2015.01.07 Wednesday 23:15
映画『ゴーン・ガール』を観てきた。
とある夫婦の結婚記念日に、妻が失踪するというミステリータッチのストーリー。
映画評論家の町山智浩さんが「アカデミー賞候補!」と絶賛していたのでちょっと期待していたんだけど……正直、私はあまり好きになれない作品だった。
原作はイヤミス(イヤーな気分になるミステリ)のベストセラーらしいので、後味が悪いのは、仕方ないのかもしれないけど。

ただ、ストーリーの中で、ちょっと引っかかる部分があった。
というのは、失踪する妻エイミーは少女時代、母親の手による絵本『アメージング・エイミー(完璧なエイミー)』のモデルになっていた、という設定だ。エイミーは「理想の少女」として描かれ、その絵本はベストセラーに。でも現実の彼女は、絵本のエイミーとは程遠い、凡庸な少女に過ぎなかった。その絵本の存在が、彼女にとって抑圧になっていたということは、想像に難くない。
映画の中でエイミーはおそらく三十代なので、タイトルに「ガール」という単語が入っているのは、少し奇妙ではある。おそらくこの「ガール」というのは、絵本に「理想の少女」として描かれた、子ども時代のエイミーを指しているのではないか。

そう考えると、『ゴーン・ガール』のエイミーに、『アナと雪の女王』のエルサと重なる部分が見えてくるのだ。
『アナ雪』の主題歌「Let It Go」には「Be the good girl you always have to be」とか「That perfect girl is gone」という詞が出てくる。王位継承者である王女エルサにかけられた呪縛(「いつもいい子でいなきゃいけない」)と、そこからの解放(「完璧な女の子なんてもういない」)。『アナ雪』でもっとも感動的なシーンだ。
子ども時代に、「いい子でいなきゃいけない」という抑圧が強かった人にとっては、突き刺さるものがあるのではなかろうか。
いや、子ども時代だけではなく、今現在も、「周囲の目や世間体を気にしてしまって、思うように振る舞えない自分」からの解放を、心の奥底で求めている人が多いからこそ、「Let It Go」のヒットに繋がったのだろう。

しかし、親の期待や世間体に迎合するのを止めて、「ありのままの自分になる」というテーマ自体は、とりたてて新しくもオリジナルなものでもない。
じゃあどうして、このテーマは、今の時代に生まれる様々な物語の中で、繰り返し語られるのだろうか。

たぶん、答えが一つではないからだ。
『ゴーン・ガール』のエイミーと『アナと雪の女王』のエルサ、二人の選んだ道は、それぞれ異なる。その詳しい内容については、ここでは触れない。
ただ、エイミーとエルサ、二人には共通点もある。「失踪」だ。つまり、人生のある時期に、それまでの生活圏からの離脱を選んだことだ。

世の中には、親の期待通りの「いい子」のまま大人になって、そのまま矛盾なく「いい人」として生きていける人も、もしかしたらいるのかもしれない。
でも多くの人は、どこかの時点で、世間や親の期待に窮屈さを感じて、それまでの自分の殻を脱ぎ捨てなければならなくなるのではないか。

周囲が望む「いい子」でいるのをやめること、それ自体はそれほど難しいことではないように思う。しかし、「いい子」でいるのをやめた後、どっちに向かって進み、どこに着地すればいいのか。
この問いに答えるのは難しい。

ただ、大まかな方向性は、示すことができるのではないかと思う。
つまり、「誰かに従うこと」から「自分の欲望を知ること」へ。
「should」や「must」ではなく「want to」へ。
でもこれが、意外と難しい。
少なくとも私は、本当は何をしたいのか、自分の欲望の在り処がどこにあるのか、実は私自身にもよくわかっていない。

もちろん、小さな欲望なら、幾らか思いつく。
「アイスを食べたい」とか「あの本を読みたい」とか、そういうの。
でもそれ以上の欲望、例えば「これから自分はどう生きていきたいか」という問いへの答えは、よくわからない。
もし自分が健康だったら、それとも過去のトラウマがなければ、あるいは大金持ちだったら、もっといろいろなことを素直に欲望できたんじゃないか――という思いはある。
でも、現実の私は、様々な制約の中で生きていかなければならない存在だ。
身体的、経済的、その他さまざまな制約のある中で、「欲望」を見出さなくてはならない。

