2015.03.20 Friday 23:01
最近、詩というものをあまり見かけなくなった。
いや私も、詩というジャンルについて詳しいわけではないし、過去それほど詩を読んできたわけでもない。
でも、昔の少女漫画には、よく詩が引用されていたもので、だから自然と目に入ってきたんだよね。
古い詩の文庫本は、今も何冊か持っていて、それらは普段は本棚に眠ってるんだけど……たまーに引っぱり出して読むと、そのときの心境にカチッとシンクロするような言葉に出会うことがある。

そんな古くて懐かしい詩をいくつか、ここに書き写しておきます。
どれか一つでも、気に入ってくれる人がいるといいな。

  「死は涼しき夜」
        ハインリッヒ・ハイネ
        片山敏彦 訳

 死は涼しい夜だ。
 生は蒸し暑い昼間だ。
 早や黄昏そめて、私は眠い。
 昼間の疲れは私に重い。

 わが奥津城に一本の樹は伸び出でるだろう、
 そこに一羽の鴬(うぐいす)はうたうだろう。
 その鳥の歌うのはただ愛のうたばかり。
 死の夢の中でも私は聴くだろう。

Der Tod, das ist die kühle Nacht

新潮文庫の『ハイネ詩集』より。
タナトス。死への欲望。
死を渇望するのではなく、もっとゆるやかな憧憬のような念。
死の世界へ引き込まれる眩暈のような感覚は、眠りへの誘いに似ている。
そういう死への思いを、19世紀前半に活躍したドイツの詩人と、時を越えて共有することができる。古い名作を読む醍醐味って、まさにそれだと思います。
ちなみに「奥津城(おくつき)」とは墓の古語です。


  「あらしの薔薇」
        ルミ・ド・グールモン
        堀口大學 訳

 白き薔薇(さうび)は傷つきぬ、
 荒(すさ)ぶ暴風雨(あらし)の手あらさに、
 されども花の香はましぬ、
 多くも享けし苦のために。
 帯には挟め、この薔薇、
 胸には秘めよ、この傷手(いたで)、
 暴風雨の花に汝(なれ)も似よ。
 手箱に秘めよ、この薔薇、
 さては暴風雨に傷つきし
 花の由緒(いはれ)を思ひ出よ、
 暴風雨は守りぬ、その秘密
 胸には秘めよ、この痛手。

堀口大學による訳詩集『月下の一群』から。有名な訳詩集だけど、今はあまり読まれてないのかなあ。私が持ってる新潮文庫版はもう絶版みたいで、今は岩波講談社から文庫が出てます。

七五調の美しい訳文。
激しい暴風雨(あらし)に襲われて、傷を負った薔薇。でも苦しんだ分だけ、よりかぐわしく豊かな香りを放つようになる。
あなたも、そんな薔薇のようであってほしい。
そういう詩です。刺さります。


  「かなりや」
       西條八十

 唄を忘れた金糸雀(かなりや)は 後の山に棄てましょか
 いえ いえ それはなりませぬ

 唄を忘れた金糸雀は 背戸の小藪(こやぶ)に埋(い)けましょか
 いえ いえ それもなりませぬ

 唄を忘れた金糸雀は 柳の鞭でぶちましょか
 いえ いえ それはかわいそう

 唄を忘れた金糸雀は
 象牙の船に銀の櫂
 月夜の海に浮かべれば
 忘れた唄をおもいだす

大正時代の童謡。有名な歌(YouTubeで聴けます)だけど、よくよく歌詞を知ると、残酷な内容だ。
それだけに、最後の一節のやさしさ、美しさが光る。

この歌について検索したら、西條八十自身による解説がUPされていた。子ども向けの解説で、昭和12年に書かれたものだけど、今の時代にも通用する内容だと思う。

子どもたちが、啼かなくなったカナリヤを「棄てちゃおうか」「埋めちゃおうか」「鞭でぶってやろう」と口々に言うのに対して、お母さんは静かに諭すのです。
「人間でも、鳥でも、獣でも誰にでも仕事のできないときがあります。(……)ほかの人たちには、なまけているように見えてもその当人は、なにかほかの人にわからないことで苦しんでいるのかもしれません。たとえば、このかなりやも、このあいだまで歌っていた歌よりも、もっといい歌を美しい声でこれからうたいだそうとして、いま苦しんでいるのかもしれません。……」

なっとく童謡・唱歌「かなりや」より(常用漢字・新仮名遣いに改めました)

そして月の夜に、お母さんがそのカナリヤを、きれいな船に乗せて海に浮かべると、カナリヤは再び美しい声で歌い出しました――というお話。

なんかものすごく沁みるものがありました。
大正時代から歌い継がれてきた童謡に、そんな深い意味があったとは……。

私は、啼かなくなったカナリヤを鞭でぶったり棄てたりするのではなく、「象牙の船に銀の櫂」を用意してあげる側の人間になりたいな――というのが、ずっとずっと前から変わらない自分のスタンスです。


