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2020.09.12 Saturday
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2016.06.28 Tuesday 21:42十年以上積読状態だった本を読み終わったので、久しぶりに読書感想の更新。
石光真清の手記4部作、『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』です。
実は一ヶ月前に、本は読み終えていたのです。その後、癌の再発がわかり、新たな治療が始まったため、この感想は、途中で中断しつつ書きました。先へ進むほど文章が雑になっていくのはそういうわけで、そこはご容赦を。
さて、石光真清とはどんな人物か。
明治元年に鹿児島に生まれ、少年時代に神風連の乱、西南戦争を間近に見て育つ。陸軍幼年学校へ入学の後、日清戦争が初出征。その後ロシア研究を志し、ロシアに留学。日露戦争前夜のハルビンで諜報活動に従事する。日露戦争後は、大陸での事業の失敗、内地での郵便局長を経て、齢五十にして、ロシア革命の年、シベリア出兵前夜の極東ロシアで諜報活動を行う。
冒険小説のような展開でありつつ、明治・大正期の一日本人から見た歴史の側面、生活史としても興味深い。 「波乱万丈の人生」というのは、この人のためにある言葉かもしれない。
この手記は、もともと発表するつもりで書かれたものではなく、著者は死期に臨んで焼却を図ったらしい。著者の長男である石光真人が編纂し、世に出たのがこの4部作。
以下一冊ずつ、個人的にツボったところを紹介します。
城下の人―石光真清の手記 1 (中公文庫)posted with amazlet at 16.06.27石光 真清
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石光真清は、明治初年、熊本の下級武士の四男として生まれた。明治生まれなのに、髪を結い、刀を差して、忠君愛国の武士道教育を受けて育つ。
十歳の頃に、神風連の乱、西南戦争といった不平士族の反乱を間近で見て、激動の時代の始まりとともに、少年期を過ごした。
個人的に感銘を受けたのは、次のシーン。
洋学を勉強している真清の兄らが、旧態依然とした神風連を冷笑したとき、父はこう言ってたしなめたのだ。
「洋学をやるお前たちとは学問の種類も違っているし、時代に対する見通しも違うが、日本の伝統を守りながら漸進しようとする神風連の熱意と、洋学の知識を取入れて早く日本を世界の列強の中に安泰に置こうと心がけるお前たちと、国を思う心に少しも変りがない」
この真清の父の言葉に、私も胸を打たれた。明治初期の無名の人物の口から、今の時代にも通じる人間観が語られる。この手記は読む価値がありそうだ、という手応えを得た瞬間だった。
(中略)
「いつの世にも同じことが繰返される。時代が動きはじめると、初めの頃は皆同じ思いでいるものだが、いつかは二つに分れ三つに分れて党を組んで争う。どちらに組する方が損か得かを胸算用する者さえ出て来るかと思えば、ただ徒らに感情に走って軽蔑し合う。古いものを嘲っていれば先覚者になったつもりで得々とする者もあり、新しいものといえば頭から軽佻浮薄として軽蔑する者も出て来る。こうしてお互いに対立したり軽蔑したりしているうちに、本当に時代遅れの頑固者と新しがりやの軽薄者が生れて来るものだ。これは人間というものの持って生れた弱点であろうなあ……」
この後、父の死、陸軍幼年学校へ入学、日清戦争へ出征、そしてロシア留学を決めるところで、この巻は終わる。
曠野の花―石光真清の手記 2 (中公文庫)posted with amazlet at 16.06.27石光 真清
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この巻はめちゃくちゃ面白かった。読みながら、「事実は小説よりも奇なり」という言葉が何度も頭をよぎった。
真清のロシア留学、まず最初にたどり着いたウラジオストックには、僧侶に扮して諜報活動を行っている人物が登場する。すっとぼけた坊さんかと思いきや、日露戦争時に再開した彼は、軍服を着て颯爽と馬を走らせたというのだから、映画のような話である。
その後の真清は、馬賊の首領と親交を結んだり、諜報活動の一環として、ロシアが占領の手を伸ばしつつある満州ハルビンで写真館を開いたり……その写真館は、ロシア東清鉄道の御用写真館となり、大繁盛したというのだから、これも度肝を抜く話だ。
