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2014.06.29 Sunday 13:41
拍手レスをUPするつもりでしたが、その前にご報告。
しばらくの間、ツイッターから離れることにしました。

ツイッターやってると、時々しんどくなることってないですか?(メンタル系の病気持ちの方々がそう言うの、たまに目にしますが。)
私もここ最近、脳がざわざわするというか、頭の中が妙に興奮してるというか、ちょっと説明しづらいんだけど、あんまりいい精神状態じゃないなーと感じてたので、もう思い切ってツイッター禁止を自分に課すことにしました(「ツイ禁」というらしいです)。
ちょっとでもタイムラインを見たら、またつぶやきたくなるに決まってるので、ログアウトして、一切見ない方針です。
改めて、ツイッターって中毒性があるなーヤバイなーと実感しましたね。

ツイッターなんぞやってたら、一向にブログを更新できないわけですよ。
世のブロガーさんの中には、ツイートしたことをまとめてブログの一エントリにしちゃう方々もいらっしゃいますが……自分には、そのやり方はできないっぽいです。つぶやくときと、ブログに長文を書くときでは、使う脳の回路が異なるみたいで。


ツイッターを見ていると、いつも思い出す文章がある。小松左京「神への長い道」の一節だ。(これについては以前にもブログに書いたことがあるので、繰り返しになるけど。)
ここに出てくる「五十六世紀人の会話」って、まさにツイッターそのもので。

十日ほど前から、東京都議会のセクハラ野次の件で、私のツイッターのタイムラインには怒りのツイートが溢れ始めたのだった。
人のつぶやきやリツイートを読み、自分もつぶやいて、いろんな人の意見を取り入れ、少しずつ修正しながら、合意が形成されていく。その過程は、妙にSFチックな、不思議な展開だった。
もちろんツイッターのタイムラインは個々人によってまったく異なるので、「合意が形成された」というのはおそらく錯覚なのだろう。でも、少なくとも一部のフォロワーさんとは、「同じ感覚を共有している」という連帯感のようなものを感じた。
セクハラ野次の件について、現時点での私の見解は、6月23日のツイート及び公式リツイート(下から順に読んでください)のあたりになるかな。

そんなわけで、ツイッターは楽しかったんだけど、ちょっと疲れちゃったみたい。
だから今は、「コンテクスト(文脈)をはっきりさせながら、一つずつ煉瓦を積み重ねていく」ような、古いタイプのコミュニケーションが懐かしくなったんだよね。
それに、長文を書く能力も、鍛えなければ衰えていくんじゃないか、という危惧もある。

だから当分は、「つぶやくよりはブログ書け」をモットーに精進したいと思ってます。
フォロワーさんと気楽なやり取りができなくなるのはちょっぴり寂しい気もするけど、ブログのコメ欄も拍手コメントもあるし、メルアドもここに公開してるし、何かあれば気軽にコンタクトとってください。

次回こそは、拍手レスをUPします。

※関連記事:Twitterという奇妙な空間(2011.02.12)






| ●月ノヒカリ● | 日記・雑感 | comments(0) | trackbacks(0) |
2014.06.24 Tuesday 23:41
 私は手紙を書いていたんだ
 私の言葉が通じる 数少ない友のために
 でもみんな いなくなってしまった
 鳥が飛び立つように行ってしまった
 だから私はまた 一人の歌を唄うんだ

   *   *   *   *   *   *

古いノートを読み返していたら、こんな落書きを見つけた。二年前の日付。

このブログを書き始めてから、自分の中で変化したこともたくさんある。けど、やっぱり、芯の部分はぜんぜん変わってなくて。

私には今も、「仲間とワイワイ騒ぐのが楽しい」という感覚がわからない。
一人で過ごす方が何倍も楽しいのに――と思ってしまう。
ただ、「気の合う仲間」というのがもし身近に存在するなら、話は違ったかもしれない。

