2016.06.18 Saturday 15:04
前回、癌再発の報告に、コメントやツイッター等で励ましの言葉をくださった皆様、ありがとうございます〜。
おかげさまで、さっそく骨転移の治療を始めることになりました。
骨転移の進行を抑えるために使われるのは、「ランマーク」という、比較的新しい分子標的薬です。4週に1回注射します。

新薬を使えるのはとてもありがたいんだけど、やっぱり医療費高いですね……。
ランマークが1回1万数千円(3割負担で)、あとホルモン療法も継続して(飲み薬は変わりました)、それから今後はCT等の検査も増えるだろうし、万単位のお金がこれから毎月毎月出ていくかと思うと、長生きするのも考えものだなあ、早めに人生退場したほうが親孝行かしら、いやでもやっぱりもうちょっと生きていたいかも、などと思ったりして。人間って面倒な生き物ですね。

まあでもランマークは、抗がん剤みたいなキツイ副作用はないはずなので、楽勝だ〜♪
――などと考えていたら、甘かった。

ランマークの副作用として、「低カルシウム血症」とか「あごの骨壊死」の可能性がある、という話は主治医から聞いていたし、もらったパンフレットにも書いてありました。

でも、それだけじゃなかったんですよ。
初めてランマークの注射をした日の夜、とつぜん背骨に、ズシン、という痛みが走ったのです。
もう何事かと思いました。
癌の骨転移が、一夜にして背骨にまで広がったのかと思いました。骨折でもしてるんじゃないか? と心配で心配で。

不安になったので、病院に電話して聞いたら、ランマークの副作用として「脊椎痛」も稀にある、とのこと。
背骨が急に痛くなったのは、おそらく薬の副作用だろうから、数日様子を見て大丈夫、と言われたのです。

なので、痛み止め(ロキソニン)を飲んで、2日ほど、ほぼ寝て過ごしました。
そしたら、かなり痛みは軽くなりました。
やっぱり背骨の痛みは、ランマークの副作用だったんだろうなあ、と。

しかし、骨転移の治療のせいで、これまで痛くなかった背骨の痛みに苦しめられるとは、こはいかに……。
理不尽だよ! 理不尽すぎるよ!! QOL下がりまくってるよ!!!

――とまあ、こんなふうにブログで吠えられるくらいには、元気になりました。

私、自分は闘病ブログなんて書かないタイプだと思ってました。
だって書くの面倒だし、そんなの読んでも、一部の同病の患者さん以外には、面白くもなんともないだろうし。
でも、この背骨の痛みを経験して、考えを改めました。
こんなん、ブログのネタにでもしなきゃ、やってられんわっ!!

私も40年以上生きてきて、これまで肩こり・腰痛・股関節痛・膝痛等々、様々な痛みを経験してきました。
でも、背骨が痛くなったのは、生まれて初めてです。
たいへん貴重な体験をいたしました。
私って、脊椎動物だったんだなあ、と改めて実感した次第です。

しょっぱなから、癌再発の治療は、波乱の幕開けとなりました。
「ブログには本の感想を書こう計画」がどんどん遠のいていくのですが……えーと、ぼちぼちと更新していくつもりなので、マターリお付き合いいただければ幸いです。ぺこり。


※8月29日追記
ランマーク治療による副作用、背骨の痛みは、初回投与の時のみでした。2回目以降の注射では、背骨の痛みはなかったこと、ここに付記しておきます。
☆参照記事:再発日記(2016.08.29)







| ●月ノヒカリ● | 病気 | comments(13) | trackbacks(0) |
2016.06.09 Thursday 21:49
えーと、いきなりですが、結論から書きます。
検査の結果、癌が骨と肝臓に転移していることが判明しました。
2004年に最初の乳がんの治療をして、2013年にリンパ節再発→手術。初回治療から12年、リンパ節再発から3年を経た後の転移です。

