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2013.08.25 Sunday 23:40
お盆はどこも混んでるので、家に引きこもって、レンタルDVDで映画鑑賞することにしました。
選んだのは『インセプション』と『マトリックス』(1作目のみ)。
どっちも有名な作品なので、「え?見たことなかったの?」と突っ込まれそうですが……ええ、見たことなかったんです。私は映画館にはめったに行かない上、たまに観に行くのは「DVD になるかどうかわからない、マイナー映画」ばかりなので。

で、今回の感想。
『インセプション(2010年公開)』はめっちゃ面白かったー。これは劇場で観たかったな。
他人の夢に侵入して、夢の中で情報を盗むエージェントとか、夢から覚めたらそこがまた夢の中とか、夢の世界こそ自分の本来の居場所と感じている人たちとか……こういうテーマ、大好きだ。
何より印象的だったのは、映画の一番最後。長い長いエンドロールの後半で、音楽が変わったことだ。最初はテーマ曲とともにクレジットが流れていたんだけど。途中から、エディット・ピアフの「水に流して(Non, je ne regrette rien)」に切り替わった。この歌は、劇中で「夢から覚める前に流す音楽」として使用されていたものだ。 あのエンドロールの音楽の切り替えは、「さあ、そろそろ夢から覚めて、現実の世界に戻る時間ですよ」という観客へのメッセージだと、私は受け取った。なんとも心憎い演出だ。

『マトリックス(1999年公開)』もまた、仮想世界と現実を行ったり来たりする作品だ。題材としては『インセプション』と似ている部分もあるのだけれども、こちらはそれほど興奮しなかった。
おそらく公開当時に観ていれば、斬新さも感じただろう。でも今は、似たような世界観の作品が溢れている。さらに、銃でドンパチとか格闘シーンの多さにウンザリしてしまった、というのもある(私はアクションシーンがあまり好きではないみたいだ)。

で、これらの映画を鑑賞した後、ふと、3D映画として有名な『アバター(2009年公開)』を思い出した。あの映画は私も、珍しく劇場に足を運んで観たのだった。

『アバター』もまた、主人公が「この現実」と「もう一つの世界」を行き来する話だ。
ただ、この映画は、これまでハリウッド映画と決定的に異なる点があるという。ネット上でも公開されている「斎藤環と茂木健一郎の往復書簡」の第3信で、斎藤環が指摘していることだ。

『アバター』は、「主人公が現実に還らず、仮想空間のヒロインと生きることを選ぶ」ことによって大団円を迎える。前衛映画ではなく、超娯楽大作で、現実よりも仮想世界の方を優位に描いている、ということ。これはハリウッド映画の常識をひっくり返している、と斎藤は言う。

確かに斎藤の言う通り、『マトリックス』では、現実よりも仮想世界を肯定する登場人物は、「悪役(裏切り者のサイファー)」として描かれていた。
『インセプション』でも、現実よりも夢の世界を選ぶことは、決して肯定的に描かれていない。


ひきこもり系の私としては、ここで考え込んでしまうのだ。
仮想現実よりも現実の方が優位だと、どうして言えるのだろうか? なぜ仮想現実を選んではいけないのだろう?
例えば『マトリックス』で、「鼻水みたいな」流動食しか食べられない現実世界よりも、仮想現実の世界で、実際には存在しないステーキを味わうことを選ぶのは、「悪いこと」なのだろうか?

しかし他方で、現実を捨てて仮想現実を選ぶことを肯定ちゃっていいの?それはマズいのでは?―――という、ごく常識的な(旧い)価値観もまた、私は保持しているみたいで。

ただ、実際には、映画のように「現実か仮想現実か、どちらかを選択せよ」と迫られるなんてことは、少なくとも今の時代にはないだろう。(将来的には、そういう技術も実現するかもしれないが。)
なので、もっと卑近な例で考えてみる。

ネットとリアルのコミュニケーションを比較して、「ネット上の方が、より真実に近い」と感じてしまうことは、私もある。ネット上のアバターに過ぎない「月ノヒカリ」の方が、現実の自分よりもずっと自分らしい、と思ってしまうこともある。
それは間違っている、と言い切れるだろうか?

