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2020.09.12 Saturday
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2014.12.22 Monday 23:54バナナの皮が落ちていたわけでもないのに、すべって転んでしまった。
おそらく数年ぶりの事件である。
運動神経が人並みはずれて鈍かった子ども時代は、しょっちゅう転んでいた気がする。大人になってからは、さすがに転ぶことは少なくなったけど、生まれつきの運動音痴は治らないのだから、やっぱりたまには転ぶ。
転んだのは、大雪の日ではなく、雨の日だった。
買い物先のドラッグストアの入り口あたりで、濡れた床ですべって転んでしまった。
近くにいた女性は、ちらりとこちらを見て、そのまま歩き去った。
世知辛い世の中である。
――などと言うつもりはない。
膝を打ってちょっと痛かったけど、自力で起き上がれないほどの怪我をしたわけではない。
「大丈夫ですか?」と声をかけてくれる人がいたら、たぶん嬉しい。でも一方で、見て見ぬふりをしてくれる方が、有り難い気もする。すってんころりんと転んでしまった格好悪い姿なんて見てほしくない、という思いもあるし。
こういうとき、「親切」と「おせっかい」の境目ってどのあたりにあるのかなあ、などと考える。
「親切」のつもりでしたことが、相手にとって「いらぬおせっかい」だった、なんてことは、よくあることなんだろうな。
一方で、「いらぬおせっかいかもしれないな」と「親切」を自粛してしまう「優しい人」もいて、でもそうなったら「親切」は伝わらないまま終わっちゃって、伝わらなければ「親切」は存在しないも同然だ。
「ありふれた親切をちょっぴり多めに」と言ったのはヴォネガットだけど、親切の実践というのは、なかなかに難しいものである。とりわけコミュ障にとっては。
そんで今、ちょっとだけ困っている。
転んだとき膝を打っただけで、骨折したわけではない。でも動かすと膝が痛む。
こういうときは、動かさない方がいいのだろう。つまり、運動ができないっぽい。つい先日、ダイエットしようと一念発起したばかりなのに。
軽く落ち込みそうになったものの、そんなときに有効な対処法を、今の私は一つだけ持っている。
それはズバリ「ブログのネタにする」ことだ。
「転んでもただでは起きあがらない」とはこのことである。
何と言ってもブログ主は、ドケチで有名な名古屋人の血統を受け継いでいるのだ。
転んだら、それをネタにして元を取る。
「元を取る」というのはつまり、読んでくれた人から拍手やコメントをもらうことで、そうなるとブログ主の承認欲求が幾分満たされて、ちょっぴりハッピーになれるのです。
というわけで、「転ぶ」をテーマに、思いついたことを書くことにする。
「七転び八起き」ということわざがある。
この言葉、ちょっと不思議だと思いませんか?
だって、「七回転んで、八回起きあがる」って、回数があってないじゃん。なんで「七転び七起き」じゃないんだろう?
