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2015.03.24 Tuesday 23:21
珍しく将棋ネタです。
ずっと前にも書いたけど、かつて私も、将棋にハマってた時期があったんです。羽生名人が七冠を取った頃だから、二十年ほど前のことでしょうか。
ただ、残念ながら自分のアタマのレベルでは、将棋の面白さを理解できなかったので、プロ棋士たちの人間ドラマみたいなものを愛でるだけで、マイブームは終わってしまいました。

でもつい先日、本棚の奥から、当時読んでいた将棋の本が見つかって。懐かしくて読み返したら、ちょっと面白い将棋の戦法(?)が書いてあったので、ここでご紹介します。

ネタ元は『棋翁戦てんまつ記』(集英社、1995年刊)、作家同士が将棋の対決をする企画を本にまとめたもの。
この本に出てくる、夢枕獏 vs. 船戸与一の将棋対決に、常識はずれのトンデモない駒落ち戦が登場するのです。

将棋を知らない人には理解しづらい話かもしれませんが、一応説明すると。
将棋では、対戦する二人に棋力の差があり過ぎるとき、ハンデをつけるために、上位者の方が自陣の駒をいくつか取り除いて、勝負することがあります。これは「駒落ち」といって、プロ棋士がアマチュアに指導対局する際、よく用いられる手合いです。

そんで、『棋翁戦てんまつ記』中の「夢枕獏 vs. 船戸与一」の将棋に話を戻しますと。
もともとの棋力(将棋の強さ)は、夢枕獏氏の方が上らしいんです。
それなのに船戸与一氏は、「自分が駒を落とす」と言って、夢枕獏氏に挑戦状を叩き付けたのです。
いったいどんな意図が隠されているのか?

この将棋の観戦記を、作家の逢坂剛氏が書いているのですが、これが時代小説風の名文なので、一部引用します。
人名も時代劇風に、船戸与一=与一兵衛、夢枕獏=獏之進となってます。
では、二人の対決の始まるところから。
……
 対局が始まるやいなや、与一兵衛の仕掛けた恐るべきからくりが、たちどころに明らかにされた。なんと言おう、神もご照覧あれ、こんなことがあってよいものか。これはまさしく、天人ともに許されざる奸計というべきである。
 与一兵衛は、いきなり自陣から2七の歩を取りのけ、傲然と言い放ったのだ。
「特別の慈悲をもって、2七の歩を落としてつかわす。じゃによっておれが先手だ。覚えたか!」
 このとき早くかのとき遅く、与一兵衛は自陣の飛車を一直線に敵陣へ、成り込ませていた。あっと驚く2三飛成である(図1)。

2三飛成
「なぬなぬ」
 獏之進の間延びした声が、緊迫した奥座敷にすかしっぺのように漂った。剛右衛門も辰太夫もあっけにとられ、ただ盤面を見つめるのみ。
「卑怯な……」
 辰太夫がうめくように言ったが、与一兵衛にじろりとにらみつけられ、あわてて茶に手を伸ばす。腕っぷしでは辰太夫、与一兵衛に太刀打ちできない。
「待ってくれ、船戸屋。これはあまりに……」
 やっと事情を飲み込んだ獏之進が言いかけるのを、与一兵衛はにべもなくはねつけた。
「なに、待っただと。将棋に待ったがあるならば、小説の締め切りをだれが守る」
 集英舎吃九もしかたなげにうなずく。
……
   (『棋翁戦てんまつ記』P.95〜97)

ここ読んで私、爆笑しちゃいました。

再び説明すると、普通は「駒を落とした方が不利」になるはずなんです。一般的には、駒を一枚落とすとしたら、「飛車落ち」か「角落ち」と相場が決まっています。
でも、飛車先の歩を落として、1手目から飛車を敵陣に滑り込ませるとは……あり得ない。
ちなみに、「駒を落とした方が先手」というのは、公式ルールとしてあるんですけどね。

本にあった注釈によると、この戦法は、豊臣秀吉が伊達政宗を相手に指したとき、どうしても勝ちたくて発明した必殺技、その名も「太閤おろし」と呼ぶのだそうで(本当か?)。

将棋を指される方は、ぜひぜひこの戦法、実際に試してみてください!