「ネット上の人間関係よりも、実際に顔を合わせる人間関係の方が大事」と言明する人は多い。ネットのヘビーユーザーにもそう主張する人が存在するくらいだ。
そういう論調に出会うと、何ともモヤモヤ〜っとしたものが沸き起こってくる。自分としては、「反論もできないけど、同意もできない」という、微妙な立ち位置になってしまう。

「リアルの人間関係が充実していて楽しい」という人は、何の問題もないのだから、迷わずそっちを選べばいいだろう。ネットは「3時のおやつ」としてつまみ食いする程度で。

でも私にとって、現実というのは、いわば「青汁」みたいなものなのだ。決して美味しくはないけれども、栄養のバランスも考えなきゃいけないという義務感でもって、摂取しているもの。

あるいは、「筋トレ」にも通じる。私は決して筋肉ムキムキの体になりたいわけではないけど、からだの筋力を維持するために、ちょっとした筋トレやストレッチは日課にしている。
それと同様に、ネットだけではなく、たまには「人と会って話す」のも必要なことだと、私は考えている。なんというかこれも筋トレと同じで、たまには鍛えないと「人と話すための筋肉が衰える」気がするんだよね。

今までこのブログに、さんざん「非コミュ」だの何だの書いてきて、矛盾していると思われるかもしれませんが―――そうではない。コミュニケーションが苦手だからこそ、トレーニングが必要なのだ。

だから私はこれまでも意識的に、人と対面で会って話す機会をつくるようにしてきた。
それがなかなか「楽しい経験」にはならず、ただひたすら疲労感が残るばかりだったり、「やっぱり自分の考えって理解されないんだなあ」と打ちのめされたり、そんな苦い体験ばかり積み重ねてしまうあたりが、非コミュの非コミュたる所以なのだが。

それでもやっぱり、私はこう考えている。
現実の自分の筋肉が弱ると、仮想現実の方もやせ細ってしまうのではないか、と。仮想世界を楽しむためにも、現実世界での「筋トレ」もしなければならないのではないかと。

詰まるところ、ネットも現実もどっちも大事、要はバランスだよね―――という、ごく常識的な結論になっちゃうんだけど。


でも私の「問い」は、ここで終わるわけではないのが、厄介なところだ。そこからさらに、別のレイヤーの疑問に突き当たってしまう。
それは、「私たちが『現実』と信じているこの世界は、本当に『現実』なんだろうか?」という問い。
この問いこそ、「哲学的な問い」に該当するのだろう。「リアル/ネット」の二元論ではなく、この世界の存在のあり方への問い。

『マトリックス』では、主人公が「現実」と信じていたこの世界は、コンピュータが見せている「仮想現実」に過ぎないことが明らかにされた。
私が生きている「現実」もまた、マトリックスのような「仮想現実」ではないと、証明できるだろうか?

実をいうと、こういう問いに引っかかりを感じるのは、統合失調症を発症したことと、無縁ではないと思う。
私が永井均の哲学書を愛読していたのは、統合失調症発症以前のことだけど……発症後に、改めて読み返してみると、「哲学的な問い」というのは、統合失調症の症状と親和性が高いように感じた。
私にとって統合失調症の発症は、これまで当たり前だと信じていた世界観が足元から崩れ去るような、衝撃的な体験だったから。

やっぱり今も私は、あの体験をうまく言語化できない。少なくとも「科学的なことば」で言い表すのは難しい。
それでも何とか言葉を絞り出してみると―――私たちが生きている「この世界」とは別の層があって、それが自分に干渉してきた、という感じ。普通の状態では、目には見えないし感知することもできないけれども、あるスイッチが入ったときに(それは医学的には「統合失調症の発症」と呼ばれる状態にあたるだろう)、そちらの世界の声が聞こえてしまう―――というようなもの。

あのカオスな体験に対して、何らかの整合性のある解釈を見出すために、私は哲学を求めているのかもしれない。
もしかしたらそれは、「霊界」とか「霊」あるいは「神」という言葉を使えば、するっと説明できてしまうのかもしれないけれども……私はそれらの存在を無心に信じることはできないタチなので、安易に「霊」という言葉を使うのは、躊躇ってしまう。

哲学の言葉で言えば、プラトンのイデア論とか、「可能世界」に関する議論が、私がとらわれている世界観に近いように思う。いずれ機会があれば、それらの哲学にも触れてみたい。

私は統合失調症の発症以来、「今生きているこの世界が、明日もまた続くだろう」というような、世界への根源的な信頼感でも呼ぶべきものを、失ってしまった。それは今も回復していない。

私の望みは、突き詰めていえば、「当たり前の日常を、当たり前に過ごしたい」という、ただそれだけだ。
ただそれだけのことが、何でこんなに難しいんだろう。
そんなことを、暑さで茹だりそうになりながら、ぼんやり考えていた夏休みだった。


     






| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(10) | trackbacks(0) |
2013.08.14 Wednesday 23:35
こうも暑い日が続くと、難しい本を読む気力がなくなるので、さらっと漫画でも読もう――と思って読んだら、かえってグルグル考えることになってしまった本。

『まんが 哲学入門』。哲学者の森岡正博が、自ら漫画を描き下ろしたという、異色の哲学入門書だ。
「時間」「存在」「私」「生命」の4つをテーマを軸に、「まんまるくん」と「エム先生」との対話によって思索が進んでいく。

