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2017.10.28 Saturday 21:40
癌の進行の不安は尽きないけれども、ひとまず今は「闘病ブログ」的なことじゃなく、本当に「書くべきこと」を優先しようと思う。ブログの更新も、無限にできるわけじゃないから。

このブログの過去記事で紹介させていただいた、末井昭氏の「見て見ぬふりせず死者悼め」は、これまで幾度も読み返して、心の支えにしてきた文章だ。
私は今、自殺を考えているわけではないけれども、再発癌の進行(と、その先にある死)に脅えつつ生きている状態で、そういう意味では、今も「命をかけて」言葉を発している。「命をかけた言葉」は、「みんなに届く」かどうかはわからないけど、「誰か」には届くんじゃないか、届いてほしい、という願いを込めて。

これまでもブログに書いたことだけど、今年に入ってから、酷い嫌がらせの被害にあった。その一部は、過去記事「Twitterアカウント削除した経緯について」にも書いた(その他にも、「ストーカー行為」とか「裏でデマを流す」といった嫌がらせもあったらしい)。
その嫌がらせのストレスで体調を崩し、結果として、癌の肝転移の悪化、腫瘍マーカーの上昇という、命に関わるレベルの事態になったことも、過去記事に書いた通りだ。

私の周囲では、「ステージ4の癌患者に対して嫌がらせをする」などという話は聞いたこともなかったので、本当に驚いた。
もっと驚いたのは、命に関わるレベルの事態になった後でさえ、いじめに加担した加害者の多くが、その後も平然とツイッターを続けていて、罪悪感なんてまるで持っていないように見えたことだ。

今回、私が受けたいじめは、表からは見えにくい、陰湿なものだった。
精神科医・中井久夫の「いじめの政治学」(『アリアドネからの糸』所収)によると、いじめは「(被害者の)孤立化」→「(被害者の)無力化」→「(いじめの)透明化」という段階を追って進むのだという。
中井久夫の言葉を借りれば、繁華街のホームレスが「見えない」ように、善良なドイツ人に強制収容所が「見えなかった」ように、いじめが行われていても、外部からはまったく見えなくなる。だから、このブログを読んでくれている人や、ツイッターのフォロワーさんにも、私がどんないじめを受けて、どれほどの苦痛を被ったのか、おそらく見えなかったはずだ。

「無視」や「排除」もいじめの一形態だと思うし、それも問題といえば問題だ。
でも、今回の私に対するいじめはもっと酷かった。何よりも、ツイッターのDMを勝手に盗み読みされたのは、私だけの問題ではなく、私とやり取りしてくださったフォロワーさんのプライバシーをも踏みにじる行為で、本当に心苦しかった。私もフォロワーさんも、見られて困るような悪いことは何一つしていないけれども、だからこそ、私たちの尊厳を踏みにじる行為を許すことはできない。

今回の私へのいじめ行為の根底には、差別心があったんじゃないかと思う。
私はなんでもかんでも「差別」と呼ぶのには抵抗があるから、「差別」という言葉を軽々しく使うのは控えてきた。でも今の私は、歴史的に低く見られてきた、複数の立場に属しているのは事実だ(とりわけ「精神障碍者」については、ナチスドイツではガス室に送られた歴史さえある)。
「女性」に対する差別、「精神疾患の患者」に対する差別や偏見、「病気で働けない人」に対する差別や偏見、「ネットで表現活動している人」に対する差別や偏見……。そういった差別や偏見が根底にあるからこそ、ここまで酷い嫌がらせをして、なおかつ開き直れるのではないか?
私にとっては、陰で嫌がらせをして開き直る彼らこそ、「おぞましい」「不気味」な存在にしか見えないのだけれども。

ただ、落ち着いて考えてみたら、私は過去、ドキュメンタリー映画を通じて、人間のおぞましい面、不気味な面を、垣間見たことがあったのだった。
今回思い出したのは、1960年代にインドネシアで起こった虐殺事件に取材したドキュメンタリー映画、『アクト・オブ・キリング』と『ルック・オブ・サイレンス』だ(過去ブログに書いた映画レビューはリンク先にあるので、詳しくは読んでもらえると嬉しい)。

このドキュメンタリーで、オッペンハイマー監督のカメラは、「虐殺を楽しみ、しかもそれを自慢気に語る加害者」の姿を容赦なく見せつけた。

私の目には、今回のいじめ加害者の人達は、この虐殺事件の加害者と相似形に映る。
もちろん、私が被害にあったいじめは、大量虐殺とは規模が違うかもしれない。でも、「被害者に対する根拠のない噂を盾に、殺人を正当化した」とか、虐殺加害者がアイヒマンと同じく「正常な、普通の人間」だったというあたりが、今回の自分の被害体験と重なるのだ。

