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2014.04.19 Saturday 23:45
今年初の映画は、やっぱりミニシアター系でした。

映画『アクト・オブ・キリング』公式サイト

映画評論家の町山智浩さんが絶賛していると知り(ラジオ番組音声文字起こしされたブログ記事)、これは観に行かねばなるまいっ!と、公開を心待ちにしていました。

観終わったときの感想を一言でいうと――「呆然」だった。映画が終わって、無音の画面にクレジットが流れるのを見つめながら、私は「感動」でもなく「号泣」でもなく、ただただ「呆然」としてしまった。
「何だか物凄いものを見た」という感覚はあるんだけど、うまく消化できない。

内容については、上記リンク先の町山さんの解説がわかりやすい。
この映画の主役であるアンワル・コンゴは、1960年代のインドネシアで起こった大虐殺の加害者だ。

恥ずかしながら私、インドネシアでそんな大虐殺があったこと、今の今まで知りませんでした。1965年の軍事クーデター(9・30事件)以降、インドネシア各地で、共産党関係者や中国人が虐殺され、その数は100万とも200万とも言われている、らしい。その虐殺の担い手は、プレマン(英語のFree Manが語源)と呼ばれるチンピラで、若き日のアンワルもその一人だった。

アンワルをはじめ虐殺の加害者は、全く裁かれることなく、今も裕福な生活を送っている。そして、過去に自分が行った殺人について、カメラの前で誇らしげに、嬉々として語るのだ。
それがどんどんエスカレートしていって、ついにはエキストラを募って虐殺を「再演」することに。ジョシュア・オッペンハイマー監督のカメラは、それをただ静かに追う。思わず吹き出してしまうシーンもありつつ、しかし「これ、笑っていいのか?」と躊躇ってしまい、観る者の感情は宙吊りにされる。

この映画の「加害者」の異様さについては、すでにあちこちで語られているから、ここではあえて触れないことにして。

私がちょっと引っかかったのは、この映画に登場する、おそらく唯一の「被害者」側の男性だ。アンワルの隣人であるその男性は、「殺人の再演」の中で、尋問され殺される役を演じることになった。その彼が、アンワルらの前で、「私が子どもの頃、育ての父親が華僑だったため、殺された」という告白をするシーンがあるんだけれども――そのシーンに私は、何とも言えない居心地の悪さを感じてしまった。というのも、彼が「笑いながら」、とても不自然な「ヘラヘラした笑い」とともに、その話をしていたからだ。育ての父を殺されたという実体験を、「泣きながら」話すことが許されない、ということ。それが堪らなく痛ましい。

その彼が、「殺人の再演」の中で尋問されるシーンを演じているとき、涙を流していたんだけど――その表情が、ものすごく真に迫っていた。彼はその演技を通じて、自分の継父が殺された出来事を追体験していたのではないか。だからそれを見て私、ちょっとハラハラしてしまったのですよ。大丈夫かな、この「演技」、この男性にとってトラウマになったりしないのかなって。後でパンフレットを見たら、この男性(スルヨノという名前だった)の人物紹介の欄に、「撮影後まもなく、映画の完成を待たずして死去」と書いてあり、ええぇぇぇええええ〜!?と驚くとともに、胸がヒリヒリ痛みましたよ……。

余談だけど、この映画については、パンフレットを買って正解だった。時代背景も含めて、パンフレットを読んで理解が深まる面が多々あった。ジョシュア・オッペンハイマー監督の「監督声明」は素晴らしく、想田和弘・町山智浩らの解説も読みごたえがある。

パンフレットの冒頭、監督の声明文を読んで、腑に落ちたことがある。というのは、この映画はもともと、大虐殺の生存者を撮影していたのだ。しかし軍に阻止され、撮影は暗礁に乗り上げた。そんなとき生存者の一人から、虐殺の加害者を撮影してほしいと依頼されたのだという。「彼らはきっと自慢気に語るはずです。その自慢話を撮影してください。その映像を観れば、私たちがなぜこれほど恐怖を感じているのか分かって頂けるはずです」と。