ブログを書くのは、手紙を小瓶に入れて、海に流すことに似ている。
もし私が何不自由ない生活を送っていたなら、わざわざ時間をかけて、読んでくれる人がいるかどうかもわからない文章なんて書かなかっただろう。周囲に「言葉の通じる人」がいて話し合えるなら、届くか届かないかもわからない手紙を書く必要なんてなかっただろう。

でも、言葉の通じない国に住んでいるみたいだって、そんな齟齬を噛み締めながら日々を過ごす者にとっては、こんな迂遠な方法を取るしかなかったわけで。

私はずっと、届くか届かないかわからない手紙を海に流すように、誰かが気づいて拾ってくれたらいいな、と祈るような気持ちで、文字を刻んできた。

だからね、もしこの手紙が届いたら、「届いた」って教えてくれたら嬉しいな。一言でいいからさ。
そしたら私も「ああ、私が手紙を書いたのは、無駄じゃなかった」って思えるから。


・・・というわけで、次回は久しぶりに拍手レスをUPする予定ですー。






| ●月ノヒカリ● | 日記・雑感 | comments(7) | trackbacks(0) |
2014.06.18 Wednesday 00:05
このブログではこれまで、戦争責任について語ったことはなかったように思う。
このテーマについては、ずっと前から、自分なりの考えを書いておきたいと思いつつ、まだ着手できていないのですが。

でも先日、ツイッターで流れて来たブログ記事を読んで、ちょっと思い出したことがあるので、それを書いてみようと思う。

読んだのはこの記事。
■ふたつの太平洋戦争 (ガメ・オベールの日本語練習帳v_大庭亀夫の休日)

これを読んで、日本人とアメリカ人では「太平洋戦争」観がずいぶん違うものなんだな、と改めて感じたのだった。
アメリカ人の考え方は、私には受け入れ難い部分がある。特攻隊に対する嫌悪はまだわかるにしても、「原爆が投下されたから多くの人命が救われた」などというアメリカ人の見解には、まったく同意できない。

でも、自分が「正論」だと思ってることを、相手にぶつけたところで、おそらく伝わることはないんじゃないかなあ、とも思うんだよね。

ネット上でも、あるいはメディアや書物においても、過去の戦争について語るとき、いろんな立場の人が、いろいろなことを言い合っている。
私は、それについて論評したり、自分の立場を表明する前に、まず「自分の考えとは、ずいぶん違った考え方があるんだなあ」と、違いを噛み締めるところから始めたいんだよね。だけど、そこから書くとなると長くなりそうだから、また別の機会にして。

戦争について語るとき、「正論をぶつけ合う」のではない、別のコミュニケーションのし方はないのだろうか。

そう考えたとき、ふと、昔読んだ本に載っていたとあるエピソードを思い出したのだった。というのは、学生のころ愛読していた、指揮者の岩城宏之さんのエッセイだ。
かつて世界的な指揮者として活躍していた岩城宏之さんは、名文家で、たくさんのエッセイを残してるんだけど……岩城さんが他界されてから、著作はほぼ絶版みたい。このまま忘れ去られるのは惜しい、素敵な話なので、ここに書き写すことにする。

予備知識として、岩城さんはオーストラリアのメルボルン交響楽団の常任指揮者を長く務めていたこと、海外では「ユキ」という愛称で呼ばれていたことを頭の隅に置いてもらって。
以下は岩城宏之『棒ふり旅がらす』から、1982年にオーストラリアで執筆されたエッセイ「恩讐の彼方」です。
| ●月ノヒカリ● | 社会 | comments(4) | trackbacks(0) |
2014.06.09 Monday 00:04
ヘルマン・ヘッセと言えば、『車輪の下』とか『デミアン』の方が有名な気もするけど、今回は『シッダールタ』の話。
ヘッセの『シッダールタ』、私は高校生のときに一度読んだきりだったんだけど、つい先日、読み返してみたのです。