ただひとつ難点は、この卑怯な必殺技を使った上で、万が一負けたら、かなりものすごく恥ずかしいことになるだろうな、ということです(実はこの勝負でも途中、船戸与一氏の形勢が悪くなり、船戸氏が脂汗を流すシーンも……)。

ちなみに、夢枕獏氏は、最初に船戸与一氏から「駒を一枚落とす」と聞かされたとき、落とす駒は「玉」だと思っていたそうです。なるほど、それもありかも(笑)

どちらも一度きりしか使えない奇策ですが、将棋を指される方は、ぜひチャレンジしてみてください☆
(万が一棋友を失う結果となっても、ブログ主は責任を負いかねます。)






| ●月ノヒカリ● | ネタ・企画 | comments(11) | trackbacks(0) |
2015.03.20 Friday 23:01
最近、詩というものをあまり見かけなくなった。
いや私も、詩というジャンルについて詳しいわけではないし、過去それほど詩を読んできたわけでもない。
でも、昔の少女漫画には、よく詩が引用されていたもので、だから自然と目に入ってきたんだよね。
古い詩の文庫本は、今も何冊か持っていて、それらは普段は本棚に眠ってるんだけど……たまーに引っぱり出して読むと、そのときの心境にカチッとシンクロするような言葉に出会うことがある。

そんな古くて懐かしい詩をいくつか、ここに書き写しておきます。
どれか一つでも、気に入ってくれる人がいるといいな。

  「死は涼しき夜」
        ハインリッヒ・ハイネ
        片山敏彦 訳

 死は涼しい夜だ。
 生は蒸し暑い昼間だ。
 早や黄昏そめて、私は眠い。
 昼間の疲れは私に重い。

 わが奥津城に一本の樹は伸び出でるだろう、
 そこに一羽の鴬(うぐいす)はうたうだろう。
 その鳥の歌うのはただ愛のうたばかり。
 死の夢の中でも私は聴くだろう。

Der Tod, das ist die kühle Nacht

新潮文庫の『ハイネ詩集』より。
タナトス。死への欲望。
死を渇望するのではなく、もっとゆるやかな憧憬のような念。
死の世界へ引き込まれる眩暈のような感覚は、眠りへの誘いに似ている。
そういう死への思いを、19世紀前半に活躍したドイツの詩人と、時を越えて共有することができる。古い名作を読む醍醐味って、まさにそれだと思います。
ちなみに「奥津城(おくつき)」とは墓の古語です。


  「あらしの薔薇」
        ルミ・ド・グールモン
        堀口大學 訳

 白き薔薇(さうび)は傷つきぬ、
 荒(すさ)ぶ暴風雨(あらし)の手あらさに、
 されども花の香はましぬ、
 多くも享けし苦のために。
 帯には挟め、この薔薇、
 胸には秘めよ、この傷手(いたで)、
 暴風雨の花に汝(なれ)も似よ。
 手箱に秘めよ、この薔薇、
 さては暴風雨に傷つきし
 花の由緒(いはれ)を思ひ出よ、
 暴風雨は守りぬ、その秘密
 胸には秘めよ、この痛手。

堀口大學による訳詩集『月下の一群』から。有名な訳詩集だけど、今はあまり読まれてないのかなあ。私が持ってる新潮文庫版はもう絶版みたいで、今は岩波講談社から文庫が出てます。

七五調の美しい訳文。
激しい暴風雨(あらし)に襲われて、傷を負った薔薇。でも苦しんだ分だけ、よりかぐわしく豊かな香りを放つようになる。
あなたも、そんな薔薇のようであってほしい。
そういう詩です。刺さります。