また、お花、お君という、馬賊の首領の妻となって活躍する日本人女性も登場する。男装したお花が、戦乱を逃れて真清の元にたどり着く展開は、まるで山田風太郎の小説を読んでいるかのように錯覚した。
件の写真館には、ロシア文学者・二葉亭四迷も立ち寄ったというエピソードも、興味をそそられる。
一冊だけ読むとしたら、この巻がおすすめ。
望郷の歌―石光真清の手記 3 (中公文庫 (い16-3))posted with amazlet at 16.06.27石光 真清
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日露戦争従軍記から始まり、戦争終結後は、満州で起業しては失敗、を繰り返す真清。
日露戦争時、陸軍司令部からの命令が「全滅を期して攻撃を実行せよ」という唖然とする内容だった、とか、戦場で数々の戦死体を見てきた真清が、自殺した老大尉の部屋を気味悪がるシーン、そして戦後、「若者よ満蒙の天地が待っている」などと煽られて大陸に渡った日本人の末路などなど、興味深いエピソードが多々記されていた。
事業に失敗した真清は帰国して、世田谷の小さな郵便局長として、家族とのささやかな生活に幸福を見出す。
誰のために―石光真清の手記 4 (中公文庫 (い16-4))posted with amazlet at 16.06.27石光 真清
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1917年、齢五十を前に、ロシア革命が波及しつつあるアムール河流域の都市ブラゴヴェシチェンスクで諜報活動を行うことになった真清。
レーニンのボリシェビズムが、極東の地でどう受け入れられ、また反発を招いたか、という記録として興味深かった。
「誰のために」というタイトルは、日本軍の中途半端な軍事行動への批判を述べる真清に対して、「君は誰のために働いとるんだ、ロシアのためか」と怒りをあらわにした上官の言葉から来ている。
この後の日本は、泥沼のシベリア出兵に踏み出すことになるのだが、直接この手記とは関わりのない話なので割愛。
晩年の真清は、「自分の人生は失敗だった」と語り、失意の日々を送ったようだ。
手記のあらすじはだいたいこんな感じでした。
以下は、全巻を読んで、個人的に連想したことなど。
石光真清という人は、私利私欲を超えたところで、「国のために」尽くした人物だ。
とはいえ、この手記からは、ガチガチの愛国者という印象は受けない。真清は馬賊やロシア人の懐に飛び込んで、彼らの信頼を獲得している。諜報活動をする人には、そういう「人なつこい」一面が必要なのだろうか。
ここで注目したいのは、真清がハルビンに諜報目的の写真館を開く際、軍籍を退き、「一民間人として国に尽くす」道を選んでいることだ。
この「軍籍を退いて、国のために諜報活動をする」という真清の決断に対して、反対の言を述べたのが、参謀本部の井口少将だった。その井口少将の言、なかなか興味深いので、引用してみる。
「なんで君は現役をやめたんじゃ。俺には理解出来ん。普通の手段では働けんから、身を犠牲にして丸腰になって大いに軍のために働こうというのだろう。それは駄目だよ。君が現役を退いた以上は、誰が一体君に命令するんだ。戦時職務は勿論あるが、平時はなんの責任もない商人一疋だからな。一体どんな成算あって、こんな乱暴なことをやったんじゃ」
(中略)
「……しかし、君考えて見給え、軍人といえども国家に対する責務を持てば、その反面、権利を与えられるのが当然じゃ。その点は軍人も文官も商人も皆同じことじゃ。君が現役を退けば、軍としては君に与うべき何ものもない。(中略)報酬もなく、地位もなく、ただ国家に対して、軍に対して、片務的に君が義務を負うという理由がわしにはわからん」
今の時代に生きる私たちの目は、この井口少将の見解の方が、「合理的」に映るのではなかろうか。
対する真清の答えは、「それは初めから覚悟しております」というものだった(『曠野の花』302〜303ページ)。もしかしたら、若さゆえの血気に任せた決断だったのかもしれない。だが真清は、命令ではなく、「自発的に」国に尽くし、「片務的に」義務を果たす道を選んだのだ。はっきり言ってお人好しすぎる。
当時の真清は「生涯この決断を後悔しない」と心に誓ったものの、後になって、民間人として職にあぶれ、不遇に甘んじることになった時、この井口少将の言葉が心に蘇ったようだ(『望郷の歌』91ページ)。
この手記を読む限り、真清は、国にいいように利用されたのではないか、という感想を抱いてしまう。
でも一方で、私利私欲で動くのではなく、個人の利害を越えた何かのために身を捧げる真清の生き様は、どこか眩しく映るのも事実だ。
人は、ただ単に、「自分一人の快楽のために」生きることは、実はそんなに楽しいことではないのだと思う。