一応経過を書きますと。
そもそもお尻のあたりが痛いな、と感じ始めたのは3月中頃でした。
歩くのも困難なくらいに痛くなったので、近所の整形外科を受診しました。「癌の骨転移の可能性もある」と告げたらレントゲンをたくさん撮られて、医師には「骨に異常はないみたいだよ」と言われ、「椎間板ヘルニア」と診断されたんです。
で、「安静にしてるように」言われて、数日安静にしていたら、かなり痛みは治まりました。

この段階では、私も「たぶん癌の骨転移ではないだろう」と思っていたんです。
過去に、乳腺外科の先生に聞いた話では、「じっとしていても痛い、というのは癌の骨転移の可能性が高い」、逆に「動いたら痛くなるけど、休んでいたら大丈夫なら、癌の転移ではない可能性が高い」とのこと。
痛みは良くなっていく感触があったので、私はせっせとリハビリに通ってました(実は、癌の骨転移の場合、骨に圧力をかけるような治療は禁忌なのですが……後の祭りですね)。

ところがその後、「痛みが軽くなった」と思って、ストレッチ等の運動を再開すると、また痛みがぶり返す、というのを何度か繰り返しまして。
気になったので、5月末、大きめの整形外科を受診して、MRI検査をしました。そしたら、椎間板ヘルニアはなかったんですね。で、痛い側の腸骨に異常が見られたため、精密検査をするように言われました。

そして今月、MRIの検査結果を持って乳腺外科を受診して、CTと骨シンチの検査をした結果、肝転移および骨転移、と診断されたわけです。

今後はもう、基本的に完治は望めないわけで、なるべく元気に生活できるよう、QOLを維持しつつ、長期生存を目指す治療をすることになりそうです。

まあでも、私の場合、初回治療から再発までのスパンが長いこと、ホルモン療法の効果が期待できるタイプの癌であることから、今の段階で「余命一年」とかではないらしいです。私と同じような症状で、何年も元気に生活しておられる患者さんもたくさんいる、とのこと。

まだ死ぬの死なないのという段階ではないのですが……これから先は、最期を見越して生きていくことになるかな、と。

このブログに何度か書いたように、私はずっと根深い自殺願望を抱えてきたので、心のどこかで死を望んでいる部分があります。
だから、癌の遠隔転移がわかっても、それほど物凄いショック、というわけでもなかったのですね。
人間いつかは死ぬんだから、それが少しばかり早まったと思えば、納得いくかな、と。

ただ、これから数年後を想像すると、両親も年が年なので、もしかしたら、自分も含めて家中全員が寝たきりになる可能性もあるな――などと考えると、気が重くなるのですが。
まあ、それについては、おいおい考えます。

検査の経過などをツイッターでつぶやいたところ、何人かの方にご心配をいただきました。本当に有り難いです。
ブログとツイッターのおかげで、自分の人生の最後の何年かは、それらのない生活と比べて、何倍も豊かになったと思います。

ここでお別れを言うのは、ちょっと早過ぎですね。
まだ当分は、この世に留まることになりそうなので。

あと何年かで死ぬとしても、私はたぶん、読書を止めることはないでしょうね。
だから、元気なうちは、読んだ本の感想でもブログに書きたいと思ってます。
(死ぬ前に、パームと天冥の標の完結巻を読めたらいいな、というのが、とりあえずのささやかな夢ですね……)

残された時間――と言っても、たぶん年単位の時間が残っているはずですが――思い残すことのないよう、悔いのないよう、とは言えあまり力まず穏やかに、生きていきたいです。






| ●月ノヒカリ● | 病気 | comments(5) | trackbacks(0) |
2015.04.09 Thursday 23:45
読書によって知識を得ることはできるのだろうけど、「知識を得る」ことと「わかる」ことは、どうも別物らしい。
そう感じるのは、ある本を読んでいまいちピンと来なかったとしても、何年も経ってから読み返すと「あれはこういうことだったのか」と腑に落ちることがあるからだ。
つまり、「わかる」ためには、「経験」が必要なのではないだろうか。