  「かなりや」
       西條八十

 唄を忘れた金糸雀(かなりや)は 後の山に棄てましょか
 いえ いえ それはなりませぬ

 唄を忘れた金糸雀は 背戸の小藪(こやぶ)に埋(い)けましょか
 いえ いえ それもなりませぬ

 唄を忘れた金糸雀は 柳の鞭でぶちましょか
 いえ いえ それはかわいそう

 唄を忘れた金糸雀は
 象牙の船に銀の櫂
 月夜の海に浮かべれば
 忘れた唄をおもいだす

大正時代の童謡。有名な歌(YouTubeで聴けます)だけど、よくよく歌詞を知ると、残酷な内容だ。
それだけに、最後の一節のやさしさ、美しさが光る。

この歌について検索したら、西條八十自身による解説がUPされていた。子ども向けの解説で、昭和12年に書かれたものだけど、今の時代にも通用する内容だと思う。

子どもたちが、啼かなくなったカナリヤを「棄てちゃおうか」「埋めちゃおうか」「鞭でぶってやろう」と口々に言うのに対して、お母さんは静かに諭すのです。
「人間でも、鳥でも、獣でも誰にでも仕事のできないときがあります。(……)ほかの人たちには、なまけているように見えてもその当人は、なにかほかの人にわからないことで苦しんでいるのかもしれません。たとえば、このかなりやも、このあいだまで歌っていた歌よりも、もっといい歌を美しい声でこれからうたいだそうとして、いま苦しんでいるのかもしれません。……」

なっとく童謡・唱歌「かなりや」より(常用漢字・新仮名遣いに改めました)

そして月の夜に、お母さんがそのカナリヤを、きれいな船に乗せて海に浮かべると、カナリヤは再び美しい声で歌い出しました――というお話。

なんかものすごく沁みるものがありました。
大正時代から歌い継がれてきた童謡に、そんな深い意味があったとは……。

私は、啼かなくなったカナリヤを鞭でぶったり棄てたりするのではなく、「象牙の船に銀の櫂」を用意してあげる側の人間になりたいな――というのが、ずっとずっと前から変わらない自分のスタンスです。


上に挙げた詩のどれか一つでも、誰かにとっての「象牙の船」や「銀の櫂」となることを祈りつつ。






| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(0) | trackbacks(0) |
2015.03.12 Thursday 22:36
前回のエントリで、「普通の人が当たり前にできることでも、自分にはできないということを、どう伝えればいいのか?」と悩みを書いたところ、幾人かの方から、ご自身の体験談やアドバイスをいただけました。皆様ありがとうございます〜。ううっ。
こんなアクセス数の少ない、辺境の過疎地にあるブログですが、本っ当に読者さんには恵まれてるな、としみじみ思いました。

で、いろいろなご意見や体験談を読ませていただいて、改めて感じたのは、「どんなケースにも当てはまる最適解」というのは存在しないのだろうな、ということです。

「自分の病気についてどこまで伝えるのか?」については、仕事上の人間関係なのか、あるいは趣味の集まりなのかでも、答えは違うでしょうね(今回私が始めたいのは、趣味のサークル活動的なものですが)。

あとやっぱり、人に話しやすい病気(あるいは障碍)と、話しにくい病気がありますね。
それは、他の人の理解を得やすい病気(障碍)と、理解を得にくい病気の違いでもあるのかなあと。

私にとっては、自分の持病の中では、乳がんと統合失調症は「他人に話しにくい病気」です。
乳がんの患者さんから聞いた話ですが、知人に乳がんであると告げた結果、相手に「重い病気」と受け取られるとしんどいし、逆に「手術すれば治っちゃう病気なんでしょ?」と言われるのも、実際はそうでもないからモヤッとするという、なんとも微妙な心境になるようです(今回、拍手コメントで同じような体験を教えてくださった方がいらっしゃいました)。
病名を告げたとき、「相手の反応」がどういうものでもきちんと受け止める自信があるなら、病名をオープンにしてもいいかもしれませんが……私には、そんな自信はないです。

なので、病名は言わずに「虚弱体質」とか「持病がある」と伝えた上で、「無理はできないのでよろしくお願いします」と話せば、何とかなるのではないでしょうか……何とかなると思いたいです。