映画のパンフレットを読み返して、オッペンハイマー監督の言葉に、私の今の思いに通じる言葉を見つけた。一部引用してみる。
……私が撮影した加害者たちは、勝利を手にし、虐殺の上に成り立つ政権を作り上げた人々であり、今も権力を保持しています。自分たちの行いは間違いだったと認めるよう、強いられたこともありません。最初は私も、彼らの自慢話を額面通りに受け取っていました。彼らは自責の念などまったく感じておらず、自分の行為を誇りに思っていて、良心の呵責などないのだ、と。しかしながら、その考えは軽率だったと気付きました。殺人者たちによる自慢は、彼らが実は自分の間違いに気付いていることを表していて、真実から逃れるための必死の努力なのではないか、と思い始めたのです。

 もし我々が殺人を犯し、自分を正当化できる可能性が残されているなら、ほとんどの人はそうするでしょう。さもなければ、毎朝鏡を見るたびに、殺人者と対面しなければならなくなるからです。『アクト・オブ・キリング』の登場人物たちは、今も権力の座にあり、誰からも糾弾されたことがないため、今でも自分を正当化することができます。そして、その正当化を本当は信じていないために、自慢話はより大げさになり、より必死になるのです。人間性に欠けているからではなく、自分の行いが間違いだったと気付いているからこそのことです。

(『アクト・オブ・キリング』パンフレット ジョシュア・オッペンハイマーによる「監督声明」より)

私も最初は、いじめ加害者には良心が欠けているのかと思ったのだった。
でもむしろ、良心が残っているからこそ、自分も加担したいじめ行為が、命に関わるレベルの被害に結びついたことを認めたくないのではなかろうか。
私だったら、想像するだけで胸が締めつけられるくらい、つらいもの。自分は被害者でよかった、加害者にならなくてよかった、という気持ちさえあるくらいだ。

映画パンフレットの監督声明の続きには、こんな一節もある。
……しかし、悲劇的なのは、殺人を賞賛するには、さらなる悪行が必要だということです。誰か一人を殺してしまった後、同じような理由で他の誰かも殺すよう要請されたら、断ることはできません。なぜならもし断れば、最初の殺人も間違いだったと認めているようなものだからです。

(『アクト・オブ・キリング』パンフレット ジョシュア・オッペンハイマーによる「監督声明」より)
このまま加害者を放置したら、また新たな被害者が出るのではないか。その懸念は、私も持っている。
もしかしたら、この手のいじめは、過去にもあったのかもしれない。表立って声を上げる人がいなかっただけで。 でも、人の命は、取り替えが効かない。謝罪でもお金でも、解決することじゃない。まして加害者が、悔悛も自責の念もなく開き直っている状況は、不気味としか言いようがない。

今回私がされた「不正アクセス」や「陰口」や「ストーカー行為」のような嫌がらせを、私は「陰湿」だと感じた。でも、そう感じるのは、私が被害者だからであって、もしかしたら加害者にとっては「楽しい遊び」だったのかもしれない。
そう、差別もいじめも、それをする側にとっては「楽しい」ものらしい。
被害者にとって身の毛もよだつようなおぞましい体験が、加害者から見ると「ちょっとした楽しい遊び」になる。
この、被害者と加害者の間にある、圧倒的な溝。
これもまた、映画『アクト・オブ・キリング』『ルック・オブ・サイレンス』を連想した理由の一つだ。

人間は、いじめや差別をせずにはいられない生き物らしい。
表向きは「反差別」を唱える人達ですら、いじめや差別の加害者になるのだということを、今回、痛感させられた。
現在、「良識ある」人たちは、表立って「女性」や「精神障碍者」を貶めるような発言をすることは、まずない。内心で見下していたとしても、表向きは、そういう態度を取ってはいけないことになっている。
でも、表向きは「差別は良くない」と唱える「良識ある」人達だからこそ、その差別は、(ヘイトスピーチのような直接的な発言ではなく)陰口のような陰湿な行為になりやすいのではなかろうか。

「見えないところで行われるいじめや差別」なら、ヘイトスピーチよりもマシだ——とは、私には、思えない。被差別者の心身に深い傷を残すのは、ヘイトスピーチも「陰湿な差別」も同じだ。

そして「悪質なデマを流す行為」は、過去に起こった様々な虐殺事件の前兆だったのを思い出したい。例えば、1923年の関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺事件は、「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「朝鮮人が暴動を起こしている」といった悪質なデマが広がった結果、多くの人が殺される惨事となったのだ。