快楽については、『望郷の歌』の末尾に、象徴的なエピソードが登場する。
真清が世田谷で家族との穏やかな生活を享受している時代、浮浪者となった古い知人が訪ねてくるのだ。放蕩生活の末、一文無しになった谷口という男の話は、含蓄に富んでいる。
「遊んで遊んで遊び呆けてから死のうと決心した人生行路だったが、実際にやってみると与えられた快楽や金で買った逸楽などは、過ぎてしまうと跡形もなく消えうせて、これで満足して死ねるという境地には、どうしても到達できなかった」というのである(『望郷の歌』218ページ)。
自分一人の快楽を求める生き方は、虚しい。
しかし、「お国のために」という生き方は、戦後日本では、さっぱり流行らなくなった。もしかしたら今後、「国家のために生きよ」という思想が強化されるのかもしれないけど、戦後ずっと長い間、「お国のために」という言葉は忌避されてきた。
「自分一人のため」ではなく、「国のため」でもないとしたら、人が、自分の利害を超えた活動をするのは、何のため、あるいは誰のためなのだろうか。
答えを言ってしまうようだけど、「家族のために」というのが、今の時代の落としどころになっている、みたいだ。
先日会った、とあるリベラル左翼系の学者の口から、「自分一人のために闘おうとは思えないけど、家族のためなら闘える」という言葉を聞いて、そう実感した(もっとも、左翼の場合、闘う相手は「国家権力」になるわけだけど)。
しかし「家族のため」という言葉が、すんなり受け入れられるのは、恵まれた家庭を持つ者だけだ。
今の日本には、家族を持たない、持てない人が、いくらでも存在する。
「自分一人のため」ではなく、「自分の家族のため」だけでもなく、「お国のため」でもない形で、個人の利害を超えた「公」に通じる道は、あるのだろうか。
これは、私にとって、ずっと前から引っかかっているテーマだ。
この手記を読んでも答えは出なかった。でも、これからもずっと、「誰のために」というテーマには、引っかかりを持ち続けるのだと思う。
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2016.06.18 Saturday 15:04前回、癌再発の報告に、コメントやツイッター等で励ましの言葉をくださった皆様、ありがとうございます〜。
おかげさまで、さっそく骨転移の治療を始めることになりました。
骨転移の進行を抑えるために使われるのは、「ランマーク」という、比較的新しい分子標的薬です。4週に1回注射します。
新薬を使えるのはとてもありがたいんだけど、やっぱり医療費高いですね……。
ランマークが1回1万数千円(3割負担で)、あとホルモン療法も継続して(飲み薬は変わりました)、それから今後はCT等の検査も増えるだろうし、万単位のお金がこれから毎月毎月出ていくかと思うと、長生きするのも考えものだなあ、早めに人生退場したほうが親孝行かしら、いやでもやっぱりもうちょっと生きていたいかも、などと思ったりして。人間って面倒な生き物ですね。
まあでもランマークは、抗がん剤みたいなキツイ副作用はないはずなので、楽勝だ〜♪
――などと考えていたら、甘かった。
ランマークの副作用として、「低カルシウム血症」とか「あごの骨壊死」の可能性がある、という話は主治医から聞いていたし、もらったパンフレットにも書いてありました。
でも、それだけじゃなかったんですよ。
初めてランマークの注射をした日の夜、とつぜん背骨に、ズシン、という痛みが走ったのです。
もう何事かと思いました。
癌の骨転移が、一夜にして背骨にまで広がったのかと思いました。骨折でもしてるんじゃないか? と心配で心配で。
不安になったので、病院に電話して聞いたら、ランマークの副作用として「脊椎痛」も稀にある、とのこと。
背骨が急に痛くなったのは、おそらく薬の副作用だろうから、数日様子を見て大丈夫、と言われたのです。
なので、痛み止め(ロキソニン)を飲んで、2日ほど、ほぼ寝て過ごしました。
そしたら、かなり痛みは軽くなりました。
やっぱり背骨の痛みは、ランマークの副作用だったんだろうなあ、と。
しかし、骨転移の治療のせいで、これまで痛くなかった背骨の痛みに苦しめられるとは、こはいかに……。
理不尽だよ! 理不尽すぎるよ!! QOL下がりまくってるよ!!!
――とまあ、こんなふうにブログで吠えられるくらいには、元気になりました。
私、自分は闘病ブログなんて書かないタイプだと思ってました。
だって書くの面倒だし、そんなの読んでも、一部の同病の患者さん以外には、面白くもなんともないだろうし。
でも、この背骨の痛みを経験して、考えを改めました。
こんなん、ブログのネタにでもしなきゃ、やってられんわっ!!
