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2020.09.12 Saturday
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2014.10.29 Wednesday 22:39またもやミニシアターで映画を観てきました。
「どうして自分が観るのはミニシアター系の映画ばかりなのか?」について考察しようとしたら、長くなりそうなので、今回はやめておきます。
■映画『悪童日記』公式サイト
ハンガリー出身のアゴタ・クリストフによる原作小説は、全世界でベストセラーになったらしいけど、私は読んでいない。原作未読でも、人間のもつ本質的な残酷さや複雑さといったテーマは、映像から充分に伝わってきた。
物語の舞台は、第二次大戦下のハンガリー。田舎の祖母の家に疎開した双子の少年が、厳しい生活のなか「悪」に手を染めつつ、生き抜いていく――。
※以下、なるべくネタバレはしないように書きましたが、多少はネタバレしているので、未見の方はご注意を!
まず何より、主人公の双子の少年が美しい。その眼光の鋭さ、こちらの心の奥底まで射抜くような眼差しのもつ力は、圧倒的だ。
双子を演じるラースロー&アンドラーシュ・ジェーマントは、家庭の問題を抱えており、ハンガリーの小さな貧しい村で、厳しい肉体労働をするのが日常だったという。なるほど確かに、温室育ちの少年ではあり得ない面構えだ。
映画の冒頭では、双子は仲のいい両親と共に暮らしている。
しかし、母方の祖母の家に身を寄せてから、生活は一変。「魔女」と呼ばれる太った祖母は、双子の母と折り合いが悪いらしく、双子を名前ではなく「メス犬の子」と呼ぶ(この双子の名前は、最後まで明かされないままだった)。祖母は、双子を薪割りなどの労働にこき使いながら、まともな食事も与えない。飢えた双子の前で、飼っている鶏を絞めて焼き、自分だけ貪り食うという底意地の悪さだ。
双子は、聖書と辞書のみで読み書きを覚え、父に与えられた日記帳に日常を書き綴る。映画は、この双子の日記を軸に展開していく。
過酷な現実を生きるために、双子は次第に「悪」に手を染めるようになる。悪といっても「悪ガキのいたずら」レベルの話ではない。最初は、隣人の少女から盗みを学ぶ。と同時に、少女を助けるために、居酒屋で芸を披露してお金を稼ぐシーンもあり、その心根は決して残酷なだけではないことがわかる。
その後、双子の暴力行為は、次第にエスカレートしていく。
神父を強請って金を得る。
司祭館で働く美しい女性のストーブに爆発物を仕掛け、彼女は顔に大やけどを負う。
隣家に火をつけて燃やす。
しかし私は、それらの双子の行為を、単純な「悪」とは見做せない。というのは、双子が手を下す以前に、神父やその女性の方が悪事を働いていたからだ。双子は、彼らなりの倫理観に基づき、神の裁きの代理執行をしただけではないのか――少なくとも私は、そう受け取った。
そもそも神父や司祭館で働く女性が犯した悪徳行為は、彼らが受けた「罰」よりさらに重く、質が悪い。
双子の犯した行為は、確かに「悪」なのだけれども、その行為の内に何かしら「道徳的な正しさ」がひそんでいるように思われる。そのことが、この物語に、深みと複雑さを与えている。
さらにもう一つ、印象深かった点を挙げると。
この双子は、間違いなく祖母から虐待されているのだけれども、共に暮らすうちに、両者の関係が次第に変化していくのだ。
これはずっと前から秘かに考えていたことなんだけど……「虐待」と「愛」って、そんなにすっきり切り分けられるものなのだろうか?