「欲望」について、精神科医の斎藤環は、ちょっと興味深いラカンの言葉を引用している。「欲望は他者の欲望である」という言葉だ。
つまり、私たちが自分だけの欲望だと思っているものには、他人の欲望が紛れ込んでいる、というのだ。
そして「他者の存在のないところに欲望は生まれない」のだとも。
だから、家族以外の人間関係を持たないひきこもりの人たちは、欲望を持つのが難しくなる。
「欲望」と「義務」の区別が曖昧になってしまう。
つまり、「働きたい」のか、あるいは「働かなければならない」と思っているのか、自分でもよくわかっていない状態で、身動きが取れなくなるのだと(斎藤環『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』より)。

このあたりの話は、私自身も思い当たることがある。
私は長い間、自分の「欲望」がよくわからなくて、だから常に「義務」をベースに動いてきたように思う。
それも行き詰まって、身動きが取れなくなったわけだけど。

前出の本で斎藤環は、ひきこもっている人が自分の欲望の形に気づくために、まず他者と出会うこと、家から出て他人と交わることが必要なのだと述べている。
これに賛同する「常識人」は多いのではないか。
私自身もおそらくそれが正しいのだろうという思いはあって、だからひきこもっていたときも、可能なときは外出して、人と話す機会をつくるよう心がけてきた。でも私は、「外へ出て人と会う」ことで、自分の欲望を呼び起こしてくれる他者に出会うことはなかった。

転機は、ネットの世界にあった。
私が「好きでやっている努力」は、このブログが初めてで、それ以外は思いつかない、という話は、前にも書いたことがある。それまで特に文章を書いた経験もなく、自分を表現するのも苦手な私が、わざわざブログなんて面倒なものを書こうと思ったのは、いくつかの複雑な経緯があったからだけど……そのひとつは、ネット上で、とある人物と出会ったことがきっかけだった。

その人とは、ネット上でごくわずかやり取りをしただけの関係で、ハンドルネーム以外、どこに住んでいるのかも、何をしているのかも、謎の人物だった。しかもまったくの無名人だ。ここに詳しい経緯を書くつもりはないけど、その人との言葉のやり取りによって、私は自分の中に眠っていた欲望を呼び起こされたのだった。
その後、さらにちょっとした紆余曲折を経て、ブログを書こうと決心して、今に至るわけです。

まあこの弱小ブログなんて、自分以外の人間にはさほどの価値のないものだということは、わかっているつもりだ。 けれども5年半前に、読者数ゼロの状態で書き始めた当時と比べたら、ずいぶん遠くまで来たな、という思いはある。自分の考えていることを発信したら、見知らぬ人、一度も会ったことのない人が、それに反応してくれるのだから。

これって、ある意味、ちょっぴり希望のもてる話じゃないかと思うんですよ。
つまり、ひきこもりの人が家でネットやってるだけでも、自分の「欲望」に出会う可能性はあるのだ。
その生きた実例が、私です。


ただ、ここが肝心なんだけど。
自分の欲望を喚起されたところで、それで世界が一変するわけではない。
すべてを覆す魔法の呪文なんて、現実には存在しないのだから。
欲望を手にした後、それを実現するためには、自分の足で歩いていかなければならないのだ。
つまり、そこから本格的に「努力」を始めなきゃいけないわけです。

だから、ひきこもっていて、自分が何をしたいか、これからどうすればいいかわからなくても、何かしらのトレーニングは、できる範囲でやっておいた方が良いと思う。文字通り、体力を維持するためのトレーニングもそうだけど、知的なトレーニング、つまり読書とか、思いついたことをノートに書き留めるとか、そういったことも含めて。
それは無駄になるかもしれないけど、後々活きるかもしれないから。

実は私も、今よりもっと若い頃は、何かものすごい体験をしたり、素晴らしい人物との出会いがあれば、どこか遠い世界に連れて行かれるように、自分の人生も一変するのではないか――という幻想みたいなものを捨て切れなかったんだけど。
でも、そんな都合のいいことは、やっぱり起こらないのだ。
一歩一歩自分の足で歩くこと。ごく小さな行為を積み重ねること。ひとつひとつ石を積み上げていくこと。そうしなければ現実は変えていけないのだと、はっきり自覚できるようになったのは、本当にここ数年のことだ。

「いい子でいること」から解放された後、どこへ向かうのかは、人それぞれだと思う。
常識的な人は、「ネットをやめて、外へ出て人と会いましょう」みたいなことを言ったりするけど、必ずしもそれが正しいとは限らない。他人から見て「間違ったやり方」であっても、自分にとっては正解である。そういうこともあるんだと思う。