つい最近、精神科医の中井久夫先生の著書を読み返して、まさにそういう「ああ、あれはこういうことだったのか」という感覚を味わった。その箇所をここに書き写してみる。

中井久夫先生の専門は統合失調症で、以下に引用するのも統合失調症について書かれたものだ。ただ、治療の「作用」「反作用」という捉え方は、他の病気にも当てはまる面があると思う。
……
 このように考えていくと、そもそも症状というのは病気を推進しているだけなのか、結果的にそうなっているのか、生体の回復の側にも属しているのではないかと考え直したくなります。そんなにはっきり線引きできるのかどうか、こういう疑問を私は持つようになりました。しかし、あまりそういうことを考えると私自身が混乱します。どちらかといえば回復推進的(抗病的)あるいは疾病推進的(起病的)というところで止めています。どちらかが副作用とみなされるわけです。かなり経ってから気づいたのは、作用にはそれと逆方向の(回復を打ち消す)反作用が伴うことがしばしばあるということです。グラフにはっきり出ることもあります。しかし、物理学の場合と同じく、作用点と反作用点が違うから、作用と反作用の法則があっても、ものは動くわけです。面接による治療、アートセラピーその他のハイフンセラピー(これは英語でハイフンをつける治療法で園芸療法、音楽療法、その他です)も反作用点が作用点から離れているという見地から見直してはどうでしょう。妄想を論理的に反駁しても無効なのは、ひょっとすると作用点と反作用点が近いからかもしれません。また、自己免疫を考えると、抗病力あるいは回復力にそういう疾病推進的な面もあると考えてみる必要もあるでしょう。

  (中井久夫『統合失調症の有為転変』P.64〜65)

上記の文章は、とある統合失調症の患者さんが、極期にはきれぎれの言葉しか発せなかったけれども、かなり後になって妄想をちゃんと言葉で語れるようになった。妄想をきちんと話すと妄想の再燃と取られがちだけど、これは回復の一過程と考えていいのではないか――というエピソードの続きとして書かれたもの。

もう一カ所、中井先生の別の本から、「作用」と「反作用」の部分を引用してみる。
 私の知る限り、回復過程における作用と反作用のからみ合いを指摘したものはこれまでありませんでした。回復とは一方向に進む過程と私も考えてきました。実際上そう考えてよい場合も少なくありません。しかし、一般論として考えますと作用には必ず反作用が伴い、この反作用は回復への歩みを打ち消すことによって、いやおそらく時にはそれ自体の持つ力によって回復のコースを慢性化へと曲げてゆく可能性があります。慢性状態のほうが回復途上の状態よりも安定性が高いとすればいったん成立するとワナのように抜けにくくなりかねません。ある治療行為にせよ、薬物にせよ、環境の変化にせよ、本人の自己治療行動、いや夢や思考や症状の変化にせよ、すべて、慢性状態を変えようとする作用は、必ずそれを打ち消そうとする内力を発生させます。これはそう前提してかかってよいことです。では、システムというのは全く動かせないか。そんなことはありません。作用点と反作用点が違うから、システムは動くのです。おそらく作用点と反作用点とが離れていればいる程よいのでしょう。回復初期の身体反応の出現が好ましいのも、作用点から離れた反作用点だからかもしれません。下痢などは後ぐされがほとんどありません(回復後の初期には下痢は良い徴候です)。このように自然治癒力は慢性状態においても働きを止めていません。また、外からの働きかけでも、たとえば絵を描くという作用はきっと別の場所で反作用を生むでしょう。また「ゆりもどし」が回復期や慢性状態からの離脱過程にはしばしば起こりますが、これは反作用として眺めてあわてず騒がずに回復の全構図の中に収めるほうが実り多いでしょう。

  (中井久夫『最終講義』P.65〜66)

上記二つの文章に書かれた、症状と回復の「作用/反作用」の話、自分としては、統合失調症の初発から十年以上過ぎて、回復に向かい始めた今だからこそ、納得できる面があった。