病名について突っ込まれたら、適当に「お茶を濁す」ということで。
いや、この「お茶を濁す」って、簡単そうでいて、コミュ障には結構ハードル高いのですよね……。

あと、「嘘をつく」のも、私には難しいです。いや、「さらっと嘘をついてその場をやり過ごす」なんてこと、ごく普通にやってる人、いっぱいいますよね。でも私には難しい。この非コミュカテゴリの過去エントリでもテーマにしたことがありますが。
う〜ん本当に、こんな初歩的なところで躓いちゃうコミュ障が行動するのって、なかなかに大変です。

でも今回、コメントや拍手コメント、Twitterで反応をいただいて、改めて「普通の人に当たり前にできることでも、自分にはできない」と悩んでいる「一見普通に見える人」って結構いるのだな、と実感させられました。
一見して普通っぽく見えても、下手したら「元気そうに」見えていても、水面下で様々な悩みを抱えている人が、自分以外にもいるとわかって、ちょっぴり心強い気持ちにもなったり。

えっと、こういう悩みに縁のない方がもしここを読んでいらっしゃるなら、「普通の人にできることが、自分にはできない」と見えないところで苦しんでる人がいること、ちょっとだけ心に留めておいてもらえると嬉しいです。

そんでもって、もしどこかで、「私、虚弱体質で……無理できないんです……」などとたどたどしく話すコミュ障に出会うことがあったら、「人にはいろいろ事情があるんだな」と、生温かい目で見守っていただけると有り難いです……。

改めて、今回、体験談やアドバイスをくださった皆様、本当にありがとうございました!!
すべての人が、みっともなくても不器用でも、自分なりのペースで生きていけますように♪

←拍手はこちら
※前エントリへのコメントは、今後もご自由にお寄せください♪




| ●月ノヒカリ● | 非コミュ | comments(14) | trackbacks(0) |
2015.03.07 Saturday 23:22
えっと、いま悩んでいることです。タイトルの通りです。

ウォーキングや筋トレを日課にしたところで、人並み以下の体力気力しか持てない、どこまで行っても赤点人生なブログ主なわけです。
そんな私でも、「今はわりと体調がいいな」って時もあって。そんなときは、新しいことを始めようか、という気持ちにもなるのです。

ただね、これまで何度も、なにかしら行動してみて、力尽きて潰れた経験があるので、さすがに慎重になっちゃうんだよね。
どうも自分は、「我慢しちゃいけないところで、我慢し過ぎてしまう」傾向があって、それが心身の病気につながったんじゃないかと思うのですよ(これは確固たる根拠のある話ではないですが)。

だから私は、新たなことを始めるときには、精神科医・中井久夫先生の著書に書かれている「仕事のみならず、一般に生活再開に当っての助言」を読み返すことにしています。

中井先生の一連のアドバイスは、複数の本に登場するのですが、ここでは『最終講義』から一部引用します。
 同時に新しいことを二つ始めない。それは、ヤマ場が重なったら、一つずつなら越せるものでも越せないということがあるからだ。
“One time one thing”(小田実のモットー)

     (中井久夫『最終講義』P.140)

これはもう本当に気をつけなきゃいけないと、肝に銘じていることです。
病気持ちが、「体調のいい時」を基準に予定を組んじゃうのは危険なんです。体調って波があるから。いずれ悪くなる時が来ることを見越して、予定を組んでおかないとマズいわけです。
体調が悪化したとき、「すべての予定をキャンセルして、家で寝込むしかない」くらいに追い詰められるのは、最悪のパターンです。そういうのを何度か経験してきたので、今は「調子のいい時こそ、ブレーキをかける」ことを心がけてます。

いや、自分では、そう心がけてるんですけどね。
問題は、こういうことは、健常者の人になかなか理解されないってことです。
自分では、「それは無理です」ってはっきり言っても、「そんなの当然できるでしょ」って言い返されるんです。本当に。もう涙目ですよ。