私も40年以上生きてきて、これまで肩こり・腰痛・股関節痛・膝痛等々、様々な痛みを経験してきました。
でも、背骨が痛くなったのは、生まれて初めてです。
たいへん貴重な体験をいたしました。
私って、脊椎動物だったんだなあ、と改めて実感した次第です。
しょっぱなから、癌再発の治療は、波乱の幕開けとなりました。
「ブログには本の感想を書こう計画」がどんどん遠のいていくのですが……えーと、ぼちぼちと更新していくつもりなので、マターリお付き合いいただければ幸いです。ぺこり。
※8月29日追記
ランマーク治療による副作用、背骨の痛みは、初回投与の時のみでした。2回目以降の注射では、背骨の痛みはなかったこと、ここに付記しておきます。
☆参照記事:再発日記(2016.08.29)
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2016.06.09 Thursday 21:49えーと、いきなりですが、結論から書きます。
検査の結果、癌が骨と肝臓に転移していることが判明しました。
2004年に最初の乳がんの治療をして、2013年にリンパ節再発→手術。初回治療から12年、リンパ節再発から3年を経た後の転移です。
一応経過を書きますと。
そもそもお尻のあたりが痛いな、と感じ始めたのは3月中頃でした。
歩くのも困難なくらいに痛くなったので、近所の整形外科を受診しました。「癌の骨転移の可能性もある」と告げたらレントゲンをたくさん撮られて、医師には「骨に異常はないみたいだよ」と言われ、「椎間板ヘルニア」と診断されたんです。
で、「安静にしてるように」言われて、数日安静にしていたら、かなり痛みは治まりました。
この段階では、私も「たぶん癌の骨転移ではないだろう」と思っていたんです。
過去に、乳腺外科の先生に聞いた話では、「じっとしていても痛い、というのは癌の骨転移の可能性が高い」、逆に「動いたら痛くなるけど、休んでいたら大丈夫なら、癌の転移ではない可能性が高い」とのこと。
痛みは良くなっていく感触があったので、私はせっせとリハビリに通ってました(実は、癌の骨転移の場合、骨に圧力をかけるような治療は禁忌なのですが……後の祭りですね)。
ところがその後、「痛みが軽くなった」と思って、ストレッチ等の運動を再開すると、また痛みがぶり返す、というのを何度か繰り返しまして。
気になったので、5月末、大きめの整形外科を受診して、MRI検査をしました。そしたら、椎間板ヘルニアはなかったんですね。で、痛い側の腸骨に異常が見られたため、精密検査をするように言われました。
そして今月、MRIの検査結果を持って乳腺外科を受診して、CTと骨シンチの検査をした結果、肝転移および骨転移、と診断されたわけです。
今後はもう、基本的に完治は望めないわけで、なるべく元気に生活できるよう、QOLを維持しつつ、長期生存を目指す治療をすることになりそうです。
まあでも、私の場合、初回治療から再発までのスパンが長いこと、ホルモン療法の効果が期待できるタイプの癌であることから、今の段階で「余命一年」とかではないらしいです。私と同じような症状で、何年も元気に生活しておられる患者さんもたくさんいる、とのこと。
まだ死ぬの死なないのという段階ではないのですが……これから先は、最期を見越して生きていくことになるかな、と。
このブログに何度か書いたように、私はずっと根深い自殺願望を抱えてきたので、心のどこかで死を望んでいる部分があります。
だから、癌の遠隔転移がわかっても、それほど物凄いショック、というわけでもなかったのですね。
人間いつかは死ぬんだから、それが少しばかり早まったと思えば、納得いくかな、と。
ただ、これから数年後を想像すると、両親も年が年なので、もしかしたら、自分も含めて家中全員が寝たきりになる可能性もあるな――などと考えると、気が重くなるのですが。
まあ、それについては、おいおい考えます。
検査の経過などをツイッターでつぶやいたところ、何人かの方にご心配をいただきました。本当に有り難いです。
ブログとツイッターのおかげで、自分の人生の最後の何年かは、それらのない生活と比べて、何倍も豊かになったと思います。
ここでお別れを言うのは、ちょっと早過ぎですね。
まだ当分は、この世に留まることになりそうなので。
あと何年かで死ぬとしても、私はたぶん、読書を止めることはないでしょうね。
だから、元気なうちは、読んだ本の感想でもブログに書きたいと思ってます。
(死ぬ前に、パームと天冥の標の完結巻を読めたらいいな、というのが、とりあえずのささやかな夢ですね……)
残された時間――と言っても、たぶん年単位の時間が残っているはずですが――思い残すことのないよう、悔いのないよう、とは言えあまり力まず穏やかに、生きていきたいです。
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