再読しようと思ったきっかけは、昨年出版された『シッダールタの旅』との出会いがあったから。
『シッダールタの旅』は、ヘッセの『シッダールタ』(新潮文庫版、高橋健二訳)からの抜粋に、竹田武史によるインドの聖地の写真を配した、美しいビジュアルブック。鮮やかな色彩の写真も目を惹くけど、『シッダールタ』からの引用文もまた、詩のようにリズミカルで美しく、宝石のような一冊になっている。

そして何よりも、竹田武史さんの「あとがき」に、心躍るものがあった。
竹田さんは、写真家を志した若い頃から、文庫本『シッダールタ』をジーンズのポケットに忍ばせて、異国の地を旅するのが小さな楽しみのひとつだった、とのこと。旅を重ねても、小説『シッダールタ』は色あせることなく、ますます輝きを増していったという。そういう作品を「名作」と呼ぶのだろう。

私も『シッダールタ』をポケットに、インドへ旅したくなったんだけど……まあそれは無理なので、『シッダールタの旅』の写真を眺めつつ、古い新潮文庫の『シッダールタ』を読み返すことにしたのだった。
そしたらもう、すんごく面白くて。おそらく高校時代に読んだときは、ほとんど理解できてなかったと思う。でも今、改めて読み返すと――深い感動に包まれる幸福な読書体験となった。

この小説の主人公「シッダールタ」は、ゴータマ・シッダールタ(仏陀)のことではない。仏陀と同時代に生きた一人の求道者(シッダールタ)が、悟りに至る道を描いた作品だ。
ブッダの生涯ではなく、ヘッセ自身の自己探求の道を描いた小説、と言ってもいいかもしれない。

ゴータマ・ブッダ(釈迦)は、もともと「全てを持っている人」だった。王族の生まれで、何不自由ない生活していたのに、王宮も妻子も捨てて、出家する。そして断食や苦行に励んだものの、そういった修行によっては悟りを得られず、苦行をやめて瞑想して、そこで初めて悟りを開くことになった。

このヘッセの小説の主人公シッダールタもまた、バラモンの父のもとで育ち、賢く、心を許す友もいて、多くの人に愛される青年だ(蛇足ながら、シッダールタとその友・ゴーヴィンダの関係は、腐女子的に萌えポイントです)。
シッダールタもまた、出家した当初は苦行に励むのだけど、結局は苦行を捨てる。そこからがこの小説の読みどころだと思う。

ここで彼の遍歴をいちいち並べ立てるのは、これから読む人の興を削ぐことになりそうだから、止めることにして。
興味深いのは、この小説の前半で、青年シッダールッタが、覚者として世に知られるようになったゴータマ・ブッダ(仏陀)の説教を聞くシーンがあることだ。シッダールタは、仏陀を尊敬しつつ、しかし「言葉による教えから悟りを得ることはない」と考え、仏陀のもとを立ち去る。

そしてその後のシッダールタが、自らが「小児人」と見下す市井の人々に交わり生活することを選ぶのも興味深い。
シッダールタはそこで富を得て、遊女と戯れ、酒を飲み、賭け事に明け暮れ……しかし彼は、それら全てに、心の底から夢中になれない。老い、疲れ果てたシッダールタは、すべての財産を捨てて再び無一物になるのだった。
その後の詳しい展開を書くのは控えるが、シッダールタは、彼の愛を受け入れないとある人物との出会いと別れがあって、そこで初めて、かつて彼が見下していた「小児人」に心から共感することができるようになったのだ。

「全てを持っている状態」から、それを捨てて、初めて手に入れることができる、という逆説。 「愛」というのは、もしかしたらそういうものなのかもしれない。

実はこのあたりを読んだとき、ヘッセの短編集『メルヒェン』に収録されている「アウグスツス」を連想したのだった(こちらも好きな作品だ)。この短編の主人公・アウグスツスもまた、「誰からも愛されるが故に、誰も愛することができない」青年であり、「愛される力」を失った後に初めて、市井の人々の間に、世界のあちこちに、満ち溢れている愛の存在に気づく。