上に挙げた詩のどれか一つでも、誰かにとっての「象牙の船」や「銀の櫂」となることを祈りつつ。






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2015.02.02 Monday 23:42
   芝生
        谷川俊太郎

 そして私はいつか
 どこかから来て
 不意にこの芝生の上に立っていた
 なすべきことはすべて
 私の細胞が記憶していた
 だから私は人間の形をし
 幸せについて語りさえしたのだ

ぐちゃぐちゃ考えながら文章を書いているうちに、思いもかけない結論にたどり着くことがたまにあるんだけど、前回のエントリはまさにそんな感じだった。
先のエントリの末尾で、自分の「欲望」と「義務」が重なり合う地点こそ、人がもっとも幸せに生きられる場所ではないか、と書いた。
それについて、もう少し考えを進めてみたので、長くてややこしい話になっちゃうけど、よかったらお付き合いください。


「幸福」とはいったい何だろうか?
それを定義するのは難しい。
でも、私の中には、「幸福」のイメージのようなものはある。
昨年書いたエントリ、「負け組」にとっての幸せとは? 〜「黒子のバスケ」脅迫事件に寄せてとも関連する話だ。 その中で私は、「仕事の成功」や「家族やパートナーからの承認」が「幸せ」と結びつけられることが多い――と書いたんだけど、私が囚われている「幸福」のイメージは、まさにその二つに集約される。

「仕事の成功」というのは、必ずしも社会的地位や収入の多寡を意味するものではない。どんな仕事であっても、「自分なりに納得のできるいい仕事をしたい」と考えて、それに打ち込めるなら、それは「幸福」だと思う。
それとは別に、「仕事はキツいし辞めたいけど、大切な家族やパートナーがいるから頑張れる」と言えるなら、それもまた「幸福」だと思う。
これに同意してくれる人は、多いのではないだろうか。

その二つの「幸福」は、持っている人は当たり前に持っているものだ。だから、それらをすでに手にしている人たちは、自分たちがとりたてて「幸福」だという実感はないのかもしれない。

しかし、そうであるからこそ、「持ってる人は当たり前に持っている幸福」から疎外された人間は、途方もない痛みや空虚さを抱えることになる。自分が持っていないからこそ、より一層、世間に流通している「幸福のイメージ」に囚われ、縛られてしまう。

今の私は無職だけど、かつて私が従事していた仕事は、「心身の健康を損なうくらい苦痛で、かつ誰の役も立たない仕事」だと感じていた。その上「家族やパートナーからの承認」もない。それは生きるのが辛いのも当然だよな、死にたくもなるよな、といま冷静に思い返しても、そう感じる。

ただ一方で、こうも思うのだ。
人が幸せになるためには、「仕事の成功」か「家族やパートナーからの承認」が必要不可欠なのだろうか。
人は、否この私は、そのどちらかを手に入れるまで「幸福」になれないのだろうか。

そうではないはず、と私は思う。
「仕事の成功」や「家族やパートナーからの承認」が手に入らなくても、人は幸福になれるはずだ。そう私は信じている。
ただ、そのためには、世間一般に流通する「幸福」のイメージを書き換えるしかない。
そこで、前回のエントリの末尾に繋がるわけです。

「欲望」と「義務」が重なり合う場所で生きていけること。
それこそが、人間にとっての幸福であると、私は定義したい。

前回のエントリで、多くの人は人生のある時期において、親や周囲の望む「いい子」でいるのをやめるときがくる、と書いた。さらに「いい子」でいることをやめた後、進むべき方向としては「自分の欲望の形を知ること」である、とも書いた。
そして自分の欲望と出会った後、その実現に向かって、一つ一つ石を積み上げていくように、自分の足で歩いていかなければならないのだ、と。

ただ、ここにはちょっとした落とし穴がある。
人に従うことをやめ、義務感ではなく、自分の欲望をベースに行動すること、それ自体はいい。
でも実は、欲望だけしか持っていない人間というのは、さほど強くはないのだ。
「やりたいこと」を一生懸命探している人が、どこか滑稽に見えるように。
「やりたいこと」とは別に、「なすべきこと」があるのではないか、と私は思うのだ。

つまり、「義務」をベースに生きるのをやめて、自分の「欲望」を見出した後、再び「義務」を背負わなければならないときがくるのではないか? ということだ。
「義務」を負わずに、ひたすら「欲望」だけを追求すると、袋小路に入り込む。
欲望が実現するとは限らない。自分の望みが実現しないという苦しみ、それも当然あるだろう。
でもそれよりも何よりも、もし自分が願うあらゆる望みがすべて実現したと仮定して、それは本当に「幸福」な状態と言えるのだろうか? そんな疑問が湧いてくる。
私はそんな「自分の望みがすべて叶う」などという状態を経験したことはないので、想像するしかないのだけれども――おそらく充足を感じるのは一瞬だけで、そこから先も飽くなき欲望に追い立てられるか、あるいは空虚さに苛まれるか、そのどちらかではなかろうか。