それから何年もかけて、オッペンハイマー監督は虐殺の実行者たちを撮影し続けた。『アクト・オブ・キリング』の主人公アンワルは、監督が出会った41番目の加害者だという。そしてさらに、多くの匿名のインドネシア人が、命を危険に晒しながら撮影に協力したのだと。今のインドネシアの政治状況では、この映画に名前をクレジットすることは危険なため、「匿名」なのだ。

パンフレットのこのくだりを読んで、やっと、私のなかにじわじわと「感動」が湧き起こってきた。たくさんの匿名のインドネシア人や、今も怯えて暮らしている虐殺の生存者、そしてこの映画に10年という歳月を費やしたオッペンハイマー監督の情熱が、深いリアリティを伴って胸に迫ってきた。

この映画については、まだまだ語りたいことが、あり過ぎるくらいあるんだけど……すでにネット上にはたくさんのレビューがUPされているので、つたない文章で、これ以上多くは語るまい。

ただ一つだけ、付け加えるとしたら。
私がこの映画を観て味わったものが、まさに「ドキュメンタリー」の神髄だったんじゃないか、ということだ。

実を言うと、最近の私は、「ドキュメンタリー」というものを、ちょっと「胡散臭いもの」のように感じていた。震災ドキュメンタリーの「やらせ演出」が話題になったりしたから、なおさらだ。

ただ、少し前の朝日新聞に載っていた是枝裕和監督のインタビュー記事を読んで、目を開かされたことがあった。
是枝監督はこんなことを語っている。
ドキュメンタリーは、社会変革の前に自己変革があるべきで、どんなに崇高な志に支えられていたとしても、撮る前から結論が存在するものはドキュメンタリーではない。それはプロパガンダなのだと。
プロパガンダからはみ出した部分、人間の豊かさや複雑さに届く表現こそがドキュメンタリーの神髄なのだと。

この『アクト・オブ・キリング』という映画、私はまさに、是枝監督の語る「ドキュメンタリーの神髄」を見た気がする。
主人公の虐殺者アンワルは、この映画を見る限り、決して「極悪人」には見えない。孫を可愛がる優しいおじいちゃんだ。そして「虐殺の再演」をするうちに、アンワルの感情にも変化が見られる。
おそらく、それを撮っているオッペンハイマー監督の心にも、変化が生じたのだろう。その変化が、観客である私たちにも感染する。単純に「加害者を告発する」のではない、もっと深い次元へと、私たちを連れて行ってくれる。

この映画、観て損はないです。っていうか、必見です。
これから順次、全国で公開されるようなので、チャンスがあればぜひ劇場に足を運んでみてください。






| ●月ノヒカリ● | 音楽・映画 | comments(4) | trackbacks(0) |
2014.04.17 Thursday 21:22
先月からずっと、ブログに書こう書こうと思いつつ、先延ばしにしていた話を書きます。
昨年末に逮捕された、「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人が、裁判で読み上げたという意見陳述を読んで思ったこと。

■「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述 1
■「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述 2

この全文を読んで、私は深く心打たれたのだった。すごく読みごたえがある、いい文章だと思う。 ネット上で幾人かの人が正直に告白しているように、私もまた、「自分に似ている」と感じる部分が多々あった。

この文章からひしひしと伝わってくる孤独感や疎外感、自殺願望といったものは、私もずっと持ち続けてきたものだ。しかし、私がとりわけ「え、これ私と同じだ!」と妙に共感してしまったのは、以下の2つの点だった。

一つは、家族関係にトラウマがあることを思わせながらも、「客観的には大したいじめを受けていないし、両親の自分に対する振る舞いも躾の範囲に収まることで虐待ではない」と述べている点。
もう一つは、彼がネット右翼にはなれなかった、つまり「ナショナリズムで気持ちよくなる」ことはなかった、という点。
この二つは、私にも当てはまる。