というのも、冒頭の「症状というのは、生体の回復の側にも属しているのではないか」というあたり、思い当たるフシがあるのだ。
私は統合失調症を発症して、その数年後に再発してるんだけど、今振り返ると、実はその再発こそが「回復」の契機となったように思う。再発したとき、統合失調症の症状そのもの(不眠とか思考奪取とか)は、ヘビーで辛かった。でもその再発を経て、初発時のトラウマティックな記憶がもたらす苦痛は、かえって軽減されたのだ。

風邪をひいたときに発熱するのは、「細菌やウイルスを殺すために体温を上げているのだ」という話を聞いたことがある。これについては、どの程度医学的に根拠のある話なのかはわからない。
ただ、病気の「症状」というのは、病気を進行させるだけではなく、むしろ回復を促すために現れるケースもあるのではないか。そんなことを考えさせられた。

といっても、私は別に「だから薬による治療はやめて、自然に症状が進むに任せよう」などと言うつもりはない。
ただ、薬では治すことができない部分もあって(トラウマティックな記憶は、薬を飲んだからといって消えるものではない)、その苦痛を緩和するために、患者自身が見つけたオリジナルな方法が有効なケースもあるのではないか、と思うのだ。

それから、中井先生は絵画療法を実践されているのだけれども、患者が「絵を描く」という行為にも、副作用のようなものがどこかで現れるのではないか、という説も興味深い。
いやそれどころか、患者自身が夢を持つこと、考え方を変えること、自分で治そうと努力すること、そういった行為にもすべて反作用、つまり病気のほうに押し戻す力が働くというのだ。病気にしろ何にしろ、慢性化した状態を変化させることの難しさは、そこにあるのだろう。

『最終講義』によれば、回復が「過程」であるのに対し、(病気の)慢性状態は「状態」であり、ホメオスタシスのように均衡が保とうとする力が働いている、とのこと。
それを変えようとするなら、どこかで抵抗が起こるのは、当然なのだろう。

ただ、慢性状態はまったく動かせないかというとそうではなくて、慢性状態を変えようとする何らかの行為(作用)と、病気のほうに押し戻そうとする力(反作用)は、同じ場所で同時に働くわけではないから、たとえ「ゆりもどし」があったとしても、ちゃんとシステムは動くのだという。

泉谷閑示氏の『「普通がいい」という病』にも、本来の治療というのは「病的な安定」から「健康な不安定」の方にもっていく作業なのだ――という一節があったのを思い出した。

今の状態を変えようとするなら、抵抗する力が働くのも当然のことであって、「ゆりもどし」があったとしても、回復の全構図に位置づけることができれば、それでいい。中井先生の本を読んで、そんなふうに考えられるようになった。

中井先生の『最終講義』中に出てくる、「回復とは、全体として地力がついてくるようなものだ」という一節も、今の私には、深く頷ける言葉だった。
「地力」というのは、ただ薬を飲んでいれば身に付くものではないのだろう。本を読むとか、筋トレなどの「体力づくり」をするのも、もちろんまったく無駄ではないのだろうけど、それだけでは駄目で、生きるための「総合力」が少しずつUPするのが、「回復」に近づくことになるのではなかろうか。そしてその「総合力」には、「健全な自己愛」とか「尊厳」といったものも含まれるのではないか。精神疾患の患者の多くは、まず「健全な自己愛」が損なわれた状態にあるのだから。そしてその「健全な自己愛」こそ、取り戻すのが一番難しいものじゃないかと感じる。

こういう本を読んでも、もちろん病気が治るわけではない。けど、「回復」のイメージがちょっとだけ広がった気がする。
回復のイメージが広がれば、様々な制約のある中で、少しだけ「自由」に近づけるのではないか。
そんなことを願いつつ、日々を過ごしている。

※参考記事
上岡陽江・大嶋栄子『その後の不自由』
順調に後退中


   





| ●月ノヒカリ● | 病気 | comments(7) | trackbacks(0) |
2013.11.12 Tuesday 23:30
最近は、心理療法や瞑想法の本を読み返している。(メンタル面がちょっと弱っているので……。)この手の本については、これまでブログに取り上げたことはなかったけど、もしかしたら多少はニーズがあるかも? と思い、書いてみる。