自分の欲望の形を知り、欲望を実現しようとすること自体は、まったく悪いことではない(もちろん、自分の欲望を実現することが、他者に対する侵害となるケースもあるだろうけど、ここではそうではないと仮定して、話を進める)。
しかし、「欲望」を実現しようとする過程で、再び「義務」に戻らなければならないときが来るのではないか。その「義務」こそが「幸福」と密接なつながりがあるのではないか。

ただし、「欲望」ベースに歩き始めた後に見出される「義務」というのは、例えば「親や教師の指示に従う義務」とか「上司の命令に従う義務」とは別物である。「法律で決まっているから従わなければならない」という問題でもない。 そうではなく、自分の意志で自らに課す義務のことである。あるいは、冒頭に掲げた谷川俊太郎の詩に登場するような「なすべきこと」である。
ここで仮に、前者を「押しつけられた義務」、後者を「内発的な義務」と名付けることにする。

例えば、あなたが兵士として戦場に赴き、上官に民間人を殺すよう、命令されたとする。
軍隊組織というのは、上官の命令に従うのは絶対的な義務だ。だから、兵士であるあなたは、敵国の民間人を殺す。それは「押しつけられた義務」だ。

それとは別様の「義務」も存在するのではないか。
つまり、自分の良心に従って、上官の命令を拒否すること。「民間人を殺さない」という選択をすること。そのために自分が不利益を被ることになったとしても。
そういった内発的な動機に基づく義務。
それは、損得勘定を第一に考えるような今の時代の潮流の中では、見つけにくいものかもしれない。でも、そういう生き方をする人も存在するということを、私たちは知っているはずだ。実は私たち自身、心のどこかでそんな生き方を欲しているのではないか。
「そうしなければ自分は生きていけない」という切実さを伴った、内側から涌き起こってくるエネルギーのような形であらわれる義務=「なすべきこと」。


ここで、私自身の話に戻る。
私は、自分の欲望に従って、このブログを書き始めた。
先々月、選挙前のエントリで書いたように、私がこのブログを「社会を変える」などという大それたタイトルをつけて書き始めたのは、何よりもまず私自身が、「社会から疎外されている」「どこにも居場所がない」と感じていたからだ。自分の思いを言葉にすることによって、自分と同じように疎外感を抱えている人と、もしかしたら繋がれるかもしれない。そういう利己的な動機でもって、始めたことだった。

そうしてブログを書いてきて、私の言葉に共鳴してくれた人の中には、子どもの頃から自殺願望を持ってたり、今も持ち続けている人、生活保護を受給している人、障碍者や難病患者、生きづらさを感じつつ何とか生き延びてきた人が、たくさんいた。
このブログを読んで、私の言葉に反応してくれた人たちは、私にとって、もはや見知らぬ「赤の他人」ではない。
生活保護について、精神身体の病気や障碍について、非正規雇用の問題について、メディア等で語られるのを見聞きするとき、それらはもはや私にとって「他人事」ではない。このブログを通じて出会えた、具体的個人を思い浮かべ、その痛み・苦しみを、わがこととして想像することになる。

もちろん、他人の苦しみを知ったところで、自分に何ができるわけでもない。そもそも今の私は、たいした能力もない、無力な存在に過ぎないのだから。
でも私は、自分以外の人の苦しみを知ったこと、気づいたことによって、ある種の「責任」のようなものを負うことになったのだと思う。

これから先、私が何かをするときは、自分だけではなく、自分以外の「困ってる人」「苦しんでいる人」たちを想像しつつ、どうすれば皆が幸せになれるのかを考えながら、行動することになるだろう。
選挙のとき、このブログを通じて出会えた人を思い浮かべつつ投票したように。
いま困っている人、苦しんでいる人たちの姿は、「もうひとりの私」であり、「もしかしたらそうであったかもしれない私」なのだから。
知ってしまった者として、気づいてしまった者としての「責任」のようなもの。それは決して、単なる重荷ではない。むしろ背負うことが喜びであるような荷ですらある。

自分ひとりの欲望を追求するのは、実は虚しい。
一方、自分以外の誰かの幸福を願うということは、それ自体、願う者自身に幸福をもたらすのだ。

私個人だけではなく、私以外の誰かの幸福を願うこと。その実現のために、自分に何ができるのかを考え、ごく小さなことでも行動すること。それが今の私にとって「自ら自分に課した義務」だ。
「内発的な義務」をもって生きることは、私の日常生活における行動を、ささやかながら変えることになる。