何度かこのブログでも取り上げた、古い少女漫画の名作『風と木の詩』のジルベールは、叔父(後に実父であることが明かされる)であるオーギュストから虐待を受けてきた少年だ。しかし、ジルベールとオーギュとの絆は、ただ単に「虐待」として切り捨てられるものなのか?と考えると、そうではないように思う。二人の関係の底に流れているものは、それもまた「愛」だったのではないか。少なくとも、あの作品を読んだ当時の私は、そう受け取った。
話を『悪童日記』に戻すと、双子と意地悪な祖母との関係も、そんなに単純なものではない。映画の中盤から少しずつ、両者の心が通い合うシーンが現れる。
屋外で発作を起こし倒れてしまった祖母を、双子が家のなかに連れて行こうと必死で引っぱっていく場面。
あるいは、刑事から拷問を受けた双子を、祖母が心配する場面。
そして、愛する母が双子を迎えに来たとき、彼らは母と共に行かず、祖母のもとに留まることを選ぶのだ。
さらに双子は、祖母から「次に発作を起こしたときには、これを牛乳に入れて飲ませてほしい」と毒薬を託される。祖母の望み通り、双子は彼女の自死を手助けする。
祖母と双子との関係は、「虐待する者とされる者」でありながら、しかしそれだけで終わるものでない。両者の間に流れているのは、確かに「愛」ではなかったか。
あるいは、双子を祖母に預け、また迎えに来た母は、確かに双子を愛していたのだろう。しかし、双子の父が戦場にいる間に、他の男と通じて子どもをもうけた彼女の愛は、それほど美しいものだろうか。
また、戦争が終わり、双子を迎えに来た父は、彼の妻のその後の顛末を知り、双子を残してその場を去ろうとする。その彼の態度は、「息子を愛する父」のそれと言えるだろうか。
私たちは、それほど単純な存在ではない。
美しいもののなかに醜悪なものがひそみ、醜悪なものから美しい何かが生まれる。
人間は、あるいはこの世界は、そういう不可思議な逆説を孕んでいるのではないか。
そんなことを考えさせられた。
テーマは暗く重いけれども、忘れ難い映画になりそうだ。
この『悪童日記』、原作は三部作なので、できれば続編も映画化してほしいな。また成長した双子を見てみたいです。
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2014.10.26 Sunday 21:45何が起こったのかわからないけど、起こったことをありのまま話します。
いや、ありのまま話したら身バレする危険があるので、一部ボカしますけど。
えっと、つい先日、50〜70代の年配のご婦人方に、よしながふみを布教してきました。
布教したのは『きのう何食べた?』です。BLではないです。セーフ。
・・・じゃなくて、まあ『きのう何食べた?』は、毎日のごはんづくりに役立ちそうなレシピがいっぱいなので、主婦層に受けそうな漫画ではありますが、思いのほか興味をもっていただいたようで、かえってビックリでした。主人公が中年ゲイのカップルでも、だいじょうぶだったみたい。
さらに驚愕したのは。
その、五十代の女性の一人が、「よしながふみは全作品持ってる」って言い出したんですよ。マジで!?
えーそれはその、BLも含むんですかね?
と尋ねたかったけど、聞きづらくてごにょごにょと誤魔化していたら、「昔はこっそり読まなければいけない作家だった」とおっしゃったので、やっぱりBLも含めて、みたい。
そうか、元祖腐女子の先輩方って、いま五十代なのか……。確かに、栗本薫が生きていれば今年61歳のはずだから、五十代のBL読者がいても不思議はないです。
今の自分は、ぼっちオタク生活を送っているけど、それでも「腐女子の友達がいたらいいな」と思ったことがないわけではない。でも、大学卒業以降、リアル生活で、腐女子に出会う機会なんてまったくなくて。
「腐女子ってどこに棲息してるんだろう?」ってつねづね疑問に思ってたんだけど、そうか、やっぱり隠れてたんだな。私だってリアル生活では隠してるし。腐女子のステルス機能は完璧です。
ネットで発信するようになってから、ネット上でならそれはもうたくさんの腐女子に出会う機会はあったんだけど……意外と萌え話って共有できないものなんですね。腐女子と一口に言っても、BL派か二次創作派かでかなり傾向が異なるし。気が合いそうな腐女子であっても、好きなカップリングや萌えツボって、人によってぜんぜん違うみたいで。萌えというのは本来、孤独な営みなのです。
話を元に戻して。
もひとつビックリしたのは、その五十代女性が「ウチの子、高校生と大学生なんだけど、漫画も本もぜんぜん読まない」って言ってたこと。マジで!?
いやそれは、紙の本を読まないということで、きっとスマホとか電子書籍とかで読んでるんですよね?