なんとなくだけど、「七転び七起き」だと、「話がそこで完結している」感じがするからかなぁ。
「七転び八起き」なら、「八」に「末広がり」という意味があるせいかもしれないけど、「これから先も続いていく」イメージがわいてくる。
つまり、「転ぶのはこれが最後ではなく、たぶんこれから先も転ぶことはあるだろうけど、でもまた起きあがるんだろうな、起きあがれたらいいな」っていうイメージ。
「もう二度と転ばないようにしよう」と決心する人よりも、「また転んでも、もう一回起きあがろう」と考えられる人の方が、しなやかで、強い存在ではなかろうか。
「また転ぶこともあるだろうし、痛い思いをするかもしれないけど、そうなってもまた起きあがればいい」って、そんなふうに思えるのだとしたら、きっとそれを「自信」と呼ぶのではないか。
私はこれまでの人生で、幾度となく転んできた。
転んだまま、立ち上がれなくて、じっとうずくまっているしかない。そういう時間が本当に長かった。このまま二度と起きあがれないんじゃないかって、そんなエネルギーはもう残ってないよって、ずっと思っていた。
「転んで、起きあがるまでの時間」、つまり、うずくまっているだけの時間を、世間の人は「何もしていない時間」と見做すのだろう。ひきこもりの経歴があったところで、マイナス評価しかされないのが普通だから。
でも、そこを通り抜けてきた人間としては、それは違うよねって思うんだ。
うずくまったまま、懸命に闘ってきたんじゃないか。「敵」の正体もわからないまま。
自分自身と必死に向き合っていたんじゃないか。
そういう時間を経てきた人は、そりゃ「学歴」とか「職歴」とか「恋愛経験」みたいな世間一般の人が評価するような「いい経験」を積んだわけではないかもしれない。でも、誰よりも豊かな内面生活を送ってきたのではないか。
だから、「転んで、起きあがれずにうずくまっていた時間」にも意味はあるんじゃないかって、今の私は考えている。
そんなふうに思ってくれる人が、他に一人でもいれば嬉しいな。
というわけで、ここまでの内容に共感してくれた人は、ぜひ拍手ボタンをポチッとなと押してください。
「転んで、起きあがれずに過ごした時間にも意味がある」という教えを、われらがダメダメ教団の根本原理とし、共に全世界に布教しませう。
今日のおまけ。愛がそれほど重要とは思えない。
では、なにが重要に思えるのか? 運命と真剣に取り組むことである。
(中略)
愛はどこにでも見つかる。それを探しにでかけるのは愚かなことだと思うし、また、有害になることも多いと思う。
世間の常識から見て、相思相愛の仲だと思われている人たちに――あなたがたがもし諍いを起こしたときは、おたがいにこういってほしい。「どうか――愛をちょっぴり少なめに、ありふれた親切をちょっぴり多めに」
(カート・ヴォネガット『スラップスティック』)
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2014.12.11 Thursday 23:30今度の日曜日が衆院選なので、その前に更新。
ただ、前から言ってるように、私は政治に関心がないし、まったく選挙には熱くなれないタイプなので、「投票に行こう!」とか言うつもりはないです。
むしろ「なんで選挙に行かなきゃならないんだろう…?」と愚図愚図考えてしまうタイプの人に、シンパシーを感じます。私自身がそうだから。このブログの過去記事でも、選挙のたびにそんなことばかり書いてきました(これとかこれとか)。
えっと、先月のことだけど、東浩紀が、Twitterでちょっと興味深い発言をしてたんです。
セカイ系とか美少女ゲームとかバカにして社会派に走ったのがこの数年の批評だったわけだけど、それで結局なにも得ることなかったんだから(これは反省も込めている)、もう社会改革なんて無視して、生きるとはなにかとか愛するとはなにかとか追求することに、もういちど向かうべきだと思うのよね。
一部のみの引用で、ちょっと文脈をぶった切ってしまったけど、なかなかに退け難いテーマを含んでいるように思う。
https://twitter.com/hazuma/status/536918176617869312
ぼくたちは、選挙なんてどうでもいいから、神とか愛とかについて考えたいんだよ。そういう人間はこの国にもたくさんいるのに、「そういう連中は社会不適合者、選挙いくのがまともな大人」とかいって片付けるから、政治の質が下がるんだよ。そういうこと本気で言うのが大事だと、最近は思ってる。
https://twitter.com/hazuma/status/536922951900078081
神がないところに、政治なんてあるわけないのであって、この国は意味不明だよ。
https://twitter.com/hazuma/status/536923244289208320
ぼくたちの人生は限られている。それをいかに有効に使うか。なるほど税金はぼくたちが払ってる。でもそれを収めて義務を果たしているんだから、もうそれ以上 無駄な時間まで取られたくないと思うのは、果たして不合理なのか? この「国家」とかいうくだらんゲームにどこまで付き合えばいいのか?