私の幸せが他の人にとっての幸せでもあるような、そういう世界を目指して歩くこと。
欲望と義務が重なり合う場所で生きること。
言い換えると、「やりたいこと」と「なすべきこと」が縒り合わさって一本の糸になるように、生きていくこと。 そんなふうに生きられるなら、それこそが幸福な生だと言えるのではないか。

つまり、今の私は、幸福なのだ。
それを覚えておくために、ここに書き記すことにする。
これから先、他の誰かが語る「幸福のイメージ」に惑わされることのないように。






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2015.01.07 Wednesday 23:15
映画『ゴーン・ガール』を観てきた。
とある夫婦の結婚記念日に、妻が失踪するというミステリータッチのストーリー。
映画評論家の町山智浩さんが「アカデミー賞候補!」と絶賛していたのでちょっと期待していたんだけど……正直、私はあまり好きになれない作品だった。
原作はイヤミス(イヤーな気分になるミステリ)のベストセラーらしいので、後味が悪いのは、仕方ないのかもしれないけど。

ただ、ストーリーの中で、ちょっと引っかかる部分があった。
というのは、失踪する妻エイミーは少女時代、母親の手による絵本『アメージング・エイミー(完璧なエイミー)』のモデルになっていた、という設定だ。エイミーは「理想の少女」として描かれ、その絵本はベストセラーに。でも現実の彼女は、絵本のエイミーとは程遠い、凡庸な少女に過ぎなかった。その絵本の存在が、彼女にとって抑圧になっていたということは、想像に難くない。
映画の中でエイミーはおそらく三十代なので、タイトルに「ガール」という単語が入っているのは、少し奇妙ではある。おそらくこの「ガール」というのは、絵本に「理想の少女」として描かれた、子ども時代のエイミーを指しているのではないか。

そう考えると、『ゴーン・ガール』のエイミーに、『アナと雪の女王』のエルサと重なる部分が見えてくるのだ。
『アナ雪』の主題歌「Let It Go」には「Be the good girl you always have to be」とか「That perfect girl is gone」という詞が出てくる。王位継承者である王女エルサにかけられた呪縛(「いつもいい子でいなきゃいけない」)と、そこからの解放(「完璧な女の子なんてもういない」)。『アナ雪』でもっとも感動的なシーンだ。
子ども時代に、「いい子でいなきゃいけない」という抑圧が強かった人にとっては、突き刺さるものがあるのではなかろうか。
いや、子ども時代だけではなく、今現在も、「周囲の目や世間体を気にしてしまって、思うように振る舞えない自分」からの解放を、心の奥底で求めている人が多いからこそ、「Let It Go」のヒットに繋がったのだろう。

しかし、親の期待や世間体に迎合するのを止めて、「ありのままの自分になる」というテーマ自体は、とりたてて新しくもオリジナルなものでもない。
じゃあどうして、このテーマは、今の時代に生まれる様々な物語の中で、繰り返し語られるのだろうか。

たぶん、答えが一つではないからだ。
『ゴーン・ガール』のエイミーと『アナと雪の女王』のエルサ、二人の選んだ道は、それぞれ異なる。その詳しい内容については、ここでは触れない。
ただ、エイミーとエルサ、二人には共通点もある。「失踪」だ。つまり、人生のある時期に、それまでの生活圏からの離脱を選んだことだ。

世の中には、親の期待通りの「いい子」のまま大人になって、そのまま矛盾なく「いい人」として生きていける人も、もしかしたらいるのかもしれない。
でも多くの人は、どこかの時点で、世間や親の期待に窮屈さを感じて、それまでの自分の殻を脱ぎ捨てなければならなくなるのではないか。

周囲が望む「いい子」でいるのをやめること、それ自体はそれほど難しいことではないように思う。しかし、「いい子」でいるのをやめた後、どっちに向かって進み、どこに着地すればいいのか。
この問いに答えるのは難しい。

ただ、大まかな方向性は、示すことができるのではないかと思う。
つまり、「誰かに従うこと」から「自分の欲望を知ること」へ。
「should」や「must」ではなく「want to」へ。
でもこれが、意外と難しい。
少なくとも私は、本当は何をしたいのか、自分の欲望の在り処がどこにあるのか、実は私自身にもよくわかっていない。

もちろん、小さな欲望なら、幾らか思いつく。
「アイスを食べたい」とか「あの本を読みたい」とか、そういうの。
でもそれ以上の欲望、例えば「これから自分はどう生きていきたいか」という問いへの答えは、よくわからない。
もし自分が健康だったら、それとも過去のトラウマがなければ、あるいは大金持ちだったら、もっといろいろなことを素直に欲望できたんじゃないか――という思いはある。
でも、現実の私は、様々な制約の中で生きていかなければならない存在だ。
身体的、経済的、その他さまざまな制約のある中で、「欲望」を見出さなくてはならない。