「陰口を叩く人」はどこにでもいるのだろう。「悪質なデマを流す人」も、私には信じられないことだけれども、思ったより多いのかもしれない。
これまで幾度も書いてきたことだけど、私にとって「陰口のコミュニティ」は、健康を害するレベルで苦痛なので、そういう場所からは離れるしかない。
ただ、「陰口」が「悪質なデマ」につながったのだとしたら——そこから「虐殺事件」までは、ほんの数歩しかない。


ともあれ、現実社会で、最低限の秩序もモラルも機能していない状態では、創作の世界で自由に遊ぶことすらできない。私が短歌の発表を止めざるを得なかった理由は、これだ。

不正アクセスはするな。
ストーカー行為は迷惑。
デマを流すな。

これは、ごく当たり前のことだと思う。
こんな「当たり前のこと」さえ守られない場所では、端的に言って生きていけない。ステージ4の癌の闘病中なら、なおさら。

加害者は忘れても、被害者は痛みを忘れない。忘れることはできない。
今回のいじめに関わった人たちは、せめてそのことを忘れないでほしい。自身の行為(あるいは不作為)が、命に関わるレベルの被害につながったことを、忘れないでほしい。これから先、二度と同じ間違いを繰り返さないでほしい。

このブログにはコメント欄もあるし、メールアドレスも公開している。
私は、いつでも対話に応じるつもりで、ブログを書いてきた。
裏でデマを流したり、デマを真に受ける前に、疑問があるなら直接私に尋ねてほしい。 それすらしないで、裏でデマを流したりストーカー行為に走るのって、本当に悪質だからね。

こういうこと、一度はきちんと言っておかなければならないと思ったので、書くことにした。

不正アクセスや嫌がらせとは関係なく、当ブログを純粋に楽しんで読んでくださっている皆様には直接関係のない話でしたが、いじめや差別について考える際の何らかのヒントになれば幸いです。


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| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(4) | trackbacks(0) |
2017.10.19 Thursday 23:17
体調を崩してから、ブログでの短歌の発表はお休みしていたのですが、短歌自体は、たまーに、ぽつぽつと作っていました。

今回は、これまでに作った短歌をちょっとだけ、ここに公開します。

まずは、秋になったので、この歌を。
すずやかな銀杏並木が黄水晶(シトリン)のしずくを散らすあきかぜの道

ツイッターで相互フォローしていた、あきかぜさんのお名前を短歌に詠み込んでみました。ツイッターで短歌を発表していたとき、ふぁぼってもらえたのが嬉しかったので、お礼の気持ちを込めて。
この短歌、実際に作ったのは今年の4月頃だったんですが、秋になるのを待って公開することに。
イチョウの葉が色づくのはもう少し先ですが、家の近くにも銀杏並木があるので、いずれ黄色に染まった並木道の写真を撮れたらいいなーと思ってます。


水に舞う瑞鳥の羽(はね)はろばろと来世を照らせ紫苑いろの灯(ひ)よ

折句のような形で、人名を詠み込んでみました。
以前、当ブログで実施した「短歌クイズ」のような読み方をしていただくと、とある方の名前が出てきます。


もう一首だけ。
背中には翔べないままの泣きそうな翼があった ここだけの呪詛

これも折句の形で、とある方の名前を詠み込んだ歌です。


こういう折句の短歌をサラサラーと作れたら、もしかしたら商売として成り立つのかなあ——などと考えないでもないのですが。

ただ、ハンドルネームでもペンネームでも実名でも、人の名前を短歌に詠み込むのは、多少なりともその人に対する親愛の情を抱いていなければイメージが湧いてこないので、量産はできそうにないんですよね。残念ながら。


ところで、人名を短歌に詠み込んだ例で思い出したのですが、こんな歌があります。
塚本邦雄の『新撰 小倉百人一首』の冒頭に掲げられた序歌です。

きらめくは歌の玉匣(たまはこ)眠る夜の海こそ千尋やすらはぬかも /塚本邦雄

文庫版の解説によると、この歌には、親しい編集者の箱根裕泰(はこね・ひろやす)氏の名前が詠み込まれているとのこと(「玉匣(たまはこ)眠る」に「はこね」、「千尋(ちひろ)やすらはぬかも」に「ひろやす」が隠されています)。

こんなふうに、人の名前を短歌に詠み込めるテクニックがあれば、表現の幅も広がりそうですね。私もいずれ、こういう短歌も作れるようになりたいなあ。

ところで、上に引いた歌の意味ですが、文庫版の解説には、〈古典和歌という「歌の玉手箱」の中から、夜も眠らずに、珠玉の和歌ばかりを百首選んだ、という自讃の歌〉と書いてあったんですけど……私は、そんなふうには読めなかったんですよね。