これまでも何度かブログに書いてきたことだけど、私にとって、「外出して、人と会うこと」って、ものすんごく気力体力を使う、ハードなイベントなんです。普通の人の何倍も疲れるんです。翌日は使いものにならないくらいです。
――ということをですね、コミュ障でも病気持ちでもない人に、どう言えば理解されるのか……。
自分の病歴は、よほど親しい人以外には、カミングアウトしたくはないですし。特に統合失調症については、偏見が怖いので、今もなかなか言えません。

そんでもって、「同じような病気持ちの人なら、体調が悪い時もあると理解してくれる」わけでもないのが、厄介なところです。
「同じ立場ならわかり合える」というのは、幻想だと思ってます。せいぜい「わかり合える可能性が、ちょっとだけ高くなる」という程度じゃないかと。

むしろ同じ病気を経験してると、どうしても「自分」を基準に考えてしまうので、かえって自分とは違う悩みを抱えているかもしれない他の人への想像力を失うリスクがあるように思います。これは私自身、気をつけてることですが。
というのも、かつて乳がんの患者さんに、「私は手術が終わったら、すぐ元通りの生活に戻れた。あなたもそうできて当然なのに、なぜできないの?」的なことを言われて、ものすごく落ち込んだことがあったので。
「乳がん」っていうと皆同じ一つの病気のように思ってしまうし、実際に病院ではパターン化された治療を受けることになるんだけど……でも、病気との付き合い方、回復にかかる時間や道筋は、本当にひとりひとり違ってるわけで。
「自分に当てはまることが、他の人にも当てはまるとは限らない」ということ、とりわけ同病の患者さんと話すときには、胸に刻んでおきたいものです。

というわけで、病気になってから「普通の人には当たり前にできることが、自分にはできない」と悩んでいる方々には、中井久夫先生のこちらのアドバイスを贈りたい。
 治療という大仕事を別に続けながらであるから、他の人並みの仕事をしていることは、その人よりも多くの仕事をやっていることになる。無理がかかってもふしぎでない。無理に人並みを心がける必要はない(こう考えるとかえって能率が上がるようである)。

     (中井久夫『最終講義』P.142)

病気を抱えてる人は、「人並みにできない」のは当然であって、それを気に病む必要はないんだってこと。今では私もそう思えるようになったけど……そこに至るまでは、本当にものすごく悩んだし、人と同じようにできない自分を責めまくってたものです。
もし同じように悩んでる人がいたら、この中井先生の言葉を心に留めておいてほしいな。

あと、こんなアドバイスも。
 楽しいことも、それなりに疲れるものだ。成功した旅行でも、友人との談論でも。
     (中井久夫『最終講義』P.141)

これを読んだとき、「あ、やっぱりそうなんだ」って、ちょっと安心しちゃいました。
私はいつも、楽しいはず時間であっても、どこか鉛を呑み込んだような胸苦しさを感じていることが多い。 それは自分の、コミュニケーション能力に対する自信のなさに原因があるのかもしれないけど。 「自分が世界に受け入れられていない」という感覚が、常に付きまとっているというか。

ただ、ここに書いたようなことを、そのまま他人に話すわけにはいかないし、言っても理解されないとは思うんですね。
でも、「他の人のペースに合わせて無理をすることはできない」ということは、どうにかして伝えなきゃいけないわけで。じゃなきゃ自分が潰れるのだから、死活問題です。大袈裟でなく。

でもまあ、病気持ちだとか、コミュ障じゃなくても、「人間関係」って誰にとっても悩みが尽きない、永遠のテーマだろうとは思います。
それにしても、なぜか私は、人と関わろうとするとき、他の人よりたくさんのことを悩まなきゃいけないみたいで。このままでは行動する前に疲れ果てて、燃え尽きてしまいそうです……。

えっとまとめると。
初対面に近い人間関係に入っていくときに、自分の病気についてどこまで伝えるのか?
「自分は普通の人のペースに合わせることはできない」ということを、どう伝えれば理解されるのか?

・・・ということをですね、同じような経験のある人、あるいはいいアイデアをお持ちの人に、アドバイスいただけると嬉しいです。

なんかまとまりがないですが、悩んでる真っ最中ってそういうものだよねってことで。 ひとつよろしくお願いします。

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