失うことで、逆に、得るものがある、ということ。
その逆説が、感動的に、かつ説得力をもって描かれている。

『シッダールタ』は発表当初、『内面への道』というタイトルの本に収録されていたらしいが、そのタイトルにこそ、まさにこの小説の本質が言い表されている。たくさんの遠回りをして、自分自身に至るという、内的な探求の道のり。

先人が舗装した道を歩くのではなく、自分オリジナルの道を探し求める人――本当は、すべての人がそうであるのだが――にとって、『シッダールタ』の言葉には、心響くものがあるのではなかろうか。

私もまた、十年後くらいに(生きていれば)もう一度読み返したい。そんなふうに思える小説は、やっぱり「名作」なのだろう。



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| ●月ノヒカリ● | 読書感想 | comments(4) | trackbacks(0) |
2014.06.04 Wednesday 21:40
唐突ですが、『スターリン・ジョーク』という古い本の話をします。
社会主義政権下の旧ソ連・東欧の人々の間で語られていた、政治風刺ジョークを集めた本。現在は絶版ですが、1990年発行の文庫本をいまだに持ってるのです。これ、読み返したらなかなか面白かったので。

なんで急にこんな話を始めたかと言うと。
そもそものきっかけは、話題になってる「集団的自衛権」について、ちょっとは勉強しておくかーという感じで、Twitterで流れてきた論文を読んだのです。
というのは、国立国会図書館が2009年にまとめた論文「集団的自衛権の法的性質とその発達 ―国際法上の議論―」PDFファイルへのリンク)。

これを読んで私、遅まきながら「集団的自衛権」のヤバさを実感しましたよ。最後の章に「集団的自衛権が行使された実例」が載っているんだけど、ベトナム戦争(アメリカによる北爆)も、「プラハの春」へのソ連の軍事介入も、すべて「集団的自衛権」が口実として使われているというのは、衝撃の事実でした。

いや、こんなこと、知ってる人はとっくに知ってるのでしょう。けど、「何だかよくわからない」という人も絶対いるよね。私にとっても、政治や国際関係は苦手な分野だし。
ここで「集団的自衛権」の解説をするのは、私には荷が重いので、それは上記論文等を参考にしてもらうとして。

つらつら考えてみるに、もしかして平成生まれの若者たちは「ソ連」とか「冷戦」を知らないんじゃないか――と気づき、ちょっと愕然としたわけです。いや、「歴史上の事件」として学校で習うことはあったかもしれない。でも、「ベルリンの壁崩壊」や「ソ連の解体」といったニュースにリアルタイムで接した我々の世代とは、断絶があるのではないだろうか。

かういう私だって、社会主義について多くを知ってるとは言い難いんだけど……まあとりあえず、手持ちの本で、雰囲気だけでも味わってもらえればと思い、重い腰を上げて、こんなエントリを書くことにしたわけです。

共産主義とか社会主義といった政治体制は、今ではもう「オワコン」扱いされているみたいだけど……共産主義国家が「パラダイス」のような社会だと信じられ、その実現を夢見た世代が、わが国にも(数十年前までは)存在したのです。貧富の差をなくし、「完全な平等」が達成された社会。ジョン・レノンの「イマジン」のような世界。

でも、実際にできあがったのは――ソ連をはじめ多くの社会主義国家は、共産党による一党独裁であり、反政府分子の粛清もあり、情報は統制され、言論の自由のない社会でした。
それなのに、社会主義国の支配者たちは「ここはパラダイスだ」と強弁するから、話がおかしくなり、格好の政治風刺ジョークのネタになったのです。