「欲望」について、精神科医の斎藤環は、ちょっと興味深いラカンの言葉を引用している。「欲望は他者の欲望である」という言葉だ。
つまり、私たちが自分だけの欲望だと思っているものには、他人の欲望が紛れ込んでいる、というのだ。
そして「他者の存在のないところに欲望は生まれない」のだとも。
だから、家族以外の人間関係を持たないひきこもりの人たちは、欲望を持つのが難しくなる。
「欲望」と「義務」の区別が曖昧になってしまう。
つまり、「働きたい」のか、あるいは「働かなければならない」と思っているのか、自分でもよくわかっていない状態で、身動きが取れなくなるのだと(斎藤環『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』より)。

このあたりの話は、私自身も思い当たることがある。
私は長い間、自分の「欲望」がよくわからなくて、だから常に「義務」をベースに動いてきたように思う。
それも行き詰まって、身動きが取れなくなったわけだけど。

前出の本で斎藤環は、ひきこもっている人が自分の欲望の形に気づくために、まず他者と出会うこと、家から出て他人と交わることが必要なのだと述べている。
これに賛同する「常識人」は多いのではないか。
私自身もおそらくそれが正しいのだろうという思いはあって、だからひきこもっていたときも、可能なときは外出して、人と話す機会をつくるよう心がけてきた。でも私は、「外へ出て人と会う」ことで、自分の欲望を呼び起こしてくれる他者に出会うことはなかった。

転機は、ネットの世界にあった。
私が「好きでやっている努力」は、このブログが初めてで、それ以外は思いつかない、という話は、前にも書いたことがある。それまで特に文章を書いた経験もなく、自分を表現するのも苦手な私が、わざわざブログなんて面倒なものを書こうと思ったのは、いくつかの複雑な経緯があったからだけど……そのひとつは、ネット上で、とある人物と出会ったことがきっかけだった。

その人とは、ネット上でごくわずかやり取りをしただけの関係で、ハンドルネーム以外、どこに住んでいるのかも、何をしているのかも、謎の人物だった。しかもまったくの無名人だ。ここに詳しい経緯を書くつもりはないけど、その人との言葉のやり取りによって、私は自分の中に眠っていた欲望を呼び起こされたのだった。
その後、さらにちょっとした紆余曲折を経て、ブログを書こうと決心して、今に至るわけです。

まあこの弱小ブログなんて、自分以外の人間にはさほどの価値のないものだということは、わかっているつもりだ。 けれども5年半前に、読者数ゼロの状態で書き始めた当時と比べたら、ずいぶん遠くまで来たな、という思いはある。自分の考えていることを発信したら、見知らぬ人、一度も会ったことのない人が、それに反応してくれるのだから。

これって、ある意味、ちょっぴり希望のもてる話じゃないかと思うんですよ。
つまり、ひきこもりの人が家でネットやってるだけでも、自分の「欲望」に出会う可能性はあるのだ。
その生きた実例が、私です。


ただ、ここが肝心なんだけど。
自分の欲望を喚起されたところで、それで世界が一変するわけではない。
すべてを覆す魔法の呪文なんて、現実には存在しないのだから。
欲望を手にした後、それを実現するためには、自分の足で歩いていかなければならないのだ。
つまり、そこから本格的に「努力」を始めなきゃいけないわけです。

だから、ひきこもっていて、自分が何をしたいか、これからどうすればいいかわからなくても、何かしらのトレーニングは、できる範囲でやっておいた方が良いと思う。文字通り、体力を維持するためのトレーニングもそうだけど、知的なトレーニング、つまり読書とか、思いついたことをノートに書き留めるとか、そういったことも含めて。
それは無駄になるかもしれないけど、後々活きるかもしれないから。

実は私も、今よりもっと若い頃は、何かものすごい体験をしたり、素晴らしい人物との出会いがあれば、どこか遠い世界に連れて行かれるように、自分の人生も一変するのではないか――という幻想みたいなものを捨て切れなかったんだけど。
でも、そんな都合のいいことは、やっぱり起こらないのだ。
一歩一歩自分の足で歩くこと。ごく小さな行為を積み重ねること。ひとつひとつ石を積み上げていくこと。そうしなければ現実は変えていけないのだと、はっきり自覚できるようになったのは、本当にここ数年のことだ。

「いい子でいること」から解放された後、どこへ向かうのかは、人それぞれだと思う。
常識的な人は、「ネットをやめて、外へ出て人と会いましょう」みたいなことを言ったりするけど、必ずしもそれが正しいとは限らない。他人から見て「間違ったやり方」であっても、自分にとっては正解である。そういうこともあるんだと思う。