ただし、自分の欲望に出会った後、「自分の足で一歩一歩、歩いていかなければならない」ということ。これは、すべての人に共通する、誰もが通らなければならない道なのではないか。
救いがあるとすれば、「欲望」をベースに歩き始めたら、「義務」をベースに歩いていたときよりも、一歩一歩がちょっとだけ楽しい、ということだ。

そうして歩いていった先のどこかで、「欲望」と「義務」が重なり合う地点にたどり着けるのではないだろうか。
其処こそ、人がもっとも幸せに生きられる場所なのではないか。
(『アナ雪』のエルサが最後に着地したのも、「欲望」と「義務」が交差する地点だった。)


えっと、『ゴーン・ガール』の話から、ずいぶん遠くに来ちゃいましたが……ていうか、個人的に『ゴーン・ガール』の結末にはドン引きしてしまったので、あれはないわーという思いが、この長文エントリを書かせることになったのですが。

まあそんなことを、ブログを始めて5年半が過ぎた今、考えているのです。

       




| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(6) | trackbacks(0) |
2014.12.22 Monday 23:54
バナナの皮が落ちていたわけでもないのに、すべって転んでしまった。
おそらく数年ぶりの事件である。

運動神経が人並みはずれて鈍かった子ども時代は、しょっちゅう転んでいた気がする。大人になってからは、さすがに転ぶことは少なくなったけど、生まれつきの運動音痴は治らないのだから、やっぱりたまには転ぶ。

転んだのは、大雪の日ではなく、雨の日だった。
買い物先のドラッグストアの入り口あたりで、濡れた床ですべって転んでしまった。

近くにいた女性は、ちらりとこちらを見て、そのまま歩き去った。
世知辛い世の中である。
――などと言うつもりはない。

膝を打ってちょっと痛かったけど、自力で起き上がれないほどの怪我をしたわけではない。
「大丈夫ですか?」と声をかけてくれる人がいたら、たぶん嬉しい。でも一方で、見て見ぬふりをしてくれる方が、有り難い気もする。すってんころりんと転んでしまった格好悪い姿なんて見てほしくない、という思いもあるし。

こういうとき、「親切」と「おせっかい」の境目ってどのあたりにあるのかなあ、などと考える。
「親切」のつもりでしたことが、相手にとって「いらぬおせっかい」だった、なんてことは、よくあることなんだろうな。
一方で、「いらぬおせっかいかもしれないな」と「親切」を自粛してしまう「優しい人」もいて、でもそうなったら「親切」は伝わらないまま終わっちゃって、伝わらなければ「親切」は存在しないも同然だ。
「ありふれた親切をちょっぴり多めに」と言ったのはヴォネガットだけど、親切の実践というのは、なかなかに難しいものである。とりわけコミュ障にとっては。

そんで今、ちょっとだけ困っている。
転んだとき膝を打っただけで、骨折したわけではない。でも動かすと膝が痛む。
こういうときは、動かさない方がいいのだろう。つまり、運動ができないっぽい。つい先日、ダイエットしようと一念発起したばかりなのに。
軽く落ち込みそうになったものの、そんなときに有効な対処法を、今の私は一つだけ持っている。
それはズバリ「ブログのネタにする」ことだ。

「転んでもただでは起きあがらない」とはこのことである。
何と言ってもブログ主は、ドケチで有名な名古屋人の血統を受け継いでいるのだ。
転んだら、それをネタにして元を取る。
「元を取る」というのはつまり、読んでくれた人から拍手やコメントをもらうことで、そうなるとブログ主の承認欲求が幾分満たされて、ちょっぴりハッピーになれるのです。

というわけで、「転ぶ」をテーマに、思いついたことを書くことにする。

「七転び八起き」ということわざがある。
この言葉、ちょっと不思議だと思いませんか?
だって、「七回転んで、八回起きあがる」って、回数があってないじゃん。なんで「七転び七起き」じゃないんだろう?
なんとなくだけど、「七転び七起き」だと、「話がそこで完結している」感じがするからかなぁ。
「七転び八起き」なら、「八」に「末広がり」という意味があるせいかもしれないけど、「これから先も続いていく」イメージがわいてくる。
つまり、「転ぶのはこれが最後ではなく、たぶんこれから先も転ぶことはあるだろうけど、でもまた起きあがるんだろうな、起きあがれたらいいな」っていうイメージ。
「もう二度と転ばないようにしよう」と決心する人よりも、「また転んでも、もう一回起きあがろう」と考えられる人の方が、しなやかで、強い存在ではなかろうか。
「また転ぶこともあるだろうし、痛い思いをするかもしれないけど、そうなってもまた起きあがればいい」って、そんなふうに思えるのだとしたら、きっとそれを「自信」と呼ぶのではないか。