以下の政治風刺ジョーク、引用はすべて『スターリン・ジョーク』(平井吉夫編、河出文庫1990年)からです。
 ソ連人と外国人が話している。
「わが国では、もう、金が人間の運命を決定するようなことはない」
「そうらしいな。金じゃなくて秘密警察だろう」
これはスターリンによる大粛清を皮肉ったジョークのようです。

 ソ連には、自由な意見の交換が存在するのでしょうか?
 原則的には存在する。例えば独自の意見を持って党会議に出席し、かわりに党書記の意見を持って帰る。
こちらは共産党の一党独裁を皮肉ったもの。

ソ連と東欧諸国との関係は、以下のようなジョークから伺えます。
 1944年、ソ連軍はポーランド東部をナチス軍から解放し、その地のポーランド人に志願して従軍するよう呼びかけた。
 ソ連将校が一人のポーランド人を説得している。
「どうして、いっしょに闘わないんだ。わが軍の敵はナチスで、ポーランドの解放のために闘っているというのに」
「タワリシチ、あんたは二匹の犬が一本の骨を取りっこして喧嘩しているのを見たことがありますかい?」
「ああ、よく見るね」
「骨がいっしょに闘いましたかい?」
ちょっと注釈を入れると、「タワリシチ」は「同志」という意味で、社会主義圏で用いられている呼びかけ方。
第二次大戦後のポーランドや東ドイツ、チェコスロヴァキアといった東欧諸国は、ソ連を盟主とする社会主義陣営に組み込まれ、アメリカを中心とする資本主義陣営と対立していました。
東欧諸国は、ソ連の「衛星国」と呼ばれ、主権が制限された状態にあったのです。(ぶっちゃけて言うと、ソ連が親分で東欧諸国が子分だったっていうことね。)


さて、ここでチェコスロヴァキアの「プラハの春」の話に入ります。
1968年のチェコスロヴァキアでは、それまでのノヴォトニー政権に代わり、「人間の顔をした社会主義」というスローガンを掲げるドプチェクを指導者とし、民主化・自由化路線を進めたのでした。

しかし(親分である)ソ連は、チェコの民主化を恐れ、1968年8月にワルシャワ条約機構軍(ソ連・ブルガリア・ハンガリー・東ドイツ・ポーランドの5ヵ国軍)を率いてチェコスロヴァキアに軍事介入、あわれチェコの改革は頓挫してしまったのです。(→Wikipedia:プラハの春

そんな「プラハの春」に関連するジョークはこちら。
 チェコの愛国者たちが赤軍に救援を求めたって、本当か?
 原則的には本当である。ただし、救援を求めたのは1938年であるが、赤軍がやってきたのは1968年8月である。
ちょっと注釈を入れると、1938年というのは、ナチスドイツがチェコスロヴァキアに侵入しようとした年。チェコ側が赤軍=ソ連軍に助けを求めたのはそのときだったのに、実際にソ連軍がやってきたのは1968年、「プラハの春」をつぶしに来た、というジョークでした。

こんなジョークもあります。
 世界で最も中立的な国はどこか?
 チェコスロヴァキアである。なにしろチェコスロヴァキア人は、自国の内政にも干渉できないのだから。

 戦車とは、なんですか?
 戦車とは交通手段であり、ソ連兵士が兄弟諸国への友好的訪問に利用するものである。

で、話が長くなったけど、このチェコへの軍事介入を、ソ連側は「集団的自衛権の行使である」と主張していたのです。
この「プラハの春」だけでなく、冒頭に挙げた論文「集団的自衛権の法的性質とその発達」の末尾にある、「集団的自衛権が行使された実例」を読むと、どうも大国が中小国に軍事介入するときの口実に「集団的自衛権」が使われてるっぽいんです。
「集団的自衛権」というのが実に危うい性質のものであること、少しは伝わったでしょうか?