私の解釈は、こんな感じです。
「きらきらした歌のたくさん詰まった宝箱が眠っている、深い深い夜の海。それを思い浮かべると、心がはやって気持ちが休まるときもない——」

実際、この『新撰 小倉百人一首』には、きらきらした和歌がたくさん詰まっていて、たまにページを開いては、うっとりしています。

話が前後しますが、この本の内容をさらっと説明しますと。
前衛短歌の巨人・塚本邦雄は、藤原定家が選んだといわれる「小倉百人一首」の歌を、「凡作ばかり」と一刀両断してるんです。
古典和歌にも造詣の深い塚本が、百人の作者一人一人にとって「これぞ真の代表作」という一首を選び直したのが、この『新撰 小倉百人一首』です。

この本を読んでいると、塚本邦雄に洗脳されて、百人一首の歌が本当に「凡作ばかり」に見えてくるから怖い。
旧かな旧漢字表記の美文調なので、読みやすくはないのですが、一度ハマると癖になります。

今回はこの辺で。

※10/21(土) 短歌を少し修正しました。

   




| ●月ノヒカリ● | 短歌・詩 | comments(2) | trackbacks(0) |
2017.10.11 Wednesday 22:39
相変わらず腫瘍マーカーは上昇していて、癌の肝転移も大きくなっているらしく、不安は尽きない毎日です、が。
殺人的な酷暑も過ぎ去ったことだし、ぼちぼちブログの更新を再開します。

前々回のエントリに、「上っ面だけの言葉が嫌いだ」と書いたら、読者さんからのコメントで、その真逆の言葉があるよ、と教えていただきました。

昨年101歳で他界された、むのたけじ氏の「体重をかけた言葉」です。
むのたけじ氏は、戦時中、朝日新聞の従軍記者でしたが、敗戦後すぐ「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」と新聞社を退社。秋田県で自ら「たいまつ」という新聞を発行し、「戦争絶滅」を訴え続けた人です。

むのたけじ氏の著書は未読だったので、さっそく『詞集 たいまつ』の1巻を手に取ってみました。
箴言のような短い文章が集められた本。まえがきにあった著者のポリシーは、「コトバに全体重をかける態度こそが大切」というもので。読む側としても襟を正して、一文ずつ、ゆっくり読むことにしました。

『詞集 たいまつ』1巻の中から、印象に残った言葉を幾つか、以下に引用してみます。

ふだんのくらしの言葉でいいあらわせば、一番わかりやすくて一番短い。それが一番簡単そうで一番むずかしい。
*     *     *

読書は第四の食事である。望ましい作法は、他の食事と同じである。暴飲暴食は精神に下痢をおこすだけである。一度に多量ではなく毎日欠かさず適量を摂取すると一番ためになる。
*     *     *

腐ったおとなに寛大である社会は、清純な子どもに対して必ず残酷である。
*     *     *

革命とは新しい尺度の創造運動である。それを在来の尺度で推測するから、わからなくなったり、おびえたりする。古い尺度は、それをどんなに神聖化しても新しい目盛りには合わない。
*     *     *

やたらに防腐剤を用いるな。古いものが腐りきらなければ、新しい芽は出てこない。腐るべきものが十分に腐らないと、毒がひろがる。古いものでも十分に腐ると、こやしになる。
*     *     *

洋服なら既製品でもぴったり合うことがあるが、思想と現実とのかかわり合いでは既製の寸法がぴったり合うことはない。現実は生きており、思想は原則であり、従って思想は生かして使わなければならぬ。どのような現実であれ、それは変化するもの・変化させ得るものとして受けとめるところに、思想の第一歩がある。

(むのたけじ『詞集 たいまつ I』より)

初版は1976年ですが、今も古びていない、歯ごたえのある、噛みごたえのある言葉です。

ある言葉が、誰かにとっての「たいまつ」になるとしたら、それは言葉を「書くこと」や「語ること」によって、ではない。
それを「生きること」によってのみ、言葉は「たいまつ」となり得るのだ。
——そんなメッセージが、足元から響いてくるような本でした。

上に引用した読書論のくだりは、速読・多読が要請される今の時代の趨勢には合わないかも。
でも振り返ってみると、自分にとって真に「血となり肉となった」本とは、一行ずつ、時間をかけて、ゆっくり読み進めたものだったように思います。

私は、今の時代のトレンドとは関係なく、時間がかかっても、自分の「読書」をしていきたい、と改めて胸に刻みました。
人生の残り時間を考えたら、なおさら。
これまでもそうしてきたように、これからも、流行り物は横目で流しつつ、読みたい本・読むべき本を手にしていきたいです。

以下次号。



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