ただし、自分の欲望に出会った後、「自分の足で一歩一歩、歩いていかなければならない」ということ。これは、すべての人に共通する、誰もが通らなければならない道なのではないか。
救いがあるとすれば、「欲望」をベースに歩き始めたら、「義務」をベースに歩いていたときよりも、一歩一歩がちょっとだけ楽しい、ということだ。

そうして歩いていった先のどこかで、「欲望」と「義務」が重なり合う地点にたどり着けるのではないだろうか。
其処こそ、人がもっとも幸せに生きられる場所なのではないか。
(『アナ雪』のエルサが最後に着地したのも、「欲望」と「義務」が交差する地点だった。)


えっと、『ゴーン・ガール』の話から、ずいぶん遠くに来ちゃいましたが……ていうか、個人的に『ゴーン・ガール』の結末にはドン引きしてしまったので、あれはないわーという思いが、この長文エントリを書かせることになったのですが。

まあそんなことを、ブログを始めて5年半が過ぎた今、考えているのです。

       




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2014.12.22 Monday 23:54
バナナの皮が落ちていたわけでもないのに、すべって転んでしまった。
おそらく数年ぶりの事件である。

運動神経が人並みはずれて鈍かった子ども時代は、しょっちゅう転んでいた気がする。大人になってからは、さすがに転ぶことは少なくなったけど、生まれつきの運動音痴は治らないのだから、やっぱりたまには転ぶ。

転んだのは、大雪の日ではなく、雨の日だった。
買い物先のドラッグストアの入り口あたりで、濡れた床ですべって転んでしまった。

近くにいた女性は、ちらりとこちらを見て、そのまま歩き去った。
世知辛い世の中である。
――などと言うつもりはない。

膝を打ってちょっと痛かったけど、自力で起き上がれないほどの怪我をしたわけではない。
「大丈夫ですか?」と声をかけてくれる人がいたら、たぶん嬉しい。でも一方で、見て見ぬふりをしてくれる方が、有り難い気もする。すってんころりんと転んでしまった格好悪い姿なんて見てほしくない、という思いもあるし。

こういうとき、「親切」と「おせっかい」の境目ってどのあたりにあるのかなあ、などと考える。
「親切」のつもりでしたことが、相手にとって「いらぬおせっかい」だった、なんてことは、よくあることなんだろうな。
一方で、「いらぬおせっかいかもしれないな」と「親切」を自粛してしまう「優しい人」もいて、でもそうなったら「親切」は伝わらないまま終わっちゃって、伝わらなければ「親切」は存在しないも同然だ。
「ありふれた親切をちょっぴり多めに」と言ったのはヴォネガットだけど、親切の実践というのは、なかなかに難しいものである。とりわけコミュ障にとっては。

そんで今、ちょっとだけ困っている。
転んだとき膝を打っただけで、骨折したわけではない。でも動かすと膝が痛む。
こういうときは、動かさない方がいいのだろう。つまり、運動ができないっぽい。つい先日、ダイエットしようと一念発起したばかりなのに。
軽く落ち込みそうになったものの、そんなときに有効な対処法を、今の私は一つだけ持っている。
それはズバリ「ブログのネタにする」ことだ。

「転んでもただでは起きあがらない」とはこのことである。
何と言ってもブログ主は、ドケチで有名な名古屋人の血統を受け継いでいるのだ。
転んだら、それをネタにして元を取る。
「元を取る」というのはつまり、読んでくれた人から拍手やコメントをもらうことで、そうなるとブログ主の承認欲求が幾分満たされて、ちょっぴりハッピーになれるのです。

というわけで、「転ぶ」をテーマに、思いついたことを書くことにする。

「七転び八起き」ということわざがある。
この言葉、ちょっと不思議だと思いませんか?
だって、「七回転んで、八回起きあがる」って、回数があってないじゃん。なんで「七転び七起き」じゃないんだろう?
なんとなくだけど、「七転び七起き」だと、「話がそこで完結している」感じがするからかなぁ。
「七転び八起き」なら、「八」に「末広がり」という意味があるせいかもしれないけど、「これから先も続いていく」イメージがわいてくる。
つまり、「転ぶのはこれが最後ではなく、たぶんこれから先も転ぶことはあるだろうけど、でもまた起きあがるんだろうな、起きあがれたらいいな」っていうイメージ。
「もう二度と転ばないようにしよう」と決心する人よりも、「また転んでも、もう一回起きあがろう」と考えられる人の方が、しなやかで、強い存在ではなかろうか。
「また転ぶこともあるだろうし、痛い思いをするかもしれないけど、そうなってもまた起きあがればいい」って、そんなふうに思えるのだとしたら、きっとそれを「自信」と呼ぶのではないか。

