だったと思うんだよね。
これまででいちばん(身体的に)しんどかった手術は、子宮筋腫の開腹手術だったように思う。そのときの記憶があって「手術はしんどいもの」という恐怖心が植えつけられてしまったんだけど―――今振り返ると、そこまで不安になることもなかったなあと思うんだよね。だから、手術前の不安だった自分に「そんな心配しなくていいよ」って言ってあげたいなあ、とか考えちゃうんだ。今さらこれを書くことに、意味があるかどうかわからないけど。

以下は折り畳みます。興味のある人のみどうぞ。
| ●月ノヒカリ● | 病気 | comments(2) | trackbacks(0) |
2013.06.10 Monday 22:38
病院を受診して、番号で呼ばれたことにクレームを付けた上に、「会計をすっぽかして帰った」ことを平然と公式ブログに書いて、炎上した岩手県会議員のブログを読んだ。批判を受けて削除されたため、キャッシュしか残ってないけど。
一読して、気分が重くなった。今の病院って、こんな非常識なクレームにも対応しなきゃいけないのか……。

実は3月に入院したとき、ちょっとビックリしたことがあったんだ。病院の掲示板に「患者さんの義務」とい書いた紙が貼ってあったんだけど―――その中に「暴言・暴力等の医療の妨げとなる行為は行わないでください」「医療費の自己負担分は必ずお支払いください」という文言も含まれていたのだ。そのときは、「今はそういう患者もいるのかな?」くらいにしか思ってなかったんだけど。
そして医療費を払わないのは経済的に苦しいからなのかな、と勝手に想像してたんだけど……必ずしもそうではなかったみたい。県会議員が「病院を受診して、お金を払わずに帰る」ことを悪いと思ってないくらいだから、患者のモラルの低下という問題もあるのだろうな。

ふと、内田樹のブログエントリ「院内暴力とメディア(2010年8月4日)」を思い出した。だいぶ前の記事だけど、それを読み返していて、ちょっと思うところがあったので、それについて書こうと思う。

この内田樹のブログエントリ、私には、賛同できる部分とできない部分がある。
まず、内田樹は一貫して、「医療と教育の分野には市場原理を持ち込むな」と主張している。それについては私も同じ考えだ。
そもそも患者は「客」ではないし、病院は確かに「医療サービスを受ける場所」ではあるけど、お店とは違う。(私もずっと前から、「患者様」と呼ばれることには違和感があった。)

批判された県議のエントリに、「こちらは15,000円以上の検査料を支払う、上得意のお客さんだぞ」という一文がある。この「検査料を払う患者はお客さん」という論理は、健康保険制度の仕組みからみても、おかしな主張だと思うんだ。
医療費の自己負担額は、70歳未満の大人なら3割だ。残りの7割は健康保険組合から支払われている。つまり、窓口で払う医療費が1万5千円だとしたら、医療費全体としては5万円かかっていることになる。そして残りの3万5千円は、患者が加入している健康保険組合から支払われている、ということだ。
これは常識だと思ってたんだけど……ちゃんと知られているのか心配になってきたので、一応書いておく。

だから、「病院」と「会社の経営」と同じものと考えるのは危険なのだ。
「たくさん患者に来てもらって、いっぱい検査をして、どんどん薬を出す」という方針の病院は、経営は潤うかもしれない。でもそれは、健康保険組合の負担額が大きくなり、医療財政を悪化させるということでもあるのだ。

さらに、有名なブロガーさん(職業は医師らしい)が、ちょっと前にTwitterでこんなことをつぶやいていたんだけど。 ‪
@fujipon2
「市立病院民間委譲で大幅黒字」には苦笑せざるをえない。そりゃ勤めるスタッフを減らして待遇を悪くして酷使し、お金にならない患者を排除すれば「大幅黒字」になるだろうよ。でもなあ、各地で賞賛されている「民間委譲による経営改善」なんて、こんなのばっかりなんだろうな。

 https://twitter.com/fujipon2/status/331933261687320576
「病院に市場原理を導入すべきではない」ということは、ここからも読み取れる。

さて、上記の内田樹のブログ記事には、賛同できない部分がある、とさっき書いた。
それは私がたくさん病気をしてきて、あちこちの病院にかかりまくってる「患者」だから―――近年「患者の権利」とか「インフォームド・コンセント」が根付いたこと、その恩恵を受けてきた、とはっきり感じるからだ。

今年3月に再発癌の治療を受けた際にも、主治医の丁寧な説明に感激したことは、過去エントリにも書いた(こことかここで)。今の病院では、検査や病理の結果も、頼めばすぐにプリントアウトして渡してくれる。患者はドクターに質問してもいいし、複数の治療法がある場合は、自分が主体となって選択してもいい。医療については、患者の「自己決定権」が尊重されるようになって本当によかったと、私は実感している。

でも昔は―――それこそ20年前には、患者は処方された薬の名前も知らされていなかったのだ。(私が十代の頃は、病院で処方された薬は、薬剤名が書いてある部分をわざわざ切り取って渡されたものだった。)もっと前には、例えば癌の場合、自分の病名を教えてもらえなかった時代もあったのだ。私はそんな時代に戻りたくはない。

私たちは、「賢い患者」になるべきだ。
「賢い患者」というのは、内田樹の言うところの「少ない代価で最高のサービスを要求する消費者になる」ことではない。
例えば、不必要な検査はすべきではない、ということ。不必要な検査や投薬は、患者本人への健康面の影響(CTの放射線被曝etc.)だけではなく、医療財政にも悪影響があるからだ。(ただ、「必要な検査・投薬」と「不必要な検査・投薬」との線引きは難しい面もある。そして医療財政が逼迫してるからといって、必要な治療を受けられないようになるとしたら、それはそれで問題なのだが。)

自分の受けている治療や検査、飲んでいる薬について、きちんと把握し、病気について理解し、治療にコミットすること。自分の医療費は、どういう仕組みでどこから支出されているのかを知ること。
こういうこと、すでに当たり前に実行してる人も多いんだけどね。一方でまだ、治療は「医師にお任せすればいい」という考えの人もいるみたいだ。

患者が自分の病気や医療制度について理解を深めることは、決して「モンスタークレイマーになる」こととイコールではない。
過去、患者団体が「患者の権利」を主張してこなければならなかった歴史があること、例えば富士見産婦人科病院事件とか、弱い立場にあった患者の苦闘の歴史については、内田樹の文章からは読み取れない。そこは納得のいかないところだった。


日本の医療は、問題山積みだ。
国民健康保険は赤字続きだという(参照:日経新聞「国民健康保険、3022億円の赤字 11年度」)。高齢化のため、今後も医療費は増加するだろう。
その他にも、診療応酬の引き下げのため病院の経営悪化、医療スタッフの離職率の高さ、人手不足による慢性的な忙しさ、産科・小児科医師のなり手が少ないetc.―――近い未来の「医療崩壊」はあちこちでささやかれている。(このブログの過去エントリにも、外科ドクターの殺人的な忙しさに驚いた話を書いたことがある。)

健康保険制度も含め、老人や病人を見殺しにするのではないやり方で、今後の医療が立ち行くようにしなければならない。それは医療者と患者が対立するのではなく、共闘する方向に進んでほしいと、私は心から願っている。患者にとって、医療者は治療の大切なパートナーであってほしいから。

そういった医療の問題は、今後避けて通れない、大事な政治的課題の一つだと思うのです。
冒頭の県会議員さんも、今回の批判をきっかけに、そういうことに目を向けてくれたら嬉しいんだけどな。






| ●月ノヒカリ● | 社会 | comments(6) | trackbacks(0) |
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