って聞いたら、「読んでないみたい。お金かかるからって」などと返され、再び仰天。
「若者の漫画離れ」って、確かにちょくちょく耳にするけど、あれ本当だったのか……。
うーん、自分が十代だったとき、もし漫画がなかったら、あの息苦しい日常をやり過ごせたかどうか、自信がないんだけど。
それどころか今現在も、漫画のない生活なんて考えられないんだけど。
私は学生時代、純文学なるものをあまり読んでこなかったけど、その代わり、少女漫画やJUNEという、耽美と頽廃をMIXして砂糖をまぶした独特の世界に、魂の底の底まで浸食された青春だったのです。そのせいで今、こんなにもこじらせたヒキコモリになってしまったのですが。
もしかしたら漫画なんて読まない方が、こじらせ大人にならずに、健全な生活を送れるのかもしれませんね。
でもちょっと寂しいよね。
中学生女子が、『風と木の詩』の「ジルベール・コクトー 我が人生に咲き誇りし最大の花よ…」で始まる冒頭の詩を暗記して、友人の前で朗読するなどという黒歴史を持たないまま、大人になるなんて。
黒歴史のない青春なんて。
予備校時代、とある全共闘世代の先生が、「14〜18歳くらいに考えていたことが、その人の人生を決める」という自説を唱えていて、それを聞いたときはあんまりピンと来なかったんだけど。
でもいま改めて振り返ってみて、自分の十代って、いや二十代も黒歴史まみれな感じですが、でも間違いなく、あの頃の自分が、今の私を形作っているように思う。
だから、このブログを十代・二十代の若者が読んでいるのかどうかわからないけど、言っておきたいことがある。若者はもっとこじらせた方がいい。
十年後、二十年後に振り返ったとき、「ぎゃあああぁぁあああ」と叫び出したくなるような黒歴史をたくさん刻んでおくといい。それは後々、財産になるから。
そういう「恥ずかしい過去」をミルフィーユのように重ねた先に、いい感じにこじらせた自意識過剰な大人への道が開けるのです。ネットヲチしてて感じるんだけど、「面白い人」って全員このタイプです。
というわけで、みんなもっともっとこじらせようぜ!
こじらせ万歳!!
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2014.10.16 Thursday 00:05お久しぶりの拍手レスですー。
拍手レス、かつては月イチの更新だったのですが、最近は3ヵ月に1回のペースになってしまって、きっとコメントされた方も忘れてるだろうなーなどと思うのですが。
でもやっぱり、記事にコメントをもらえるのは、ブログを続けていく上での大きな原動力になるので、細々とですが、この拍手レスコーナーも続けていきたいと思います。
以下、7月3日以降にいただいた拍手コメントと、それに対するレスです。
すべてのコメントにはレスできなかったのに、ブログ主もビックリするほど長くなっちゃったのですが……コメントされた覚えのある方は覗いてみてください! -
2014.10.08 Wednesday 22:44今夜は皆既月蝕です。
少し曇っていたのですが、雲間から月が顔出す瞬間を狙い、シャッターを切りました。
プロの写真にはさっぱり及ばないレベルですが、でも安物のデジカメにしてはまあまあの写真が撮れたので、載っけておきます。
19時30分頃の月。
本来、月を撮影するときには、三脚は必須らしいです。
が、そんな面倒なモノは持たない主義のブログ主は、台の上にカメラを載せて手で固定しつつ、何枚か撮影したのですが……案の定、ほとんどがブレブレで使い物にならないシロモノとなりました。
上の写真は、奇跡的に撮れた一枚です。
雲が切れるのを待っていたら、月蝕はほぼ終わってしまいました。
21時30分頃の月。
満月の右側がちょこっとだけ欠けています。
ちなみに今回の月蝕、西洋占星術マニアにはなかなか面白い星の配置です。
牡羊座の月と天王星が重なり(コンジャンクション)、月の対岸にある天秤座の太陽と金星も近い位置に。その金星は山羊座の冥王星とスクエア(90度)。さらに牡羊座の月+天王星、射手座の火星、獅子座の木星が少しゆるいけどグランドトライン(大三角形)を描いているという、派手な配置です。