私はこれまでの人生で、幾度となく転んできた。
転んだまま、立ち上がれなくて、じっとうずくまっているしかない。そういう時間が本当に長かった。このまま二度と起きあがれないんじゃないかって、そんなエネルギーはもう残ってないよって、ずっと思っていた。
「転んで、起きあがるまでの時間」、つまり、うずくまっているだけの時間を、世間の人は「何もしていない時間」と見做すのだろう。ひきこもりの経歴があったところで、マイナス評価しかされないのが普通だから。
でも、そこを通り抜けてきた人間としては、それは違うよねって思うんだ。

うずくまったまま、懸命に闘ってきたんじゃないか。「敵」の正体もわからないまま。
自分自身と必死に向き合っていたんじゃないか。
そういう時間を経てきた人は、そりゃ「学歴」とか「職歴」とか「恋愛経験」みたいな世間一般の人が評価するような「いい経験」を積んだわけではないかもしれない。でも、誰よりも豊かな内面生活を送ってきたのではないか。

だから、「転んで、起きあがれずにうずくまっていた時間」にも意味はあるんじゃないかって、今の私は考えている。
そんなふうに思ってくれる人が、他に一人でもいれば嬉しいな。

というわけで、ここまでの内容に共感してくれた人は、ぜひ拍手ボタンをポチッとなと押してください。
「転んで、起きあがれずに過ごした時間にも意味がある」という教えを、われらがダメダメ教団の根本原理とし、共に全世界に布教しませう。




今日のおまけ。
 愛がそれほど重要とは思えない。
 では、なにが重要に思えるのか? 運命と真剣に取り組むことである。

 (中略)

 愛はどこにでも見つかる。それを探しにでかけるのは愚かなことだと思うし、また、有害になることも多いと思う。
 世間の常識から見て、相思相愛の仲だと思われている人たちに――あなたがたがもし諍いを起こしたときは、おたがいにこういってほしい。「どうか――愛をちょっぴり少なめに、ありふれた親切をちょっぴり多めに」

   (カート・ヴォネガット『スラップスティック』)

   




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2014.09.16 Tuesday 23:48
これまで何度も書いたことだけど、自分の言いたいことって、なかなか人に伝わらないものだな、と感じていた。
これはリアル生活でずっと感じてきたことだけど、ネット上でも事情はそんなに変わらなくて、やっぱりなかなか真意は伝わらないものだ。

このブログでも、自分なりに一生懸命書いた文章が「ちゃんと理解してもらえた」という手応えを感じることは、そんなに多くない。体感的には、一エントリにつき一人か二人、ちゃんと受け止めてくれる理解者がいるかどうかってところで。
しかも、自分としてはわりと「当たり前のこと」を言っているつもりなのに、「斬新な意見ですね」みたいな感想をいただくこともあって、そんなときはもうビックリ仰天、「私の常識は世界の非常識」だったんだなーと思い知らされました。思い知らされましたよ。ええ。

でももし私がブログに書かなかったとすれば、理解者はゼロだったわけで。
だから、たとえ一人か二人にしか読んでもらえなくても、書くことに意味はあったと思う。

自分は本当に、とりたてて取り柄のない人間ですよ。頭がいいわけでもなく、それほど読書家でもなく、人より秀でた専門分野があるわけでもなく、いい経験を積んできたわけでもなく、ディープな趣味を持っているわけでもない。いろんな意味で、ぬるい人間です。

そんで、ネット上には、私なんかよりずっとずっと頭のいい人・アクの強い人がたくさんいるわけです。
それどころか今の時代、第一線で活躍している学者の先生方が、Twitterやブログで発信されているわけですよ。 ためになるネット記事もたくさんあります。
私もそれらを読んで、感心したり、学ばせてもらったり、しています。
でも一方で、反発を感じることもあるだよね。

例えば、フェミニズムの先駆者・上野千鶴子先生は、今の日本で最高レベルの知性をお持ちの方だと思いますが、その主張を見聞きするとき、庶民としては納得できない面もあるわけです。
もはや旧聞に属する話だけど、半年ほど前、上野先生のネット記事「女子力を磨くより、稼ぐ力を身に付けなさい!」が、Twitter等で軽く炎上したのです。
私もまた、この記事の前半部分には同意するものの、後半部分を読むと何とも言えない違和感が湧き起こってきて。この件については、上野先生に反論された方の、「今の時代、稼ぐためにこそ女子力が必要とされるのでは?」という意見に、より説得力を感じました。
上野先生の現状分析はおそらく正しいのだろうけど、「稼ぐ力を身につけろ」発言は、ある種の人間にとっての地雷を踏みまくってるんですよ。例えば、自分みたいな、病気になって稼げなくなった人間にとっては、夢も希望もないオチだなって感じで。「上野センセイ、何にもわかってない!ムキーッ!!」みたいな気持ちになるんです。

