2020.09.12 Saturday

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2015.02.28 Saturday 00:07
最近ちょっと気持ちが落ち込み気味なので、いつもとは違う音楽でも聴くか――
そんなとき、ふと思い出したのがブルーハーツでした。

ブルーハーツに思い入れがある世代って、たぶん今40代くらい、下はせいぜい30代後半あたりまで、かな。
私は十代の頃、ほとんど音楽を聴かない生活をしてたんだけど、ブルーハーツは別格だった。
当時はCDラジカセを持ってなくて、カセットテープが擦り切れるのを心配しつつ聴いていたのも懐かしい。
特に1stアルバムから3rdアルバムにかけては、今聴いても名曲揃い。
ただ一つ、すっごく後悔してるのは、ライブに一度も行かなかったこと。
いや、昔は(今もだけど)、ライブってリア充イベントっぽくて、ヒキコモリ属には敷居が高かったのよ……。
もしタイムマシンがあるなら、十代の自分に説教しに行きたい。
「ブルーハーツのライブには行っとけ!」と。

私はわりとネガティブ人間だけど、それでも自分の中に幾らか存在するポジティブ成分って、ブルーハーツから貰ったものじゃないかと思う。

ドブネズミみたいに美しくなりたい
写真には写らない美しさがあるから

   「リンダリンダ
と歌って、1987年にメジャーデビューしたブルーハーツ。

お前なんかどっちにしろ いてもいなくても同じ
そんな事言う世界なら ボクはケリを入れてやるよ

   「ロクデナシ

十代の頃からずっと、居場所のなさ、この世界に居心地の悪さを感じていた私にとって、ブルーハーツは救世主のような存在だった。

ボーカルのヒロトの声は、上手いとか下手とかいうレベルを超えて、私の胸の奥の奥まで、生き延びるのに必要なエネルギーを届けてくれた。

ヒロトの弾むようなボーカルは大好きだけど、ギターの真島がボーカルをとる「チェインギャング」もじんわり沁みる。
仮面をつけて生きるのは 息苦しくてしょうがない
どこでもいつも誰とでも 笑顔でなんかいられない

   「チェインギャング

「終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため」のリフレインが耳に残る中、こんな言葉が胸を突き刺すことも。
真実(ホント)の瞬間はいつも 死ぬ程こわいものだから
逃げ出したくなったことは 今まで何度でもあった

   「終わらない歌


「栄光に向って走る あの列車に乗っていこう」で始まる「TRAIN-TRAIN」を聴くと、本当に駆け出したくなるんだけど……印象的だったのは、こんな一節。
弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく

   「TRAIN-TRAIN
「ホームレスに暴力をふるう高校生」といったニュースを見聞きするとき、この一節を思い出した。
「弱い者が、さらに弱い者をたたく」のは、今ではごくありふれた、よく見かける光景だと感じる。とても残念なことだけど。


長い間アルバムには収録されてなかった「人にやさしく」もまた、私にとって特別な歌だ。
あの当時、私がヒロトから受け取ったもの。
その何万分の一でもいいから、誰かと分かち合うことができたらいい。
そう願いつつ、今の私は、ネット上に言葉を送り出している。
僕はいつでも 歌を歌う時は
マイクロフォンの中から
ガンバレって言っている
聞こえてほしい あなたにも
ガンバレ!

   「人にやさしく



←拍手はこちら〜


20年も前に解散した伝説のバンドなので、もしかして知らない方のために、つべのライブ動画へのリンクを貼っておきます。
リンダリンダ」「TRAIN-TRAIN」「人にやさしく
終わらない歌」「チェインギャング



↑ 1st、2nd、3rdアルバムと、最近出たベスト盤CD。




| ●月ノヒカリ● | 音楽・映画 | comments(8) | trackbacks(0) |
2015.02.23 Monday 21:43
またまた更新が遅くなりましたが、お久しぶりの拍手レスです。前回の拍手レスから4ヵ月も経ってしまいました。
そういえば、前回の拍手レスは記念すべき50回めだったんですね〜。気づかずに流しちゃったけど。