なんというか、「大胆な変革の時!」というイメージです。
・・・と、占星術知らない人には、おそらく呪文のようなワケのわからない話になってしまいましたが……興味のある方は、石井ゆかりさんのサイトに解説がありますので、よかったらご覧ください。
もっとマニアックな占星術スキーなら、このサイトでホロスコープを作成してニヤニヤしましょう。
次こそは、拍手レスをUPする予定です。
赤銅の月に追われて異界への入り口探す蝕(エクリプス)の夜
(改作)
赤銅(あかがね)の月に追われて異界への扉をひらく蝕(エクリプス)の夜 -
2014.10.01 Wednesday 23:06
そんで、自分も含めて、無職の人は、一度くらいは考えたことがあるのではなかろうか。「雇用されるのではなく、仕事を自分でつくることはできないものか」と。
今どき「仕事は自分でつくれ」系のビジネス書(『月3万円ビジネス』とか)なんて、さほど珍しくないのだろう。
そんで、普通の人がそれを読んで実践しようとしても、まず挫折するのが定石だ。
仕事を自分でつくれる人って、そもそも優秀で、社交的な性格で、健康な人なわけですよ。
とりたてて取り柄のない、人嫌いのヒキコモリ病人が真似しようとしても、無理があるわけで。
だから多くの人は、自分の心身を削ることになるとわかっていても、雇用労働に戻るしかないのが現状です。
そういうことを多少は理解しているから、私は、安易にこの手の本を礼賛するつもりはない。 『ニートの歩き方』のphaさんが健康で優秀な男性であるのと同じく、この『ナリワイをつくる』の著者もまた京大院卒、経歴を見たら「常人には真似できないレベルの優秀な人」で、凡人が夢を見すぎるのは危険だとは思う。
でもここに書いてある内容には、かなりシンパシーを感じてしまったのも事実だ。
『ナリワイをつくる』で提唱されているような、「自分自身が楽しく働けて、人の役に立ってるという実感が持てて、かつ心身の健康を損なわない働き方」って、多くの人にとって理想的な生き方ではなかろうか。でも実際のところ、そういう働き方ができてる人って、どれほどいるのだろう?
私が今の雇用労働に疑問を感じるのは、自分が経験してきたそれが「誰の役にも立っていない仕事」としか思えなくて、しかも「心身の健康を損なうほど苦痛」だったからだ。
そんなわけで私は、こういう『ナリワイをつくる』的な生き方、実践は難しいと思いつつ、捨て難いものを感じてしまうのです。
まず、「ビジネス」ではなく「ナリワイ」と呼ぶところがいい。「自分の生活から生まれる業」、仕事であり生活であり同時に遊びにもなり得る働き方、それを著者は「ナリワイ」と呼ぶ。じんわりとした味わいのある言葉だ。
この『ナリワイをつくる』とは対極的な視点に立つ本がある。ベティ・L・ハラガンの『ビジネス・ゲーム』だ。
『ビジネス・ゲーム』は、1977年にアメリカで出版され、 翻訳初版は1993年。今年4月にアナウンサーの小林麻耶さんが朝日新聞の書評欄で絶賛したため再び脚光を浴びた、働く女性のための「男社会であるビジネスの世界のルールを解き明かした本」だ。
ビジネスゲームのルールの基本は、「会社というのは、ピラミッド型の軍隊組織」ということらしい。こういうこと、男性なら当たり前に知ってることなのかもしれないけど、女性にとっては未知の世界、「暗黙のルール」みたいなもので、だから女性が会社で働くときに戸惑うことが多いみたいだ。『ビジネス・ゲーム』の解説を書いているのは勝間和代さんなんだけど、彼女のようなキャリアウーマンを目指す女性には、きっと得るものがたくさんある本なのだろう。
この『ビジネス・ゲーム』が正規の軍隊だとするなら、「ナリワイ」は、ゲリラ型のネットワーク形成を志向する働き方だ。
一つの会社の中でキャリアを積むのではなく、普段の生活の中から小さな仕事を見つけるという働き方。一つの仕事だけでは収入が足りないけど、複数の仕事を組み合わせれば生活できる。それでも生活費が足りないのなら、支出を減らせばいい。いちばんお金がかかるのは住宅費だから、家を自分で建てちゃえばいい!――とまあ、ここまで言われると、普通の人は「無理無理無理無理……」ってなりますよね。私もそうです。でも、そういう実現困難なことは横に置いておいて、とりあえず「余計な支出を見直す」「生活するのにどれくらいお金が必要か把握する」ことなら、今すぐにでもできそうだ。