で、以前の私はそういうとき、ちょっとガッカリしてたと思うんです。「これだけ頭のいい人にも、自分たちの気持ちは理解されないんだ」みたいな感じで。
でも今の私は、そうではない。理解されないことは、むしろ希望なんじゃないかって思える。

「頭のいいエリート」の先生方には、見えていない風景もあるんじゃないか? ということは、つねづね感じていたのだった。
自分みたいな、三流の人間にしか見えないものもあるんじゃないかって。
そしてそれは、私自身が語らなければならないことなんじゃないか、そうしなければ問題を俎上にあげることもできないんじゃないかって。

そう思えるのは、今の私にとっては「希望」なんです。
「私が言わなければ、他の誰も理解してくれない問題がある」ということは、まだ自分にも、この世で「やらなければならない仕事」が残ってるんだな、と思えるから。

もちろん、私も決して視野の広い人間じゃないから、自分に見えていないものはたくさんあると思う。 でもそれは、他の「見えている人」が語ればいい。

そうして、いろんな立場にいる人が、「自分の場所から見える風景」を語っていった先に、この社会についての「より大きな図を描くこと」ができるのではなかろうか。
そしてそれは、いろいろな立場の人が発信しているネット上にこそ、可能性があるのではなかろうか。
ブログやTwitterといったSNSは、「普通に生活していたら、まず会う機会がなかった人」と出会える場所だ。地理的に離れた場所に住んでいる人や、年齢・所属する階層が異なる人々に。

実際のところ、今の日本社会は本当に複雑で、不透明で、真面目に向き合えば向き合うほど、「何が正しいのかよくわからない」状態に陥ってしまう。
そういう状況だからこそ、いろんな立場の人が発信して、それらの意見を総合しつつ、かつ専門家の知見も取り入れながら、できるだけ「大きな全体像」を描こうとするのは、無意味ではないはずだ。

現在の日本では、社会のあらゆる側面で、対立が先鋭化している。でもその対立の多くは、「思想と思想がぶつかりあっている」のとはちょっと違うように感じる。そうではなく、「フェミvs.アンチフェミ」「右翼vs.アンチ右翼」「左翼vs.アンチ左翼」みたいな、「アンチの論理」で動いているように見える。

この不毛な対立を乗り越えるためには、双方が共同で「より大きな全体像」を描くことが必要とされているのではないだろうか。より多くの人が、納得して受け入れられるような「全体像」を創りあげること。
私たち皆が、今の日本社会について、あるいは世界について、「より大きな絵」を受け入れることでしか、この対立を乗り越えられないのではないか。

そう考えると、文章を書くのが得意ではない人でも発言しやすいTwitterって、結構いいツールなんじゃないかって思う。繫がりがゆるく、距離が近すぎないのもいい。ネット上でもリアルでも、対人関係の「距離が近すぎる」のは、かえって息苦しいから。
他の人との些細な意見の違いに苛立つのではなく、「そういう考え方もあるのか」って受け止めて、「より大きな全体像」の中に、その意見を位置づければいい。
そう、だから、私はわりと、ネット上で発言することをポジティブに捉えているんだよね。

そのためにはもちろん、他の人に伝わるような表現力を身につけた方がいいに決まってるし、ある程度の勉強も必要になってくるでしょう。
勉強って、私は子どもの頃から大嫌いだったし、今も難しい本を読むのは決して得意ではない。 でもね、最近つくづく感じるんですよ。自分のための勉強って、案外楽しいものなんだなって。

フリーターにはフリーターの、ひきこもりにはひきこもりの、病人には病人の「自分にしか見えない風景」があって、それを言葉にすることには、意味があるんだと思う。
自分の今いる場所から、自分に見えている景色を語ること。それを人に伝えること。

かつて、ウーマンリブの先駆者である田中三津は「わかってもらおうと思うは乞食の心」(『いのちの女たちへ』)という名言を残した。

そして今の私は、「わかってもらえないのは希望」をモットーに、言葉を紡いでいきたい。
自分の意見を他の人に「わかってもらえない」ということは、私が誰かのコピーなんかではなく、オリジナルな存在だという証明になるのだから。

だから皆さんも、「わかってもらえないのは希望」を合い言葉に、ちょっとずつでも勉強しながら、「言いたいことは言っておく」運動に参加しませんか?
そうすることによって、今の日本社会について「より大きな全体像を描く」という、壮大な思想的・文化的運動に参画していることになるのです!