https://twitter.com/hazuma/status/536924925169131520
「政治と神」というのも面白そうなテーマだけど、かなりややこしい話になりそうなので、それは置いておいて。
とりあえず今回は、「愛」について考えてみる。
「政治」というと、永田町の権力闘争みたいなものを想像する人もいそうだから、それは避けて、ここでは「社会変革」という言葉を使うことにする。
私にとって、「社会変革」と「愛」は、一本の線でつながっている。
「愛とは何か」を定義するのは難しいけれども――とりあえず、「自分にとって大切な人たちが、幸せでいてほしい。できればいつも笑っていてほしい」と願う気持ちは、「愛」と呼んでもいいのではなかろうか。
私がこのブログを――よりによって「社会を変える」などという大それたタイトルをつけて――書き始めたのは、何よりもまず私自身が「社会的に疎外されている」「居場所がどこにもない」という切実な痛みを抱えていたからだ。そういう意味では、まったくの利己的な動機で始めたことだった。
でも一方で、「こんなふうに苦しんでいるのは、絶対に私だけじゃないはず」という確信のようなものもあった。
これまで声を発することができなかった私が、自分が苦しんできたことを言葉にしてみたら、もしかしたら同じように苦しんでいる人たちと繋がれるんじゃないか。
そういう思いがあった。
そうして、このブログを読んでくださった方の中には、自殺願望を持つ人もいれば、生活保護受給者の人も、障碍や難病を抱えた人もいた。生きづらさを抱えながら、なんとか生き延びてきた人も、たくさんいる。
縁あってこのブログを訪れて、私が発した言葉に共鳴してくれた人たちもまた、私にとって「大切な人」だ。
その大切な人たちが、今よりもう少し苦しくなくなって、できれば笑って生きられるような、そんな世の中になってほしい。そういう世の中に近づくために、今の自分にできることがあるなら、ほんの小さなことでも、積み重ねていきたい。それが私にとっての「社会変革」だ。
でも、「選挙で投票に行くことで世の中がよくなるのか?」と問われると、うーん、と考えてしまうよね。
今の時代は、政党政治とか、議会制民主主義とか、そういう制度そのものが疲弊してしまって、機能しなくなっている。だから今とは別の形の民主主義を――と主張する学者もいるくらいだし(この人とかこの人とか)。
それでも、じゃあもう選挙なんか行かなくてもいいじゃないか、とまでは言えないよね。少なくとも私は。
私には支持政党はないし、正直言って投票したい政党もないんだけど、とりあえず今の制度の中で、よりマシな方を選択しようと、ちょっとだけ考えてみるのは、無駄じゃないと思う。それしかできないっていう、まあ「投票」というのは、ある意味、無力感に苛まれるための儀式のような気もしますが。
ただ、これも前から言ってることだけど、民主主義の本質というのは、「一人ひとりが主権者としての意識を持つこと」にあるんじゃないかと、私は考えている。言い換えれば、「社会問題はどこかの誰かが解決してくれる問題ではなく、自分もまた解決に携わらなくてはならないのだ」という自覚を持つこと。そのために自分自身もまた成長していくこと。そうしなきゃ民主主義は「生きた制度」にはならない。
えーとつまり、話が長くなったけど、「私と関わりのあった大切な人たちが、できるだけ幸せに暮らせるようになってほしい」と望むなら、「社会を変えていかなきゃいけない」と当然考えることになるよねって話です。
そりゃ「勝ち組」の人たちにとっては、現状の社会のままでもたいして困らないのでしょうから、「社会変革」なんて考えなくてもいいのかもしれないけど。でも、ギリギリ生き延びてきた人間にとっては、本当に、生きるか死ぬかの問題だよね。
だから、私にとって、「愛について考える」ことと「社会変革」は、まったく矛盾しない、ひとつながりのものなのです。
まあ、選挙前にこんな文章を書いてる自分は、とんでもなく世の中からズレまくってる気もしますが……ブログ主の頭がおかしいのは最初からなので、諦めてください。
一応、投票の参考になりそうなサイトを二つ紹介しておきます。