この拍手レスシステム、当ブログ草創期にお手本としていた先輩ブロガーさんに倣って始めたものでしたが、ここまで続けてこられたのも、いつも読んでコメントくださる皆様のおかげです。
やっぱり私は、ブログに文章を書くだけでは満足できないんですよねー。
読んでくれた人からのコメントのやり取りも含めてのブログだと、個人的には思ってます。

というわけで、以下、昨年10月27日以降にいただいたコメントへのレスです。
去年のことなんてもう忘れちゃってるかもしれませんが、コメント送った覚えのある方は覗いてみてください♪
| ●月ノヒカリ● | web拍手レス | comments(0) | trackbacks(0) |
2015.02.13 Friday 22:56
ネット上で様々な人と言葉のやり取りをして、気づいたことがある。
言葉には温度があるということだ。

あたたかい言葉を持つ人がいる。
一見やさしそうでいて、言葉の温度は低い人もいる。
冷たい言葉の奥から、あたたかさが滲み出る人もいる。

詐欺師の言葉には、間違いなく温度があった。
哲学者の言葉は、常に冷たかった。

言葉の温度と「正しさ」は反比例するのだろうか?
ますますわからなくなった。


   *   *   *   *   *


これもネット上だけの印象だけど、コミュ障を自称する人ほど「感じのいい」人が多いように思う。不思議な現象だ。
もしかしたら、コミュニケーションにおいて「自信のなさ」というのは、むしろ大事な要素なのかもしれない。
コミュニケーションに自信がないからこそ、よくよく相手を見て言葉を選んだり、相手の反応を意識したり、そのたびごとに軌道修正したり、そういう努力を積み重ねていくことになるのだから。

もちろん自信がなさ過ぎると、自己卑下を繰り返したり、過剰に自己防衛的になったりして、それはそれでウザくなりそうなので、ある程度の自信は必要不可欠なのだろうけど。


言葉のやり取りで伝わるのは、言葉そのものだけではないみたいだ。







| ●月ノヒカリ● | 非コミュ | comments(2) | trackbacks(0) |
2015.02.02 Monday 23:42
   芝生
        谷川俊太郎

 そして私はいつか
 どこかから来て
 不意にこの芝生の上に立っていた
 なすべきことはすべて
 私の細胞が記憶していた
 だから私は人間の形をし
 幸せについて語りさえしたのだ

ぐちゃぐちゃ考えながら文章を書いているうちに、思いもかけない結論にたどり着くことがたまにあるんだけど、前回のエントリはまさにそんな感じだった。
先のエントリの末尾で、自分の「欲望」と「義務」が重なり合う地点こそ、人がもっとも幸せに生きられる場所ではないか、と書いた。
それについて、もう少し考えを進めてみたので、長くてややこしい話になっちゃうけど、よかったらお付き合いください。


「幸福」とはいったい何だろうか?
それを定義するのは難しい。
でも、私の中には、「幸福」のイメージのようなものはある。
昨年書いたエントリ、「負け組」にとっての幸せとは? 〜「黒子のバスケ」脅迫事件に寄せてとも関連する話だ。 その中で私は、「仕事の成功」や「家族やパートナーからの承認」が「幸せ」と結びつけられることが多い――と書いたんだけど、私が囚われている「幸福」のイメージは、まさにその二つに集約される。

「仕事の成功」というのは、必ずしも社会的地位や収入の多寡を意味するものではない。どんな仕事であっても、「自分なりに納得のできるいい仕事をしたい」と考えて、それに打ち込めるなら、それは「幸福」だと思う。
それとは別に、「仕事はキツいし辞めたいけど、大切な家族やパートナーがいるから頑張れる」と言えるなら、それもまた「幸福」だと思う。
これに同意してくれる人は、多いのではないだろうか。

その二つの「幸福」は、持っている人は当たり前に持っているものだ。だから、それらをすでに手にしている人たちは、自分たちがとりたてて「幸福」だという実感はないのかもしれない。