・・・とまあ、ダメダメ教祖なりに、ヘタレアジテーションをしてみました。

最後に、國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』に登場する、ドイツ語学者・関口存男先生のお言葉をもって、このエントリの締めといたします。

「世間が面白くない時は勉強に限る。失業の救済はどうするか知らないが個人の救済は勉強だ」







| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(4) | trackbacks(0) |
2014.08.12 Tuesday 22:36
このブログでは4月に、「負け組」にとっての幸せとは? 〜「黒子のバスケ」脅迫事件に寄せてというエントリで、渡邊博史被告による冒頭意見陳述について書いたのを覚えていらっしゃるでしょうか。
その後、私はこの事件について触れてなかったのですが……7月18日、被告人の最終意見陳述がネット上で公開されていました。A4のレポート用紙44枚にも及ぶ超大作です。

■「黒子のバスケ」脅迫事件 被告人の最終意見陳述全文公開
■「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述2 地獄だった小学校の6年間
■「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述3 事件を起こした動機
■「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述4 「黒子のバスケ」作者について
■「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述5 「無敵の人」
■「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述6 EXOにこだわる理由

さらに、ネット向け声明文には、この意見陳述を書くにあたっての「参考図書一覧」も載っている。いろいろな本を読んで、最初の意見陳述とは考えが変わった部分もあるみたいだ。

というわけで、私は全部、プリントアウトして読みましたよ。
この長い最終意見陳述の、少なくとも一部は、「生きづらさを抱えた人」に宛てて書かれているようなので。私は読まなければならないみたいだ、と感じたのだった。

渡邊被告はどうもネット上の評判すべてに目を通しているようなので、もしかしたら前回の私のブログ記事も読んだのかもしれない。もし読んでくれたのだとしたら、とても嬉しいと思う。だってあのエントリは、誰よりも本人に届いてほしいと祈りつつ、書いたのだから。
だからこの文章も、渡邊被告に読んでもらえることを前提に、書くことにする。

前回と同じく、ものすごく「読ませる」文章で、長いのは苦にならなかったんだけど……ところどころ、読んでいて胸が苦しくなる所があった。
とりわけ家族による虐待について書かれた部分を読むと、自分の子ども時代の記憶がフラッシュバックして、思い出したくないことを思い出してしまって、ちょっとつらかった。
渡邊被告が受けてきたのは、「死に至るような酷い虐待」ではない。でも、主観的には「殺されるんじゃないか」という恐怖を伴うものだった。そうであるからこそ、周囲の理解を得るのは難しいだろうし、自分自身が虐待を受けたと認めるのも難しい。そのあたりの機微は、自分自身の体験と重なるところがあった。

この文章を読む限り、どうも渡邊被告は、安易に「理解できる」などと言われたくない、という思いがあるようで(その気持ちもわかる気がするのだけど)、だから私がここで安易に「共感した」と言ってもいいものか、躊躇いがある。

でも一カ所、読みながら涙が止まらなくなったところがあって。
というのは、この意見陳述の最後の方に出てくる、小学校時代の同級生・広野くんについて書かれたところだ。
広野くんは小1の秋に骨肉腫に罹り、片足切断の手術をし、必死に闘病したものの、小3で亡くなったという。
そして渡邊被告は小学校時代、「広野くんではなくて自分が癌になればよかったのに」と思っていたのだと。
このくだりを読んで、私も過去にまったく同じこと考えてたのを思い出して、思わず泣いてしまった。
私は癌の経験者だけど、死にたがってたくせに、病気の進行が怖くて、治療して、生き残ってしまった人間だ。
でも、同病の患者さんで、大切な家族もいて、必死に生きようとしたのに亡くなられた方の訃報に接するたびに、 「何で私が死ななかったんだろう。私が死んでも困る人は誰もいないのに」って、ずっと思ってた。

だからやっぱり、私には、ここに書いてあることが「他人事」とは思えない。そんなふうに言われるのは、もしかしたら渡邊被告にとって不本意なのかもしれないけど。
私は、この文章を読んで、「ここにいるのはもう一人の私だ」と、心の中で叫ばずにはいられなかった。