「ナリワイ」に厳密な定義はない。「自分自身が熱望するものをつくる」「売り上げよりも内容を重視」「個人で始められる」「提供する人、される人が仲良くなれる」といった大まかな方向性はあるものの、「弱いコンセプト」に過ぎない。会社なら「詰めが甘い!」と叱られそうなものだが、そういうゆるい考え方の中でこそ、実践できることもあるのだという。
「ナリワイ」のコンセプトで、個人的にいちばん感銘を受けたのは、「お客さんをサービスに依存させない」というポリシーだ。
ナリワイでは、自分もお客さんも生活自給力をつける方向を目指す。だから、「お店」よりも「ワークショップ」に近い。それも「募集開始すぐに満席」ではなく「ぼちぼち人が集まる」ようなワークショップ。それが例えば「自分で家を建てるためのワークショップ」なら、「お客さんが自分自身で家を建てられるようになる」ことを目的とするのであって、「お客さんの代わりに家を建ててあげる」のではない、ということだ。
著者がこれまでに実践してきた代表的なナリワイとして、「モンゴル武者修行ツアー」と「木造校舎での手作り結婚式」が挙げられている。(著者のナリワイウェブサイトにも概要が掲載されている。)
「モンゴル武者修行ツアー」はそもそも、著者自身が「観光地をスタンプラリーのように回る従来のツアー」に不満を抱いていたことから、産まれた企画だ。
そう、「自分自身が違和感を持つこと」や「困った経験」こそが、ナリワイの種になるのだ。そして、プロではないからこそ、専業の人にはできない、より本質的な仕事ができるのだという。
専業の旅行会社では、ホテルやお土産屋からのキックバックで、低価格のツアーを実現している。しかしお客さんにとっては、行きたくもない土産物屋に連れて行かれるのは、不本意だろう。
それに対して著者は、効率やスケジュール重視ではなく、自分自身が好きな場所・やってみて面白かった活動を、お客さんに体験してもらう。そういう趣旨に同意する人だけが参加できるツアーなのだ。
「モンゴル武者修行ツアー」のサイトを見ると、ものすごく注意書きが多く、参加者のハードルを上げまくっているのが見て取れる。それもこれも「アクシデントを歓迎するような本来の旅の醍醐味を生み出すためには、受け手側の協力が欠かせない」という著者のポリシーから来るのだろう。
「木造校舎での手作り結婚式」というナリワイもまた、専業のウェディングプランナーを抱えるブライダル業界ではないからこそ、さほど高価格ではなく、凝った内容の結婚式を実現できる。司会者はプロではなく、新郎新婦の知り合いから探す。それこそが「友人・知人が集まって新郎新婦を祝う」という本来の結婚式の趣旨に沿うの会になるではなかろうか。その代わり「ノーミスでスケジュール通りの結婚式」にはならない。その点は、新郎新婦にもリスクを負担してもらうのだという。
こういう感覚――つまり、「サービスの受け手にもリスクを負担してもらう」「良い仕事の実現のためには、お客さんの側の協力も必要」という考え方は、一般の接客業にも必要とされているのだはなかろうか。
「お客さんの要望には全て応えなければならない」という接客態度はどこか歪だし、モンスタークレイマーの温床にもなり得る。
「ゲストになるのも資格が必要」という感覚、今のサービス業でも、もう少し考慮されてもいいように思う。
一方、この本を読んでいて最も抵抗を感じたのは、「友達」とか「仲間」という言葉がさらっと出てくるところかな。
「飲み会するお金が無ければ、料理上手な友人に頼んでホームパーティを開けばいい」とか、「一緒に仕事をすれば仲間が増える」とか、コミュニケーション弱者のヒキコモリからするともう「どこの世界の話だよ」って感じで。
これについては、元ひきこもりの上山和樹さんのブログ記事を思い出したので、ちょっと引用したい。
しかし私はむしろ、その「仲間」こそが難しい。つながろうという願望はどこかで多くの人が抱えていても、実際につながろうとすると、作法が分からない。仲間というのは、「集まればできる」ものではないでしょう。人の集まりには、仲間よりはむしろトラブルがあります。