しかし、そうであるからこそ、「持ってる人は当たり前に持っている幸福」から疎外された人間は、途方もない痛みや空虚さを抱えることになる。自分が持っていないからこそ、より一層、世間に流通している「幸福のイメージ」に囚われ、縛られてしまう。

今の私は無職だけど、かつて私が従事していた仕事は、「心身の健康を損なうくらい苦痛で、かつ誰の役も立たない仕事」だと感じていた。その上「家族やパートナーからの承認」もない。それは生きるのが辛いのも当然だよな、死にたくもなるよな、といま冷静に思い返しても、そう感じる。

ただ一方で、こうも思うのだ。
人が幸せになるためには、「仕事の成功」か「家族やパートナーからの承認」が必要不可欠なのだろうか。
人は、否この私は、そのどちらかを手に入れるまで「幸福」になれないのだろうか。

そうではないはず、と私は思う。
「仕事の成功」や「家族やパートナーからの承認」が手に入らなくても、人は幸福になれるはずだ。そう私は信じている。
ただ、そのためには、世間一般に流通する「幸福」のイメージを書き換えるしかない。
そこで、前回のエントリの末尾に繋がるわけです。

「欲望」と「義務」が重なり合う場所で生きていけること。
それこそが、人間にとっての幸福であると、私は定義したい。

前回のエントリで、多くの人は人生のある時期において、親や周囲の望む「いい子」でいるのをやめるときがくる、と書いた。さらに「いい子」でいることをやめた後、進むべき方向としては「自分の欲望の形を知ること」である、とも書いた。
そして自分の欲望と出会った後、その実現に向かって、一つ一つ石を積み上げていくように、自分の足で歩いていかなければならないのだ、と。

ただ、ここにはちょっとした落とし穴がある。
人に従うことをやめ、義務感ではなく、自分の欲望をベースに行動すること、それ自体はいい。
でも実は、欲望だけしか持っていない人間というのは、さほど強くはないのだ。
「やりたいこと」を一生懸命探している人が、どこか滑稽に見えるように。
「やりたいこと」とは別に、「なすべきこと」があるのではないか、と私は思うのだ。

つまり、「義務」をベースに生きるのをやめて、自分の「欲望」を見出した後、再び「義務」を背負わなければならないときがくるのではないか? ということだ。
「義務」を負わずに、ひたすら「欲望」だけを追求すると、袋小路に入り込む。
欲望が実現するとは限らない。自分の望みが実現しないという苦しみ、それも当然あるだろう。
でもそれよりも何よりも、もし自分が願うあらゆる望みがすべて実現したと仮定して、それは本当に「幸福」な状態と言えるのだろうか? そんな疑問が湧いてくる。
私はそんな「自分の望みがすべて叶う」などという状態を経験したことはないので、想像するしかないのだけれども――おそらく充足を感じるのは一瞬だけで、そこから先も飽くなき欲望に追い立てられるか、あるいは空虚さに苛まれるか、そのどちらかではなかろうか。

自分の欲望の形を知り、欲望を実現しようとすること自体は、まったく悪いことではない(もちろん、自分の欲望を実現することが、他者に対する侵害となるケースもあるだろうけど、ここではそうではないと仮定して、話を進める)。
しかし、「欲望」を実現しようとする過程で、再び「義務」に戻らなければならないときが来るのではないか。その「義務」こそが「幸福」と密接なつながりがあるのではないか。

ただし、「欲望」ベースに歩き始めた後に見出される「義務」というのは、例えば「親や教師の指示に従う義務」とか「上司の命令に従う義務」とは別物である。「法律で決まっているから従わなければならない」という問題でもない。 そうではなく、自分の意志で自らに課す義務のことである。あるいは、冒頭に掲げた谷川俊太郎の詩に登場するような「なすべきこと」である。
ここで仮に、前者を「押しつけられた義務」、後者を「内発的な義務」と名付けることにする。