渡邊被告はこの意見陳述で、「反省も謝罪もしない」ときっぱり述べているけど、私はそれを全面的に支持したい。
口先だけの反省や謝罪を述べるよりも、何倍も素晴らしい。以前のエントリにも書いたけど、私は岡本茂樹の『反省させると犯罪者になります』の主張に同意するので、「自分の本音と向き合う」姿の方が、上っ面だけの反省や謝罪よりも、ずっと誠実な態度だと思う。

3月に冒頭意見陳述を読んだときは、その文章から「自分との共通点」を感じとったのだけれども……今回の最終意見陳述ではむしろ、「自分との相違点」を突きつけられた気がする。

今回の意見陳述には、「社会的存在/生ける屍」「努力教信者/埒外の民」「キズナマン/浮遊霊」という対になる言葉が出てくる。
私自身もまた、「生ける屍」「埒外の民」「浮遊霊」と、完全に一致するとは言い切れないけど、重なる部分があると感じる。

ただ私は、次の二つの点で、渡邊被告より恵まれていたんじゃないかと思う。
一つは、病気という「わかりやすい不幸」があったこと。
もう一つは、「オタク」になれたこと。

たとえ不遇な状態に置かれていても、「わかりやすい不幸」の持ち主は、周囲の理解や同情も得られるし、自分も納得できるというのは、その通りだと思う。
「お前より不遇な人は幾らでもいるぞ。それなのにお前は〜」的なこと、私も言われたことがあります(主に両親にです)。「病気は甘え」という人も一定数存在します。でも、癌になってからは、さすがにそんなことは言われなくなりました。疾病利得(病気であることによって得られる利益)というのは、確かに存在すると思う。
だから「わかりやすい不幸」を持たない、中途半端な不遇の状態にいる人が、ある意味で「重い病気で苦しんでいる人」よりもさらに生きづらいということ、多少なりとも理解できるつもりです。

渡邊被告は、「現在の日本の国教は『努力教』ではないのか?」と書いているけど、確かにそういう面はあると思う。
で、「努力して負けた人間」もいるけれども、一方で「そもそも努力ができなかった人間」も存在するということ、これは重要な視点だと思う。「やる気格差」みたいなものって、確かにあるのよ。そんで「やる気」っていうのは、「生きる力」みたいなものと密接に結びついているのよ。
だから、「自分に未来がある」と思えない人間は、そもそも努力することができない。これ、とてもよくわかる。

私もずっと、夢なんて持ってなかった。努力した先にいいことがあるとはまったく思えなかったから、「努力」という言葉は大の苦手だった。

予備校時代と大学時代には、それなりに楽しいこともあったけど、特に勉強やサークルに打ち込んだわけではなく、将来の展望とか、目標なんてまるでなかった。ただ何となく、流されるように生きてきただけで。私が過去にしてきた「努力」というのは、ただただ苦痛に耐えることでしかなかった。

これまでの自分の人生を振り返って、本当に心から「頑張った」と思えるのは、癌の治療とこのブログ、その二つだけだ。「好きでやってる努力」というのは、このブログがたぶん初めてで、それ以外には思いつかない。

だから、「このブログを書き始める前の自分」を思い出すと、渡邊被告がここに書いたことをすべて理解できるとまでは言えないまでも、ちょっとだけわかる気がするのだ。
私もまた、「生きる力」とか、根源的な「安心」なんて持ち合わせていない人間だったから。

でも私には、漫画もBLもラノベも同人誌もあった。
もともと自分はひきこもり系だったので、イベントに参加することはなかったけど、それでもフィクションの世界に思う存分耽溺することができた。萌え話を共有できる友人なんてほとんどいなかったけど、それなりに充実したぼっちヲタライフを送ってきた。私は「オタクになること」で、自殺もせず、犯罪にも関わらず、生き延びることができたのだと思う。
「オタクになること」は確かに、一時しのぎの逃避に過ぎなかったかもしれない。でも、末期がん患者の痛みを抑えるモルヒネのように、それなしではこの地獄を生き抜くことはできない。そのくらい、私にとっては切実に必要としている薬だった。
渡邊被告はずっと、モルヒネなしでこの苦痛な人生に耐え続けなければならなかったのかと思うと、それはものすごくつらかっただろうなあ、と本当に胸が痛む。

さらに言えば、自殺志願者としても、共感する面はあった。
「死は地獄のような生からの解放」という言葉、あるいは「死ぬのは嫌じゃないけど、そこに至るまでの肉体的苦痛が嫌」という感覚は、私も実感としてよくわかる。こういう感覚は、自殺志願者にとって、ある程度共通する考え方じゃなかろうか。