私もまた、父親から身体的な暴力を受けてきたし、母親からは酷い言葉を投げつけられてきたと思うけど……それが「虐待」かと言われると、そうとは言い切れない。何はともあれ親は大学卒業までの学費を出してくれたし、痣が残るほど叩かれたわけではなかった。(そもそも「しつけ」と「虐待」の線引きって、ものすごく難しいと思う。)
学校でのいじめられ体験もあるにはあるけど、いじめ自殺事件の際に報道されるような、過酷なレベルのものではなかった。
だから、単純に「自分は被害者だ」とは見なせなくて、それで余計に息苦しく(生き苦しく)なっている面がある。

それでもやっぱり、つらい体験には違いないのだから、誰かと「つらかったね」って話し合える場所や人間関係があれば、きっとずいぶん違っただろうな、とは思う。(私は関わったことはないけれども、「アダルトチルドレン」の自助グループなんかはそういう役割を果たしているのかもしれない。)

あともう一つ、「ナショナリズムで気持ちよくなれない」というところにも、シンパシーを感じてしまった。
近年、「ナショナリズムを信奉することで自信を回復している日本人」という言説をしばしば見聞きするようになった。ネット上でも、その実例と思われる人たちを観測できるようになった(いわゆる「ネトウヨ」だ)。
もしかしたら、アダルトチルドレン界隈も、ネトウヨも、それもまた「社会的包摂」の一種なのかもしれないな、とふと思った。自分はどちらとも関われなかったけれども。

それなら自分は、何で救われたかというと――ズバリ「萌え」ですね。
数年前、私が本当に自殺する寸前のギリギリの状態だったとき、『おお振り』に出会い、感動し、深くハマり、そのおかげで生き延びました。『おお振り』は命の恩人です。

上記の意見陳述で、渡辺博史被告は「逮捕の3ヵ月前に生まれて初めて芸能人が好きになった」と言っている。彼ももう少し早くその「好きな芸能人」に出会えていれば、事件を起こさずにすんだかもしれない――と、痛ましく思う。

私には、この文章を「他人事、自分には関係ない」などと突き放すことはできない。
彼の言う通り、失うものが何もない「無敵の人」は、今も存在するし、今後も増えるのかもしれない。ただ、多くは犯罪には関わらず、ただひっそりと生き、あるいは自ら死んでいくのだろうけれども(私がそうしようとしたように)。

前置きが長くなったけれども――そう、ここまでが前置きだったんです――この文章を読んだ後、私はある一冊の本のことを思い出したのだった。
というのは、岡本茂樹著『反省させると犯罪者になります』という衝撃的なタイトルの本だ。内容については、エキサイトレビューでの紹介が素晴らしく、何も付け加えることがなかったため、このブログに感想を書くことはなかったんだけれども。

本の内容について、かいつまんで説明すると。刑務所にいる受刑者の更生プログラムに関わっている著者は、「悪いことをした人を反省させてはいけない」と言うのだ。常識とは真逆の主張で、最初は「えっ?」と驚いたものの、よくよく読むと妙に納得してしまった。

犯罪の加害者や問題行為を起こした子どもが、「立派な反省文」を書いて評価される。しかしそれは本当に「反省」なのだろうか?
著者によると、皮肉なことに、何度も少年院や刑務所に入った者ほど「周囲の大人が喜ぶような反省の仕方」を身につけるのだという。
著者が自身の体験から導き出した、「事件の発覚直後に反省するというのは、人間の心理として不自然」という主張には、説得力がある。自分の罪と向き合うのは、長い時間をかけ、手厚いケアの中で芽生えてくるものだ、と。