私はこれまでの人生で、幾度となく転んできた。
転んだまま、立ち上がれなくて、じっとうずくまっているしかない。そういう時間が本当に長かった。このまま二度と起きあがれないんじゃないかって、そんなエネルギーはもう残ってないよって、ずっと思っていた。
「転んで、起きあがるまでの時間」、つまり、うずくまっているだけの時間を、世間の人は「何もしていない時間」と見做すのだろう。ひきこもりの経歴があったところで、マイナス評価しかされないのが普通だから。
でも、そこを通り抜けてきた人間としては、それは違うよねって思うんだ。

うずくまったまま、懸命に闘ってきたんじゃないか。「敵」の正体もわからないまま。
自分自身と必死に向き合っていたんじゃないか。
そういう時間を経てきた人は、そりゃ「学歴」とか「職歴」とか「恋愛経験」みたいな世間一般の人が評価するような「いい経験」を積んだわけではないかもしれない。でも、誰よりも豊かな内面生活を送ってきたのではないか。

だから、「転んで、起きあがれずにうずくまっていた時間」にも意味はあるんじゃないかって、今の私は考えている。
そんなふうに思ってくれる人が、他に一人でもいれば嬉しいな。

というわけで、ここまでの内容に共感してくれた人は、ぜひ拍手ボタンをポチッとなと押してください。
「転んで、起きあがれずに過ごした時間にも意味がある」という教えを、われらがダメダメ教団の根本原理とし、共に全世界に布教しませう。




今日のおまけ。
 愛がそれほど重要とは思えない。
 では、なにが重要に思えるのか? 運命と真剣に取り組むことである。

 (中略)

 愛はどこにでも見つかる。それを探しにでかけるのは愚かなことだと思うし、また、有害になることも多いと思う。
 世間の常識から見て、相思相愛の仲だと思われている人たちに――あなたがたがもし諍いを起こしたときは、おたがいにこういってほしい。「どうか――愛をちょっぴり少なめに、ありふれた親切をちょっぴり多めに」

   (カート・ヴォネガット『スラップスティック』)

   




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2014.09.16 Tuesday 23:48
これまで何度も書いたことだけど、自分の言いたいことって、なかなか人に伝わらないものだな、と感じていた。
これはリアル生活でずっと感じてきたことだけど、ネット上でも事情はそんなに変わらなくて、やっぱりなかなか真意は伝わらないものだ。

このブログでも、自分なりに一生懸命書いた文章が「ちゃんと理解してもらえた」という手応えを感じることは、そんなに多くない。体感的には、一エントリにつき一人か二人、ちゃんと受け止めてくれる理解者がいるかどうかってところで。
しかも、自分としてはわりと「当たり前のこと」を言っているつもりなのに、「斬新な意見ですね」みたいな感想をいただくこともあって、そんなときはもうビックリ仰天、「私の常識は世界の非常識」だったんだなーと思い知らされました。思い知らされましたよ。ええ。

でももし私がブログに書かなかったとすれば、理解者はゼロだったわけで。
だから、たとえ一人か二人にしか読んでもらえなくても、書くことに意味はあったと思う。

自分は本当に、とりたてて取り柄のない人間ですよ。頭がいいわけでもなく、それほど読書家でもなく、人より秀でた専門分野があるわけでもなく、いい経験を積んできたわけでもなく、ディープな趣味を持っているわけでもない。いろんな意味で、ぬるい人間です。

そんで、ネット上には、私なんかよりずっとずっと頭のいい人・アクの強い人がたくさんいるわけです。
それどころか今の時代、第一線で活躍している学者の先生方が、Twitterやブログで発信されているわけですよ。 ためになるネット記事もたくさんあります。
私もそれらを読んで、感心したり、学ばせてもらったり、しています。
でも一方で、反発を感じることもあるだよね。

例えば、フェミニズムの先駆者・上野千鶴子先生は、今の日本で最高レベルの知性をお持ちの方だと思いますが、その主張を見聞きするとき、庶民としては納得できない面もあるわけです。
もはや旧聞に属する話だけど、半年ほど前、上野先生のネット記事「女子力を磨くより、稼ぐ力を身に付けなさい!」が、Twitter等で軽く炎上したのです。
私もまた、この記事の前半部分には同意するものの、後半部分を読むと何とも言えない違和感が湧き起こってきて。この件については、上野先生に反論された方の、「今の時代、稼ぐためにこそ女子力が必要とされるのでは?」という意見に、より説得力を感じました。
上野先生の現状分析はおそらく正しいのだろうけど、「稼ぐ力を身につけろ」発言は、ある種の人間にとっての地雷を踏みまくってるんですよ。例えば、自分みたいな、病気になって稼げなくなった人間にとっては、夢も希望もないオチだなって感じで。「上野センセイ、何にもわかってない!ムキーッ!!」みたいな気持ちになるんです。