表紙カバーを飾る「まんまるくん」、最初に目にしたときは、ボールに足が生えたヘンテコなゆるキャラだなあ……などと思ってしまったのですが。
まんが哲学入門
読み進めるうちに、そのユーモラスなセリフや動きに魅了されてしまった。う〜ん、なんとも可愛い。

まんまるくん
あとがきに「哲学とマンガは相性がいい」と書いてあったのにも納得。シンプルな絵柄も、その方が抽象的な言葉と調和する、ということらしい。
製本は、日本の漫画界の伝統に反して、「左綴じ・横書き」なんだけど、さほど違和感なく読み進めることができた。


思い返すと、私にとっての哲学入門書は、十数年前に出会った、永井均の『〈子ども〉のための哲学』だった。
あの本によって、哲学のイメージが変わった、ということは、以前にも書いた。(「哲学」って、有名な哲学者の著書を「解読する」学問だとばかり思ってたけど、自分で問いを立てて、考えてもいいんだ!)

この『まんが 哲学入門』もまた、「哲学すること」への道案内をしてくれる本だ。
――「ある」ってどういうこと?
――なぜ私は生まれてきたの?
そんな中二病全開の問いに、ド直球で答えてくれる――というよりは、「思考の道筋を示してくれる」という方が近いかな。

この本の第3章(「私」とは)は、永井均の『〈子ども〉のための哲学』の第一の問い「なぜぼくは存在するのか」に対する、森岡からの応答らしい。永井均読者にはお馴染みの問い、漫画で表現するとこうなるのか!と新鮮な驚きがあった。

永井均は、「この私」の比類なさ、つまり独在性の問題について、素晴らしい分析をしてくれた。
森岡正博は、そこからさらに「生きるレベル」にまで降りてくる。「生きるレベル」――つまり、他者とのかかわりの中でともに生きようとするとき、独在性はどうなるのか? その答えに、ズシンと来た。具体的には本で確かめてもらうとして。イメージとしては、形而上の上の上までのぼりきった後、再び地上に降りてくるための道筋を示してもらった感じ。


でもやっぱり、この本の一番の読みどころは、第4章の「生命論」、森岡生命学の肝である「誕生肯定」についての流れだろう。
このテーマについては以前、森岡氏のサイトで公開されている「誕生肯定とは何か」「『生まれてこなければよかった』の意味」等の論文を読んで、非常な感銘を受けたものだった(それらの論文も早く書籍化してほしいものです)。

それでも今回、『まんが 哲学入門』を読んで、また新たな発見もあった。とりわけ、私たちは「『いま』の土俵」と「誕生の土俵」、両方の世界を行き来しながら生きている――というあたり、より深い視点を与えられた気がする。

と同時に、違和感も湧いてきた。
というのも、森岡氏と自分では、なんというか、「病み方」が違うみたいなんだよね。

森岡氏の問いは、「死によってすべて無になってしまうなら、生まれてこなければよかった」という表現が核となっている。
そこでちょっと疑問に思うのは、「死んだら無になる」ということは、証明されてないですよね?――ってことだ。
私はむしろ「無になる」ことを望んでいるので、「死によって無になるのが嫌だ」という表現は、ピンと来ない。
私の感覚としては、「生きているのがこんなにつらいのなら、生まれてこなければよかった」という方が近い。この本の第4章では、あっさり退けられているけれども。
自分の気持ちをなるべく正確に表現しようとしたら、
「私は自分が死んだ後、無になることを望んでいるけれども、実際に無になるかどうかはわからない。(もしかしたら死後の世界はあるかもしれない。)だから死ぬのが怖い」
・・・という感じになるかな。

う〜ん、こういう悩み方をしてるのは、私だけなのだろうか?
このテーマ、できれば誰か――「生まれてこなければよかった」派の人と、深く語り合ってみたい。

ただ、この「誕生肯定」というテーマは、あまり考え続けると、かえって「病いが深まる」ようなしんどさを感じることもあって。
自分が今も「生まれてきてよかった」とはまったく思えないということ、「誕生肯定」できないこと、そのことをまざまざと実感してしまい、そう考えるとますます苦しくなるんだよね。

だからこそ、このテーマを、「なぜ生きるのか」と考えてしまう人たちと共有できたらいいなあ、と思う。
そんなふうに考えてしまうのは自分だけじゃないとわかれば、それだけでちょっぴり救われるから。


そしてさらに、巻末の読書案内も読みごたえがある。
西洋哲学の有名どころだけではなく、老子や「歎異抄」「ウパニシャッド」などの東洋思想、ウーマンリブの先駆者・田中美津の著書も取り上げられている。このブックガイドにも、森岡哲学のカラーが滲み出ているようだ。
これを読んで、「読みたい本リスト」にまた、たくさんの書名が並ぶことになってしまった。

最後の最後まで濃ゆーい一冊。暑い夏をさらに熱く過ごしたい人は、ぜひ。






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