著者は、「ロールレタリング」という、架空の形で「私から相手へ」「相手から私へ」の手紙を書くことによって自己・他者理解を図る技法を実践している。ここで大事なのは、最初の段階では「自分の内面と向き合うこと」だと言う。いきなり「被害者の気持ちになれ」というのは逆効果なのだ、と。
著者が受刑者と関わる中で見えてきたのは、意外な事実だった。受刑者は、被害者に対して残虐なことをしているにもかかわらず、被害者に対して「負の感情」を持っているケースが多いという。被害者の立場から見れば、とんでもないことだと感じるかもしれない。けれども、まずは加害者が、自分自身の不満や苦しみ、悲しさを表現すること。被害者に対して不満があるのなら、まずその不満を語ること。自分の本音と向き合うこと。それが更生への第一歩だ――と著者は言うのだ。

この本を踏まえた上で、上記の「『黒子のバスケ』脅迫事件の被告人意見陳述」を読み返してみると――この意見陳述の書き手は、ちゃんと正しい「更生」へ第一歩を踏み出しているんじゃないか、と感じられる。
この文章、読む人によっては、「自分勝手な論理だ、甘えだ」などと感じるみたいだけれども……私はむしろ、この文章に、書き手の「誠実さ」を感じたのだった。「自分に嘘がつけない人なんだな」って。

またちょっと『反省させると犯罪者になります』の話に戻るけれども、著者の岡本茂樹氏は、加害者が更生するためには、人とつながって「幸せ」にならなければならないと述べている(P.135)。加害者が「幸せ」になり、人の大切さを感じるようになることこそ、更生につながるのだと(エキサイトレビューの末尾を参照)。
ここでいう「加害者」とは、殺人を犯した人を念頭においているみたいだ。この「黒子のバスケ」脅迫事件はそこまでの重犯罪とはならなかった。けど、「幸せになることこそ、更生」というのは、このケースにも当てはまると思う。

で、そこで私は、考えちゃうんですよ。
「幸せ」って何だろう?

一般的には、「仕事の成功」や「家族やパートナーからの承認」なんかが、「幸せ」と結びつけられることが多い気がする。それは持ってる人は当たり前に持っているのだろうけど、ある種の人間にとっては、手の届かない贅沢品だ。

実はこの渡辺博史被告の意見陳述、先月末の朝日新聞論壇時評でも取り上げられていた。高橋源一郎氏によるその時評の末尾は、こんなふうに結ばれている。
 やがてやって来る社会で、わたしたちはみんな「ひとり」になっていくのかもしれない。そこで、わたしたちは、どんな新しい「幸福」の形を見つけることになるのか、いまのわたしには、わからないのである。

 「論壇時評」高橋源一郎(朝日新聞2014年3月27日)

私にもわからない。「負け組」にとっての「幸せ」って、どんなものなのだろう?

この場合の「負け組」というのは、収入とか社会的地位を指しているわけではない。
お金や社会的な地位なんて持ってなくても、ただ、自分がこの世に生まれてきたこと、今生きていることを肯定できる人は、「勝ち組」だと思う。

じゃあ、この渡辺博史被告や、あるいは私自身のように、「自分が生まれてきたことが、何かの罰としか思えない」ような人間は、何をもって「幸せ」になれるんだろう?

今の私が、ぼんやり考えているのは――「生まれてきてよかった」とまでは言えなくとも、「自分が生まれてきたことは、そんなに悪いことではなかった」と、心からそう思えるような日が来れば、それは「幸せ」と呼べるのではないか、ということだ。それ以上の具体的な形については、今の私にはわからない。

渡邊被告にも、彼の文章に共感した人たちにも、私自身にも、いつかそんな日が来ることを願いつつ、この(いささか長過ぎる)小文を終えたい。


       反省させると犯罪者になります (新潮新書)




| ●月ノヒカリ● | 社会 | comments(8) | trackbacks(0) |
2014.04.10 Thursday 21:34
ちょっとお知らせです。
最近のこのブログのコメント欄のやり取りが、ブログ主の処理能力を超えているので、当分の間、コメントを承認制にすることにしました。
今後は、コメントが反映されるのに時間がかかります。