この本を最初に読んだのは、7、8年前だろうか。
『私のガンは私が治す』というタイトルからわかるように、癌患者向けの代替医療の指南書。
食事療法(ゲルソン療法)を紹介した章もあるけど、とりわけ重点的に取り上げられているのは「瞑想法」だ。著者の住むオーストラリアは代替医療大国で、瞑想(meditation)という言葉も一般に浸透しているらしい。

著者のイアン・ゴウラー氏は、25歳のときに骨肉腫で片足切断。余命宣告をされるも、瞑想法や食事療法といった代替医療で、奇跡的な回復を遂げたとのこと。
これについては、腫瘍が消えた写真も掲載され、オーストラリアの医療専門誌にも報告されているとのことから、おそらく事実なのだろう。

ただ、ここに紹介されている内容は、「医療」として考えると、エビデンスに乏しいとしか言いようがない。著者がフィリピンで受けた民間治療や、著者独自の「癌になる原因」理論については、半信半疑で、あるいは「医学的に証明されていないだろう」などとツッコミをいれながら読んだ部分も多い。しかし、瞑想法についての章からは、得るものが結構あった。

おそらく瞑想初心者向けには、他にもっといい入門書があるだろう。(私は綿本彰の『Yogaではじめる瞑想入門』『シンプルメディテーション』の付録CDをよく使用している。)
あるいは、ストレスに対処するための瞑想法の本も、他にたくさん出版されている。
じゃあこの本に特異な魅力はというと、「痛みへの対処」としての瞑想法に一章が割かれていることではなかろうか。

まず第一に、「痛みは苦しみではない」という著者の言葉に、目から鱗が落ちる思いがした。
痛みは本来、ただの体の症状に過ぎない。けれども私たちが感じるのは「痛みそのもの」だけではない。そこに、不安や心配や恐怖といった、心理的な要素が加わり、増幅された苦痛を感じることになるのだ。だから、痛みの物理的な側面と心理的な側面をきちんと見分け、区別する必要がある、とのこと。これは納得のいく話だった。

さらに、瞑想法を応用した「イメージによって痛みをコントロールする方法」も紹介されている。この章は、将来もし自分が慢性的な痛みを伴う病気になった場合、役立つかもしれない――との思いから、この本はずっと手元に置いておこうと決めている。
ただし、いざ痛みを感じるようになってから瞑想を始めようとしても、難しいかもしれない。普段からある程度、瞑想のトレーニングを積んでおくべきなのだろう。

瞑想法としては、第五章に出てくる「輝く光のイメージトレーニング」は、実際にやってみて、かなりリラックス効果があった。足の指先を意識して、白い光に満たされるイメージを描き、その感覚を少しずつ体全体に広げていくという瞑想法。うまくイメージできれば、体が温かく、くつろいだ感覚を味わえる。痛みにも効果がありそうだ。

この本に出てくる、ポジティブシンキングの推奨や、ニューエイジ系のスピリチュアルな話(カルマだの生まれ変わりだの)は、私には受け入れ難かった。

でも、「死」というテーマについて一章を割いていることには、好感が持てた。
著者は、「患者には『生きぬくことへ導く力』も、『死についての達観』も、両方が備わっている」と語る。そしてその二つの力は、実は同じものだとも。
「死と臨終についてオープンに話すこと」を大事にする姿勢というのは、癌患者のみならず、すべての人にとって有意義なものではなかろうか。
著者の至った境地――「私は生きることが好きです。でも死ぬのもかまいません」――というのは、私にとって、理想的な死生観だと感じられる。生を肯定しつつ、しかし死を忌避するわけでもない立場。(自分の生を肯定できていない私は、まだそんな境地には至れないのだけれども。)
「よりよく生きること」と「よりよく死ぬこと」は、きっと表裏一体の関係にあるのだろう。