で、以前の私はそういうとき、ちょっとガッカリしてたと思うんです。「これだけ頭のいい人にも、自分たちの気持ちは理解されないんだ」みたいな感じで。
でも今の私は、そうではない。理解されないことは、むしろ希望なんじゃないかって思える。

「頭のいいエリート」の先生方には、見えていない風景もあるんじゃないか? ということは、つねづね感じていたのだった。
自分みたいな、三流の人間にしか見えないものもあるんじゃないかって。
そしてそれは、私自身が語らなければならないことなんじゃないか、そうしなければ問題を俎上にあげることもできないんじゃないかって。

そう思えるのは、今の私にとっては「希望」なんです。
「私が言わなければ、他の誰も理解してくれない問題がある」ということは、まだ自分にも、この世で「やらなければならない仕事」が残ってるんだな、と思えるから。

もちろん、私も決して視野の広い人間じゃないから、自分に見えていないものはたくさんあると思う。 でもそれは、他の「見えている人」が語ればいい。

そうして、いろんな立場にいる人が、「自分の場所から見える風景」を語っていった先に、この社会についての「より大きな図を描くこと」ができるのではなかろうか。
そしてそれは、いろいろな立場の人が発信しているネット上にこそ、可能性があるのではなかろうか。
ブログやTwitterといったSNSは、「普通に生活していたら、まず会う機会がなかった人」と出会える場所だ。地理的に離れた場所に住んでいる人や、年齢・所属する階層が異なる人々に。

実際のところ、今の日本社会は本当に複雑で、不透明で、真面目に向き合えば向き合うほど、「何が正しいのかよくわからない」状態に陥ってしまう。
そういう状況だからこそ、いろんな立場の人が発信して、それらの意見を総合しつつ、かつ専門家の知見も取り入れながら、できるだけ「大きな全体像」を描こうとするのは、無意味ではないはずだ。

現在の日本では、社会のあらゆる側面で、対立が先鋭化している。でもその対立の多くは、「思想と思想がぶつかりあっている」のとはちょっと違うように感じる。そうではなく、「フェミvs.アンチフェミ」「右翼vs.アンチ右翼」「左翼vs.アンチ左翼」みたいな、「アンチの論理」で動いているように見える。

この不毛な対立を乗り越えるためには、双方が共同で「より大きな全体像」を描くことが必要とされているのではないだろうか。より多くの人が、納得して受け入れられるような「全体像」を創りあげること。
私たち皆が、今の日本社会について、あるいは世界について、「より大きな絵」を受け入れることでしか、この対立を乗り越えられないのではないか。

そう考えると、文章を書くのが得意ではない人でも発言しやすいTwitterって、結構いいツールなんじゃないかって思う。繫がりがゆるく、距離が近すぎないのもいい。ネット上でもリアルでも、対人関係の「距離が近すぎる」のは、かえって息苦しいから。
他の人との些細な意見の違いに苛立つのではなく、「そういう考え方もあるのか」って受け止めて、「より大きな全体像」の中に、その意見を位置づければいい。
そう、だから、私はわりと、ネット上で発言することをポジティブに捉えているんだよね。

そのためにはもちろん、他の人に伝わるような表現力を身につけた方がいいに決まってるし、ある程度の勉強も必要になってくるでしょう。
勉強って、私は子どもの頃から大嫌いだったし、今も難しい本を読むのは決して得意ではない。 でもね、最近つくづく感じるんですよ。自分のための勉強って、案外楽しいものなんだなって。

フリーターにはフリーターの、ひきこもりにはひきこもりの、病人には病人の「自分にしか見えない風景」があって、それを言葉にすることには、意味があるんだと思う。
自分の今いる場所から、自分に見えている景色を語ること。それを人に伝えること。

かつて、ウーマンリブの先駆者である田中三津は「わかってもらおうと思うは乞食の心」(『いのちの女たちへ』)という名言を残した。

そして今の私は、「わかってもらえないのは希望」をモットーに、言葉を紡いでいきたい。
自分の意見を他の人に「わかってもらえない」ということは、私が誰かのコピーなんかではなく、オリジナルな存在だという証明になるのだから。

だから皆さんも、「わかってもらえないのは希望」を合い言葉に、ちょっとずつでも勉強しながら、「言いたいことは言っておく」運動に参加しませんか?
そうすることによって、今の日本社会について「より大きな全体像を描く」という、壮大な思想的・文化的運動に参画していることになるのです!


・・・とまあ、ダメダメ教祖なりに、ヘタレアジテーションをしてみました。

最後に、國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』に登場する、ドイツ語学者・関口存男先生のお言葉をもって、このエントリの締めといたします。

「世間が面白くない時は勉強に限る。失業の救済はどうするか知らないが個人の救済は勉強だ」







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