ただ、コメントを承認制にすると、公開・非公開の基準をどうするか、ブログ主も悩むことになるんですよね。中には罵倒コメントを書き捨てていく人もいるし、そういうのを公開するべきかどうか?
広告やスパムは、これまで通りサクッと削除すればいいんですけどね〜。
単に「批判的な内容のコメントは削除する」ことはしたくないんですよね。中には有り難い批判もありますし。何らかの基準が必要かな、とは思うのですが……どういう基準にすべきか、考えがまとまらなくて。

これまでにいただいたコメントは、嬉しい、有り難いものが大多数だし、私自身もコメント欄での皆様とのやり取りを楽しんできたので、コメント欄を閉じることはしたくないのですが。

ちょっとしばらく、コメント承認制にして、様子を見ようと思います。
ご不便をおかけしますが、よろしくお願いします。






| ●月ノヒカリ● | 日記・雑感 | comments(8) | trackbacks(0) |
2014.04.02 Wednesday 00:16
え〜昨日のエントリは、エイプリルフールネタでした。
予告なしで決行したので、見てくれる人は少ないだろうな、と予想していたのですが――幾人かの方が本気で驚いてくださったようで、ブログ主としては嬉しいような、ちょっぴり申し訳ないような気持ちです。
「ダメダメ星通信」のブログをご覧になった方は、「珍しいものを見た」とでも思っていただければなあと。きっと今年はラッキーな一年になるでしょう。

というわけで、ハンドルネームも、ブログテンプレートも元に戻しました。やっぱり、いつもの森の奥深くは落ち着きますね〜。

ただ今回、ブログテンプレートを変えてみて、ちょっとした収穫もありました。
ずっと「記事のタイトルにパーマリンクを貼りたい」と思っていたものの、やり方がよくわからなくて、断念していたのですが――今回のテンプレート変更で、HTMLやCSSをいじってるうちに理解できました。
というわけで今は、記事のタイトルにその記事へのリンクが貼られているはずです。(といっても、慣れないド素人がHTMLやCSSを変更したので、レイアウトが崩れてないか、ちょっと不安なのですが……レイアウトが崩れてる場合は、拍手コメント等でこっそり教えていただけると、たいへん嬉しゅうございます。)

ちなみに当ブログでは、2年前のエイプリルフールにこんなことをやってました。4年前のエイプリルフールネタはこれ
この手のアホネタは、「ネタカテゴリ」にまとめてあります。

今回のエイプリルフールネタも、最初から「ネタカテゴリ」に入れておいたので、気づく人は気づくだろうと思っていたのですが……信じてしまった方、騙してゴメンナサイです。

お詫びになるかどうかわかりませんが、今年の桜の写真を貼っておきます。
桜 ↑これはソメイヨシノ。

河津桜 ↑こちらは河津桜。

というわけで、これからも月ノヒカリと「ダメ人間のダメ人間によるダメ人間のためのブログ」をよろしくお願いします〜。






| ●月ノヒカリ● | 日記・雑感 | comments(5) | trackbacks(0) |
2014.04.01 Tuesday 00:01
ひとつ前のエントリ「月ノヒカリ、泣きながらダメダメ星に帰る」でご報告した通り、ブログ主は故郷のダメダメ星に帰省中です。もう地球へは帰れない、戻れない。

そこで今日から、地球を遠く離れて、見えてくるものをブログに綴ることにしました。
装いも新たに、ブログ「ダメダメ星通信」が始まります。

それに伴い、月ノヒカリは「☆ノヒカリ(ホシノヒカリ)」と改名し、新たな名前で再出発することに決めました。

ダメダメ教を全宇宙に布教し、この宇宙に栄光のダメダメ楽園を築くため、月ノヒカリじゃなくて「☆ノヒカリ」は今、張り切って、張り切って――チーズスティックを食べてます(笑)

さあ、新しい時代の幕開けです☆






【4月2日追記】 このエントリは、エイプリルフールネタです。→後日談




| ●月ノヒカリ● | ネタ・企画 | comments(11) | trackbacks(0) |
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