というわけで、久しぶりに読み返してみて、また新鮮な発見を得ることができた。

ただこの本、今は絶版みたいですね。Amazonの中古はどう考えても高すぎるので(定価は2300円+税)、興味のある方は図書館で探してみてください。






| ●月ノヒカリ● | 病気 | comments(4) | trackbacks(0) |
2013.09.02 Monday 23:41
タイトルからして、ずいぶんと不謹慎な感じですが……このブログには、「密かに思っていても、口に出しては言えないこと」を言葉にしようと試みてきたので、あえて書きます。
(このブログを初めて読む方へ。ブログ主のこれまでの病歴については、このエントリにざっとまとめてあります。)

生きたいのに生きられない癌の患者さんの話は、たくさん世の中に出回っている。けど、「死にたがっている癌患者」の話なんて、まず見かけない。
でも、存在しないわけではないと思うんだよね。癌の罹患後に鬱になるというのも、わりとよくあることみたいだし。
だからここで、「死にたがってる癌患者」の一人として、自分の気持ちを書いてみる。

ただ、私がこれまでに知り合った癌患者さんの中には、遠隔転移して治癒しないと言われる状況で、それでも必死に治療を続けている人もいる。亡くなった方だっている。そういう患者さんの前では、「死にたいと思っている」なんて、口が裂けても言えないよね。
同病の患者仲間というのは、治療についての情報交換をしたり、ときには励まし合ったりできる、本当に有意義な関係だとしみじみ思うけれども―――それでも、「死にたい」という気持ちは、表には出せないし、共有できない。だからずっと、一人で思い詰めることしか、私にはできなかった。

それにしても理不尽だな、と思う。
「なんで死にたがってる私が生き残って、生きたがってる人が死ななきゃならないんだろう?」

なぜこんなことを考え始めたのかというと―――昨年末、「癌が再発したかもしれない」というエントリを書いたとき、いただいたコメントの中に「正直に言うと、羨ましいと思う」というものが複数あったからです。
そのコメントに引っかかりを感じたんだよね。「以前どこかで聞いたことがあるな」みたいな。
記憶を探ると、それは重症アトピーの人の言葉だったように思う。
「こんな治らない病気、地獄だよ。いっそ癌みたいに死ぬ病気の方がよかった」

私もその気持ちはわかる。けれども、実際に自分が癌になってみて、「癌の方がアトピーよりマシ」なわけではない、ということも実感した。もちろんその逆も真で、「あの病気よりこの病気の方がマシ」などと、一概には言えないのだと思う。

でも自分が癌になってみて、いろいろと「自分は思い違いをしていたな」と感じたことはある。自分が罹患する前に、癌という病気に対して持っていたイメージは、今振り返ると、一面的なものでしかなかった。

まず、「癌は、必ずしも死ぬ病気とは限らない」という事実がある。もちろん癌の種類やステージによって異なるけれども、今では「癌=死」というわけではない。適切に治療すれば、治り得る病気だ。(「治る」というのは、ちょっと語弊があるかもしれない。癌の治療前と後では、健康状態もメンタルへの影響も、大きく異なるのだから。「治る」のではなく、「長期生存が期待できる」と言った方が正確かもしれない。)

それだけではない。私が罹患した乳がんは、進行がゆっくりのタイプの癌なのだ。
以前のエントリ(病歴)にも書いたけど、私は自覚症状(胸のしこり)に気づいてから、専門医を受診するまでに、2年以上かかっている。
そして、その初回治療から8年以上を経て、今年リンパ節に再発したわけで。
それでも今のところ、死に至るような症状は出ていない。不幸中の幸いというべきか、私のは「おとなしい癌」だったみたいだ。
それにしても、8年も経ってから再発するだなんて、ずいぶんとまあ、のんびり屋さんの癌だよね。癌も宿主に似るのだろうか?