まずは、各政党・候補者のスタンスが一目で分かる「朝日・東大谷口研究室共同調査」。
http://www.asahi.com/senkyo/sousenkyo47/asahitodai/
集団的自衛権、原発、ヘイトスピーチへの対応など、それぞれの政党・候補者のスタンスが図で表示されます。わかりやすいです。
最高裁判所裁判官国民審査については、「ポリタス」にあるまとめが便利です。
http://politas.jp/articles/226
というわけで、今度の日曜日は、このブログを通じて出会えた方々のことを思い浮かべつつ、投票に行ってこようと思います。
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2014.12.08 Monday 22:43前回のエントリ「短歌クイズ」に解答くださった皆様、ありがとうございます〜。
まったく誰からも反応がなかったら、ブログ主は泣きながらダメダメ星に帰ることになり、このブログの存続も危ぶまれるところでしたが……ごく少数の方々が乗ってくださったおかげで、この弱小ブログも細々と続けていけることと相成りました。
今回、華麗にスルーされた方々には、ブログ主から呪いの魔法を――かけたりはしませんので、よかったら「解答編」を読んでいってください。
前回出したクイズ短歌はこちらです。
追憶の傷に触れる書ノンブルが光になって弾けて消える
つながった君の聲(こえ)から野うさぎが光のほうへ跳びはねていく
継ぎはぎの狂騒曲が呪われた光を放ちつつ駆け抜ける
問題は、「この3つの短歌に共通して隠されている言葉は?」でした。
さて、解答の発表です。ジャジャーン。 -
2014.12.05 Friday 22:48たぶんきっと、ほとんどの人から求められていないような気もしますが、自分の中の短歌ブームが終わらないので、引き続き短歌の話をします。
あ、でもごく少数の方から、「自分も短歌詠みます」というコメントをいただいたのですが、そういうのはぜひブログ主にもお裾分けしてください!(→訳:遠慮なくコメント欄で発表してくれていいのよ?)
さて本題。
短歌に限らず、詩歌って「言葉遊び」の面白さという面があると思うんです。
山村暮鳥の「風景 純銀もざいく」っていう詩、ご存じでしょうか。
「いちめんのなのはな」が続く中に一行だけ、別の言葉が入ってるの。
私はこの詩、すごく好きなんですよ。
ただの文字列なのに、本当に「いちめんのなのはな」の風景が、目の前に広がるような気がして。
こんなふうに、深い意味はないけれども、ただ言葉の美しさ・修辞の面白さを味わうというのも、詩歌の一つのあり方ではないでしょうか。
これは詩や川柳でもできることだけど、短歌というのはかなり「言葉遊び」に向いている表現方法だと思うのです。
というわけで、私も「言葉遊び」の短歌を作ってみました。
下に3つの短歌を書きましたが、この三首には共通して、ある一つの言葉が隠されています。
探してみてください。
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追憶の傷に触れる書ノンブルが光になって弾けて消える
つながった君の聲(こえ)から野うさぎが光のほうへ跳びはねていく
継ぎはぎの狂騒曲が呪われた光を放ちつつ駆け抜ける
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とりあえず、3つの歌に共通する言葉を拾い出せば、簡単にわかっちゃう、はずです。
・・・が、考えるのが面倒な人のため、ヒントを白文字で書いておきます(反転させて読んでね)。
【ヒント】→1句め、2句め、3句め、4句めの頭文字を繋いでみてください。
「歌の意味がわからない」と言われそうですが、それはまた次回、解答と共に解説を載せます。
答えがわかった人は、コメント欄でも拍手コメントでもツイッターでも構わないので、教えてください。
解答してくださった方にはもれなく、ブログ主が泣きながらお礼を言わせていただきます。
→ 短歌クイズ解答編はこちら - ←新しい記事 1/1 pages 古い記事→