ひきこもり経験者とかコミュニケーション弱者なら、上山和樹さんに共感するのではなかろうか。
目指すべき包摂性のスタイル(Freezing Point)
実際、「仲間をつくる」のって、難しいんですよ。
さらに言えば、ボランティアやお手伝いなら可能でも、それを仕事にして収入を得ようとすると、ハードルが一気に高くなるんですよ。
まあでもそれについては、「サッカーをするとき、いきなり公式試合に出るのは無謀で、まずはボールを触るところから始めよう」という著者のアドバイスは正しい。今の自分に無理なくできることから始めるしかないのだろう。
ただ本当に、自分がネットで発信し始めてから見えてきたことだけど、ネット上で見かけるひきこもり経験者には、「人の役に立つことをして、収入を得たい」と望んでいる人が多いように感じる(自分も含めて)。私たちがそう望むこと自体は、決して間違ってないはずだ。
なのに、雇用労働の場では、「人の役に立っている」という実感を得られる人は、そんなに多くはない。しかも今の雇用労働は、就職するまでもした後も、競争が苦手な非バトルタイプには厳しすぎる戦場だ。
もちろん、日本企業がグローバルな競争力を高めることは、必要なのでしょう。ビジネスゲームに向いている人もいるでしょう。
でも、明らかに適応できない非バトルタイプの人間までも、ビジネスの戦場に引きずり出すのは、さすがにおかしいのではないか? と私は感じてしまう。そうしたところで、誰も幸せにならないのだから。
今の安倍政権が主張する「女性の活躍推進」というスローガンに、私は何とも言えない違和感を持ってしまうのだけれども……その違和感の一つは、女性に「ビジネスゲームへの参戦」を促しているように感じるところだ。
しかし現在、男女を問わず、ビジネスゲームの場で「心が折れた」とか「体を壊した」結果、ドロップアウトした人も、たくさんいる。そういう人たちの中には、優秀な人、キラッと光るものを持つ人、「人の役に立ちたい」と望んでいる人も多い。
今の日本にも、「眠っている人材」って、存在すると思うんです。
女性だけではない。非バトルタイプで、競争が苦手で、ビジネスゲームに適応できなかった人たち。そういう人たちを再び戦場に追いやるのではなく、心身の健康を損なわない範囲で「人の役に立つ仕事」を模索できるようにすること。そういう方向性も、日本の未来のために必要なのではなかろうか。
例えば、「経済的な理由で塾に通えず、学校の勉強についていけない子どもに勉強を教える」とか、「外出が困難な高齢者のための買い物代行」とか、そういう小さな仕事。そのために「NPO法人を設立しなきゃいけない」とか「資格取得が必要」となると、一気にハードルが上がってしまうので、もっとナリワイ的なゆるい感じの仕事にすれば、働ける人も増えるのではないか。その結果、社会問題も(一部)解決してしまうという、一挙両得の働き方とならないだろうか。
それなら「まずお前がやれよ」などと言われそうだけど、行動力のない病気持ちのコミュ障には難し過ぎて、今の私には、「とりあえずブログに書いてみる」ことしかできないのだけれども。
でも、そういうナリワイ的な生き方、もう少し受け入れられてほしい。戦うのが苦手な人も、それなりにお金を稼げるようになるといい。心からそう願っている。
手近なところでは、このブログも、「ナリワイ」的な方向性でやっていきたいと、ひそかに考えている。 「頑張ってアクセス数を増やそう」とはせず、自分が本当に面白いと思えることだけを追求し、読んでくれる人も私自身も共に成長していけるように。
(まあ、そうしたところで、このブログの収益なんて月収数百円なのですがorz)
「自分で仕事をつくる」なんてそんな簡単ではないとわかっているけど、それでも自分なりの働き方を模索している人を、私は応援したい。
そういう人たちには、「一緒にがんばろうね」って言いたい。
ナリワイ的な生き方をするために、今自分にできることを、ちょっとずつでもやっていけたらいい。
『ナリワイをつくる』を読んで、改めてそんなことを考えたのだった。
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