それはさておき、最初の話に戻る。
これまでもこのブログに書いてきたように、私は長いこと、それこそ中学生の頃からずっと、「死にたい」と思っていたわけですよ。
じゃあ癌になったらそれ幸いと、治療なんてせずに、自然に死ぬに任せればいいじゃん、などという考えも出てくると思うんですよ。
でも実際に癌になってみたら―――そう単純に思い切れるものではなかった。

そもそも「自分が癌かもしれない」と疑い続けて毎日を過ごすのは、それ自体かなりのストレスだった。はっきりさせるには、専門医を受診するしかないわけだけど―――そこで癌の告知をされて、「治療をしない」という選択をするのは、自分には無理だった。

ここで、ちょっと注釈を入れると。
ご存じの方もいるかもしれないけど、世の中には、「がん放置療法のすすめ」とか、「抗がん剤や手術は寿命を縮める。免疫力を高めて治せ」といった、西洋医学のコンセンサスとは真逆の主張をする一派も存在する。癌患者が治療に臨むとき、そういった「雑音」とも戦わなければならない側面もあるのだ。
まあ確かに私も、抗がん剤や放射線治療は怖いと思っていたし、できることならそんな治療はしたくなかった。

でも、乳がんについて知識を得れば得るほど、「治療をしないこと」の弊害も見えてきた。
乳がんの手術をしないまま進行すると、癌が皮膚にまで浸潤し、血や浸出液が滲み出て、悪臭を放つようになるらしい。そうなったら、日常生活を送ることも困難になる。
もっと深刻なのは、癌が遠隔臓器に転移した場合だ。
私は、乳がんの診断を受けてから、癌患者のコミュニティで、たくさんの患者さんの体験談を読んだり聞いたりしてきた。そこで知った末期癌の苦しみというのは、想像するより遥かに厳しいものだった。「もしかしたら自分も再発するかもしれない」という不安もあったため、それら体験談は、切実なリアリティをもって、私の身に迫ってきた。

先に書いたように、私の癌はかなりのんびり屋さんなので、まったく治療しなかったとしても、数年くらいは無症状で生きられたかもしれない。
それでも、「そのうち骨や肺や肝臓に転移するかもしれない」という恐怖心を抱いたまま毎日を過ごすというのは、それもまた物凄いストレスである。

つまりは、怖いんだよね。
「死ぬのが怖い」というよりはむしろ、生きて味わう「苦痛」の方が怖い。
「苦痛を味わうのが怖いから」―――そんなヘタレな理由で、今も私は、癌の治療を続けている。

こうやって思い返してみると、この十数年というもの、私は「生きたい」と「死にたい」の間を行ったり来たりし続けてきたのだった。

最初に癌の診断をされたのは、今から9年前、2004年のことで。そのときも、その後も、私はずっと「死にたい」と思っていた。外科の主治医は本当にいい先生で、熱心に説明も治療もしてくれたのに、「死にたい」なんて考えちゃうのは、申し訳ないという気持ちもあった。それでも「死にたい」という気持ちは、私の中から消えてくれなかった。

でも、不思議なことに。
私の体は、ちゃんと回復していくんだよね。
手術後に熱が出たり、腕が動かなかったりしたけど、それでも日が経つごとに、少しずつ力が戻ってくる。
私の心は死にたがっていたけど、私の体には、ちゃんと生きる力が残されていたんだな。それはちょっとした発見だった。

もちろんその後も、落ち込むこともあったし、思うように体力が戻らなくて焦りや不安に苛まれたこともあった。自殺を考えたことも、何度もあった。
それでも、何とか生き延びてきた。

そして今年になって、癌がリンパ節に再発したことがわかったとき、ごくごく自然に、「じゃあ手術しなきゃいけないな」と考えるようになった。それまではずっと「入院とか手術とか、もう二度とゴメンだ」って思ってたんだけどね。
私にもまだ、この世に思い残すことがあったみたいだ。

癌が再発して、一つよかったことがあるとすれば―――自分の中に「生きたい」という気持ちが存在していたということ、それに気づいたことじゃないかと思う。

私には、「明るく前向きに病気を乗り越える」なんてできそうにない。ドラマやマスメディアに出てくるような「美しい語り」は、どうやっても出てこない。
「生きたい」と「死にたい」、両方の気持ちのせめぎ合いの中で、みっともなく足掻くしかない。これからもそうして足掻き続けるのだろう。

ここはそういう、かっこわるいブログです。






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