例えば、あなたが兵士として戦場に赴き、上官に民間人を殺すよう、命令されたとする。
軍隊組織というのは、上官の命令に従うのは絶対的な義務だ。だから、兵士であるあなたは、敵国の民間人を殺す。それは「押しつけられた義務」だ。

それとは別様の「義務」も存在するのではないか。
つまり、自分の良心に従って、上官の命令を拒否すること。「民間人を殺さない」という選択をすること。そのために自分が不利益を被ることになったとしても。
そういった内発的な動機に基づく義務。
それは、損得勘定を第一に考えるような今の時代の潮流の中では、見つけにくいものかもしれない。でも、そういう生き方をする人も存在するということを、私たちは知っているはずだ。実は私たち自身、心のどこかでそんな生き方を欲しているのではないか。
「そうしなければ自分は生きていけない」という切実さを伴った、内側から涌き起こってくるエネルギーのような形であらわれる義務=「なすべきこと」。


ここで、私自身の話に戻る。
私は、自分の欲望に従って、このブログを書き始めた。
先々月、選挙前のエントリで書いたように、私がこのブログを「社会を変える」などという大それたタイトルをつけて書き始めたのは、何よりもまず私自身が、「社会から疎外されている」「どこにも居場所がない」と感じていたからだ。自分の思いを言葉にすることによって、自分と同じように疎外感を抱えている人と、もしかしたら繋がれるかもしれない。そういう利己的な動機でもって、始めたことだった。

そうしてブログを書いてきて、私の言葉に共鳴してくれた人の中には、子どもの頃から自殺願望を持ってたり、今も持ち続けている人、生活保護を受給している人、障碍者や難病患者、生きづらさを感じつつ何とか生き延びてきた人が、たくさんいた。
このブログを読んで、私の言葉に反応してくれた人たちは、私にとって、もはや見知らぬ「赤の他人」ではない。
生活保護について、精神身体の病気や障碍について、非正規雇用の問題について、メディア等で語られるのを見聞きするとき、それらはもはや私にとって「他人事」ではない。このブログを通じて出会えた、具体的個人を思い浮かべ、その痛み・苦しみを、わがこととして想像することになる。

もちろん、他人の苦しみを知ったところで、自分に何ができるわけでもない。そもそも今の私は、たいした能力もない、無力な存在に過ぎないのだから。
でも私は、自分以外の人の苦しみを知ったこと、気づいたことによって、ある種の「責任」のようなものを負うことになったのだと思う。

これから先、私が何かをするときは、自分だけではなく、自分以外の「困ってる人」「苦しんでいる人」たちを想像しつつ、どうすれば皆が幸せになれるのかを考えながら、行動することになるだろう。
選挙のとき、このブログを通じて出会えた人を思い浮かべつつ投票したように。
いま困っている人、苦しんでいる人たちの姿は、「もうひとりの私」であり、「もしかしたらそうであったかもしれない私」なのだから。
知ってしまった者として、気づいてしまった者としての「責任」のようなもの。それは決して、単なる重荷ではない。むしろ背負うことが喜びであるような荷ですらある。

自分ひとりの欲望を追求するのは、実は虚しい。
一方、自分以外の誰かの幸福を願うということは、それ自体、願う者自身に幸福をもたらすのだ。

私個人だけではなく、私以外の誰かの幸福を願うこと。その実現のために、自分に何ができるのかを考え、ごく小さなことでも行動すること。それが今の私にとって「自ら自分に課した義務」だ。
「内発的な義務」をもって生きることは、私の日常生活における行動を、ささやかながら変えることになる。

私の幸せが他の人にとっての幸せでもあるような、そういう世界を目指して歩くこと。
欲望と義務が重なり合う場所で生きること。
言い換えると、「やりたいこと」と「なすべきこと」が縒り合わさって一本の糸になるように、生きていくこと。 そんなふうに生きられるなら、それこそが幸福な生だと言えるのではないか。

つまり、今の私は、幸福なのだ。
それを覚えておくために、ここに書き記すことにする。
これから先、他の誰かが語る「幸福のイメージ」に惑わされることのないように。






| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(29) | trackbacks(0) |
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