余談ながら、この『スターリン・ジョーク』という本、ジョークだけでなく「あとがき」も面白いので、ちょっとここで紹介すると。
著者の奥さんは、スターリン時代から十年間チェコスロヴァキアに住んでいたという、変わった経歴を持つ日本人だそうですが。
その奥さんによると、悪名高きノヴォトニー時代には、みんな大声で政治ジョークをしゃべっていたのに、「プラハの春」がはじまると、ほとんどジョークは聞かれなくなったという。
ソ連の戦車が入ってくると、著者の奥さんも興奮して、プラハ市民といっしょにソ連兵に悪態をついたものの、しょせん悪態では戦車に勝てない。そして「プラハの春」の敗北がはっきりすると、再び政治ジョークが復活したとのこと。

そこから導かれる著者の考察が、実に興味深い。
政治ジョークはしょせん負け犬の遠吠え、支配者にとっては統治を風通しをよくするための適当な潤滑油であって、人々がジョークをしゃべっているうちは体制は安泰、人々がジョークをやめたとき、本物の抵抗がはじまるのではないか……。

さらにもう一つ、興味深い分析が書かれている。
政治ジョークの語り手は、いわゆる「庶民」ではなく、支配者層の一員となるべく高等教育を受けたのに、さまざまな理由で落ちこぼれた手の白い人たちだ、というのが著者の見立てなのだ。

『スターリン・ジョーク』には、労働者あがりの指導者の無教養や無学歴をからかうジョークもいくつか登場する。(社会主義諸国では、労働者出身の政府閣僚が多かった。)

以下は、「プラハの春」前(1953〜1968年)のチェコスロヴァキア大統領・ノヴォトニーをからかったジョーク。
 ノヴォトニー夫妻が寝室で話している。
「今晩は、どこにも出かけなかったのかい?」
「ええ、フィガロの結婚に誘われたけど」と夫人が言う。「知らない人の結婚式に出席して、出しゃばりだと思われたくないから、ことわったわ」
「そんなことを言うから、おまえはいつまでたっても大統領夫人らしくないって言われるんだ。そういうときは、祝電を打っとくもんだ」
「フィガロの結婚」はオペラのお誘いだったのでしょうね。
確かにこんなジョークを作るのは「庶民」ではなく、知識人なのでしょう。

念のため付記しておくと、『スターリン・ジョーク』の著者は、「(冷戦時代の)旧ソ連・東欧諸国は、共産主義国家ではなかった」という立場です。共産主義(あるいはその前段階としての社会主義)の国というのは、まだ地球上に存在したことがない。かつて存在した「社会主義国」は、資本主義社会と同じく、搾取するものとされるものから構成された社会だった、と。

そこでふと思い出したんだけど。
先週の朝日新聞の「論壇時評」、筆者の高橋源一郎さんはこんな言葉で結んでいた。
 もしかしたら、わたしたちは、「正しい」民主主義を一度も持ったことなどないのかもしれない。「民主主義」とは、ドイツの思想家、ハーバーマスの、想像力を刺激することばを用いるなら、一度も完成したことのない「未完のプロジェクト」なのだろうか。

(論壇時評)僕らの民主主義 少数派からの「ありがとう」 高橋源一郎

民主主義にしろ共産主義にしろ、どんなに立派な思想を元につくられたものであっても、そこに住む人間が息を吹き込まなければ、理想とはかけ離れた代物に堕してしまうのだろう。

「集団的自衛権」からはだいぶ話が逸れちゃったけど、政治の世界でヤバそうな動きが出てきたときには、少しは勉強して、適切なアクションを起こせたらいいな、と。そういうひとりひとりの積み重ねがなければ、「民主主義」は「生きた制度」にならないんだろうな。

ということで、不完全ながら自分なりのスタンスを書かせていただきました。

憲法改正については、以前こんなエントリを書いたことがあるので、こちらもご参考に。
■伊勢崎賢治 『国際貢献のウソ』(2011.1.5)


       





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