その上で渡邊被告は、自殺志願者を社会から合法的に退場させるための「公営の自殺幇助施設を開設せよ」と主張している。
これね、私も、まったく同じことを何度も考えてきたんですよ。私もまた、苦痛に満ちた生よりも、安楽な死を望んできた人間だから。
で、このブログに自殺願望について書いていたら、やっぱり同じようなことを望んでいる人も、それなりにいるってことがわかった。

だからこそ逆に、私は、「公営の自殺幇助施設」は実現すべきではない、と考えるようになったんだよね。
確かに、自殺志願者を合法的に社会から退場させてくれるのなら、救われる人もいるかもしれない。
「死刑になりたいから」という理由で起こすタイプの凶悪犯罪に対する抑止力もあるかもしれない。
でも、そんな施設作っちゃったら、間違いなく「死ななくてもいい人」まで死んじゃうんだよ……。

もし「公営の自殺幇助施設」があったら、私はそこを利用して、とっくに死んでいたと思う。
おそらく渡邊被告も同様でしょう。
そしたら、渡邊被告はこの意見陳述を書くこともなく、私はそれを読むこともなかった。それって、ちょっと悲しいことだと思いませんか?(私は悲しいですよ……。)

本当に、勝手な願いだと思うけど、渡邊被告には生きていてほしいと思う。
生きて、文章を書き続けてほしい。

書くべきことは、私が思いつくだけでも、二つある。

一つは、好きなアイドルのこと。
私は二次元にしか興味のないオタクだけど、自分が生き延びてる理由って、「好きな漫画の続きを読みたい」くらいの理由でしかないですよ。
でも、萌えは人生を彩る花です。人生が苦しくても、心に花があれば、それなりに生きていけるものです。
渡邊被告が腐男子なら、腐女子コミュニティで一緒にキャッキャウフフと萌え話をするという生き方もあったはずなんだよね。実際、そういう腐男子もネット上ではちらほら見かけますし。
好きなアイドルがいるのなら、思いっきり愛を叫ぶといい。その人に未練があるなら、気が済むまで追いかけ続けるといい。
これは腐女子として、オタクとして、そう思ってます。

あともう一つ。
自分の生きづらさを言葉にして、表に出すこと。
これは、多くの人が理由のわからない生きづらさを抱えている今の時代、とりわけ必要とされていることだと思う。
渡邊被告は、確かにこの長い意見陳述を書いた。すごく読みごたえのある、素晴らしい内容だと思う。でも、本当にこれでおしまいなの?

私も自分なりに、これまでこのブログに、自分の抱える生きづらさについて書いてきたつもりだ。でも5年間書き続けて、まだ「道半ば」という気がしている。
だから、渡邊被告にも、まだ書きたいこと・書くべきことがあるんじゃないの?って思っちゃうんだよね。

この意見陳述に書いてあること、例えば「日本の最大の福祉施設は刑務所」だとか、「虐待といじめを同時に受けている子どもも多いはずなのに、それについての学問的知見がない」というのは、重要な指摘だと思う。
そういうことをぜひ言葉にしてほしい。文章に書いてほしい。
それはある意味しんどい作業になるだろうけど、もしかしたら、そうすることによって、同じ痛みを抱える人と繋がれるかもしれない。
そう考えると、ちょっぴり心躍る要素もあるのではないでしょうか?

どんな判決が出るのかわからない状態で、ものすごく無責任な発言になっちゃうかもしれないけど、それでも私は、渡邊被告には、生きて、幸せになってほしいと思う。
そして文章を書き続けてくれるなら、私はぜひ読み続けたい。

それだけは言っておきたくて、このブログに長い手紙を書きました。
できることなら、渡邊被告の目に止まってほしいと祈りつつ。






| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(20) | trackbacks(0) |
2014.07.17 Thursday 23:35
私が抱えている生きづらさは、「病気であるがゆえの生きづらさ」が一番大きいと思う。そもそも今の自分は、社会的に孤立している状態なので、「女であるがゆえの生きづらさ」を実感する機会は、そんなに多くはない。
でもたまに、どうも男性と女性の間には、ものすごい断絶というか、ディスコミュニケーションがあるのではないか、と感じることはある。

前回のエントリで引用した小熊英二の『1968』下巻を読んでいて、ふと思い出したことがあったので、それについて書いてみようと思う。
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| ●月ノヒカリ● | その他雑文 | comments(2) | trackbacks(0) |
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